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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ラブライブ!サンシャイン第一期最終回をあえて擁護する

アニメ アイドル ラブライブ!サンシャイン

いやー、ひどかったですね第一期最終回(笑)。
一応補足しておくと、それまでのラブライブ!サンシャインは個人的に百点満点中120点ぐらい大好きで、聖地巡礼にも行ってのっぽパン買ってきたし、CDも揃えちゃうぐらいです。好きなキャラは善子ヨハネです。ってそれはどうでもいいか。
で、まあそんな僕だけど、最終回は正直……特になんか劇が始まった時点から( ゚д゚)という感じでした。
で、なんでこうなっちゃったかなー、これで最終回が良ければ絶賛だったろうに、掲示板とか荒れちゃうだろうなーとか思ってたんですが、冷静になって考えてみて、まあ最終回がああなっても仕方なかったのかな……と思う理由を、3つほどこじつけた考えてみました。
その3つはこれです。

  1. 最終回でコケるのが名作の条件
  2. 同じ学校の生徒たちを巻きこむ
  3. ハマっているファンを現実に帰還させる

それぞれについて解説していきます。

1.最終回でコケるのが名作の条件

これについては僕がグダグダ言うより、吼えろペン8巻を引用したほうが分かりやすいので引用します。

f:id:amamako:20160925001811j:plain
まあ、そういうことです。それに最終回あたりでは、色々抱えてた問題も解決して、特にやらなきゃならないこともなかったんだし、いいじゃないですか。これが1話とか重要な回でやられたら目も当てられないですよ。うん。

2.同じ学校の生徒たちを巻きこむ

最終回を見ていた人なら分かると思いますが、最終回では9人だけではなく、学校のクラスメートみんなが集まって、Aqoursに参加したいと言う、そんな展開がありました。
そういう展開があること自体は良いんですよ。ていうかそれ自体は感動的じゃないですか。沼津の学校みんなが一丸となってAqoursを応援してくれる、そんな熱い展開なんですから。一貫して「地域の絆」がテーマであったラブライブ!サンシャインにふさわしい展開です。
ただ……沼津の学校のみんなは、Aqoursを応援してくれるけど、それまでAqoursがどんな体験をしてきたかとかは全然知らないわけですよ。
そこにあの寸劇がくる、それによって沼津の学校みんなが、Aqoursがどんな体験をしてきたか追体験し、経験を共有することによって、真に一体感を感じることができるようになるんです。だから、あの寸劇に物語上の必然性はあったんです。
……でもまぁ、そのAqoursがどんな体験をしてきたか既に重々承知の、私たち視聴者にとって、退屈以外の何物でもないということは、変わらないんですけどね。

3.ハマっているファンを現実に帰還させる

でもまあそれで良かったと思うんですよ。
もしこれが最終回もこれまでと変わらず傑作だったらどうしますか。のめり込みすぎてもう他のアニメなんか見られなくなっちゃいますよ。毎週土曜日には「今日はラブライブ!サンシャインの日だー」と幻覚を覚えるようになり、沼津から帰ってこれなくなっちゃいます。
でも、こうやって最終回で盛り下がることによって、私たちは現実に戻ってきて、「さーて来期のアニメは何見ようかな」とか考えることが出来るんです。これはむしろ温情というべきでしょう。

まとめ

色々グダグダ言ってきましたが、言いたいことはこれです。
「第一期最終回が嫌いでも、ラブライブ!サンシャインのことは嫌いにならないでね」と。
何度も言いますが、最終回以前のラブライブ!サンシャインはほんと素晴らしかったんですよ。少女たちの絆、地域の絆がよく描かれ、些細な事から始まるすれ違いや、それを乗り越えていく過程は繊細だけど力強いものだったし、特に善子ヨハネの回なんかは、思春期のちょっと変わった女の子の内面がかわいく描かれていて、本当にいいんですよ。
だから、そんな素晴らしい物語を12話も堪能したんだから、最後ちょっとぐらいコケたって、まあいいじゃないですか。かならず来るであろう、二期に期待しましょう。





でもまあ、二期で同じようなことやったら流石に擁護しきれませんけどね。

「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか

先日、こういうtwitterまとめをtogetterで作成しました。
togetter.com
上記のまとめには賛否両論様々な意見が寄せられていて、そのどれも真剣に考えなきゃいけないなと思ってるところです。
ただ、その一方で、小説家の山本弘氏がした発言が、僕にはどうしても納得行かないものでした。
その内容はこちらです。
山本弘 on Twitter: "あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、..「『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか」 https://t.co/NPrOtylQoJ"

あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、すごく危ない思想だと思うぞ。

『聲の形』という物語が実際にそういう物語構造なのかは、まとめを読めば分かる通り諸説あることなのでとりあえずおいておきます。
この発言に対する僕の疑問はこうです。
いじめ被害者が、例え更生し、十分に反省したとはいえ、いじめ加害者のことを「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、「危ない思想」として否定されなきゃならないことなんだろうか?

