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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

『大砲とスタンプ』の好きなキャラ・嫌いなキャラとか

なんか前回の記事
amamako.hateblo.jp
書き上げた後になって、「いやこんなこと書きたかったわけではないのになー」と思ったので、素直に書きたかったことを箇条書きメソッドで書いてみる

  • ガブリエラ・ラドワンスカ大佐はカッコイイよねほんと。有能すぎて鼻にかかるという人も居るかもしれないけど。
  • 大公軍側ではマンチコフ軍曹が好き。特に「ドンゾコ自由国」でのはしゃぎっぷりがもう愛おしくて。
    • というか「ドンゾコ自由国」編全体が好きなんだよね。人工国家ものって大好きだし。なんか祝祭感があるというか。
  • 逆に嫌いなキャラはスィナンだねぇ。
    • 人によってはああいうピカレスクで、どっちの陣営にも属さないニヒリスティックなキャラが好きなのかもしれないんだけど。どーも僕はそういうキャラ苦手だ。
  • そういえば、「イデオロギーに殉じる」ってタイプのキャラがほとんどいないよね。きちんと描かれてるキャラの中では囚人船のリーザンカぐらい?
    • リーザンカはぜひ再登場してほしいよね。
  • 「ドンゾコ自由国」編以外で特に好きなエピソードは、従軍記者編かなー。プロパガンダ戦の話とか好きなもんで
    • イヤなやつっぽくされたラジオ・メガフォンの記者だけど、僕はこういう敵キャラがいても良いんじゃないかと思ったので、死んじゃったのはもったいない
    • プロパガンダ戦の話は兵站の話からはズレちゃうんだろうけど、「戦線の後方の戦場」というテーマとは合ってると思うんで、もっと扱ってほしい

『大砲とスタンプ』を読んで―「戦争」のもう一つの姿

大砲とスタンプ』というマンガを読みました。

今(2017/01/15)だと1巻目がkindleで99円だったので、「それなら買って読んでみるか」と思って買ったのですが、これがもう面白くて一気に6巻まで一気読みしてしまいました。
このマンガは、ある戦争中の国において、前線の兵站、つまり武器・弾薬ですとか、それ以外にも食料・嗜好品・衣服といった、軍隊に必要なあらゆるものの補給を担当する「兵站軍」という軍隊の下士官が主人公として活躍するマンガです。
で、このマンガの何が面白いか。キャラクターたちそれぞれの個性や、登場する珍妙な兵器も大きな魅力の1つなんですが、やはり一番の魅力は、「兵站軍」という舞台設定の妙じゃないかと、僕は考えるんですね。
兵站軍という立ち位置から物語を描くことによって、この漫画は、他の戦争マンガとは一味違う視点から「戦争」を描いているのです。直接敵と殺し合いをする一兵卒の戦場から見たものでも、あるいは、どこの地域を獲得した・喪失したという、遠くの司令部の高所から見たものではない、ちょうど真ん中から見ている戦争マンガというのは、少なくとも僕はあまり知りません。
そしてこの『大砲とスタンプ』というマンガは、間近の下からでも、遠くの上からでもない、ちょうど真ん中の視点から戦争を描いているからこそ、戦争―特に近代以降のいわゆる「総力戦」―というものの重要な一側面を描いているのです。悲惨な殺し合いという側面、あるいは、領土や資源を取り合うゲームとしての側面ではない、近代における「戦争」を、描いているのです。
近代より昔、戦争というものは、あくまで一部の人達が、一部の場所で行う、限定的なものでした。もちろんその中でも悲惨な殺し合いはありましたし、戦場になってしまった場所では、破壊と搾取が行われていたわけですが、あくまでそれは限定的なもので、国家や世界全体を覆い尽くすようなものではなかったのです。
しかし近代以降、戦争は大きく変わります。国家が常備軍を持ち、徴兵制が整備されることによって、戦争は、その戦争に参加する国民すべてが関与するものとなり、飛行機などの輸送技術の進歩により、戦場の最前線ではない場所でも、兵器や軍隊に必要な物資の製造が行われるようになり、そしてそれゆえに、戦略兵器やゲリラ戦といった、戦線の後方でも、殺戮や破壊が行われるようになっていったのです。近代戦において兵站が特に重要視されるようになったのは、まさにこのような戦争の本質の変化にあります。その本質の変化は、一言で言うなら「戦争の生活空間への侵食」と言えるでしょう。
大砲とスタンプ』という作品において、主人公が属する兵站軍は、ごく単純に言うなら、戦線以外の場所からいかに物資を調達し、実際に戦う最前線にその物資を送るかという役割を担っています、それは、まさに上記で言う侵食の尖兵に位置するという役割と、言えるでしょう。
ただ、そこでこの作品がすごいのは、その侵食を単純に「人々の生活を踏みにじる存在」として描いていないという点です。兵站軍は、むしろ物資の調達先に対して極めて低姿勢で紳士な態度で接しています。むしろ市民の側のほうが、いかに戦争を利用してやろうかと考えているのです。
そして、そこで生活空間と戦争を結ぶ媒介物となっているものが、主人公の個性を支える重要な要素でもある官僚主義、そしてそれを支える「官僚制」なのです。
セクショナリズム・文書主義・規則の遵守、こういった官僚制の特色は従来の戦争描写ではいの一番に否定されるものです。しかしこのマンガにおいて主人公たちが属する兵站軍は、むしろその否定されがちなものがあるからこそ、横領や略奪といった不正に対抗できるのです。
大砲とスタンプ』において主人公たちがばらまく軍票は、まさにその代表例です。もし戦争が単なる野蛮な殺し合いならば、軍票なんてものは発行せず、どんどん市民から物資を略奪していけば良いのです。しかしそんなことをすれば、市民からはどんどん反発されていく。そこで軍票を与えることにより、一応の体裁を整える。そしてその体裁があるからこそ、戦争というものが、生活空間に侵食していくことが可能となるのです。
しかしここで、僕はどうしても、そのように、戦争が「官僚制」というものを媒介として生活空間に全面化していった結果生まれた最悪の帰結を思い起こさずに入られません。それは、ホロコーストであり、そしてそれを忠実に実行したアイヒマンという存在です。
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

