あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

冬コミで頒布される同人誌2つに寄稿しました

そういえばまだブログで告知していなかったことに気づいたので.2つの同人誌に参加させていただいたのですが,どちらも3日目(2013/12/31)に頒布されるそうなんで,ぜひ冬コミに来る方は,ブースに立ち寄ってみてください.

『ウギャッター コンテンツ定点観測2013』(3日目 西ま29b)

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(表紙,ほんとかわいいなぁ……)
ウェブニタスという評論系サークルが頒布する『ウギャッター コンテンツ定点観測2013(下半期)』という同人誌に,ドラマあまちゃんについての感想文を寄稿しました.あと,今年のコンテンツを振り返るという座談会にも,アニメ・ゲーム・映画の部でそれぞれ参加させていただき,id:AutoAutoさんやグダ先生(id:nuryouguda)と今年のアニメとかどうだったよー,なんてことを振り返りました.
感想文に関しては,本当にただ「なんで自分があまちゃんにはまってしまったのか」ということを内省していき,そこからあまちゃんの素晴らしさについて語っていくという,そんな白あままこ全開の文章になっていますが,一方で座談会の方は,ネット上では言えないような危ない発言満載の黒あままことなっております*1
ま,内容はともかく*2,表紙はものすごくイイですし,さらに言えばあの!,某氏大激怒と評判*3の『ザ☆ルサンチマンハンター小野』も掲載されているそうなので,それ目当てで入手するのもいいんじゃないかなーと思います.
頒布場所は,西ま29bだそうです.コミケWebカタログでのURLはこちらです.
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また,詳しい目次や,座談会見本なども,ウェブニタスの公式ブログに掲載されているので,より詳しく知りたい方はそちらを御覧ください.
ウェブニタス -WEBNITAS- : 2013年12月31日の「コミックマーケット85」で新刊を頒布します
ウェブニタス -WEBNITAS- : 『ウギャッター コンテンツ定点観測2013』内容一部公開

『灰メガ02』(3日目 西よ17a)

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(こちらの表紙も実にかわいい.いや,こっちはかっこいいの方か.)
Alicematicという同人サークルさんが頒布している同人雑誌『灰メガ02』に,「僕たちが、災厄もまき散らさない魔女でいるために」という,『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』についてのコラムを寄稿しました.
私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!  第1巻 [Blu-ray]
この寄稿のきっかけは,以前書いたアニメとらドラについての記事
聖なる夜にとらドラ!をdisる - あままこのブログ
を同人サークルの方が読んで,「これはすごい」と思い*4,寄稿を依頼してくれた,というのがきっかけだったりします.いやあ,この文章自分が書いた文章中でも一二を争う評判の悪さだったりするわけで*5,何がきっかけになるか,わからないものですね.
そういう経緯からの文章なので,今回寄稿した文章の方向性としては,ひたすらキャラクター批評です.キャラクターに寄り添いまくります.というか実際もこっちと結構重なる部分が多いんだよなぁ自分.ヤンデレCD好きだし……とらドラの記事のポジネガを反転させたような文章に仕上がっています.
ま,でも自分の文章は正直どうでもいいです.この同人雑誌,内容紹介のページを見てみるとほんと文章ありイラストありマンガありと,内容盛り沢山ですし.しかも小説を書いている人の中には,中村九郎先生という,プロの作家の方までいらっしゃるんですよ.自分,実はライトノベルほとんど読まない人間んですが*6中村九郎先生の『曲矢さんのエア彼氏』

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

については珍しく読んでハマったライトノベルだったので,そんな人と同じ誌面に居るというだけで,嬉しいですし,多分これが僕の人生のピークなんじゃないかなと,思ったりします.*7
頒布場所は西よ17aだそうです.コミケWebカタログでのURLはこちらになります.
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発行物についての詳細や,掲載されている小説の試し読みなどは,公式ブログに記事が掲載されているみたいなので,そちらをごらんください.
灰メガ02完成に近づいています: 灰メガブログ

最後に

今回寄稿した2つの同人誌,それぞれ性格は全く異なる同人誌ですが,どちらも面白さは保証します.なんてったってこのあままこが記事を寄稿しているんだから!……というのは冗談ですが,こういう文章系同人誌は,ウェブログといったネットでの文章とはまた違った面白さがあると思うので,是非コミケ3日目は,東館や企業ブースに行った後でいいですから,西館1階に来て,こういった文章系同人誌を眺めていってみては,いかがでしょうか.

*1:もしかしたら編集でばっさりカットされているかもしれませんが……まぁ,ひどかったしね.まじめに話を進めようとするどかいさんにひたすら茶々を入れるみたいな感じ

*2:言っちゃったよおい

*3:

*4:どういった意味での「すごい」なのかは聞いていないので,もしかしたら「これはすごい(ひどい)」なのかもしれません(笑)

*5:はてブ参照

*6:じゃあなんでとらドラ批評しようとか思ったかしらね……

*7:はい,要するにただのワナビーなんです自分は

1000人の読者になんとなく読まれるよりも、1人の読者の心に突き刺さる文章が書きたいな

なんか最近はてなブロゴスフィアではブログについて語ることが流行っているみたいで、ネガコメやら釣りやらPVやらはてブ数やらやら、そんな何回も何回も繰り返されてきた話題が、今日もまた繰り返されているそうです。
で、そんな議論を読みながら僕はふとこう思うわけです。
「なんでこう、みんなはてブ数やらPV数やらにこだわるんだろうなぁ」と。

1userは「一人の人間がブックマークしてくれた」ということを示すだけで、その人がどれだけの思いで記事を読んでくれたかは全くわからない

いやまぁ、気持ちは分からないこともないんですよ。やっぱ人間、数字が伸びていくのを見るのは面白いし、自分が書いた記事を読んでくれた人がリロードするごとに、目に見えて増えていっているのが分かるのはやはり嬉しい。
でもね、じゃあそれを追い求めて、とにかくブクマユーザー数を増やすことを目的に記事を書くっていう風には、僕は思えないんですよ。なぜかといえば、はてブ数っていうのは結局一人の人間が僕の記事をブックマークしてくれたっていう意味でしかなくて、そこでそのブクマにどんな思いが込められたのかっていうのは、コメントがない限りわからないからです。もしかしたら僕の文章を読んで深く心動かされたからブックマークしてくれたのかもしれないけど、でも逆に言えば、別にそれほど心動かされなくてなんとなくブクマしただけかもしれないし、もっとひどかったらあとで読もうとしてブックマークしたけれど、結局読んではくれなかった人なのかもしれない。
PV数も同じです。まぁ、アクセス解析とか導入すれば、滞在時間とかも分かって、そこで記事をきちんと読んでくれたかも分かるかもしれないけど、でも結局分かるのはそこまでで、読んでいる人が一体どれだけの思いを、僕の文章を読むことによって得たのかとか、そんなことは結局分からない。1000人とかの人に読まれたとしても、もしかしたらその誰も僕の記事を読んで何も思わなかった、なんてこともあるかもしれないのです。