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。
当たり前のことですが、一口に「いじめ」と言っても、その内容はそれぞれのいじめによって大きく異なり、そしてそれによって被害者が受けた苦痛も、大きく異なっています。
そんな中で、自分がいじめ加害者を許せるからって、他のいじめ被害者にも、「俺のように、きちんと反省して更生したいじめ加害者は許してやりなさい」と、許しを強要することは、すごく暴力的なことではないでしょうか。
むしろ僕はこう考えます。「いじめ加害者を許すか許さないか、それを決められるのは、そのいじめを受けた被害者本人であり、加害者や第三者はあくまでその意思を尊重すべきではないか」と。
こう考える理由は2つあります。
一つは、まず何より、いじめにおいて悪いのは加害者であり、それによって尊厳を傷つけられたのは被害者なのだから、被害者の意思こそが優先されるべきではないかという理由。
そして二つ目に、いじめという暴力は、まず何より被害者から、自分の状況に対するコントロール権限を奪うものであり、そのような状態を回復するには、「許しを与える」という行為に対するコントロール権限が被害者のものであるということを、大前提として確認しなければならないのではないか、という理由です。
それに対して「いじめ加害者への許しを強要する」ということは、まず第一に、被害者にも譲歩すべき点があるというメッセージにより、加害者が悪いという大前提を崩しますし、第二に、結局誰かを許す/許さないという自己決定すら、その状況に委ねるという点で、被害者から自己決定権を奪った、いじめという状況の再生産に他ならないんじゃないかと、僕は考えるのです。

ここで少し自分の話をしましょう。
自分もまた、かつていじめ被害者でした。ただ、そのいじめがどんなものであったかは断片的にしか覚えていません。それはおそらく、僕が「許し」でも「憎み続ける」でもなく、「忘却」を選択したからでしょう。いじめのトラウマをいつまでも抱いて、それに囚われるよりは、忘れてしまっていたほうが、何よりも楽ですから。
しかしこれは、いじめ加害者を「許す」ということとは大きく異なります。もしいじめ加害者が、忘れている今頃やってきて、「昔のことだし俺も反省してるから許してくれや」とか言われても、何言ってやがるとしか思わないです
ただ、だからといっていじめ加害者自身に復讐しようとは思いません。それよりも、いじめという状況を生み出す現在の教育、特に学級制度(クラス制度)を憎みます。いじめが起きたら、速やかに加害者を「犯罪者」として処罰すること。また、いじめを生み出す温床となる、同質的コミュニケーションを強要する、現行の学級制度(クラス制度)を解体し、現在の学級が、授業の時にだけ集まって、それ以外の生活面に侵食してこないような制度に改革するということ。この二点こそが重要だと考えるのです。
なお、学級制度の解体についてより詳しく知りたい人は、下記リンク等を是非参照してください。
学校からクラスを撤廃せよ
matome.naver.jp
togetter.com
ただ、ここは重要なので何度も繰り返しますが、僕がいじめという経験を経て、教育制度の改革という方向を指向しているからといって、全てのいじめ被害者に、いじめ加害者を憎むのではなく、その背後のシステムこそを憎めとは、決して強制したくないのです。システムなんかどうでもいい。俺はいじめ加害者が憎いんだという、そういう声も含めて、全てのいじめ被害者の声がきちんと受け止められる、それこそが、いじめにNOと言う社会の大前提となると考えるのです。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

「『許し』を与えるかどうかは、あくまで被害者が決めることで、加害者が許しを強要するようなことがあってはならない」というのは、戦争責任論、特に日本の戦争における加害責任においても、重要な考え方だと思っています。