アイヒマンはホロコーストを実際に指揮しましたが、しかしそれは決して、彼自身が特別残虐な人間だったからとか、ユダヤ人に対する強い憎しみを抱いていたから、といった理由によるものではありませんでした。そうではなく、彼は規則や命令を忠実に実行する、優秀で真面目な人間だったからこそ、上から受けた「ユダヤ人絶滅」という命令を、合理的かつ効率的に実行していったのです、そういった意味で、アイヒマンはまさに「官僚制」の申し子だったと言えるでしょう。
これは戦争という状況において、官僚制というものが生み出す最悪の帰結です。が、決して例外的なものではないでしょう。近代以降の戦争が、国家全体を巻き込むものになったことにより、戦争における「敵」というものも、敵国全体を指すものとなり、その敵を殲滅するために、戦略爆撃核兵器民族浄化といったあらゆる手段が、「戦争における勝利」という究極目的のための合理的手段として、正当化されるようになったのです。
大砲とスタンプ』の最新刊である6巻ラストでは、それまで描かれなかったような衝撃的なシーンが描かれています。詳細は、ネタバレになってしまうので書きませんが、僕の見立てでは、この展開はまさにそういった問題に切り込む描写なのだと思います。
ここから作者がどのように物語を紡ぐのか。要注目だと思います。
と、こう書いてしまうとなんかえらく真面目な話のように感じてしまうと思いますが、それはあくまでこの作品を見て僕が連想したことに過ぎません。実際はむしろギャグ・ユーモアあり、個性的なキャラクターたちの活躍ありの、肩肘張らずに楽しめる面白い作品ですので、そこは勘違いなさぬよう。

この世界の片隅に・太極旗論争のまとめ

アニメ マンガ 映画 この世界の片隅に 太平洋戦争

結構気になる論争なのでまとめてみました。

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この記事で取り扱う「この世界の片隅に・太極旗論争」とは

  1. この世界の片隅に』というマンガ、及びそのマンガを元にしたアニメ映画の終盤において描かれた、終戦後の呉市で掲げられた太極旗と、それを目にした時の主人公すずの言葉をどのように解釈するかを巡った論争。
  2. その場面を描くにあたって、原作マンガと、それを元にしたアニメ映画の間での言葉の違いについて、なぜそこの言葉・描写が異なるのか、理由・意味を巡る論争
  3. 以上の2点に関連して、『この世界の片隅に』は戦争をどのようなものとして描いているか、そこに反戦戦争責任という要素はあるのかないのかを巡る論争

新聞・ネットニュース記事

webnewtype.com

――終戦を迎えて怒り涙するすずさんの台詞が大きく変わっていました。ここまで大きく変えた理由というのは?


あのシーンは終戦を迎えた日本人がなぜ泣いたのか、こうのさんが「実は自分の感情では理解できない」って言われたことがきっかけなんです。それで実際にはどうだったのかを色々と調べてみたのですが、当時の人の日記を見てみると、本当に皆さん泣いているんですよ。それから、終戦直後に進駐軍がやってきて日本人の意識調査をやっているんですね。いろんな町でいろんな階層の人にどう思っているのかを聞いているのですが、ほとんどの人がどうも大義とか正義で負けたとは思ってなくて、単純に科学力と物量で負けたっていう悔しさがあるとしかいっていなくて……。もしそうなら、あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです。彼女の身のうちのことで、同じように悔しいという思う理由を考え出せないかと考えたんですね。


すずさん自身はお米を炊いておかずを作って……ということをずっとやってきて、そこに彼女のアイデンティティがあった訳です。ならば、ごはんのことで原作のようなことを、彼女のことを語れないかと考えたんですね。