コメントや言及の内容こそが気になる

だから、僕が重視するのははてブ数やPVよりも、ブクマコメントや中身のある言及がどれだけ多く寄せられたか、そして、そのコメントや言及がどれだけ「熱い」ものなのか、だったりします。コメントを寄せてくれるってことは、僕の文章を読んで、そこで何か思ってくれたからこそコメントしているということだろうし、そして更にそのコメントを読めば、一体僕の文章がどれだけその人の心を揺り動かせたのかということも、ある程度分かります。
もちろんその中にはポジティブなものもあればネガティブなものもあります。「この記事にはまさしく私が心のなかで思っていたけれど言葉にできなかったことが書いてある。ありがとう!」みたいな絶賛もあれば、「この記事を書いた馬鹿は何も分かってない!?頭に脳みそ入ってないんじゃねーか?」みたいなきつい罵倒まで、評価はさまざまです。もちろん書いた個人としては、当たり前ですけど罵倒より絶賛の方がずーーーーーっと嬉しいですし、熱い絶賛コメントがきた時はほんと小躍りしながらその後の時間を過ごせる一方で、罵倒されたらホント頭に血が登って「お前こそ馬鹿だ!お前のような奴が居るから僕はこの世界に絶望しているんだよ!」と心の中で逆切れします。
ただ、例え罵倒だとしても、その文章を書いたことによってその人の心を幾ばくか動かすことが出来たなら、何にも人の心を動かせないような文章を書いてしまうよりはマシでないかと、そうも思うわけです。

自分が数を追い求めているのか、「人の心を動かすこと」を求めているのか、はっきり自覚しておいたほうがいいんじゃないか

もちろんこれはあくまで僕の考えです。世の中にはそんな「どれだけ人の心を動かせたか」なんて測りようのないものよりも、きちんと計測できるブクマ数やPV数こそが重要なんだと思う人もいるだろうし、そしてそういう人が多いからこそ「はてブ数をいかに増やすか」とか「PV数をいかに増やすか」みたいな議論をする人も多いのでしょう。
でも、中には「1000人の読者になんとなく読まれるよりも、1人の読者の心に突き刺さる記事が書きたい」と願っている人もいるんじゃないかなぁと思うわけで、もしそういう風な願いを持っているにもかかわらず、PV数やらはてブ数やらを増やすことを目的にしなきゃブログはだめなんだと、思い込んでいるならば、僕はそうじゃないと言いたいし、別にはてブ数やPVを増やすことを狙うんじゃなくて、少数でもいいから、自分のブログを熱心に読んでくれる人を獲得したいと思うことだって、立派なブログの目標の一つだと、言いたいわけです。

人の心を動かす文章って、どうやって書けるんだろう。

そして、どちらの目標を選択するかによって、そのためにやるべきことや、努力の方向性も、まったく異なってくると思うんですよね。
ただブクマ数やPV数を多く稼ぎたいなら、流行りの話題に言及するとか、釣りっぽいことやネタっぽいことを書いて炎上を狙ったり、耳障りの良いレトリックを磨くというのは良いのかもしれません。そしてそういうことをするためには、アンテナを高く張って情報収集したり、他のブロガーと仲良くして、相互に言及しあうといったことも、重要な努力の一つだと思います。
ただそれって、あくまで「多くの人の話題になる文章」を書く技術であって、「人の心を大きく動かせる文章」ではないんじゃないかと、僕は思うわけです。流行りの話題に言及すれば、確かに多くの人がその文章を読んでくれるわけですが、しかしその文章を読んだ人がその文章に心動かされるかどうかは、その文章のテーマが流行りの話題であることとは、全く関係ないように思うのです。
じゃあどうすれば「人の心を大きく動かせる文章」を書けるのか。その方法は!……僕にもよくわかりません。
ただひとつ思うのは、「自分の中で強い『思い』を持てなきゃ、他人の心に強い『思い』を持たせることなんでてきないんじゃないか」ということです。だから、とにかく沢山本を読んだり、映画・ドラマ・バラエティ・そしてアニメといった映像を見たり、ゲームをプレイしたりして、何か自分の中で何か強く感想を抱けるものを探したり、日常の中にも自分が何か違和感といった、普通と違う特別な感情を抱けるものがないかを探したりすること。そして、何か自分の中で思いができたら、自分の中でその思いを突き詰め、より強度のある、鋭い思いへと変化させていくこと、そういったことが重要なんじゃないかと、思ったりします。
もちろん、そんなことは僕が言わなくても殆どの人が分かっていることでしょう。ただ、昨今のブログに関する議論を読んでいると、どうもこういう「人の心を動かす文章を書く方法」ではない、「多くの人の注目を集める文章を書く方法」ばっかりが議論されている気がして、今述べたような(少なくとも僕にとっての)良い文章を書くにあたっての根本的な作業がおろそかにされてしまっている気が、するのです。

劇場版まどか☆マギカ叛逆の物語、今すぐ見に行きなさい!

劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語、見てきました。

一言で言います。テレビ版まどか☆マギカを見た人間は、テレビ版見た時にどんな感想を抱いたとしても、絶対見に行きなさい。ここには、「あなたの望むもの」があります。

……最初はほんと、こんな文章書く気なんてさらさらなかったんですよ。元々テレビ版まどか☆マギカが大嫌いで、もう本当に気が狂ったかのようにずーっとまどか☆マギカの批判記事を書いて(12345)、今回だってホント如何に貶してやろうかとか、そんなことばっかり考えていたんですから。虚淵とか新房とかほんともうさっさと死ねばいいと、そればかり思っていたんですから。

しかしね、負けました。もうぐうの音もないぐらいの完敗です。映画を見ている時間中、僕の視線は画面に釘付けだったんです。そして楽しみ、悲しみ、そして唖然とし、心の底から「素晴らしい物語を見た!」と叫びたくなる、そんな気持ちになってしまったんです。

そして、この映画を見ようとしている人に忠告します。絶対ネタバレは見ずに、さっさと見に行ったほうがいいです!僕は、先程も述べたとおり、貶すつもりで見に行くつもりでしたから、事前にネタバレも多少読んで見に行ってしまったのですが……本当に、自分はなんと馬鹿なことをしてしまったのかと!ネタバレ見て、事前に防御姿勢がとれていたにも関わらず、それを突き抜けて衝撃を与えてくる力が、この物語にはあります。しかし、だからこそ僕は今ものすごく後悔しているんです。ネタバレを見ないで、防御姿勢なんか取らずにこの映画を見に行っていたら、本当にすごい衝撃を受けて、今僕に沸き起こっている感情が何十倍にもなっていたに違いないのに!と。だから、今この記事を読んでいる人は、ネットでネタバレを見てしまう前に今すぐ家を飛び出して1000円~1800円持って映画館に直行しなさい!もちろん、既にネタバレを見てしまった人もです!あなたが読んだそのしょーもないネタバレ文字列なんか吹き飛ばすような衝撃が、この映画にはあるんです!