お手頃に承認欲求が満たされる時代

かつて、「承認欲求をいかに満たすか」みたいなことが、ブロゴスフィアで盛んに議論されていた時代があったわけだけれど、
昨今はむしろ「勝手に満たされてしまう承認欲求にいかに甘えないようにするか」が、問題なんではないだろうかとか、思ったり。
例えば、twitterやらfacebookとかで何か、世の中では賛否両論あるようなことをつぶやいたとする。
で、ある程度のフォロワー数がいれば、その中にはいつもふぁぼなりRTなりいいねなりをしてくれるありがたい人っていうのがいるわけで、でまあそういう時、だいたいそういう人はふぁぼとかしてくれるわけだ。
で、そのふぁぼとかを見て、人は―というか自分の場合は―まあ気分よくなって、「ああやっぱ自分の意見に賛同してくれる人っているんだな」と、承認欲求を満たされるわけだ。
ほんと、お手頃に承認欲求が満たされる時代になったよなぁと思うわけですよ。
いやもちろん、検索して探そうと思えば、そのようなポジティブな反応ではないネガティブな反応っていうのも見つかります。でも、まーある程度ネットで発言するのになれちゃった人って、そういうネガティブな反応は受け流して、ポジティブな反応により多く反応するような心的機制が身についちゃってるもんでしょう。もちろん倫理的にはネガティブな意見こそ真剣に拝聴すべきものなんだけど、でもそんなこといちいちやってたら早々心が折れちゃうわけで、良くも悪くもそういう心的機制は、たとえ倫理に反しても、身についちゃうものなんじゃないかなぁ。
というか、個人の視点に立てば、そういう自分のメンタルを防御する試みってのは、そんなに悪いものではないと思うのよ。ネット上での発言を生業にしたりする特殊な人なら違うかもしれないけど、多くの個人は別にネットにそこまで人生かけてないわけで、余暇としてやる分には、そりゃあメンタルにいいやり方でネットライフを楽しんだ方がいいに決まってる。
で、さらに言えば、そうやって似たような意見を持つもの同士が寄り集まって相互承認するようにすれば、マイノリティな意見を持つ人たちでも安定的に意見を発することができて、結果としてインターネット全体に流通する意見が多様化するわけで、実は大局的に見ても、こういうお手軽に承認欲求が満たされてしまうシステムは、そんなに悪くはないとも思うわけですよ。
でも、やっぱりなんかこう、「それで本当にいいのか」とも思うわけで。
僕の持つ意見、それに対して違う意見を持つ人がいる。だったら、いったいどっちの意見が正しいのか、本気で、言葉を拳にして、殴り合わなきゃいけないんじゃないか。そしていったいどっちが正しいのか、きっちりと決着をつけないといけないんじゃないかと、思うわけです。そしてそのためには、ポジティブな反応なんかより、むしろネガティブな反応にこそしっかり向き合い、それと対決しなきゃならないんではないかと。
でも、そう思いつつも、やっぱりお手軽に承認欲求が満たされる、SNSでのポジティブな反応集めから逃れられない自分がいて。
「そんなんじゃだめだ、もっと生きるか死ぬかの戦場で戦わなきゃ」と思う自分と、「もうそんなのいいじゃん、ぬるく生きようよ」と思ってしまう自分。二つの自分の間で葛藤に悩む、そんな今日この頃なんです。

シン・ゴジラという「癒やし」の物語

映画 日本論 3.11 流行の話題でアクセス数稼ぎ

今週のお題「映画の夏」
というわけで、どうやら最近はてな界隈ではシン・ゴジラの記事を書くとアクセスが集められるそうなので、アクセス数に囚われたものとしては是非記事を書かねばなーと思い、映画を見てきた。
最初に言っておくと、僕はこの映画、あんまり面白いと感じなかった人間である。まあ理由は単純に、官僚組織とか建造物・重機とか特撮とかといった、この映画が用意した萌えポイントが、ことごとく僕にはヒットしなかったということである。逆に言えば、こういったものが萌えポイントの人は、見に行って存分に萌えればよろしい。以上。エチケットペーパー敷き終了。
だが一方で、そういう個々の萌えポイントとは別に、物語構造として、そーいうのが今の日本人は好みなんですねーと思う点があった。それは、
「組織への信仰」
である。

ゴジラ」v.s.「官僚機構」?

この映画、登場人物は一応色々いるのだが、そのどれもが類型的な範疇をでることがない。政治家・官僚は出世欲は持つけど真面目、科学者はコミュニケーション能力に難のある天才、外人(あえて「外国人」ではなく)は高飛車。誰もが登場した時点で予想される型どおりの行動をする、
まー、もともとこの映画の総監督庵野秀明は人間が描けないことで有名なので、個性的で予想を裏切るようなキャラクター造形など期待もしていなかったので、それはそれでいい。
問題は、キャラクターが類型的な行動をしない以上、一体何が物語を動かす役を務めるかという点だ。
もちろんその一つは「ゴジラ」である。だが、ゴジラがただ暴れるだけの映画では、せいぜい短編作品にしかなりえない。ゴジラに対抗する役、この作品でそれは政府、それも「官僚機構」ということになる。つまりこの作品の主役とは、「ゴジラ」と「官僚機構」なのだ(ここまでは、映画を見た人なら誰しもが同意してくれるだろう)。
もちろん、実際怪獣が現れたら、政府という「官僚機構」が相手になるのがリアリティある表現だろうから、それ自体は何の問題もない。問題なのは、そこで「官僚機構」があくまでも正しい行動を取ろうとする存在であるということだ。
もちろん劇中でも官僚機構が間違える場面はある。だが、その間違いはあくまで官僚機構の力不足によるものであるとされ、官僚機構自体の善性は決して疑われない。ゴジラ」は人々を襲う悪い怪獣、「官僚機構」は人々を守る良い怪獣というわけだ。
これはあまりにナイーブすぎる考えではないだろうか?様々な清濁を飲み込んだ上、それでも逡巡の先で、「官僚機構」の善性を信じるというのなら、(僕の思想とは異なるが)まだ納得できる。例えば、よくこの映画と似ていると評される*1踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』という作品では、そのあたりの逡巡が作品のメインテーマとして描かれていて、僕は結構好きな作品だ。

