あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

カミュ、実存主義、ゼロ年代、サルトル、「引き受けること」

タイトルはてきとー。まぁ、一種の釣りと考えればよろしい。こんな高尚なことをテーマにした文章が書けるほど僕は頭良くありません。
はてな
なるほどなー。何であそこまでエロゲ肯定派が、エロゲが差別的かどうかと言うことについて「対話することすら」拒否しているかっつーと、それは要するに彼らが、エロゲを「実存」を賭けるものとして捉えてるからなんですなー。
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現代の若者が「実存主義に走ってる」っつーたのは、北田暁大だっただろうか。*1
嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
僕なんかはどーも年の割におっさんくさい人間だから、実存主義っつーとまずはサルトルを思い浮かべちゃう*2んだけど、この本で言う実存主義っていうのはサルトルとかのいう実存主義とはあんまり関係ないのかな。サルトルの「サ」の字も書いてなかったし。「実存主義」なんつーから、なんかサルトル研究の人とかが触れるかなーとか思ってたけど触れないし(まぁ、日本じゃもうサルトルなんて流行ってないのかもしんないけどねー)。
で、それはともかくとして、この本でいう「実存主義」っつーのは、別にサルトルの様に地球の裏で起きている戦争のことまでアンカージュマンして、共産主義体制を肯定するような(w)左巻きの若者が増えてるんだよ!っていう警告ではない。そうでなく、ここでいう「実存」というのは、よーするに「自分が純粋に思っていること(心性)」なのだ。これに対応する概念としては、「構造」、「構築」などが挙げられるかな。要するに「構造主義」、「構築主義」に対抗するものとしての「実存主義」だ。
なんで対抗せにゃあならんのか。そもそも構造主義構築主義ってどんな考えかっつーと、「全てのものは社会的に構築されうる」っていう考え方なんだよね。あなたが好きなものも嫌いなものも、今やっている行為も、そして生きていること自体も、全ては社会がそう仕向けているからそうなっているんだと主張するものなのだ。そしてそこから、フェミニズムの「個人的なことは社会的なこと」とかいうテーゼも出されてきた。「私的なものは私的なんだから個々人が何とかすべきことで、社会が口出すことじゃない」っていう考え方によって、自分が抑圧されていることを社会的に無視されてきた人々にとって、これはまさしく福音だったんだろーな。
でも、光があれば闇もあるわけで、それまで社会で「私的なこと」に公的な視点が取り入れられるっていうのは、確かにそれによって抑圧されてきた人にとってはうれしいこと。でも、抑圧されてきた人が居るって言うことは、一方で、その人々を抑圧することによって利益を得ていた人々が居る訳です。
いや、こうやって属人的な議論にしちゃうと語弊を招くな。正しくは、「どんな人の心の中にも、ある事柄を『私的なこと』とし、社会から遠ざけることによって、守られてきた、そんな部分があった」と言った方が正しいですな。
しかし、構造主義はそんなものもどんどん、「社会的なもの」であるということをバラしてしまうわけです。自分を隅々まで分析して、「これはこの社会的なものに属する。あれはあの社会的なものに……」とやっていっちゃう。でも、ふと気づいたとき、じゃあ、社会的なものではない「自分固有のもの」って一体何なのさ?って、思っちゃうわけ。そうすると怖くなっちゃう。そして怖くなった末に、思考を停止させて、「自分固有のものは自分固有のものなんだよ!他人が口出しすんじゃねー!」って閉じこもっちゃう。そして、同じ様な実存の「ノリ」を持つ者同士で集まって、どんちゃん騒ぐけど、「ノリ」が違う人とはコミュニケーションは全然しない。そんな風な態度のことを、「実存主義的である」と述べているわけだ。
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これが、本当にこれまでの哲学で言うところの「実存主義」と同じなのか、っていうのは僕はわかんない。
ただ、カミュとかが言う「不条理文学」とかいうのは確かにそういう今時の若者的な意味での「実存主義的」かもしんないなー、と思ったりもする。
だってさ、「不条理文学」ってまさに「他人から理解されることを拒んで、自分(たち)だけに分かるノリで書くもの」な訳じゃん。例えば人を殺したときに、プロレタリア文学ならば「長年の搾取の恨みに耐えかねて」とか言って、階級闘争的な社会的文脈に位置づけそしてその延長線上に社会派ミステリーなんかがあるし、別のジャンルで言えば、私小説ならば「その人の支配から脱し、自己を確立するため」みたいに近代的な自我の成立っていう所に繋がってくる。
でも、不条理文学はそういうものを拒否するわけだ。「太陽が眩しかったから」みたいなことを言って、とにかく社会的文脈に載せられることを拒否するわけ。つーか、そういうことをする文学の名前が「不条理文学」なんだけど。
でもさー、一言言っておくと、それは社会的文脈には乗ってないかもしれないけど、でも多くの人の「共感」には乗ってるよね。いや、一応小説の中じゃ「誰にも理解されない」ってなってるけど、でも本当にそうなら、そもそも歴史に残らないでしょ。誰からも無視されてさ。小説の中じゃ「誰にも理解されない」って言ってるけど、実際はみんなが「分かる分かるー」って言われてるわけ。なんかこれって、「私って普通じゃないってよく言われるんだー」「あー私もー」みたいな、うすら寒い不思議少女気取りのなれ合いに見えてすんげー気持ち悪いんだけど、これって僕だけの感覚なのかなぁ。