ただ、それがどんな衝撃かははっきりとは言えません。いや、ものすごく語りたくて仕方ないんですよ。この映画を見た人は、絶対この映画について、自分の今まで見てきたアニメについての記憶とかを総動員して、自分がいったい何を見たのか、そして、自分たちが一体何を望んできたのか、考えたくなるはずです。ただ、それを公開の場で語るのは、もうちょっとだけ、待ちましょう。そして、時が来たら、思う存分語りましょう!

しかし、やっぱりちょっとだけ語りたいので、映画の内容には一切触れない。自分語りを少しします。これは、あくまで自分語りですので、映画を見る前の人はもちろん、見た後に読んだ人でも、この文章と映画の何の関係があるか、分からない人には分からないでしょう。今回の自分語りと映画に、僕の中でどんな関係があるかについては、数週間後くらいにガッツリネタバレする批評記事を書いて、明らかにしたいと思います。だから、それまでには、絶対に見に行けよ!。

自分語り

「世の中みんな狂ってる」って、中学生の頃からずっと思って、生きてきました。

笑顔を見せながら労働に励む大人たち、本当は、労働なんて辛くて厳しいもの、笑顔で出来るわけないのに、「お客様に奉仕することが私の喜びです!」みたいなことを満面の笑顔で言う。それを彼らが本気で言っているのか、それとも口先だけのことなのかは知らないけど、でも、口先だけのことだとしても、そんなことを(口先だけでも)言うよう強制されるような環境に居続けられるなんて、狂っていると思うし、もし本心からそういうことを言っているなら、ただただ狂っている。
そして、そんな大人たちで構成されている、この社会。これだけモノが溢れきって、もうそんなに人々を追い詰めて何かを生み出す必要なんて全然ないはずなのに、ひたすらに人々を追いつけて、生産性とか成長とか、そんなものを追い求め続ける。そういうものを追い求めて、人は幸せになったのかといえば、そんなことは全然ない。「明日幸せになるために今頑張るんだ」とは言うけれど、その明日なんて、全然こない。

そんな現実がいやになって、アニメとかマンガとかを見たり読んだりしてみる。そこでは、女の子たちが、この現実の絶望とは全く関係ない所で、楽しく遊んだりおしゃべりしたり、ああこれだ、これだと思う。これこそが、「人間」の真にあるべき姿なんだと、そんなことを思って、安心する。
でも、そんな世界にも、嫌な大人たちがやってきて、こんな嫌なことを言って世界を破壊しようとする。「そんなのはリアリティがない。現実には嫌なことだってたくさんあるんだから、それに耐えなきゃ」、「そんなんじゃゼロ年代は生き残れないよ。きちんと決断して、サバイブしていかないと」、「卵の殻を破らなきゃ」と。

そんな言葉になんとか抵抗しようとして、馬鹿な頭を駆使してなんとか、これこそが人間のまともな姿なんだ、君たちが住むその残酷な現実世界こそおかしいんだと、言おうとする。

でも、そもそも「まとも」ってなんだ?

この世の中でまともな、読むべきされている本を沢山読んでも、「働いたら負け」「成長なんてしなくていい」なんてことは書いていない。むしろ、世の中でまともとされている道徳はみんな、「働こう働こう!生きている意味を知るだろう」と、某アイドルグループの曲ばりに言ってくるし、「精神的に向上心のないものはばかだ。」とも言ってくる。

じゃあ、本なんてやっぱりまともなことは書いてないから、科学に頼ろう! と思う。でも結果は同じ。個体とか遺伝子とかっていうのは、みんな自分の分身を未来に残そうとするものなんだそうで、そういうことをしないような生き物は「まともじゃない」、そんなことを言う。

本も科学もどっちも頼れない?じゃあ多数決で決めてみよう。この曲がりなりにもみんな社会人として頑張ってる現実の世界と、ほとんど女の子ばっか登場しなくて、彼女らが一体どうやって今後生きていくかとか全然わからない、アニメのゆるふわ(笑)空間、どっちがまともだと思いますか?

……はい論破。まともじゃないのはどう考えても僕たちの方です。本当にありがとうございました。

じゃあ僕も大人になって、まともに生きようか。大丈夫、別に「まともじゃないアニメ」を見てたって、きちんと社会人の義務さえ果たしていればまともでいられるし。画面の向こう側の女の子の笑顔を思い出しながらなら、この辛い現実だって、生きていけるさ!







本当にそれで、納得したの?

はてなダイアリーの方のブログをインポートしました。

2つのブログを管理しておくのが面倒くさくなったので、はてなダイアリーの方で書いていた「斜め上から目線」のデータををはてなブログの方のブログにインポートしました。ついでにブログタイトルも「あままこのブログ」に変えました。
ま、リダイレクトしてくれるんで特に読者様がすることはないとおもいますが。いちおうご報告です。

リアルでの「会話」って不便だ

人と話すのが苦手だ。
その理由は色々あって、中にはもちろん僕がそもそも人嫌い・コミュニケーション嫌いなのかもしれないという理由や、話すことに対する経験値が少ないという理由もあるのだが、「会話」という情報伝達手段そのものに、欠陥*1があるのではないかと、最近考えることがある。
一体どういう部分を欠陥と感じるか。少し整理してみた。

