あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「〇〇は嫌い」という感情自体はしょうがないものなんじゃないか

先日、なぜかまたオンライン飲み会にご招待いただきました。

で、そこではエロティシズムは虚構に根ざすものなのか現実に根ざすものなのかとか、「あえての露悪主義」があえてを外して全面化してしまったのが現代ではないかとか、そもそも現代において虚構は可能なのかとか(これについては以前noteで記事を書きました)、インターネットで議論を戦わせることの意義と限界点とか、色々な話をしました。

ただ、正直一番覚えてるのは、「ある声優とある声優が反りがあわなくて不仲らしい」という声優ゴシップで、他の人はあんま興味がなさそうにしてたにも関わらず、とても面白いのでずっと話を聞いていました。ああ、ほんと、自分って俗物だなぁ。

もちろん、噂は噂ですから、それが事実かは知りません。おそらく、なんとなく合わないということを、針小棒大に取り上げて、不仲説まで言ってるのかなぁと思うのですが、しかしそれでも、反りが合わない人って声優にも存在するんだな。なるほど、そういうバックグラウンドの違いから反りが合わなくなるんだなという話は、いわゆる文化資本階級意識の話とかにも繋がる話だなと個人的に思ったりして、面白かったです。

で、なんでそんなゴシップを聞いて面白かったという話をしているかといえば、まあ、あれです。某元im@s声優の、いわゆる「Twitter破壊」配信のことです。

なんかSNS上では蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまっているみたいで、もちろん、昔演じていたキャラをコスプレするのって権利的にはどうなのとか、あるいは明言しないまでもある人が役柄と引き換えに性行為を強要したと言うけど、それって本当なのかとか、そういうことは、たしかに議論を呼んでしょうがないと思います。

ただ、嫌だなと思うのが、そういう話まではいかない、例えば昔〇〇という声優と共演してたけど仲が悪かったとか、〇〇という声優は感じが悪かったとか、その程度の話に過剰に反応して、「中の人は夢を壊さないでください」とか言って、その配信をした声優をバッシングしてるような人が、なんかSNS上に多い、ということです。

このバッシングについての、僕の意見は、端的に言えばこうです。

「君等がどういう夢を声優に抱こうと勝手だけど、それは君等が勝手に抱いた夢なんだから、それが否定されたからと言って、声優を批判するのは、おかしくない?」と。

そりゃ仲悪い人だっているよ、声優だってにんげんだもの

もちろん、多くの声優は普通「誰とも仲良しです」という建前を貫きます。公の場で「〇〇は嫌い」なんて公言するリスクを取る声優は、そりゃほとんどいないでしょう。

でも、当たり前ですが、たくさんの、声優なんて特殊な職業を選ぶような人と付き合ってれば、その中で一人や二人、嫌いだったり反りが合わなかったりすることは当然あるはずなんです。僕だって、学校や職場で一緒にいたひとの中には、数人ぐらい「あいつだけは絶対許せない」と嫌っている人間がいますから。誰だってそうでしょう?逆に、なかったらそれはそれで気持ちが悪いです。

そして、今回の場合は、おそらく配信をした方の様々な事情とかも重なって、その「嫌い」という感情を心のうちに秘めておくことができなくなったわけです。

ここで重要なのが、誰かが誰かを嫌いになったり、反りがあわなかったりするとき、必ずしも「どっちかが(あるいは両方が)悪い」ということではないということです。そりゃ、嫌いという感情を抱く当人にとっては、それは完璧に相手が悪いことなのかもしれませんが、第三者からみると、相手に悪意が必ずしもあったわけではなく、ただ双方のコミュニケーションプロトコルが異なるだけだったりするんですね。

例えば僕は舌打ちやため息が本当に苦手で、自分がいるときにそれをされると「あ、自分のこと嫌いなんだな」と思ってしまうのですが、どうやら世の中には何の意味もなくただ癖でため息や舌打ちをする人もいるみたいで、そこに悪意はなかったりするみたいなんです(ということを、頭ではわかっていても実際に舌打ちやため息を聞くとイラッとしてしまうというのも、また厄介なところなんですが)。

逆に僕は人の話を聞くとき、自分がもうその人が話すことを理解できたと思うと、まどろっこしくなって相手の話を遮って自分の返答を話し始めてしまうのですが、これはほとんどの人にとっては「自分の話を真剣に聞いてくれていない」という風に捉えられるみたいなんですね。僕自身は、相手の言葉を真摯に受け止め、早く返答したいと思うからこそ、話を遮ってしまうのですが、インターネットではまさにそういう態度が「マンスプレイニング」として非難されていて、なかなか難しい。

ことほど左様に、人はそれぞれのコミュニケーション・プロトコルが異なるだけで、相手に対して嫌な感じを抱くものなんです。だから、実は個々人が誰それを好き嫌いというのは、実はその人自身が望んで行う好悪によるものよりも、その人の所属している階級や文化の違いに起因するものの方がずっと多いんじゃないかと、僕なんかは思っています。

だから、ある人に嫌いな人がいること、それ自体は当然のことで、別にその人が悪いからじゃないのです。

ところが、多くの人はなぜか嫌いな人がいることを、その人自身が悪いから発生する、いけないことだと捉えていて、嫌いな感情を持つこと自体を否定しようとします。そしてそのような観点からは「嫌いな人・ものを言う」ということは、ただでさえ持ってはいけない感情を、しかも口に出したということで、叩かれて当然ということになるのです。

しかし、ある人が嫌いであるという感情は、たとえどんなに清い心を持っても抑えることができるものではないと、僕は考えます。そしてその観点から言うと、嫌いということを表明することを過剰にバッシングする人は、むしろそれによって、「嫌いな人を嫌いと言ったら叩かれた。嫌いな人が悪いのに!」と、その人の嫌いという感情と正邪の観点を結びつけ、感情をより高ぶらせてしまっているのではないかと、思うのです。

「〇〇は嫌い」という感情、それ自体は別に否定しなくていい。むしろ重要なのは、そこで「〇〇は嫌い」という感情を認める一方で、でも第三者としてはそこでどっちが悪いかとかを安易に断罪しないことです。

「なるほど、この人は〇〇が嫌いなんだな。それはまあしょうがないか。でも、第三者である僕らには、どっちが悪いとかわかんないよな」という態度こそ、今回のような騒動では重要なのではないかと、僕は考えるのです。