まぁ、これは僕が「理解できないけどなんか共感できるー」的な感想を言う奴が虫酸が走るほど嫌いだからなのかもしれないけどねー。そして、それに安住する「文学」とやらにもさ。
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で、まぁ僕の好き嫌いはさておき、カミュはそんな訳で「実存主義」的だったわけですが、そんなカミュと一時期一緒だったんだけど、やがて論争を繰り広げることになる人がいたりいます。上記にも出てきたサルトルです。
といっても、僕はこの論争についてせいぜいwikipediaによって知った知識ぐらいしかないわけで、(サルトルの本だって読んだのは『実存主義とは何か』と『嘔吐』ぐらいだし)まぁ「共産主義は非人間的だっていった開明的なカミュが、頭の凝り固まったサルトルにぼろくそに言われた」ぐらいの知識しかないわけです。
ですが、そんな論争のことを一旦おいといて、カミュとサルトルを比較してみると、「これは相容れないだろうな」なんてことも思ったりするわけです。
サルトルも一応、というかやっぱり僕にとっては彼こそが「実存主義者」なんですが、ただ一方で、これは僕の解釈なんですが、僕が思うサルトルならば、今の様な「純粋な心性」という意味での実存を「実存」とは、絶対呼ばないんじゃないかなと思ったりするわけです。
何故か?結局それは、今社会に表出し、そして現実の人々の関わりの中で承認されている、そんな「純粋な心性」だからです。むしろサルトル的に言うならば、「自分は純粋に○○と思っている」というのは、実存ではなくむしろ本質ではないかと思ったりするんですね。
サルトルにとって「実存」とは何だったのか。これは、本気で理解しようとするならあの分厚くて難解な『存在と無』とかを読まなきゃならないんでしょうが、そんなのを読める訳がないので、『嘔吐』の中で出てくるものを読むと、それは「マロニエの木の根っこ」なんですね。そしてそれを見て、主人公は嘔吐してしまう。つまり、実存っていうのは、そもそもその本人にとっても気持ち悪いものなんです。それは、現実生活の中では表には出てこないけれど、ふとした時に不意に出てきて、人々の心に食らいついてくる、そんなものなわけです。
それに対して「太陽が眩しかったから」はどうか。これは、確かに周囲にとっては不可解な、もしかしたら吐き気を催すものかも知れませんが、本人にとってはそれは安心するものであり、それに寄っかかっているが故に、「殺人」という事実そのものに向き合わなくて済む、そんな魔法の道具なわけです。これは正に、人を安心させるものとしての「本質」といえるでしょう。「主人公の殺人」の本質として、「太陽が眩しかったから」という説明がなされるわけです。そして、それは本質だからこそ、あそこまで「共感」を得、人々に認められるわけです。
しかし、それが「実存」と呼べるか?そう言うには、僕は「太陽が眩しかったから」というのは余りに言語的に明快で、心地よすぎる様に思えるんですね。
じゃあ、「実存」とはいったいどのように表現されうるか?そこで、アンカージュマンという概念が出てくるのではないかなと、僕は思います。つまり、実存とは現実社会には現存しない。もしそれが表されるとしたら、それは未来に対する行為としてしか現れないのではないかと、そう思うわけなんですね。だから、サルトルは「アンカージュせよ」、つまり「(未来を)引き受けろ」と述べるわけです。それは、現在の「私」にとっては心地よくなく、むしろ不快なものかも知れない。それを選ばなければいけないというのは、確かにある種の「罪」であるかもしれないわけです。しかしそこで、「現在の私はこうだから未来の私はこうだ」と判断停止することは、「自由の罪」からの逃走なのではないかと、思ったりするわけです。
だから、僕の解釈では、サルトルの考えにおいては、「罪」は「心性」に優越されるものなんですな。
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そして、その解釈から、サルトルカミュ論争を考えてみる。
カミュが守ろうとしたもの、それは「現在の私たち」なのでしょう。そしてそれ故に、現在の私たちを少しでも脅かすような「革命」は許容できなかった。しかしサルトルは、未来の世界にを引き受けることに「実存」を見出した。とするならば、現在の私たちを免罪符にして、未来を引き受ける「革命」を拒否するということは、やはりサルトル的には、許されることではなかったのでしょうか。
そこで、サルトルが未来の形として「共産主義」しか見出せなかったこと、それは批判されるべきことかも知れません。が、しかし現在の私たちの心性のみを尊重するのではなく、未来の世界を引き受けるという考え方は、むしろこのカギ括弧付きの「実存主義」が流行ってるいまだからこそ、参照されるべきなんじゃないかなーって、思ったりします。

*1:あ、言っておきますけど僕がここで要約っぽく書いていることは実際は全然要約になっていませんから。どんなことが"本当に"書いてあるかを知りたいならちゃっちゃと本屋で買うなり図書館で借りるなりして読んじゃいましょう。そんなに厚い本でもないし、内容も面白くてどんどん読み進められるし。

*2:かといって別にサルトルを深く読んでる訳じゃ決して無いからね!