あままこのブログ

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なぜ、はてなから「非モテ」の話題が消えたのか - Attribute=51
非モテの話題がはてなではあまり聞かれなくなったという話題。まぁ、そのこと自体は僕も同意する。少なくとも、過去はてブを賑わしていた「非モテ」という言葉は、もはや殆ど使われなくなった*1
だが、そのことを持って「人々は非モテ問題に関心がなくなった」という風な結論を出すことができるかどうか。それについては、僕は断固として「違う」と言いたい。むしろ、「非モテ」という言葉が使われず、そのような問題が取りざたされなくなったことは、むしろ「非モテ」という問題が重篤化し、対処不可能なものとなっていることの表れであると、僕は考える。この記事では、その論拠を明らかにした上で、そんな今だからこそ、きちんと「非モテ問題」と向きあうことの重要性を訴えたいと思う。

非モテ論壇」という有害物について

だがその前に、まずここで僕は宣言したい。僕は「非モテ問題」については重要視するが、それをコミュニケーションのための“ネタ”として弄ぶ「非モテ論壇」―具体的に言うと、クリルタイ辺りの連中―については、一切重要視しないし、そういう連中のヘゲモニーが縮小していったことに関してはなんの問題も感じない。むしろせいせいしている。
むしろ、こういう連中がでかい顔をしてはてなに居座り、吉田アミ加野瀬未友といったライター連中と結託して「非モテ論」のヘゲモニーを独占していたことこそが、「非モテ問題」を陳腐な取るに足らない問題だと錯覚させてきたとさえ言えるのだ。
例えば『奇刊 クリルタイ4.0』という同人誌において、id:republic1963はこのような告白をしている。

インターネットでは色々な揉め事や面白いエントリ、リアルではいろんな人に出会って、色んな話をした。酒を飲んで、笑って、議論した。その間、「非モテ」は一種の核のようなものだった。
……
非モテという概念がキャッチーである事によって、その場に様々な人々が集うようになったのではないだろうか。ぶっちゃけ、「非モテ」がなければ私ははてな界隈のオフ会に参加することもなかったし、この同人誌も存在することはなかっただろう。

つまり「人々がその言葉について好き勝手言える」ものなら、彼らはなんでも良かったのだ。彼らにとって「非モテ」とはただのマクガフィンに過ぎず、だから時が流れ別の言葉が流行すればそちらに移っていく。なぜならそれが「人々の求めること」であるから。
そのような姿勢は、職業ライターとして自らの文章をマネタイズ(笑)するためには有効だったのだろう。しかし断言するが、そのような姿勢では「非モテ問題」を語ることなど絶対不可能なのである。そしてそれ故に、ある事件に対し、彼らはそれを語る言葉を殆ど持たなかった。本来であったら、そのような事件に直面したときに、語る言葉を編み出すことこそが、「非モテ問題」を語る意義だったはずなのにである。
そのような「非モテ論壇」が衰退したことは、当然の結末なのであり、「非モテ問題」自体の重要性には全く関係ないことを宣言した上で、「非モテ問題」について、考えていく。

非モテ問題」とは、実存からの問題である

では、そもそも「非モテ問題」とは一体なんなのか。
これについては様々な議論がなされてきた、が、しかし文字をそのまま解釈すれば、これは至極単純である。「モテ」に対する「非」である。まず最初に「モテ」というものが存在し、そしてそこに属さないことを表す否定記号として「非」がつく。故に「モテ」という概念が存在しなければ、そもそも「非モテ」などという概念も生まれ得ない。
しかしここで「モテ」という概念を精緻化する必要はない。「モテ」には色々な意味付けが含まれる。「不特定多数の女性にモテている状態」かもしれないし、「自分の好みの特定の異性にモテている状態」もありうる。また、状態ではなく一種の価値観、例えば「不特定多数の異性から求められるような人間であるべきだ」、「異性と恋愛関係を持てる人間であるべきだ」といったような、「こうあるべき」という価値観を指すものでもありうるのである。
しかし例え「モテ」がどのようなものであったとしても、重要なことは、そこに対して「非モテ」は排斥・疎外された異物として存在しているのである。非モテ問題」とはそのような“異物としての自己(=実存)”をめぐる問題なのである。
ある者は「脱オタ」「ナンパ術」などの勉強をし、異物としての自己をなんとか「モテ」に適合させようとするかもしれない。あるいは「二次元恋愛」「宗教」などによって、モテの代替物を見つけようとするだろう。また別のものは、「自分がモテないのは女どものせいだ」と主張し、ミソジニーに走るかもしれない。しかしいずれにせよ、それらの論はすべて異物としての自己を見つめ、そこを出発点として考える、まさしく実存的問題なのである。
そうであるが故に、「非モテ問題」は原理的に他者と共有できない(他者と共有できないからこそそれは「実存」なのだから)ものであり、それを議論した所で、集団に生産的な結果など何一つ生まれない。それはあくまで「自分のための論」であるべきだからだ。
だが、そのように元来「自分のための論」であるべき「非モテ問題」を、コミュニケーションの種とし、そこから生産的な議論、「他人がそれを聞いてために出来るような議論」を生み出そうとしたことから、歯車は狂い出す。

