id:lastline氏のこんな論考が、はてなで話題になっています。
「俺TUEEE」の発生と変遷過程 - 最終防衛ライン3
内容を要約すると
- 「俺TUEEE」はもともと、ネットゲームにおいて、課金等をして強くなり、その強さを見せびらかすようなユーザーを揶揄したものだった
- だがやがて、その言葉がWeb小説やライトノベルに対して使われるようになり、その過程で「俺」が何を示すかは曖昧になっていった
という分析を、一次資料から行ったものです。
この分析自体は僕も納得いくものなんですけど、一方でそれを踏まえてのこの主張には、納得がいかなかったりします。
「俺TUEEE」における意味の変遷は、「俺」の意味するところがはっきりしないためだろう。「俺」の視点が定まらないため、広まる過程で意味が曖昧になっていったと考えられる。
言葉のイメージが曖昧であるため、拡散される過程で意味がきちんと伝わらないのは「俺TUEEE」に限らずよくあることだ。
(略)
「俺TUEEE」の変遷を追ってきたが、広まる過程で意味が変化している。特に「俺」の指すところが変わっており、本来はプレイヤーであったのが、読者や作者、そして物語の主人公をも意味するようになっている。
意味が非常に曖昧な言葉で、使用者自身も定義をはっきりさせずに感覚で使っていることがしばし見られる。批評などで使うべきではないだろう。
というのも、「むしろそういう、曖昧な使い勝手の悪い言葉にもかかわらず、人々の間で広く使われるというところに、この概念の面白みはあるんじゃないか」と、僕は考えるからです。
「TUEEE=強さ」だって曖昧だ
さらに言っちゃえば、id:lastline氏は「俺」という言葉の意味の曖昧さのみを問題にしているけど、「TUEEE」の部分、「強さ」だって、曖昧なものなわけじゃないですか。
id:lastline氏の論考においては、「俺TUEEE」という言葉は「他者の反応」が必要不可欠であると述べ、そのような点から「俺TUEEE」と揶揄される作品の具体例として、『魔法科高校の劣等生』を挙げています。
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オンラインゲームにおける「俺TUEEE」の用法では「他者の反応」が不可欠である。 「俺TUEEE」とされる物語において、主人公は自己顕示欲のために「俺TUEEE」しているわけではない。物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠だ。「俺TUEEE」な物語では、主人公に対する他者の評価が過剰となりがちで、一方的な展開になることがしばしある。本来は「主人公TUEEE」であるが、物語において一人称の「俺」は主人公を意味し、「主人公TUEEE」な作品は、主人公が「俺TUEEE」をしているかのように見えてしまう。
2014年にアニメ化された魔法科高校の劣等生は、過剰なまでに主人公を持ち上げた「俺TUEEE」作品と認識される傾向にある。劣等生と冠されているものの、主人公には万能感がつきまとう。アニメにおいては主人公にまつわる説明や描写が不足しているため、自己顕示欲がないはずの感情の無い主人公が「俺TUEEE」しているかのように見えがちである。正確には「流石お兄様」に代表されるように「お兄様TUEEE」作品なのだろうが。また、あまりにも一方的過ぎる展開は、不快感を伴うこともある。
上記の様に、「物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠」とid:lastline氏は述べるけど、物語において強さを表す手法はそれだけじゃないわけですよ。
例えば、よくバトル漫画などでは、強さを数値化したものが用いられます。有名なのは『ドラゴンボール』の戦闘力や、ワンピースの懸賞金でしょう。
これらの数値は、確かに(上記の画像)のように、「他者の反応」として示されることもあるのでしょうが、それ自体は他者の反応ではなく、元からある「その世界での客観的な強さ」です。ですから、例えばいかにも弱っちいキャラクターが出てきて、物語に登場するキャラクターみんな弱いと思っていたら、実はとんでもない戦闘力や高額懸賞金のキャラクターで驚く、みたいな展開もあるわけです。
また、「(物語の中では語られないけど)設定として強い」というケースもあります。例えば『機動戦士ガンダム』においては、ザクは、それまでの戦車といった兵器よりは強く、ガンダムよりは弱いわけですが、これはもう、他者の反応も何も、そういう設定があるから、「強い」わけです。
更には、物語の都合上の強さというものも存在します。『機動戦士ガンダム00』という作品において、パトリック・コーラサワーというキャラクターがいます。
このキャラクターは、何回も死ぬような目にあっても生き残ることから、「不死身のコーラサワー」と呼ばれたりするわけですが、ではなんでそんなに生き残るかといえば、これはもう(理屈をつけようと思えばつけられますが、ぶっちゃけると)「作品の都合」としか言いようが無いわけです。また同じように、ギャグ漫画ではいくら死ぬような目にあっても次の瞬間にはケロッとしているようなキャラクターがよくいます(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉とか)が、これも「作品の都合」としか言いようがないでしょう。
このように、
- 作品内のキャラクターの反応
- 作品内での客観的数値
- 作品設定での強さ設定
- 作品外での作者による介入
と、単純にキャラクターの強さを表す要素と言っても、多種多様な要素があるわけです。
逆に言うと、ある作品について、「これって『俺TUEEE』じゃん」と批判されるのは、このように様々な「強さ」のレイヤーがあるのに、そのどれもが不自然に「主人公が一番」であると統一されちゃってる点じゃないかと思うわけです。
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「能力主義」の登場が、「俺TUEEE」批判をより激しくしているのでは
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今までの社会においては、年功序列・学歴主義というのが、大きな柱にありました。つまり「学歴が高く、年齢が上であるほど偉い」というのが、社会の大前提にあったわけです。
ところがバブル崩壊以降、「能力主義」「業績主義」といったものがより重要視されるようになり、「仕事を達成する専門的能力」とか「あるコミュニティでやっていけるコミュニケーション能力」とかといったものが、より、重要視されるようになってきたわけです。
そして、後者の方の「専門性」「コミュニケーション能力」というのは、極めて多用な種類があるわけです。専門性は、もちろん多種多様な専門分野がありますし、コミュニケーション能力にしても、「中小企業の工場でのコミュニケーション能力」と「国際的大企業のオフィスでのコミュニケーション能力」では、求められるコミュニケーション能力がだいぶ異なってくるわけです*1。
このように、状況・場所によって日々異なる「強さ」がある社会を生き抜いている若年層にとっては、たった1つの「強さ」さえ身についていればずっと安泰である風に見える、「俺TUEEE」作品の主人公は、それこそゲームで例えるなら「イージーモードでいきがってる小僧」にしか見えないわけで、嘲笑の的になっても仕方がないと、なるわけなのです。
逆に言うと、「強さ」を規定するレイヤーが複数あり、あるレイヤーでは絶対強者でも、別のレイヤーでは弱者でしかない、という構造の作品は、いくら主人公が、あるレイヤーで強くても、「俺TUEEE」とは呼ばれないんじゃないかと、思ったりします*2。