あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

陰謀論について

世の中にはさまざまな「陰謀」についての情報があります。9.11はアメリカの自作自演であるとか、ユダヤ人のホロコーストはユダヤのでっち上げであるとか、それこそこの前の記事で触れたように創価学会が一個人を嫌がらせによって破滅に陥れようとしているとか、他にも月着陸は嘘だったとか、ロッキード事件はアメリカの謀略だとか、イルミナティ、フリーメーソン、300人委員会たちが世界を裏で操っているとか、日本の政治家の中には北朝鮮や韓国や中国の工作員が混ざってる、などなど。
ですがそういうのを聞いたとき、すぐ「こんな酷い陰謀があったんだ!みんなに知らせよう!」と考えるのは、ちょっと待ってみませんか?
まあ気持ちはわかるんです。私たちは今までずっと、自分で政治的なことについても考え、そして自分の意思で政治的なアクションを起こすことが素晴らしいって、戦後民主主義教育の中で教わってきました。そして、そのような民主主義の敵は断固排除すること。それこそが民主主義社会に生きる私たちの義務なのだと、そうも教わってきたわけです。
しかし、本当にそうベタに言ってしまっていいんでしょうか?なーんてことを書くとまたはてなサヨクの方々からお叱りを受けそうですが、「政治的なこと」、あるいは「社会的なこと」に関心を持つことは、全ての人がしなければならないことである。という戦後民主主義的な発想が、逆に、「ホロコーストなんてでっち上げだ!」とか「国籍法改正によって日本は乗っ取られる!」なーんていう、陰謀論の跋扈につながってるんじゃないかと、思うわけですよ。
僕の極論かつ暴論的な主張を言ってみましょう。僕は、「政治的なこと」や「社会的なこと」に全ての人が首を突っ込む必要は、ないんじゃないかと思っています。自分が関係ない、分からないことには口をつぐむ。そんな心構えこそが重要なんじゃないかと。
どういうことか、具体的に述べていきましょう。

1.陰謀を否定することは不可能である−興味のないことについては

何か最近はてなでは、「知的冒険としての歴史修正主義」などと言って、ホロコースト否定論をある人がぶち上げたり、それに対してはてなサヨクの方々が反論したりと、そういうことが色々あったそうです。
で、ホロコースト否定論をぶち上げている人はともかくとして、それに反対するはてなサヨクの方々は、「歴史科学の考え方を誤解している」とか、「それまでの長い論争をぜんぜん把握していない」と批判するわけです。が、実は僕は、それらの批判は実効性のない批判ではないかと考えています。理由は簡単です。そもそもホロコースト否定論にはまる人なんていうのは、ホロコーストについて「真剣な興味もない」んですから。僕と同じようにね。
まず哲学的な議論をしましょうか。と言うとまた「哲学的な懐疑は実際の歴史学の中で行うべきではない」という声が聞こえてきそうですが、しかし敢えて断行します。この文章を読むような人の中で、ホロコーストを実際に体験したり、あるいは目の前でそれを見聞きした、という方は、ほとんど居ないでしょう。みんな、本なりテレビなりネットなり、何かしらのメディアを通じて、「ホロコースト」についての情報を得ているわけです。ですが、じゃあメディアがユダヤに支配されていたら?全く偽の情報を真実であるかのように報道し、人々を洗脳しようとしているとしたら……この種の懐疑は、あらゆる事象に当てはまります。突き詰めていけば、今自分が体験している現実は仮想現実であって、本当の自分は脳だけぷかぷかとどっかのプールに浮かされて、脳につながったコードから擬似的な五感情報を受けているんじゃないかっていう、マトリックス的懐疑(妄想)にまで行き着くでしょう。
ですが、じゃあ人が全ての事柄についてこの種の懐疑を抱くか?そんなことはないわけです。例えば日常生きてきて、家族や友達や恋人とコミュニケーションしているとき、「こいつは本当に実在の人物なのだろうか?」って懐疑を抱きますか?哲学者ならいざ知れず、普通の人ならそんな懐疑は抱かないわけです。だって、そんな懐疑を一々抱いていたら、日常生活そのものが成り立たなくなるからです。
ですが、歴史修正主義については、この種の哲学的懐疑が抱かれ、そして否定論が紡がれてしまう。これは一体なぜなのか。簡単なことです。哲学的懐疑というのは、その人にとって「どーでもいいこと」の場合のみに適用されるんですね。ホロコーストがあろうがなかろうが、実際自分の日常生活には一切影響しない。せいぜい話のネタになるぐらい。だからこそ、そういう哲学的懐疑が可能になってしまう。というか、そういう懐疑をするぐらいしか、「どーでもいいこと」に対処する頭の回路は、ないでしょう。だって、「どーでもいいこと」なんですから。
もしそういう哲学的懐疑をなくそうとするならば、まず最初にすべきことは、実証的な歴史学の手法を叩き込むことよりも、ホロコーストをその論じ手にとって「どーでもいいこと」から「人生にとってすごく重要なこと」にしなければならないわけです。ですが、そんなこと可能でしょうか?この日本で生きてきて、そもそもユダヤ人なんて会ったことすらないって人が、ホロコーストを「すごく重要なこと」と捉える?それは僕には、無理線のように思えてならないんですよねぇ。

2.陰謀が事実だったとして、それがあなたの人生に何か影響を?