  1. ハイパーリンクが貼れない
  2. 簡単に引用ができない
  3. ログが残らない

それぞれ説明していく。

1.ハイパーリンクが貼れない

例えば、自分は知らないが、その場に居る他の人は知らない、あるニュースについて話そうとする。
そういうとき、インターネット上であったら、まず新聞やネットニュースの記事にハイパーリンクを貼れば、そのニュースの内容や、第三者がそのニュースの裏付けをとっていることが簡単に把握できる。つまり
船橋市、ふなっしーに感謝状贈呈へ…公認はしませんが:朝日新聞デジタル
のようにハイパーリンクを貼れば、簡単にその会話に参加するすべての人がそのニュースが実際にどんな内容であったのか参照できるのだ*2
ところが、リアルの会話ではこのようなハイパーリンクを貼ることができない。そのため、例えば上記のニュースに対して語ろうとすると、全く何の裏付けもなく、あやふやな「そのニュースを読んだ時の自分の記憶」に頼って話をしなければならなくなる。つまり、上記のニュースの例を挙げるならば、「ふなっしーっていう、船橋市のゆるキャラがさ、なんか船橋市から感謝状だか公認状だか?をもらったりしたんだって。」というようなあやふやな言葉を、とりあえず真実とした上で話が進んでいくのだ。ところが上記の言葉では、ふなっしーが、実際は公認されていないのに公認されたことになってしまっている。これは、記憶というもののあやふやさによるものだが、もし会話においてハイパーリンクを貼ることができれば容易に回避できる問題である。
ところが実際は会話においてハイパーリンクを貼ることができない。そこからはデマなども当然発生する。また、「周りのオタクが間違った知識にもとづいて会話をしていてイライラした」とか、あるいはその反対に「ドヤ顔で他人に知識を自慢していたら、あとからその知識が間違いだったことをネットで知って赤っ恥をかいた」というようなことも生じうるのである。
このような会話というものの問題を自覚しているならば、誰かの評価を損ねたりするおそれがあるようなセンシティブな情報は、会話ではあまり伝達されなくなるだろう。間違った情報によって誰かの評価を損ねるというのは、特に避けるべき出来事だからだ。しかしそれにより会話によって伝達される情報というのはどんどん制限されていき、端的に言えば「つまらなく」なっていくのである。

2.簡単に引用ができない

インターネット上の文書においては、引用というのはとても簡単だ。例えば上記のニュースなど、下記のように引用すれば、そのニュースにおいてどんなことが伝えられていたかを、簡単に伝達することが出来る。

船橋市、ふなっしーに感謝状贈呈へ…公認はしませんが

 シャープな動きと奇声で、全国的な人気がある船橋市の非公認キャラ「ふなっしー」に、近く同市から感謝状が贈られることになった。松戸徹市長が24日の記者会見で「市を全国にPRしたお礼を表したい」と語った。

ところが、これをリアルでの会話において伝達しようとすると、とても大変だ。まず、上記の文章を実際に目につく場所に保存しておくか、自分の記憶として覚えなければならないし、そして更にその文章を実際に言葉として発話しなければならない。これは、手間も時間もかかるし、非効率的だ。
そこで会話においては引用ではなく「要約」の方がより多く活躍することになる。しかしそれによって、前節で示したように情報は改ざんされてしまうし、重要な情報が抜け落ちもする。
もちろん実際には、引用やハイパーリンクが容易に利用できるインターネット上でも、それを利用せずに適当な情報を垂れ流す人間も居る。だがそれは利用できる便利な機能を敢えて利用しない、本人の落ち度であるということができる。しかし会話においては、そもそも引用やハイパーリンクが利用できないために、構造として適当な情報が生み出されやすいのである。

3.ログが残らない

インターネット上において情報伝達のログを残し、簡単に参照できるようにすることは、本人がそれを望みさえすれば簡単である。例えばこういうプログやホームページでの情報伝達ならば、「検索」機能を用いればどういう情報を過去に自分が伝達していたか簡単に把握できる。私的な会話であっても、インスタントメッセンジャーやtwitterダイレクトメッセージなどではログは逐一保存されるから、誰にどんな情報を伝達していたかは簡単に把握することが出来る。
しかしリアルの会話においては、このようなログを残そうとすると、いちいちボイスレコーダを起動させなければならない。しかしポイスレコーダーには情報が音声で保存されてしまうから、それを検索可能にするには自分でいちいち文字起こししなくてはならないし、また、「その時点での会話では、一体誰と話していたか」などのメタ情報も、自分で一々記録しておかなければならないのである。よって殆どの人はこのような不便な行為はせず、リアルの会話においてログは残らない。
しかしログが残らないために、人は一体誰とどんな情報をやりとりていたか容易に間違えるのである。そのため「その話何度も聞いたよ……」というような、同じ話を話し手が何回も繰り返してしまうことも起きてしまうし、「言った」「言わない」の水掛け論も容易に発生してしまうのである。

一番の問題は、このような欠陥が欠陥であると認知されないこと

以上が、僕が考えるリアルでの会話の3つの欠陥である。
もちろん、工夫すればこのような欠陥をある程度避けることはできる。例えば、インターネットに常時接続しているタブレット端末を常に持ち歩き、会話の時は常にそのソースとなる情報をタブレットに表示させ、それを示しながら会話する、というような方法である。だがすべての人がこのような方法を用いて会話をしてくれるわけではない(そうしてくれるととてもありがたいのだが)。多くの人は、そもそも自分が自容器で示したような欠陥に気づいていないか、それを大したことのないことであると思っているようで、手元にその情報のソースを表示できる情報機器があるにもかかわらず、自身のあやふやな記憶に基づいてあやふやな話を進めていく。
だが実際は、そういうあやふやな記憶に基づく会話から、デマや根拠のない憎悪感情やコンフリクトといった、この世の中の問題の殆どが発生するのではないだろうか。
そういうようなことを考えると。どんどんリアルでの会話が嫌になっていくのである。

*1:あるいは僕にとってネガティブと感じられる特性

*2:このニュースを選んだ理由は、ただ「朝日新聞のトップページを見に行った時に一番最初に目についた記事だから」で、他意はないです

「アニメ」という現実を塗り替えるメディア―劇場版・中二病でも恋がしたい!について

今日、現在劇場公開中である「小鳥遊六花・改 劇場版 中二病でも恋がしたい!」を見てきました。


まず感想を一言で言います。大変素晴らしかったです!僕はTVシリーズの「中二病でも恋がしたい!」も見て、大変気に入った人間なのですが、この映画を見てその感情がさらに増しました。なぜならこの映画では、僕がTVシリーズの「中二病でも恋がしたい!」を見て気に入った部分がそのまま、数倍もの濃さに濃縮されて97分にぎっしり詰め込まれているからです。
ただもちろんそのせいで、TVシリーズを見ていない人にはちょっとわかりにくい部分もあった気はします。ですが、ぶっちゃけていうならば、この劇場版で描かれていない部分はTVシリーズでもどーでもいいことなんですよね。だから、もし本当に、余計なノイズにとらわれず映像を見て良い作品かどうかを見極める確かな審美眼を持っているならば、この作品だけ見てもはっきりと「これは傑作だ!」と涙を流しながら叫ぶことでしょう。しかし残念ながらそこまで審美眼を持った人間は極稀(僕もさすがにそこまできちんと作品を見ることが出来る審美眼は持っていないし)。ですので普通の人は、まずテレビシリーズ版を見て、その後でこの作品を見ることを強くおすすめします。
しかし一方で、これはTVシリーズ版を見たあとに劇場版を見た人なら強く同意してくれると思うのですが、この「中二病でも恋がしたい!」という作品の、真に重要な要素は、まさしくこの劇場版に詰まっているんですね。その真に重要な要素は箇条書きするならば

