あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

魂のアップロード時間

あままこです。今日は何も盛り上がりもひねりもオチもない日記なんぞを書こうかと。
実は最近、親族に不幸がありまして、その亡くなる瞬間に立ち会っていたんですね。
それで、その亡くなる瞬間、呼吸が止まってから心拍数がなくなって、心臓が停止するまで、ちょっと間があったんですね。それで、親族一同で心拍数が下がっていくのを、何をするでもなくぼーっと見ていた(すでに緩和治療の段階だったし)んです。
その時間がなーんか自分の中で、印象に残っているのです。
なんかこう、心電図の数字がだんだんと減っていき、そして最後の0まで至る時間というのが、それまでのその人の人生と、その死を受け入れて、そして認めるそんな時間に思えたりして。
僕はその時間を「魂をアップロードする時間」なんじゃないかなぁと、そんなことを考えたりしていました。
自分はもう若くはないとはいえ、自分の死を現実的に意識するほど老いてもいないので、メメント・モリなんて経験はなかなかないんですけど、それでもそういう時はやっぱ、観念的にですけど、「死」について考えたりするわけですよ、無駄に。
で、生者と死者の一番の違いって何かとか考えたりして、そして、結局のところ、「自分という存在が、自分によって全くコントロールできなくなる」ということなんじゃないかと、思ったりするわけです。
もちろん、生きている時だって、自分という存在を完全にコントロールできるかといえばそうではなく、他人にどう言われ、どう思われるかによっても自分という存在は形作られ、そしてそれは往々にして自分の意図しないものともなっていくでしょう。
しかしそれでも、「でも本当の自分はそうじゃない、本当の自分はこうだ」という風に思う、最終的な自己のコントロール権は、自分にあるわけです。
しかし死んでしまったら、もう自分という存在は、この社会に流通する情報の中にしか存在しなくなり、そしてその情報は、もはや自分は一切干渉できなくなる。神格化されるかもしれないし、あるいは逆に全否定されるかもしれない。
そして実はそれこそが、死というものを人間が恐れる、根源的理由の一つだったりする。
ただまぁ、実際死んだ人のことを悪くいう人はそういういないわけです。だってそんなことしても無駄ですから。生きている人は、生きなきゃならないんだから、死んだ人を貶す暇があったら、そこから少しでも役立つ情報を引き出して、明日からの生に結び付けなきゃならない。
だから、まぁ自分がもし死んだとしても、自分がこの世界に残した情報はなくなるわけではなく、むしろ死後になって、自分のコントロールから、自分が自由になり、そして世界に拡散していくと考えていくと、実はそんなに怖いことでも、ないのかもしれない。
そういう風に考えると、あの死の直前の時間は、自分という存在、魂を世界にアップロードし、オープンソース化する、そんな時間なんじゃないかなぁと、思ったりしたのです。

ニコニコ動画から「文学」は生まれうるのか?

id:masafiro1986氏が「カゲロウプロジェクト」という、最近若者の間ではやっている(こういう風にいうと自分がおっさんになったことを痛感するなぁ)作品について、面白い記事を書いています。
カゲプロのような思春期中二女子に届く作品に今後の文学の可能性を感じている件について - 群青
カゲプロは中二女子向けだから新しいのだと思う - 群青
ここで一応解説しておくと、「カゲロウプロジェクト」とは、ニコニコ動画で発表されたボカロ曲が元になって生み出された作品群で、ボーカロイド曲・小説・アニメと多数の派生作品を生み出しています*1
で、上記のブログではこの作品が最近の女子中学生に人気であるといい、一体なぜ女子中学生に人気なのかを考察しているわけです。
その内容を僕なりに要約すると、このカゲロウプロジェクトの作品・世界観は、「女性が欲望すべき世界」の様に作品の世界を描くことを避け、少年・少女が未分化な空間を作品内に作り上げることによって、自らの女性性に違和感を抱く「中二女子」を惹き付けていると、そういうことのようです。
そして、このように思春期の心性に寄り添う「カゲロウプロジェクト」のような作品こそが、今後求められる文学なのではないかと、id:masafiro1986氏は主張したいのかなと、僕は解釈しました。*2
そして僕も、その考察・主張自体はとても納得はいくんです。というか、そういう風な、思春期の申請にきちんと寄り添ってきた、ジュブナイル小説こそが、日本においては「文学」が果たすべき役割を果たしてきたというのは、否定しようがないでしょう。
ただ、そこで僕は考え込んでしまうのです。
「でも、カゲロウプロジェクトって、元々はニコニコ動画の曲から生まれた作品群で、その作品が好きな人は当然ニコニコ動画も大好きなわけでしょう。そんなところから、果たして本当に思春期の心性に寄り添えるなような『文学』が生まれるの?」と。

