あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「夢」の話

他人の夢の話ほどつまらないものはないとはよく聞く話ですが、まあ個人のブログなので、いくらつまらない話を書いてもいいのです。

夢の中で、僕は小学生でした。クラスは授業中、黙って授業を聞いている僕のような生徒も居れば、ぎゃーぎゃー騒ぐ生徒も居ます。
とうとう先生は怒って教室から出ていってしまいました、そうするとどうなるかは皆さんおわかりですね。そう、例の儀式が始まるのです。クラスの代表が誰か一人職員室へ行き、そして先生が職員室から教室に戻り、クラス全員に説教するという、例の儀式です。
その儀式は滞りなく進み、先生は教室に戻り、さて一つ軽い説教でもして授業に戻るかと、「君たち全員に責任があるんだぞ」と言った所で、ある一人の生徒がいきなり声を上げました。その生徒とは、僕です。

僕は夢の中でこう主張します。騒いでいたのは一部の生徒であり、中には僕のように、騒がずおとなしく授業を聞いていた生徒もいた。たしかに、騒がずおとなしく授業を聞いていた生徒も、周りの騒いでいた生徒を注意しなかったという点では一定の責任はあるのかもしれない。けれども、騒いでいた生徒と騒がなかった生徒、全員等しく同じ責任があり、全員同じように謝罪しなきゃならないというのは納得がいかない……と。
まわりの生徒は「まーたあままこのアレが始まったよ」と、少しイライラした呆れ顔で僕を見ています。そう、僕はこういう風に、波風を立てなければそれで済むような場面で、無用な揉め事を起こし、周りからウザがられる、そんな子どもでした。先生は「いや、それでもお前たち全員責任がある」として収めようとしますが、あんまり僕がうるさいのでどうしようもなくなり、とうとう別の先生を呼びました。

別の先生は、僕をこう叱ります。「そんなことを言って結局お前は、自分の罪を軽くしようとしているだけなんだろう。あやまりたくないだけなんだろう」と。しかし僕は黙りません。仮にそうだとして、でも僕の議論にあなたたちは答えていないじゃないか。全員同じ罪なんだから全員謝罪しなさいというけれど、そのような論法には納得がいかないから、僕はあくまで謝罪はできない、と。

あくまで僕は折れません。困った先生は、また別の先生を呼び出しました。その先生は、まず僕の主張を熱心に聞きます。そして聞いた後、少し考えたあとで、こんな例え話をしだしました。

例えばここに人を殺した人がいるとする。この人は悪い人かね?と、ある生徒に聞きます。その生徒は、そりゃあ悪い人だろうと答えます。それに対し、ここにものを盗んだ人がいるとする。この人は悪い人?と、また別の生徒に聞きます。その生徒も、悪い人だろうと答えます。そこで先生はこう訪ねます。さて、ここで言う「悪い」とは、同じ「悪い」なのか、違う「悪い」なのかと。
ある生徒は、どちらも同じ悪いことなのだから、同じ「悪い」なのではないかと答え、別の生徒は、そうは言っても人を殺すのと物を盗むのだと、さすがに程度が違うから、違う「悪い」なのではないかと。

そのような意見を聞いた後、今度その先生は、別の話をします。あるところに、世界中に戦争をしかけ、周りの国に酷い迷惑をかけながら、戦争に負けた国があった。その国では、そのような戦争の責任を誰が取るのかという議論が起き、ある人は国民全員がその責任を取るべきだと主張し、また別の人は、この国を戦争に向かわせた偉い人が悪いのであって、一般国民は悪くないと主張した。
けれど、実際にその国にひどい目に合わされた周りの国から見るとどうだろう。悪いのは結局その、戦争を仕掛けて負けた国全体であり、国全体で責任を取ってもらわないと納得がいかないんじゃないだろうかと。

そして最後に、先生はこんな話をしました。それは、当時はやっていたJ-POPの曲の話で、その曲は、失恋した女の人が、なぜ自分が振られたかをいつまでもぐちぐちと悩む、そんな曲。その曲を例に取りながら、先生は、あることの原因を深く追求するというのは、良いことのように思われがちだけれど、しかし中には、こういう風にずっと追求することが何も産まない場合もあって、そういう時は、どこかであっけらかんと、たとえそれが嘘だと分かっていても「これが悪いんだね、はい終了」で収めるほうが生産的な場合もあると先生は思うな、と。

そのような話を滔々と聞いている内に、なぜか自然と僕の中から怒りが消えていきました。そして、そこまで意固地になる必要もないのかなと思えてきたのです。多分それは、自分の話していた内容が、決してわがままではなく、哲学・思想的にも議論が別れる重要なテーマであるということを、先生が認めてくれた。そして認めた上で、きちんとなぜ全体で謝罪すべきなのかの理由を、相手の意見を意見として認めた上で、それとは対立する意見として提示してくれたという点からじゃないかと思うのです。
夢はここで覚めました。

よく、twitterの意見をまとめたりするサイトで、「こんな馬鹿のことを言っている人がいるよー」と、一見ネットの常識や、多数派の意見から見るとおかしく思えることを晒し上げる、そんなまとめがあります。
しかし僕は、そういうまとめが好きではありません。どんな意見も、それを言う当人の中では、きちんとその意見を支える論理があるわけで、そしてその論理を聞いてみれば、なるほど確かにこれは難しい問題だと思える意見も、多いからです。
むしろ僕は、多数派・少数派や、常識・非常識にとらわれず、対立する2つの意見を公平に紹介し、そしてその上で、その対立が実は、このような議論の問題とつながっているんではないかと示してくれる、そんなまとめが好きですし、そういうまとめを作りたいと思うのです。
もちろん、そういうまとめを作るには、実際は深い教養が必要で、僕の知識はとてもそんなところまで行っていませんから、まだまだ理想には程遠いでしょう、
しかしそれでも、少なくとも様々な意見に敬意を払い続けることは忘れたくないなーと、夢から覚めた時、改めて思ったり、したのです。