じゃあどうすれば良いか?やっぱり、「興味のないことには触れない・語らない。相応の覚悟が持てるときだけ語る」っていう心構えが、重要なんじゃないですかねぇ。
例えば、9.11はアメリカの自作自演だ。なんて陰謀論があります。これも、よく批判される陰謀論なわけですが、しかし具体的に相手の主張に批判すればするほど、単なる水掛け論っぽく思えてきてしまいもするわけです。だって、何度でも述べますが、哲学的懐疑をしてしまえばあらゆることは疑えてしまうわけですから。
だから僕は、そういう陰謀論を語る人に具体的な反証を挙げるという批判はしません。それよりも、こう問います。「その陰謀が事実だとして、それがあなたの人生に何か影響を与えるの?」と。例えば、実際に9.11で自分の家族・恋人・親しい友人とかが死んだりしましたか?
「自分ひとりの問題じゃない。これは世界全てにかかわる問題なんだ」と、陰謀論者のあなたは言うかもしれません。ですが、9.11とはまず第一に、世界貿易センタービルで沢山の人々が亡くなったり怪我をした、その人々の事件なわけです。その人々に対し、あなたはどんな位置にいるのか。彼らの悲しみが共有できますか?
「隠された真実」っていうものを主張する人には、二つのタイプがあります。一つは、その「隠された真実」というのが、本当にその人にとって重要である、というタイプ。これは、まぁ良いでしょう。問題は、そうではなく、「隠された真実」を暴くという、その行為自体に酔っているタイプです。人々が本当だと言っていることが、実は間違っているんだよと言うことって、本当に気持ちのいいことなんですよ。ですが、何度も言うとおり、どんなに確からしいことも、疑おうと思えば疑えるんです。人間は五感からの情報によって主観を構成しますが、その情報が偽者だとしたら、主観は構成されなくなり、後に残るのは、全てのことについてイエスと言え、またノーとも言える、そんな混沌でしかないですから。でも、なぜそれが混沌であることが可能であるかと言えば、それは、混沌であっても別に困らないからなわけで、つまり「どーでもいい」と思ってるからな訳。しかし世の中にはそれを「どーでもよくない」と思って、混沌のままでは良くないと思っている人も居るんだよ。そして、そのことについて語る権利を持っている人っていうのは、まずそのような、「どーでもよくない」と思ってる人であり、「どーでもいい」人は、その人の邪魔をしては、いけないでしょう。

3.まず、自分の人生を生きようよ

逆に言えば、そういう人の邪魔をしないで、あくまで「個人的妄想」としてそういう陰謀論を思っている分には、別にいいわけだ。例えば、「フリーメーソンが世界を支配している」とか「創価学会が日本のマスコミを掌握している」なんていうのは、「世界はハナモゲラ星人に支配されてる」とか「地底の奥には地底人が居て、虎視眈々と地上を征服しようと思っている」なんてことを自分の心の底で信じるのと同程度には、信じていて良いでしょう。
ところが、陰謀論者っていうのは往々にしてそれだけでは飽き足らず、その陰謀論をより多くの人に知ってもらおう、信じてもらおう、そして、その陰謀を阻止するために陰謀を企てている団体を攻撃しようと、声高に宣伝するわけです。
それが彼らなりの正義感によって行われているということ、それ自体は、否定しません。ですが、「正義」なら全て許容されるのか?といえば、実際はむしろ逆。「正義」と名乗るようなことほど、それをするのは慎重にならなければならないのです。
問いたいのは次のようなことです。「そんな陰謀を宣伝する手間暇があったら、もっと自分の生活を充実すべきじゃないか」と。特に、こういう陰謀論の宣伝活動や、政治的活動に熱心になって、家族、恋人、友人と触れ合ってない人に、僕はそう言いたい。その陰謀を宣伝する時間を、友達と遊んだり、家族サービスをしたりすれば、あなたの人生はもっと豊かになるんじゃないの?
更に言いましょう。そのような日常の生活が上手くいっていない、そのはけ口に、陰謀論の宣伝や政治的活動を利用していませんか?
9.11がアメリカの陰謀だとして、あるいは、ホロコーストが幻だったとして、あるいは、世界は1999年7の月に滅亡するとして、でも、それは本当に、「あなた」にとって重要なことですか?
それよりも、例えば恋人とデートしたり、家族とコミュニケーションを取ったりすることこそ、「あなた」の現実にとっては、重要なことじゃ、ないんでしょうか。
もし、そうやって日常という現実を生きてきて、その中で、自分だけではどーにもならないことに遭遇した、そのときに、初めて「社会的なこと」や「政治的なこと」に関われば良いんであって、別に人生でそのようなことを必要としていないのに、無理に戦後民主主義の価値観に乗って、そういうことに関わろうとしなくても、良いんじゃないのかな。
そう、僕は、自戒を込めて皆さんに問いかけようと、思います。