*1:残念ながらアニメはそんなに評判よくなかったみたいですが

*2:要約といいながらより小難しい言葉の羅列になってしまっているのはご愛嬌

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冬コミで頒布される同人誌2つに寄稿しました

そういえばまだブログで告知していなかったことに気づいたので.2つの同人誌に参加させていただいたのですが,どちらも3日目(2013/12/31)に頒布されるそうなんで,ぜひ冬コミに来る方は,ブースに立ち寄ってみてください.

『ウギャッター コンテンツ定点観測2013』(3日目 西ま29b)

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(表紙,ほんとかわいいなぁ……)
ウェブニタスという評論系サークルが頒布する『ウギャッター コンテンツ定点観測2013(下半期)』という同人誌に,ドラマあまちゃんについての感想文を寄稿しました.あと,今年のコンテンツを振り返るという座談会にも,アニメ・ゲーム・映画の部でそれぞれ参加させていただき,id:AutoAutoさんやグダ先生(id:nuryouguda)と今年のアニメとかどうだったよー,なんてことを振り返りました.
感想文に関しては,本当にただ「なんで自分があまちゃんにはまってしまったのか」ということを内省していき,そこからあまちゃんの素晴らしさについて語っていくという,そんな白あままこ全開の文章になっていますが,一方で座談会の方は,ネット上では言えないような危ない発言満載の黒あままことなっております*1
ま,内容はともかく*2,表紙はものすごくイイですし,さらに言えばあの!,某氏大激怒と評判*3の『ザ☆ルサンチマンハンター小野』も掲載されているそうなので,それ目当てで入手するのもいいんじゃないかなーと思います.
頒布場所は,西ま29bだそうです.コミケWebカタログでのURLはこちらです.
ログイン | Comike Web Catalog
また,詳しい目次や,座談会見本なども,ウェブニタスの公式ブログに掲載されているので,より詳しく知りたい方はそちらを御覧ください.
ウェブニタス -WEBNITAS- : 2013年12月31日の「コミックマーケット85」で新刊を頒布します
ウェブニタス -WEBNITAS- : 『ウギャッター コンテンツ定点観測2013』内容一部公開

『灰メガ02』(3日目 西よ17a)

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(こちらの表紙も実にかわいい.いや,こっちはかっこいいの方か.)
Alicematicという同人サークルさんが頒布している同人雑誌『灰メガ02』に,「僕たちが、災厄もまき散らさない魔女でいるために」という,『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』についてのコラムを寄稿しました.
私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!  第1巻 [Blu-ray]
この寄稿のきっかけは,以前書いたアニメとらドラについての記事
聖なる夜にとらドラ!をdisる - あままこのブログ
を同人サークルの方が読んで,「これはすごい」と思い*4,寄稿を依頼してくれた,というのがきっかけだったりします.いやあ,この文章自分が書いた文章中でも一二を争う評判の悪さだったりするわけで*5,何がきっかけになるか,わからないものですね.
そういう経緯からの文章なので,今回寄稿した文章の方向性としては,ひたすらキャラクター批評です.キャラクターに寄り添いまくります.というか実際もこっちと結構重なる部分が多いんだよなぁ自分.ヤンデレCD好きだし……とらドラの記事のポジネガを反転させたような文章に仕上がっています.
ま,でも自分の文章は正直どうでもいいです.この同人雑誌,内容紹介のページを見てみるとほんと文章ありイラストありマンガありと,内容盛り沢山ですし.しかも小説を書いている人の中には,中村九郎先生という,プロの作家の方までいらっしゃるんですよ.自分,実はライトノベルほとんど読まない人間んですが*6中村九郎先生の『曲矢さんのエア彼氏』

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

については珍しく読んでハマったライトノベルだったので,そんな人と同じ誌面に居るというだけで,嬉しいですし,多分これが僕の人生のピークなんじゃないかなと,思ったりします.*7
頒布場所は西よ17aだそうです.コミケWebカタログでのURLはこちらになります.
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発行物についての詳細や,掲載されている小説の試し読みなどは,公式ブログに記事が掲載されているみたいなので,そちらをごらんください.
灰メガ02完成に近づいています: 灰メガブログ