  • 六花ちゃんのかわいさ
  • 勇太くんのかっこよさ
  • 二人の恋愛

そして

この4つの要素なんです。他の色々はほんとトリビアルなことにすぎません。ですから、真に重要な部分だけを作品に詰め込んで濃縮したという意味で、この作品は「中二病でも恋がしたい!」の劇場版として、本当に無駄が全くない最高の出来だと、少なくとも僕は、断言できます。

ただ中二病を全肯定するのではなく、そのやっかいさも描く

この作品は本当になにからなにまで素晴らしいので、素晴らしい箇所を一々挙げていったらきりがないのですが、その中でも特に、僕が素晴らしいとおもったところを一つあげましょう。
それは中二病妄想をただ全肯定するのではなく、中二病のやっかいさもきちんと描いている」という点です。
時々誤解している人が居ますが、現役の中学ニ年生とかがヒーロー妄想であったり前世妄想といった中二病的な妄想を抱いていても、それは中二病とは呼ばれません。なぜなら、その時期にはそういう妄想を抱くことはごく普通にありえることであり、そして社会もそれを許容してくれるから、「病気」とは呼ばれないのです。「中二病」が病気と呼ばれるのは、そのような妄想を人々が卒業した発達段階に至っても未だにそのような妄想を持ち続け、そしてそれにより周囲の社会との軋轢が生じるからなのです。
さて、では中二病患者とは、周りの人間よりも発達段階が劣った人間、あるいは他の人とはそもそも発達段階が異なる人間なのでしょうか?中二病的妄想を真剣に信じ、その妄想にそぐわない現実を無視する場合においてはそうでしょう。しかし実際は、中二病に罹患する人間は、知能は平均程度か若干高い人が多いみたいです*1。そして、これが最も重要なことなのですけど、実は中二病患者の多くは、自分の中二病妄想があくまで「妄想」であり、そして自分はその「妄想」を現実逃避のために用いているという、病識まできちんとあることが殆どなのです。
そしてここにこそ、中二病という病のやっかいさがあるのです。ただ単に中二病が「妄想にとらわれて現実を見えなくなってしまっている」という状態ならば、その解決法は簡単です。妄想をとりはらって現実を見させるか、あるいはその妄想の中に完全にひきこもらせるか。
ところが中二病はそうではなく、「妄想が自分の『妄想』であることを自覚しながらも、自分の周りの現実に自分の心が対応することが出来ないため、その妄想を現実の代替物としている」状態なのです。故に、ただ現実を見せたって中二病のやっかいさは解決しません。むしろ中二病患者は普通の人よりよっぽど注意深く現実というものを観察しています。そして観察した上で、「この現実に自分が対応するのは無理だ」と思うからこそ、妄想を信じるのです。
では逆に妄想の中に完全に閉じこもってしまうという手はどうか?しかしこれも、上記と同じ理由から無理です。彼らは現実を十分観察し、実際の現実は自分の妄想とは違うものなのであって、自分の妄想が「妄想」であることを十分知ってしまっています。ですから、今更妄想を現実と誤認しろと言われても無理なのです。
故に中二病患者は、常に現実と妄想のマージナルな領域に自分の精神を置く、不安定でやっかいな存在なのです。そして、ここまで文章を読んだ人ならおわかりでしょうが、中二病がそのような狭間に存在する以上、「妄想は所詮妄想だ!」という説教も、あるいはその反対の「現実なんて無視して中二病の妄想をどんどん膨らませていけ」なんていうような、クリエイターと呼ばれる人たちがよく唱えるような(薄っぺらな)励ましのいずれも、ほとんど意味のない空虚な言葉でしかないのです。

中二病でも恋がしたい!」はいかに「中二病のやっかいさ」と向き合ったのか

それでは、この作品はいかにこの「中二病のやっかいさ」を描き、そして立ち向かっていったのか。作品を見ていた人なら別に一々説明されなくても分かることなのでしょうが、埋め草のために説明すると、その過程は大きく三つに分けられます。

  1. 「現実逃避としての中二病(妄想)」
  2. 現実(恋・死)と向き合うことによる「中二病(妄想)の否定」
  3. 「現実を塗り換える中二病(妄想)」

まず第一段階の「現実逃避としての中二病(妄想)」、これはまさしく一般的な中二病といえるでしょう。まず最初に六花はこの地点にいます。そして実は多くの「中二病肯定」作品(これを僕は揶揄的な意図を込めて「中二病・イズ・ビューティフル作品」と読んでいます)は、この段階の中二病妄想を、「現実なんてくだらないから妄想の中で暮らそうぜ!」と称賛するわけです。
しかしこの作品はそうは描きません。一体なぜか?その理由はこの作品のタイトルを読めば一目瞭然、そう、
中二病でも恋がしたい!
からなのです。
人に恋してしまったという「現実」、しかしこの現実は中二病妄想には組み込めません。中二病妄想とはあくまで、自分がこの世で特別な存在であり、そこらへんの現実を生きる平凡な人間とは違うという設定の元での妄想です。ですから、そんな特別な自分が、平凡な人間みたいな恋愛感情を抱くはずがない!でもあの人が好きだ、ああどうしよう……これこそが、これまでさんざん中二病というものがサブカルチャー作品で描かれてきながら、しかし殆どの作品において触れられてこなかった、「中二病のやっかいさ」なのです。*2
そして六花ちゃんは第二段階、「中二病(妄想)の否定」へと至るわけです。この部分に一足先に到達としてたのが勇太だったとも言えるでしょう。普通に恋をし、そしてその一方で人が勝手に死んでいくような現実、しかしそういう現実と自分たちは向き合わなくちゃならないんだと。ここらへんまで含めて中二病というものを描いた作品は、青年マンガにはある程度あります(僕が何度か言及してきたヨイコノミライという作品もそういう作品の一つ)。
しかし、この「中二病でも恋がしたい!」という作品の凄いところはは、そこまで行ってもまだ歩みを止めないところにあります。現実を受け入れて、普通のカップルらしく暮らしたりしたりして、「現実」に、ある意味屈服した日常。しかしそんな日常でいいのか?ここでいよいよ出てくるのが第三段階。「現実を塗り換える中二病(妄想)」なのです。
これが、もっとも美しく、そして感動的に現れたシーンが、まさしくあの浜辺の光のシーンです。あのシーンの光は、現実にはただの漁船とかの光かもしれません。しかしその光を六花と勇太は、「父の魂の光」であると塗り替えた。父の死という「現実」から逃げるのではなく、かといってただその「現実」に屈服するのでもない、中二病(妄想)によって「現実」を塗り替えてしまうのです。

