あままこのブログ

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アイデンティティの前にある問いとしての「何者にもなれない私」―『何者かになりたい』読書感想文

というわけで、前回の記事
amamako.hateblo.jp
を書いた後、早速『何者かになりたい』、読んでみました。
読了した感想としては、賛成できるところと「いや、そうかなー」と思う部分は半々だったんですが、そういう主張への賛否以上に、「精神科医という臨床の立場からはこう考えるんだな」ということが興味深く、大変面白い本でした。

この本の僕なりの要約

この本を僕なりに要約すると、「何者かになりたい」という欲求を、臨床心理学的に言えばアイデンティティを求める欲求であると定義し、そして、アイデンティティを獲得する場所・時期について、「業績」「人間関係」「恋愛」という場所、「幼年期」「青年期」「壮年期」という時期それぞれについて、一体どういう方法でアイデンティティが獲得できるか、またその方法につきものの危険について解説する、いわば「人生」の攻略本のような本だと思います。
アイデンティティ概念や、発達心理学について理論的な説明もある程度はなされていますが、どっちかというと「それら理論を通じて、どう人生を攻略するか」という実用書として書かれた本と、いえるでしょう。
そして、それぞれの攻略法、例えば「一つのアイデンティティに依存するのではなく、複数のアイデンティティリスクヘッジしよう」とか、「青年期のアイデンティティ獲得は時としていびつな物に見えるが、温かく見守ることが大事」とか、「自分を見守ってくれる人は大切にしよう」とかは、確かに間違いなく人生のQoLを向上させるものだと思うわけです。

でも、それを「お説教」にしか感じられない人も居るよね

ただ一方で、そうやって納得する自分がいる一方で、この本を読んでいるとふつふつと湧き上がる思いがあるのです。それは
「結局それってただのお説教じゃん。それができれば苦労はしないんだよ」
という思いです。
で、一体なんでこういう感想を持つか自分なりに考えてみたのですが、多分この本は暗黙の内に「何者かになりたいという思いを実現するために、行動することができる」という状況を前提としているのです。
先ほど僕はこの本を「人生の攻略本みたい」と評しました。攻略本は、そのゲームを「攻略したい」と思う人には、とても有用な実用書です。でも、「そもそもなんでそのゲームを攻略しなきゃならないの」とか、「そのゲームの面白さって何?」という問いには答えてくれないんですね。
そして、前回の記事で示した内、「メンヘラ」として超越系に属する僕が気になるのは、むしろそういった部分だったりするのです。

現代、アイデンティティという概念の持つ意味は大きく変わりつつある

この本で書かれてるように、アイデンティティとは、「自分が何者か」ということを選べるようになった、近代の産物です。近代より前は、農民の息子に生まれれば一生農民、商人の息子に産まれれば一生商人というように、「自分が何者か」なんてことは生まれる前に決まっており、だからこそ「何者にもなれない/何者かになりたい」というような不安はありませんでした。
しかし、近代においては自分は何者になるかは自分で選択しなければなりません、そこで、何を選択すればいいか分からなかったり、何かを選択してもそれを手に入れられないというようなことが「問題」として現れる。そして、その問題に答えるために、E.H.エリクソンであったり、あるいはA.マズローのような臨床心理学者・精神分析家の理論が求められた訳です。この本で書かれていることも、基本的にそれら理論の延長線上です。
ところが、後期近代、具体的に言えばオイルショック以降の先進国では、一旦自分でアイデンティティを選択したにもかかわらず、その選択とは異なるアイデンティティに移行せざるを得ないような状況が生まれてきます。例えば先進国においては1960年代後半から離婚率が上昇し始め*1、雇用全体における非正規雇用の割合も増加していきます*2。「私はこの家族の一員だ」、「私はこの会社の社員だ」というような重要なアイデンティティが、人生の途中で変更を迫られるようになるわけです。
一応この本ではそういった社会情勢の変化も問題とはされていますが、しかしそれはあくまで「青年期のようなアイデンティティが揺らぐ時期がより長く続くようになった」程度のものとして扱われています。
しかし実際は、そのような後期近代の変化は、アイデンティティという概念そのものの意味を、質的に変化させたのではないかということが、社会学などで言われていることだったりするのです。

アイデンティティが、人生の「土台」たり得なくなった時代

その変化を一言でいうなら、アイデンティティが固定されたものだった時代から、再帰性を持つようになったということです。
再帰性とは何か?辞書にはこのように書かれています。
dictionary.goo.ne.jp