最後に

今回寄稿した2つの同人誌,それぞれ性格は全く異なる同人誌ですが,どちらも面白さは保証します.なんてったってこのあままこが記事を寄稿しているんだから!……というのは冗談ですが,こういう文章系同人誌は,ウェブログといったネットでの文章とはまた違った面白さがあると思うので,是非コミケ3日目は,東館や企業ブースに行った後でいいですから,西館1階に来て,こういった文章系同人誌を眺めていってみては,いかがでしょうか.

*1:もしかしたら編集でばっさりカットされているかもしれませんが……まぁ,ひどかったしね.まじめに話を進めようとするどかいさんにひたすら茶々を入れるみたいな感じ

*2:言っちゃったよおい

*3:

*4:どういった意味での「すごい」なのかは聞いていないので,もしかしたら「これはすごい(ひどい)」なのかもしれません(笑)

*5:はてブ参照

*6:じゃあなんでとらドラ批評しようとか思ったかしらね……

*7:はい,要するにただのワナビーなんです自分は

1000人の読者になんとなく読まれるよりも、1人の読者の心に突き刺さる文章が書きたいな

なんか最近はてなブロゴスフィアではブログについて語ることが流行っているみたいで、ネガコメやら釣りやらPVやらはてブ数やらやら、そんな何回も何回も繰り返されてきた話題が、今日もまた繰り返されているそうです。
で、そんな議論を読みながら僕はふとこう思うわけです。
「なんでこう、みんなはてブ数やらPV数やらにこだわるんだろうなぁ」と。

1userは「一人の人間がブックマークしてくれた」ということを示すだけで、その人がどれだけの思いで記事を読んでくれたかは全くわからない

いやまぁ、気持ちは分からないこともないんですよ。やっぱ人間、数字が伸びていくのを見るのは面白いし、自分が書いた記事を読んでくれた人がリロードするごとに、目に見えて増えていっているのが分かるのはやはり嬉しい。
でもね、じゃあそれを追い求めて、とにかくブクマユーザー数を増やすことを目的に記事を書くっていう風には、僕は思えないんですよ。なぜかといえば、はてブ数っていうのは結局一人の人間が僕の記事をブックマークしてくれたっていう意味でしかなくて、そこでそのブクマにどんな思いが込められたのかっていうのは、コメントがない限りわからないからです。もしかしたら僕の文章を読んで深く心動かされたからブックマークしてくれたのかもしれないけど、でも逆に言えば、別にそれほど心動かされなくてなんとなくブクマしただけかもしれないし、もっとひどかったらあとで読もうとしてブックマークしたけれど、結局読んではくれなかった人なのかもしれない。
PV数も同じです。まぁ、アクセス解析とか導入すれば、滞在時間とかも分かって、そこで記事をきちんと読んでくれたかも分かるかもしれないけど、でも結局分かるのはそこまでで、読んでいる人が一体どれだけの思いを、僕の文章を読むことによって得たのかとか、そんなことは結局分からない。1000人とかの人に読まれたとしても、もしかしたらその誰も僕の記事を読んで何も思わなかった、なんてこともあるかもしれないのです。

コメントや言及の内容こそが気になる

だから、僕が重視するのははてブ数やPVよりも、ブクマコメントや中身のある言及がどれだけ多く寄せられたか、そして、そのコメントや言及がどれだけ「熱い」ものなのか、だったりします。コメントを寄せてくれるってことは、僕の文章を読んで、そこで何か思ってくれたからこそコメントしているということだろうし、そして更にそのコメントを読めば、一体僕の文章がどれだけその人の心を揺り動かせたのかということも、ある程度分かります。
もちろんその中にはポジティブなものもあればネガティブなものもあります。「この記事にはまさしく私が心のなかで思っていたけれど言葉にできなかったことが書いてある。ありがとう!」みたいな絶賛もあれば、「この記事を書いた馬鹿は何も分かってない!?頭に脳みそ入ってないんじゃねーか?」みたいなきつい罵倒まで、評価はさまざまです。もちろん書いた個人としては、当たり前ですけど罵倒より絶賛の方がずーーーーーっと嬉しいですし、熱い絶賛コメントがきた時はほんと小躍りしながらその後の時間を過ごせる一方で、罵倒されたらホント頭に血が登って「お前こそ馬鹿だ!お前のような奴が居るから僕はこの世界に絶望しているんだよ!」と心の中で逆切れします。
ただ、例え罵倒だとしても、その文章を書いたことによってその人の心を幾ばくか動かすことが出来たなら、何にも人の心を動かせないような文章を書いてしまうよりはマシでないかと、そうも思うわけです。