「現実より素晴らしい現実」を描く方法はアニメ以外にありえない。

ではなぜこの作品でそのような、これまで誰も描けなかったようなシーンを描くことが出来たのでしょうか。それは、この作品がアニメーションという技法で作られたから、そして、そのシーンを作画した京都アニメーションが、アニメーションという技法を知り尽くしている存在だからに、他なりません。
アニメというのは、よくよく考えてみると実に不思議なメディアです。アニメはどこまで精密に描いても、やはりアニメであり、声も実写の俳優の声の出しかたとは大きくちがって、殆どの場合実写と間違えるなんてことはありません。しかしその一方で、アニメはマンガと比べれば、遥かに実写に近い。音声もあって、まるで現実を写している映像のようでありながら、しかしそこで映像に登場するものは現実とはぜんぜん違う絵である。一体何でこんな中途半端なものを、人々は好んで見るのか。
それは、その中途半端さが、まさしく私たちの持っている、「今の『現実』ではない現実の有り様を見たい」という思いと共鳴するからに他ならないのです。
アニメの動く絵は、その動く絵を見る人が突き放してしまい、「これはただの絵と声の組み合わせだ」と思ってしまえば、例えどんなに精緻に描き、どんなに感情豊かに演技をしたって、何のリアリティも持ち得ず、まさしく「ただの絵と音」になってしまいます。逆に、いくら優れた脚本で、見る人の心を揺り動かしていても、作画や演技が稚拙であれば、「これってただの絵と音じゃないの?」という風に思わせてしまう、そんな、シビアなメディアなのです。
しかし一方で、そういう風にシビアなメディアだからこそ、まさしくこの「中二病でも恋がしたい!」の様に、優れた作画と、人々の心をつかむ脚本、そしてそこにリアリティと幻想性の2つを与える演出や声優の演技があれば、それは人々の心を掴んで話さず、そして人々に「これは現実よりずっと素晴らしい現実だ!」と思わせる、そんな作品を作り出せる技法でもあるのです。
そして、その「現実よりずっと素晴らしい現実」を創りだすという点で、まさしくアニメという技法そのものが、中二病でも恋がしたい!が最終的に描いた、「現実を塗り換える中二病(妄想)」にほかならないのです。
中二病でも恋がしたい!という作品は、まさしく「ザ・アニメ」なのです。

*1:あくまで体感だけれど

*2:ここらへん少し実体験があったりしますが、それはまた別の話。多分墓まで持っていくだろうけど

東方警察について私が知っている二、三の事柄

あの決定的な敗戦から数年。コミケ3日目の混乱からようやく抜け出し、イベントへの復帰を図るべく萌え化の名の下に強行された急速な幻想郷再編成がその実を結びつつある一方で、東方界隈は多くの病根を抱えていた。
強引な萌え付与政策が生み出した「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」の群れとニコニコ動画流入によるスラム化を温床とした凶悪同人ゴロの激増、わけてもアイマスボーカロイドを掲げたニコニコ勢力の急速な台頭はこれに対処すべき自治厨の能力を越えて深刻な社会不安を醸成していた。
イベント運営の治安出動を回避し合わせて公式認定への昇格を目論む自治厨内部の動きを牽制すべく、神主は第三の道を選択した。東方界隈にその活動範囲を限定しつつ独自の権限と強力な戦力を保有する上海アリス幻樂団直属の実動部隊、東方治安警察機構、通称東方警察の誕生がそれである。
迅速な機動力と強大な打撃力によって治安の番人としての栄誉を独占し、第三の武装集団として急速に勢力を拡大した東方警察。しかし当面の敵であったニコニコ勢力が9.18事件を含む様々な炎上措置によって解体し離合集散の末に艦これセクトと呼ばれる即売会ゲリラを生み出すに及んで状況は大きく転回する事になる。
東方警察と艦これセクトの武力衝突は熾烈をきわめ、時に市街戦の様相を呈することもしばしばであり、激しい世論の指弾を浴びた。艦これとの平和共存へ向けて流れ始めた東方世相の中、東方警察はその宿敵である艦これセクトと共に急速にその孤立を深めつつあった。
強化服と重火器で武装しケルベロスの俗称と共に武闘路線をひた走り続けた東方警察の精鋭達もその歴史的使命を終え、時代は彼等に新たな、そして最終的な役割を与えようとしていた……

東方警察とは

東方警察 - Wikipediaより。

東方警察(とうほうけいさつ)は、東方界隈の安全と秩序を維持することを目的とする警察である。
東方警察という呼称はあくまでも俗称であり、正式には自治厨警察の一部門である。マスコミなどで自治厨東方警察とも呼ばれるのはこのためである。
東方警察庁同人監視局を頂点に、東方警視庁例大祭・コミケ監視部・地方東方警察本部オンリーイベント監視部・Pixiv監視課などで組織されるピラミッド構造を持つ。二大イベントである例大祭・コミケを管轄する東方警視庁では特に「例大祭・コミケ監視部」として独立しており、所属警察官約2000名を擁する。
主に艦これ転向集団・アイマス団体・日本型月党・同人ゴロサークル・国際クッキーテロリズムなどに対しての捜査・情報収集を行い、必要とあらば公権力を発動する。また、防諜の為に東方警察部内で同僚を相互監視したり、クーデター防止の為に上海アリス幻樂団黄昏フロンティアを監視しているとされる。
東方警察関係予算(地方東方警察職員の給与を含む)は博麗神社の賽銭箱から支出される。

東方捜査

東方捜査は、事案の特殊性と保秘の観点から、東方警察官のみで行われる。通常は、対象作家の同人誌の視察やPixivアカウントを追尾して反東方行為の有無を確認する視察作業が多い。売り子を饗応して協力者に仕立て上げ、情報を収集することもある。対象とする犯罪も特殊なだけに、非東方本頒布後に捜査するのではなく、不審な対象を発見した場合は東方秩序を乱す行為を行っていなくとも捜査対象に置く場合がある。