「(生産的)モテ論」は「非モテ論」たりえない

まず最初の兆候として現れたのが、「マッチョになれば非モテ問題なんて解決する」論である。そう、まさにid:guri_2氏のエントリが、その代表例だ。
要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51
この記事で重要な点は、それが自己を批判し、「モテ」そのものに自己を同化させようとしている点だ。これは、単なる「脱オタ指南」「ナンパ指南」などとは違う。それらは、異物としての自己を前提とした上で、それが「モテ」と適合可能になるための技術を考えるものだった。だが、この記事にはそのような技術指南は全くない。その代わりにこの記事は自己を変革し、『モテ』世界と同化することを迫っているのである。
だからこれは、例えはてブ非モテ論壇が「非モテタグ」をつけようとも、あくまで「モテ論」であって「非モテ論」では決してありえない。それに対して僕は次の2つの記事で持って、「異物としての自己」の立場から「モテ」を批判し、それに対抗すべきであるという、非生産的な、自分のための「非モテ論」をぶちあげた。
id:guri_2という、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎を、このリルリルが貴重な時間を浪費して罵倒してあげる
世界よ、もっとウインプ達の憎しみで満たされろ
これらの記事における僕の立ち位置は明白である。「id:guri_2のようなモテ世界と敵対するものこそが『僕』であり、そして僕はその僕という実存をあくまで守りぬき、お前らを憎み、敵対する」だ。
この姿勢は、今も基本的に変わらない(というか、後述するが、むしろこのような「非モテ論」が、今こそ最も必要なのだと考えている)。だが、歯車の狂いはこの騒動の三ヶ月後、最悪の形で現れた。
そう、秋葉原連続殺傷事件である。

非モテ〉が実存を覆い隠す時

秋葉原連続殺傷事件に対する、所謂「非モテ論壇」の反応は、驚くべきほどにドライなものであった。もちろん、安易に事件を利用することは避けるべきだ。また、秋葉原連続殺傷事件の犯人である「K」は、実際にはモテであり、属性としての「非モテ」が当てはまるような人物ではなかったという報道もされた。だが、だとしても彼はこう書き残しているのである。

彼女いない、ただこの一点で人生崩壊。

まさしく、これまでの「非モテ論」が散々繰り返してきた台詞なのだ。もし、報道の通り、「K」が実際は彼女を作る才能がある人物であったとするならば、なぜこのような「非モテ」のテンプレートになるような台詞を書いたのか、問題にすべきだろう。
だが、ほとんどの「非モテ論壇」の人間はこの「K」に対し「彼は別に非モテではなかった」という切断処理をするか、「非モテでも、人を殺すのはおかしい」というようなおためごかしの道徳論を語って済ませたのである。そしてその後彼らは、非モテ論壇から撤退していった。*2
だがしかし、「非モテはモテによって苦しめられている。故に非モテ非モテロによってモテに一撃を与えるべきだ」という言葉は、まさしくこれまで「非モテ論」が散々繰り返し、そして、僕がまさしく世界よ、もっとウインプ達の憎しみで満たされろという檄文によって示した言葉だったのだ。そして「K」は、その言葉を成就するが如く、あの惨劇を起こしたのである。そんな問題を、切断処理して解消して良い訳がない!
もし「非モテ論壇」が死んだ時を挙げるとしたら、それはまさにこの時だった。
話を本筋に戻す。「K」が実際は非モテではなかったとしたら、なぜ彼は「非モテ論」的な言葉を発し、その言葉に沿って行動を起こしたのか。
それは、彼にとっては「非モテ」が、それに沿って行動すれば良い、一つの「物語」となっていたからであると、僕は考える。
本来、「非モテ論」とは、自己の非モテな実存から始まるべきものであった。故に、例えば「あままこの非モテ」はあくまで「あままこの非モテ」であって、それは他人の非モテと交換不可能なものなのである。僕がいくら非モテで苦しんでいたとしても、それは決して他人と共有されることのない苦しみであり、そして、そうであるべきなのだ。
ところが、「非モテ」がコミュニケーションのネタになると、そのような個別の実存的な「非モテ」とは違う、普遍的な〈非モテ〉が立ち現れてくる。この普遍的な〈非モテ〉は、実存=異物としての自己のものではない、むしろその自己と対峙する「世界」の側のものだ。そしてその(非モテ〉が個人に侵食すると、「非モテという物語に沿って行動すべき」という定言命法が、個人の実存を覆い隠してしまう。「僕は非モテだから、モテ社会に復讐するためにテロを行う」という物語は、その非モテが個人の実存に沿った「非モテ」である限りは否定される。人を殺すなんていうのはやっぱり“自分が”絶対嫌だからだ。*3ところが、非モテが普遍的な〈非モテ〉として立ち現れてくると、例えその人の自己が嫌だったとしても、「非モテで社会に絶望しているんだからテロを行わなければならない」という無条件の命令が生まれてしまうのである。
つまり「K」にとっての〈非モテ〉とは、僕のような非モテに対する「モテ」と同じ役割を果たしていたのだ。「モテ」というものは自己とは異なる世界の側にいながら、自己に対して命令をしてくる。「男性はモテなければならない。モテるにはスポーツをやって身だしなみもきっちり整えなければならない」と。本来の「非モテ」とは、そのような「モテ」と対峙する異物としての自己=実存の、対決する為の言葉であった。ところが「K」においてはむしろ〈非モテ〉こそが世界の確固たる秩序として存在し、「非モテだったらこのような発言をし、最終的にはこのような行動をしなければならない」ということを自己に対して命令してきたのである。そしてそれに対して「K」は、それと対峙しうる実存の言葉を持ち得ず、結果として〈非モテ〉物語の操り人形と化してしまったのである。