自分が数を追い求めているのか、「人の心を動かすこと」を求めているのか、はっきり自覚しておいたほうがいいんじゃないか

もちろんこれはあくまで僕の考えです。世の中にはそんな「どれだけ人の心を動かせたか」なんて測りようのないものよりも、きちんと計測できるブクマ数やPV数こそが重要なんだと思う人もいるだろうし、そしてそういう人が多いからこそ「はてブ数をいかに増やすか」とか「PV数をいかに増やすか」みたいな議論をする人も多いのでしょう。
でも、中には「1000人の読者になんとなく読まれるよりも、1人の読者の心に突き刺さる記事が書きたい」と願っている人もいるんじゃないかなぁと思うわけで、もしそういう風な願いを持っているにもかかわらず、PV数やらはてブ数やらを増やすことを目的にしなきゃブログはだめなんだと、思い込んでいるならば、僕はそうじゃないと言いたいし、別にはてブ数やPVを増やすことを狙うんじゃなくて、少数でもいいから、自分のブログを熱心に読んでくれる人を獲得したいと思うことだって、立派なブログの目標の一つだと、言いたいわけです。

人の心を動かす文章って、どうやって書けるんだろう。

そして、どちらの目標を選択するかによって、そのためにやるべきことや、努力の方向性も、まったく異なってくると思うんですよね。
ただブクマ数やPV数を多く稼ぎたいなら、流行りの話題に言及するとか、釣りっぽいことやネタっぽいことを書いて炎上を狙ったり、耳障りの良いレトリックを磨くというのは良いのかもしれません。そしてそういうことをするためには、アンテナを高く張って情報収集したり、他のブロガーと仲良くして、相互に言及しあうといったことも、重要な努力の一つだと思います。
ただそれって、あくまで「多くの人の話題になる文章」を書く技術であって、「人の心を大きく動かせる文章」ではないんじゃないかと、僕は思うわけです。流行りの話題に言及すれば、確かに多くの人がその文章を読んでくれるわけですが、しかしその文章を読んだ人がその文章に心動かされるかどうかは、その文章のテーマが流行りの話題であることとは、全く関係ないように思うのです。
じゃあどうすれば「人の心を大きく動かせる文章」を書けるのか。その方法は!……僕にもよくわかりません。
ただひとつ思うのは、「自分の中で強い『思い』を持てなきゃ、他人の心に強い『思い』を持たせることなんでてきないんじゃないか」ということです。だから、とにかく沢山本を読んだり、映画・ドラマ・バラエティ・そしてアニメといった映像を見たり、ゲームをプレイしたりして、何か自分の中で何か強く感想を抱けるものを探したり、日常の中にも自分が何か違和感といった、普通と違う特別な感情を抱けるものがないかを探したりすること。そして、何か自分の中で思いができたら、自分の中でその思いを突き詰め、より強度のある、鋭い思いへと変化させていくこと、そういったことが重要なんじゃないかと、思ったりします。
もちろん、そんなことは僕が言わなくても殆どの人が分かっていることでしょう。ただ、昨今のブログに関する議論を読んでいると、どうもこういう「人の心を動かす文章を書く方法」ではない、「多くの人の注目を集める文章を書く方法」ばっかりが議論されている気がして、今述べたような(少なくとも僕にとっての)良い文章を書くにあたっての根本的な作業がおろそかにされてしまっている気が、するのです。

劇場版まどか☆マギカ叛逆の物語、今すぐ見に行きなさい!

劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語、見てきました。

一言で言います。テレビ版まどか☆マギカを見た人間は、テレビ版見た時にどんな感想を抱いたとしても、絶対見に行きなさい。ここには、「あなたの望むもの」があります。

……最初はほんと、こんな文章書く気なんてさらさらなかったんですよ。元々テレビ版まどか☆マギカが大嫌いで、もう本当に気が狂ったかのようにずーっとまどか☆マギカの批判記事を書いて(12345)、今回だってホント如何に貶してやろうかとか、そんなことばっかり考えていたんですから。虚淵とか新房とかほんともうさっさと死ねばいいと、そればかり思っていたんですから。

しかしね、負けました。もうぐうの音もないぐらいの完敗です。映画を見ている時間中、僕の視線は画面に釘付けだったんです。そして楽しみ、悲しみ、そして唖然とし、心の底から「素晴らしい物語を見た!」と叫びたくなる、そんな気持ちになってしまったんです。

そして、この映画を見ようとしている人に忠告します。絶対ネタバレは見ずに、さっさと見に行ったほうがいいです!僕は、先程も述べたとおり、貶すつもりで見に行くつもりでしたから、事前にネタバレも多少読んで見に行ってしまったのですが……本当に、自分はなんと馬鹿なことをしてしまったのかと!ネタバレ見て、事前に防御姿勢がとれていたにも関わらず、それを突き抜けて衝撃を与えてくる力が、この物語にはあります。しかし、だからこそ僕は今ものすごく後悔しているんです。ネタバレを見ないで、防御姿勢なんか取らずにこの映画を見に行っていたら、本当にすごい衝撃を受けて、今僕に沸き起こっている感情が何十倍にもなっていたに違いないのに!と。だから、今この記事を読んでいる人は、ネットでネタバレを見てしまう前に今すぐ家を飛び出して1000円~1800円持って映画館に直行しなさい!もちろん、既にネタバレを見てしまった人もです!あなたが読んだそのしょーもないネタバレ文字列なんか吹き飛ばすような衝撃が、この映画にはあるんです!

ただ、それがどんな衝撃かははっきりとは言えません。いや、ものすごく語りたくて仕方ないんですよ。この映画を見た人は、絶対この映画について、自分の今まで見てきたアニメについての記憶とかを総動員して、自分がいったい何を見たのか、そして、自分たちが一体何を望んできたのか、考えたくなるはずです。ただ、それを公開の場で語るのは、もうちょっとだけ、待ちましょう。そして、時が来たら、思う存分語りましょう!

しかし、やっぱりちょっとだけ語りたいので、映画の内容には一切触れない。自分語りを少しします。これは、あくまで自分語りですので、映画を見る前の人はもちろん、見た後に読んだ人でも、この文章と映画の何の関係があるか、分からない人には分からないでしょう。今回の自分語りと映画に、僕の中でどんな関係があるかについては、数週間後くらいにガッツリネタバレする批評記事を書いて、明らかにしたいと思います。だから、それまでには、絶対に見に行けよ!。

自分語り

「世の中みんな狂ってる」って、中学生の頃からずっと思って、生きてきました。

笑顔を見せながら労働に励む大人たち、本当は、労働なんて辛くて厳しいもの、笑顔で出来るわけないのに、「お客様に奉仕することが私の喜びです!」みたいなことを満面の笑顔で言う。それを彼らが本気で言っているのか、それとも口先だけのことなのかは知らないけど、でも、口先だけのことだとしても、そんなことを(口先だけでも)言うよう強制されるような環境に居続けられるなんて、狂っていると思うし、もし本心からそういうことを言っているなら、ただただ狂っている。
そして、そんな大人たちで構成されている、この社会。これだけモノが溢れきって、もうそんなに人々を追い詰めて何かを生み出す必要なんて全然ないはずなのに、ひたすらに人々を追いつけて、生産性とか成長とか、そんなものを追い求め続ける。そういうものを追い求めて、人は幸せになったのかといえば、そんなことは全然ない。「明日幸せになるために今頑張るんだ」とは言うけれど、その明日なんて、全然こない。

そんな現実がいやになって、アニメとかマンガとかを見たり読んだりしてみる。そこでは、女の子たちが、この現実の絶望とは全く関係ない所で、楽しく遊んだりおしゃべりしたり、ああこれだ、これだと思う。これこそが、「人間」の真にあるべき姿なんだと、そんなことを思って、安心する。
でも、そんな世界にも、嫌な大人たちがやってきて、こんな嫌なことを言って世界を破壊しようとする。「そんなのはリアリティがない。現実には嫌なことだってたくさんあるんだから、それに耐えなきゃ」、「そんなんじゃゼロ年代は生き残れないよ。きちんと決断して、サバイブしていかないと」、「卵の殻を破らなきゃ」と。

そんな言葉になんとか抵抗しようとして、馬鹿な頭を駆使してなんとか、これこそが人間のまともな姿なんだ、君たちが住むその残酷な現実世界こそおかしいんだと、言おうとする。

でも、そもそも「まとも」ってなんだ?