言語学社会学で、動作主が自己を含めて何らかの行為・指示・言及の対象とする性質。

といってもこれだけじゃ何のことか分からないと思いますので、具体的な例を出します。
職業について考えてみましょう。終身雇用が前提の時代においては、職種・会社選びは、それを選ぶ一瞬だけ悩む問題であり、それ以降は「自分は何でこの会社に勤めているか」「何でこの職種なのか」ということを悩むことは基本的にありませんでした。
しかし現代においては、終身雇用という前提は崩壊し、いつ自分が首を切られたり全く違う職種に配置換えされるか分からないし、また自分から転職することも容易になっています。そうすると、「自分は今この会社・職種についているけど、より最適な会社・職種があるのではないか」ということが絶えず疑問に浮かび、その疑問に基づいて自己を再点検して、自分にとって最適な会社・職種を再選択することが絶えず求められるようになります。
アイデンティティ再帰性を持つとは、このようにあるアイデンティティを持つ自分自身が、そのアイデンティティを否定し変容させなければならくなる、そういった状態なのです。
そしてそのような状態においては、アイデンティティはもはや自分を支える「土台」たる役目を十分に果たせなくなります。
アイデンティティが固定されていた時代には、「自分は○○だ」というアイデンティティを一旦手に入れれば、それが生涯に渡って「自分はこういう自分である」ということを指し示す物となったわけですね。
ところが、アイデンティティが常に変容する時代においては、「自分は○○だ」というアイデンティティは、あくまで暫定的な、「(今はとりあえず)」という括弧付きのものとなってしまうのです。

存在論的不安(「自分はなんで存在していいのか」)こそが「何者もなれない私」という不安の真の正体では

そのようにアイデンティティが人生の「土台」としての役割を果たさなくなった結果現れるのが、「自分はなぜ存在して良いのか」という不安です。これは社会学では〈存在論的不安〉と呼ばれています。
アイデンティティが固定的だった時代は、「自分はこの仕事をするために存在している」とか「自分はこの家族を養うために存在している」というように、アイデンティティそのものが存在論的不安に対する答えとなりました。
しかしアイデンティティ再帰性を持つようになると「自分がこの仕事をやらなくても他の人とがやってくれる」「自分がこの家族を養わなくても他の人が養ってくれる」というように、アイデンティティが「自分がなぜ存在していいか」という問いへの答え足り得なくなるのです。
で、僕が考えるに、「何者にもなれない私」という不安の背後にあるのは、むしろこのような「存在論的不安」であったりするケースが―特に前回の記事で挙げた「メンヘラ」の人たちには―結構あると思うのです。
そもそも、熊代氏が述べているように、本当に「何物にもなれない私」であることって、普通に世の中を生きていればそんなにないことなんですね。自分を形作る属性って、それがその人の好みに合うかを度外視すれば、数個はある物なんです(それこそ、熊代氏が後ろで挙げた「犬派か、猫派か」だって、言ってしまえばアイデンティティなんですから)。
にもかかわずなんで自分が「何物にもなれない」と感じるかといえば、そこで現在・過去・未来において手にするアイデンティティが、あくまで仮のものに過ぎないと感じるからなんです。そうではなく、「自分は(○○として)ずっとこの世界に存在して良い」と思える○○に、なりたいのになれない、それこそが、「何者にもなれない私」の不安の根源にあるものなのです。

なぜプリンセス・オブ・ザ・クリスタルは「イマージーン!」と叫んだか

そして、「何者にもなれない私」という不安が、存在論的不安に基づいているのなら、そこで処方箋となるのは、「何者かになる」というアイデンティティの獲得方法というよりは、むしろ「何者でもあなたは存在して良い」という、アイデンティティ以前の存在論的安心を獲得する方法だと思うのです。
で、実はその答えって、もう既に『輪るピングドラム

で提示されているんですね。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉が有名ですが、その言葉を叫ぶ前に、叫んでいるキャラであるプリンセス・オブ・ザ・クリスタルは重要な言葉を叫んでいるんです、それは

「イマージーン!」

です。日本語に訳すなら、「想像せよ!」です。
現実のアイデンティティを持つのとは違うところで、「ずっとこの世界に存在して良い自分の役割」を想像する。それこそが「何者かになりたい」という問いへの処方箋となる人も、多いと思うのです。
ただ、それは臨床心理学や精神科医、医療の領域ではなく、むしろ宗教や文化の領域なのでしょう。その点で、熊代氏は、精神科医としての職業倫理から、あくまで「何者かになりたい」という問いを、具体的なアイデンティティの問いとして持っている人、前回の記事で言う「ワナビー」の人たちに対象を限定して、その人たち向けの「人生の攻略本」を書いたのも理解はできます。
ただ、そこに限界があるという注記は、やはりしなければならないと思います。

参考文献

僕がこの記事で書いたことは、ほとんどここら辺の受け入りに過ぎなかったり……