だが、『シン・ゴジラ』という作品においてはそのような逡巡は全く見られず、一貫して「官僚機構」は善良で、疑われることのない絶対不可侵な存在として扱われる。これは一体なぜか?「作品のメインテーマではないから」というのも答えの一つだろう。では、仮にそうだとして、ではなぜ多くの『シン・ゴジラ』を絶賛する観客は、この点に違和感を感じないのか。
それは、多くの人が、この映画を3.11以降の「癒やし」の物語として、受容したからではないだろうかと、僕は考える。

「学園エヴァ」としての「シン・ゴジラ

「癒やし」とは、一見すると怪獣映画とは最も程遠いキーワードに見える。だが、それを言うならこの映画を絶賛する人々の口上こそ、「元気をもらった」、「前向きな気持になった」というような、怪獣映画を見た人々の感想とは思えないものばかりだ。
なぜ人々は『シン・ゴジラ』を見てそのような感想を抱くのか。それは、3.11以降、人々が不安に思う現実それぞれに対し、そのような不安が存在しない、「こうありたかった3.11以降の日本」を幻視させるからなのだ。
官僚機構はあくまで優秀で、その中にいる個々人は公益のためにしっかり働いて、決して悪いことを考えない。放射線は短期間で消えてしまう。いざとなったら国民は(一部のデモやっているような非国民を除いて)一致団結する……そういった、多くの国民が「こうありたかった」と願うような、3.11以降の日本を幻視させて「癒やし」を与える、そのためには官僚機構ははなから善性のものでなくてはならなかったのである。
いうなればこの映画は、庵野秀明フィルモグラフィーでいう「学園エヴァ」のようなものなのだ。「こうなってほしかったエヴァ」を充足するものとして「学園エヴァ」が提示されたように、「こうなってほしかった3.11」として、『シン・ゴジラ』が存在する。ただ、「学園エヴァ」においてはあった、そのような「癒やし」を求める主体の欲望に対する批評的目線は、今回の作品においてはもはや存在しない。

「癒やし」ではなく、現実と立ち向かったアメリカ

このようのことを書くと決まってこういう反論が来る。「映画なんて所詮エンターテイメントなんだから、楽しいことだけ描いて何が悪いのさ」と。
もちろんエンターテイメント作品なんだから、楽しくなければそもそも見てもらえない。だが、楽しさの中にだって、「癒やし」とは全く違う「楽しさ」だってあるんじゃないだろうかと、ぼくは思うのだ。
そのいい例が、映画『キャプテン・アメリカ』、それも特に2作目『ウィンター・ソルジャー』と

と、3作目「シビル・ウォー」だ。
キャプテン・アメリカ」は、それこそ日本のゴジラに匹敵するような、アメリカのサブカルチャーの原初にあるキャラクターだ。当然、それを現代において再始動させるなら、9.11以降の混迷するアメリカにおいて、悪を討ち善を助け、人々に「こうでありたかったアメリカ」を見せる、単純明快な勧善懲悪ヒーローにもできただろう。なにしろ国名を名前に持つヒーローなのだから。
だが、映画『キャプテン・アメリカ』の、特に現代を舞台にした2作目と3作目は、単純な勧善懲悪物語とは全く異なる、むしろ現代のアメリカが抱える問題と正面から向き合う、そんな作品だ。一応敵キャラは登場するのだが、むしろそれよりも、自分たちが属する組織の闇との対決を迫られる、キャプテン・アメリカはそんななかで、「組織に属する中で正義は一体どうすれば成し遂げられるか」といった問いを、エンターテイメントの中で、視聴者に突きつけてくる。
もしかしたそこにはアメリカと日本の国民性の違いもあるのかもしれない。まず最初に自立した個人が存在し、その個人が集まってある目的のために組織を結成するアメリカと、最初に組織ありき、むしろ組織を作ること自体が目的化する日本。
だが、例えいま日本がそうであったとしても、変わることは可能だろう。というか、たとえそれがどんなに「癒やし」とは程遠くても、変わることが、3.11以降の日本においては、絶対必要なのではないか。それこそが、真の意味で、「日本に勇気を与える」ことではないのか。
というわけで、この映画の夏、あままこのブログでは、『キャプテン・アメリカ』を見ることを、是非、おすすめします!(アレ?)

*1:僕からするとぜんぜん違うのだけれど