この世の中でまともな、読むべきされている本を沢山読んでも、「働いたら負け」「成長なんてしなくていい」なんてことは書いていない。むしろ、世の中でまともとされている道徳はみんな、「働こう働こう!生きている意味を知るだろう」と、某アイドルグループの曲ばりに言ってくるし、「精神的に向上心のないものはばかだ。」とも言ってくる。

じゃあ、本なんてやっぱりまともなことは書いてないから、科学に頼ろう! と思う。でも結果は同じ。個体とか遺伝子とかっていうのは、みんな自分の分身を未来に残そうとするものなんだそうで、そういうことをしないような生き物は「まともじゃない」、そんなことを言う。

本も科学もどっちも頼れない?じゃあ多数決で決めてみよう。この曲がりなりにもみんな社会人として頑張ってる現実の世界と、ほとんど女の子ばっか登場しなくて、彼女らが一体どうやって今後生きていくかとか全然わからない、アニメのゆるふわ(笑)空間、どっちがまともだと思いますか?

……はい論破。まともじゃないのはどう考えても僕たちの方です。本当にありがとうございました。

じゃあ僕も大人になって、まともに生きようか。大丈夫、別に「まともじゃないアニメ」を見てたって、きちんと社会人の義務さえ果たしていればまともでいられるし。画面の向こう側の女の子の笑顔を思い出しながらなら、この辛い現実だって、生きていけるさ!







本当にそれで、納得したの?

はてなダイアリーの方のブログをインポートしました。

2つのブログを管理しておくのが面倒くさくなったので、はてなダイアリーの方で書いていた「斜め上から目線」のデータををはてなブログの方のブログにインポートしました。ついでにブログタイトルも「あままこのブログ」に変えました。
ま、リダイレクトしてくれるんで特に読者様がすることはないとおもいますが。いちおうご報告です。

リアルでの「会話」って不便だ

人と話すのが苦手だ。
その理由は色々あって、中にはもちろん僕がそもそも人嫌い・コミュニケーション嫌いなのかもしれないという理由や、話すことに対する経験値が少ないという理由もあるのだが、「会話」という情報伝達手段そのものに、欠陥*1があるのではないかと、最近考えることがある。
一体どういう部分を欠陥と感じるか。少し整理してみた。

  1. ハイパーリンクが貼れない
  2. 簡単に引用ができない
  3. ログが残らない

それぞれ説明していく。

1.ハイパーリンクが貼れない

例えば、自分は知らないが、その場に居る他の人は知らない、あるニュースについて話そうとする。
そういうとき、インターネット上であったら、まず新聞やネットニュースの記事にハイパーリンクを貼れば、そのニュースの内容や、第三者がそのニュースの裏付けをとっていることが簡単に把握できる。つまり
船橋市、ふなっしーに感謝状贈呈へ…公認はしませんが:朝日新聞デジタル
のようにハイパーリンクを貼れば、簡単にその会話に参加するすべての人がそのニュースが実際にどんな内容であったのか参照できるのだ*2
ところが、リアルの会話ではこのようなハイパーリンクを貼ることができない。そのため、例えば上記のニュースに対して語ろうとすると、全く何の裏付けもなく、あやふやな「そのニュースを読んだ時の自分の記憶」に頼って話をしなければならなくなる。つまり、上記のニュースの例を挙げるならば、「ふなっしーっていう、船橋市のゆるキャラがさ、なんか船橋市から感謝状だか公認状だか?をもらったりしたんだって。」というようなあやふやな言葉を、とりあえず真実とした上で話が進んでいくのだ。ところが上記の言葉では、ふなっしーが、実際は公認されていないのに公認されたことになってしまっている。これは、記憶というもののあやふやさによるものだが、もし会話においてハイパーリンクを貼ることができれば容易に回避できる問題である。
ところが実際は会話においてハイパーリンクを貼ることができない。そこからはデマなども当然発生する。また、「周りのオタクが間違った知識にもとづいて会話をしていてイライラした」とか、あるいはその反対に「ドヤ顔で他人に知識を自慢していたら、あとからその知識が間違いだったことをネットで知って赤っ恥をかいた」というようなことも生じうるのである。
このような会話というものの問題を自覚しているならば、誰かの評価を損ねたりするおそれがあるようなセンシティブな情報は、会話ではあまり伝達されなくなるだろう。間違った情報によって誰かの評価を損ねるというのは、特に避けるべき出来事だからだ。しかしそれにより会話によって伝達される情報というのはどんどん制限されていき、端的に言えば「つまらなく」なっていくのである。