東方警察官

東方警察に所属している警察官は、東方警察官と呼ばれることが多い東方警察官は、東方警察内部ではエリートとみなされている。
東方警察官は、罪袋で顔を隠したり、部外者に捨てアカでリプライを投げるなど、自らの特徴を覚えられるのを避けている場合が一般的である。ただし、対象者の性質によっては、東方警察官であることを名乗って公式に接触することもある。
また東方警察官は、対象者を秘匿に行動確認する手法が非常に高いともいわれている。東方勤務の経験があるひぐらし保安委員会やアイマス中央情報局の工作員は、東方警察官による反東方行為確認の手法は非常に高度であると評価している。

※東方警察官による反東方行為確認の手法の一例


東方警察の手口


『東方警察の手口』より

ではここで東方警察がどういうやり方で協力者(スパイ)を獲得・育成しているか、その方法を見てみよう。
……
まず、艦これ転向組のなかから、これは落とせそうだと思う人間を見つけ、偶然に、自然な出会いを演出して近づき、「那珂ちゃんのファンやめます」「龍田さんに踏みつけられたい」といって接触する。そして二人きりで会う機会をつくり、レシピを交換をしたりする。ときには攻略の相談に乗ったり、資源代を貸したりもする。艦娘に似せた東方キャラをあてがってやったりもする。じっくりと深みに引きずり込む。ここだと思ったときに、「実は私は東方警察です」と身分を明かす。「逃げ切れないだけの間柄」になっていたら、スパイの要請を相手は断れない。
……
対象者に知り合ったら、さり気なく「自分は最近の東方に不満を持っている」「艦これには頑張ってもらいたい」「東方界隈に浸かる前は軍事オタクだったんですよ」なんて言う。対象者には「艦これのシンパ」だと思わせる。ともかく、自然に接触することがポイントだ。
……
東方警察は対象者と知り合うだけではダメで、その人間をスパイにして情報を収集しなければならない。これは大変だ。だから、東方警察の腕の見せ所は、いかに対象者の心をつかむかという点にある。まず、対象者の隙や弱味を見つける。たとえば、実は元ネタの戦艦には興味がないだとか、モバマス・グリマス・戦これなど他のソーシャルゲームも好きだとか。あるいはちひろさんに借金がある、リボンザムで苦しんでいる、クッキーのトラウマがあるとか。そうした隙を発見し、相談に乗ったり、金を貸したりする。女をあてがうこともある。艦娘によく似た村紗や北白河ちゆりを紹介し、つき合わせる。まるで美人局だ。
……
対象者に近づき、弱味を握り、スパイに仕立てる。しかし東方警察には、普段はもっと地道な作業がある。即売ブースに張り込んだり、Pixivアカウントを尾行したり、そして時には捜査対象者のアカウントをハッキングしてブックマークに非東方画像がないかチェックする。某同人ショップが不正アクセスにあったときは、流出から出た顧客データを持ち去った。艦これ本の購入者履歴を発見したときは、重大な資料が見つかった。東方警察内部の者が隠れ艦これシンパであることを発見したのだ。この男は即座にスキマ送りにされた。



東方警察と艦これの対立

「東方オンリーイベントで艦これ同人が頒布された日、横須賀鎮守府での演習中に失踪した提督がいましてね。」
「それがさっきのブースの売り子だと?」
「艦これ憲兵隊自身がそれを認めて報告してきたんですよ。勿論非公式なものですがね。我々には独自のルートがありまして。軍は軍同士って訳です。意外に思えるかも知れませんが、事実を隠して我が東方の防衛体制を徒に混乱させるのは、彼らにとっても得策ではないのでね」
「でも何故、艦これ本が東方オンリーイベントに?」
「無論彼らに攻撃の意志があった訳じゃない。今回の事件に関して言えば、艦これも、そしておそらくは艦これ本を頒布した売り子も、被害者に過ぎない」
「説明、してくれるよね」
「我々は1年程前からあるグループの内偵を進めていましてね。同人族と言われるイベント主催や元同人作家、それに東方原作を置けなくなった同人ショップ。例大祭実行委内の一部勢力。まあそういった連中の寄り合い所帯です。ニコニコ動画・Pixivの開設後、拡大の一途を辿る同人界隈の軍拡競争の流れの中で、一向にキャラの増強を図ろうとしない東方に対して、彼等同人ゴロは根強い危機感を持っていた。そして、平和惚けの東方界隈を一挙に覆すべく、彼等は軍事的茶番劇を思いついた。憶えてますかね? 4年前、東方の防空体制と国防意識を揺さぶったウミネコの亡命騒ぎ。あれの再来ですよ。低空でオンリーイベントの壁サークルに侵攻し、その真白な壁に『なのです!』の掛け軸を掲げて帰ってくる。そして作戦は見事に成功した。ただ一つ、本物の艦これ本が頒布されたことを除けばね。」









ゲーセンで出会った女の子は余命1年? ネット発の小説「ゲーセンで出会った不思議な子の話」が話題に


去年2012年の1月頃から、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」とファンのあいだで呼ばれているWeb小説が、ネット上で話題になっています。今回は、既に書籍化も決定している、このネット発の物語について情報をまとめてみました。

「ゲーセンで出会った不思議な子の話」はどんな物語か?

「ゲーセンで出会った不思議な子の話」、通称「ゲーセン不思議少女」は、2ちゃんねるのニュース速報(VIP)板で、去年2012年1月15日から約3日間にわたって連載され、実に2スレッドを消費して完成した大部の物語です。
ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk
そんなこの大長編の内容を一言で要約すれば、「ゲーセンで出会って付き合い始めた女の子が、卵巣がんで死んじゃった」というものです。そう聞くと、「好きな人が死んじゃったならそりゃ悲しくて当然なんじゃないの?」なんて思ってしまいますが、実はそこがミソ。冒頭で不思議少女は格主人公に格ゲーで負けるといきなり泣き出し、そして慰めに行った主人公に対して、イチコロにしてしまうようなブリっ子ぶりをとうとうと披露します。

ふてくされてるかと思ったが、そんなことはなかった。
にっこり笑うと、
「あぁ、見てたんですか、恥ずかしいです。
わたしああいうとこだとつい必死になっちゃって…」
と笑いながら話してくれたのには驚いた。


(略)


彼女は面白そうに、
「煙草一本くれません?」と言ってきた。
俺「え、あ、吸うんですか?」
「吸わないけど、なんか見てたら…なんか」


この時点で薄々分かってたんだけど、
彼女は天然か変な人かよくワカラン人のいずれかだったw


しかし俺はといえば、大学生活サークルなし、
青春なし、家に帰れば絵かきに身を費やす
という生活を送っていたため、女の子と話すこと事態稀も稀で、舞い上がってた。


俺「じゃ、吸います?wキャスターってんですけど…ちょっと甘いかもですw」
「ありがとございます~!すぅぅ…ゴホ!ゲホ!なにこれ苦しい…」
案の定涙目になっていた。