物語に実存を支配されないための「非モテ

そして時は流れ現在、「非モテ問題」ははてなでもすっかり触れられなくなり、かわりにコミュニケーションのネタとしての「ぼっち」、「リア充/ネト充」といったような言葉が世間を席巻していった。また、「非モテだから人生不幸だ」というネタは流行らなくなり、もっと切実な「ワープアだから人生不幸だ」というようなより共感の得られる不幸話。あるいは「好きなアニメがあるから人生幸福だ」、「好きなアイドルがいるから人生幸福だ」といったポジティブシンキングが溢れるようになった。こんな時代に、「非モテ」なんていう辛気臭いことを言っている人はもう必要ではない、そんな風に言う人もいるかもしれない。AKB48けいおんがあればもはや「非モテ論」なんていらない、というように。
しかし、そのような光景は、僕から言わせれば、本当の問題から目をそらす、砂上の楼閣だ。「アイドル/アニメがあるから恋愛なんてもう必要ない」と言っている人は、しかし一旦そこでその「アイドル/アニメ」において決められたルール―アイドルは彼氏を持たない、アニメキャラは処女である―が破られればとたんに発狂し、その憎しみの炎で周囲を燃やし、そして自分をも燃やし尽くす。
かくて〈魔獣〉は世に放たれる。 - 斜め上から目線
最近、まどか神が秋葉原連続殺傷事件のような事件を防いでくれるというような寝言を吐いている人間が居た。だが実際はむしろ逆なのだ。むしろ、まどか神のような世界の制約がよりきつくなればなるほど、神になり得ない人の間で綻びは生まれ、そしてそれが新たな悲劇を生む。「まとがが見守ってくれるから安心して〈魔獣〉が殺せる」と信じたほむらこそが危険なのだ。
必要なのはこの世界に神を現すことではない。むしろ、神=世界に反抗し、それに決してどうか出来ない異物としての自己=実存を突き立てる、そんな言葉なのだ。〈神/アニメ/アイドル〉、そして普遍的な〈非モテ*4といった物語に対し、でもそれに乗っかれない、そんな「非モテ」な実存を探し出し、突き立てる、そんな「非モテ論」が、今本当に求められていることだと、僕は思っている。*5
だから、「非モテ問題」は決して消えやしないのだ。id:guri_2のような、こいつが生きているからこの世界は駄目なんだというような糞野郎に対し、そういう糞野郎の紡ぐ「非モテなんて言わなくてもみんな幸福」という物語を崩し、「非モテ」としての実存を突き立てる、そのために。

id:guri_2さん、弾はまだ残っとるがよ

*1:[http://eienmukyu.com/2012/06/himote-fewer/:title]という記事によれば、統計からもそれは明らからしい

*2:cf.本田透の秋葉原連続殺傷事件以降の「転向」

*3:これは普通の人の実存に限ったことであるという主張があるかもしれない。だが僕は、このような実存が万人にあると信じている。事件を起こした「K」も、しかし事件後には絶対後悔しているはずだ。そして、後悔しているということは、その人の実存が、犯行時点では何かに覆い隠され、機能しなくなっていたということなのだ

*4:所謂「既婚非モテ」「彼女持ち非モテ」なんかはまさにこれだよね

*5:だから、実の所、僕が書く記事の殆どが、そうとは銘打ってなくても、「非モテ」からの発言なのだ。