2.簡単に引用ができない

インターネット上の文書においては、引用というのはとても簡単だ。例えば上記のニュースなど、下記のように引用すれば、そのニュースにおいてどんなことが伝えられていたかを、簡単に伝達することが出来る。

船橋市、ふなっしーに感謝状贈呈へ…公認はしませんが

 シャープな動きと奇声で、全国的な人気がある船橋市の非公認キャラ「ふなっしー」に、近く同市から感謝状が贈られることになった。松戸徹市長が24日の記者会見で「市を全国にPRしたお礼を表したい」と語った。

ところが、これをリアルでの会話において伝達しようとすると、とても大変だ。まず、上記の文章を実際に目につく場所に保存しておくか、自分の記憶として覚えなければならないし、そして更にその文章を実際に言葉として発話しなければならない。これは、手間も時間もかかるし、非効率的だ。
そこで会話においては引用ではなく「要約」の方がより多く活躍することになる。しかしそれによって、前節で示したように情報は改ざんされてしまうし、重要な情報が抜け落ちもする。
もちろん実際には、引用やハイパーリンクが容易に利用できるインターネット上でも、それを利用せずに適当な情報を垂れ流す人間も居る。だがそれは利用できる便利な機能を敢えて利用しない、本人の落ち度であるということができる。しかし会話においては、そもそも引用やハイパーリンクが利用できないために、構造として適当な情報が生み出されやすいのである。

3.ログが残らない

インターネット上において情報伝達のログを残し、簡単に参照できるようにすることは、本人がそれを望みさえすれば簡単である。例えばこういうプログやホームページでの情報伝達ならば、「検索」機能を用いればどういう情報を過去に自分が伝達していたか簡単に把握できる。私的な会話であっても、インスタントメッセンジャーやtwitterダイレクトメッセージなどではログは逐一保存されるから、誰にどんな情報を伝達していたかは簡単に把握することが出来る。
しかしリアルの会話においては、このようなログを残そうとすると、いちいちボイスレコーダを起動させなければならない。しかしポイスレコーダーには情報が音声で保存されてしまうから、それを検索可能にするには自分でいちいち文字起こししなくてはならないし、また、「その時点での会話では、一体誰と話していたか」などのメタ情報も、自分で一々記録しておかなければならないのである。よって殆どの人はこのような不便な行為はせず、リアルの会話においてログは残らない。
しかしログが残らないために、人は一体誰とどんな情報をやりとりていたか容易に間違えるのである。そのため「その話何度も聞いたよ……」というような、同じ話を話し手が何回も繰り返してしまうことも起きてしまうし、「言った」「言わない」の水掛け論も容易に発生してしまうのである。

一番の問題は、このような欠陥が欠陥であると認知されないこと

以上が、僕が考えるリアルでの会話の3つの欠陥である。
もちろん、工夫すればこのような欠陥をある程度避けることはできる。例えば、インターネットに常時接続しているタブレット端末を常に持ち歩き、会話の時は常にそのソースとなる情報をタブレットに表示させ、それを示しながら会話する、というような方法である。だがすべての人がこのような方法を用いて会話をしてくれるわけではない(そうしてくれるととてもありがたいのだが)。多くの人は、そもそも自分が自容器で示したような欠陥に気づいていないか、それを大したことのないことであると思っているようで、手元にその情報のソースを表示できる情報機器があるにもかかわらず、自身のあやふやな記憶に基づいてあやふやな話を進めていく。
だが実際は、そういうあやふやな記憶に基づく会話から、デマや根拠のない憎悪感情やコンフリクトといった、この世の中の問題の殆どが発生するのではないだろうか。
そういうようなことを考えると。どんどんリアルでの会話が嫌になっていくのである。

*1:あるいは僕にとってネガティブと感じられる特性

*2:このニュースを選んだ理由は、ただ「朝日新聞のトップページを見に行った時に一番最初に目についた記事だから」で、他意はないです