よろしくないことではあるが、俺はもうその時、
なんなんだこの人すごく面白いし可愛いって気持ちに取り憑かれていた。

自分の趣味を共有してくれて、しかも変に男勝りだったり腐っていたりせず、乙女ちっくな様子と勝ち気な様子をうまくブレンドし萌えポイントを的確に狙い撃ちする―この実に不自然な不思議少女に主人公が惚れてしまうことで、彼らは都合よく付き合い始め、ゲーセンに一人で入り浸るような童貞オタ男子が夢想しながら、しかし現実では決して得ることが出来ないような、いちゃいちゃ文化系カップルライフを満喫します。そして、そこに強引に難病&複雑な家族設定を持ち込むことで、key的なお涙ちょうだい展開にもっていくのです。

これ以上のあらすじは読者の楽しみを削いでしまうので語らずにおきますが、こうしたギャルゲー風のファンタジック()な世界観に、現実に非モテのオタが「彼女がいたらこんなこといっしょにやりたいなぁ」と夢想するようなゲーセンでの二人プレイや「花擬人化ごっこ」といったようなシチュエーションがなんのてらいもなく詰め込まれる面白さは、この物語の大きな、そして独自の魅力の一つになっています。

もちろん、中盤からは難病や家族といった無理やりな盛り上げ設定により物語はクライマックスに向かっていくので、必ずしも甘い砂糖菓子のようなシチュエーションばかりが登場する話というわけではありません。また、登場人物のキャラクターもそれぞれに個性的で、彼らの会話を見ているだけでも、(「アニメばっか見ていて現実の人生経験がない人ってこんな風に現実を記憶しているんだ」ということが分かり)それなりに楽しく読むことができます。こうした多面的な楽しみ方ができるのも、この物語の評価が高い理由の一つだと思われます。

「ゲーセンで出会った不思議な子の話」へのネットの反応

<書籍化の決定>

さて、ネット上でジワジワと話題になった「ゲーセン不思議少女」が今再び盛り上がりを見せているの、やはりこの物語を書いた「富澤」がこの物語がフィクションであることを公開し、twitterでその非凡な才能をいかんなく発揮する寝言ポエムツイートを始めてから。

「ゲーセン」を読み返しているんですが、なんでこんな話が書けたんだろう…自分で言うのもアレですが…

絵描いたり、物書いたり、音楽作ったりの創作活動の何がいいって、終わらない青春が間違いなくそこにあることなんだよね
痛いこと言ってごめん。でも本当にそう思ったんだ
ふと、昔好きだった人の顔が青空に映ったりすることがあるじゃん。老いようが、家庭ができようが、もう二度とその人に会えなかろうが、そういう一瞬があるじゃないですか。創作活動への想いって間違いなくこれと一緒なんだよね。

大手を振って歩けばいいんだよ、人生なんてさ。おめえが正しいと思ったことが、正しいんだよ、きっと。間違ってたらどこかで必ず壁にぶつかる。それさえも乗り越えちまえばいいんだよ。

そしてエンターブレインで書籍化が決定。しかも、そのエンターブレインのニュースサイトで著者のインタビューが公開されるというあからさまな展開に、多くの反応が寄せられました。

現在、twitter上では、インタビュアーの

瞬く間に数千万人が読んだと言われる伝説のスレッド

信じられない……。そんな手法で、あんなキレイな物語が作られたなんて……。

といったような数々の名言や、作者の

じつはこの物語には、モデルとなった人物がいます。医者を目指して勉強している親友がそうなんですが、彼はなかなか受験がうまくいかずに、何度も浪人を重ねているんです。ちょっと前に数年ぶりに会ったんですけど、高校生のときはよく笑う明るい人だったのに、まったく笑わなくなっていて……。聞いたら、「笑いたくても、笑えないんだ」と。驚いて、「大丈夫……?」と言ったんですけど、彼は「医者になるのが夢だから……」とうつろな表情で……。そんな顔を見たら、何も言えないじゃないですか。ずっとがんばっているのを知っているから「がんばれ」とも言えないし、「もう無理しないで」とも言えない。そんな彼を見ているうちに、夢をテーマにした物語を書きたいと思いました。

というような、凡人だったら普通にカウンセラーか病院を薦めておしまいな所で、その経験を自分の物語づくりに利用していく非凡さに、多くの反応が集まっている最中。また、はてなブックマークコメントでも様々な意見が寄せられているようです。

<「ゲーセン不思議少女」論争>

一方、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」について発表当初に寄せられた反応のまとめも多くあります。まずはこの作品を絶賛している反応をまとめたまとめサイト。

ユーザーの熱い感動が伝わってくる記事ばかりですね。これらのまとめの多くは、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」が話題になりはじめた時期に公開されて、はてなブックマークで多くのユーザーの興味を惹いたものです。
また、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」という物語を通じて、様々な問題について考えている人たちもいるようです。そのうちのいくつかを下に採り上げてみました。

この物語の設定が破綻しているという重箱の隅突きから、

  • 「実話という体なのに登場人物の台詞や行動がアニメ臭すぎる」
  • 「ていうかこれ美談じゃないよね。真面目に大学行きなさいよ」
  • 「私がこの女の子の家族だったらこんな話を2ちゃんねるでされるのは嫌だよ」
  • 「彼女が死んだとかいう物語を2ちゃんねるに書いて反応を得ようとするのは、それが現実でもフィクションでもキモい」

というような批判に

  • 「いやいや、これは物語というより>>1のセルフカウンセリングなんだよ。『こんな女の子と付き合いたいよぉ』という満たされない思いを何とか昇華しようとしているのさ」

というような下衆の勘ぐり、更には

  • 事実と銘打ってフィクションを提示するのは許されるのか否か

といった問題や、

という、「なんでや、別にこの物語とフジファブリックそんなに関係ないやろ!」と突っ込みたくなるような問題まで、色々な問題に対して意見が示され、更には「行定勲監督・吹石一恵主演で映画化が決定」と書く悪意ある二次創作まで書かれました。賛否あれど、多くの人がこれだけ熱弁をふるっているというのは、それだけ「ゲーセンで出会った不思議な子の話」が読者の思考を触発してくれる文章である証と言ってよいのではないでしょうか。興味のある方には、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」とあわせて、これらの文章もご一読をオススメします。*1

*1:この記事はhttp://b.hatena.ne.jp/articles/201007/1416にインスパイアされました。