実際、その当時の日本本土の食料自給率ってそれほど高くなくて、海外から輸入している穀物がなければやっていけなかったんですよ。そういうのがわかると、やっぱりすずさんは生活人だから、あのような反応をしたほうがいいと思ったんです。

lite-ra.com

 もちろん、原作者のこうの史代氏にしても映画の片渕須直監督にしても、徹底的に時代考証を行って作品化しており、「朝鮮進駐軍」なるトンデモ陰謀論を採用しているわけがない。
 むしろ、物語の舞台が軍港だった呉であり、そこでは大勢の朝鮮人たちが働かされていた史実を踏まえれば、作中の太極旗に込められているのは、この町で日本人と同じく在日コリアンたちが戦火に巻き込まれながら暮らしていたという事実であり、戦争によって大切なものを奪われた存在=戦争被害者としての主人公が、そのじつ大切なものを奪う側の存在でもあったことを知る場面だったのではないか。

www.sankei.com

 片渕監督は、原作通りに旗を出したが、そこに政治的な意図を込めたくなかった。そこであのようなセリフになったというのが真相のようだ。片渕監督としてはあくまでもすずを中心とした人々の暮らしを描くことが主眼で、そういった思いを超えて政治的に受け止められることを嫌ったのだろう。

twitterまとめ(togetter

togetter.com

蝮 @mamusi02 「この世界の片隅に」原作漫画 読み終わったあと純粋に無差別爆撃卑怯おのれ鬼畜米英って思えるし、太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない


mishiki@3日目東x02a @mishiki 『この世界の片隅に』は、教科書のお説教みたいな反戦イデオロギー臭さから距離を取ることにかんっぺきに成功している。反戦イデオロギーさえ打ち出してりゃ評価にブーストがかかるような時代は本当に終焉したのだ。2016年というのはそういう年なのだと思う。長かった、んだろうな。

togetter.com

noby @nob_de 『この世界の片隅に』の主人公すずを「普通」の代表として「すずさん」と読んでしまいたくなる構造には巧妙な仕掛けがある。この映画の恐ろしさは生活の連続に戦争があるだけではない。敗戦時、眼下で太極旗(朝鮮旗)が掲げられるワンカットですずが「普通」に差別構造の一員だったことが露わになる。


ITK1982 @ITK1982 『この世界の片隅に』には玉音放送の後に太極旗が掲げられる場面がある。8月15日は韓国では光復節北朝鮮では解放記念日と呼ばれ大日本帝国からの独立を祝う日とされている。あの場面、不意に「他者」の視点が差し挟まれることでふと我に返る観客も多いかもしれない。
#この世界の片隅に

togetter.com

西村飯店 @k_kinono すずさんのリアルの中で、あのシーンで日本国としての加害責任を言い出すわけがないんです。戦争を映画として描くことと戦争を客観的に裁くことは違う。雑なことを言うと、あの映画はセカイ系なんです。政治とか社会がなくて、セカイと自分の恋が直接つながってる。その世界に敵はないんです。


りょふ @ryofu1213 この世界の片隅に
に太極旗のシーンがあるのか。
原作は自虐史観なのね。
なんか観る気が削がれたな

togetter.com

司史生@がんばらない @tsukasafumio「反戦映画の押しつけがましさ」ですけど、メッセージの直截さより「泣かせ」に依りかかる傾向があるのかと。戦中の戦意高揚映画も戦後の反戦映画も、主人公や大事な人が死んじゃう悲劇が多いので、感傷的な描写は容易にその意味づけが反転しちゃうのですよね。


司史生@がんばらない @tsukasafumio「この世界の片隅に」や「野火」、それから岡本喜八監督の作品とかそうですけど「ああ戦争は悲劇ですね」だけじゃ済まない、心にずしんとくる重いものがあるのですね。

個人ブログ

d.hatena.ne.jp

だから終戦記念日玉音放送を聞いた後、主人公は慟哭する。最後の一人まで戦うのではなかったのか、納得がいかない、と。終わった終わったと周囲が口先だけでも安堵した後での言葉だ。ここで、苦しい戦時下を懸命に楽しく生きていたかに見えていた主人公こそが、激しく内面へ抑圧を受け続けていたことが明らかになる。


そして屋外へ飛び出した主人公は、遠くの屋根に太極旗がひるがえっている光景を見て、ようやく片隅で生きていた自らも他者を抑圧していたことを知る。「暴力で従えとったいうことか」「じゃけえ暴力に屈するという事かね」と吐露する主人公の台詞を、「意外だったのは、実は、日本に暮らしながらこの国を好きでない人がいる、という事」という作者の言葉に重ねることは難しくない。作者自身も、玉音放送の描写を「山場」ととらえていたという。

ichigan411.hatenablog.com

 はっきりとした論理性のある原作のセリフに比べて、映画のセリフは支離滅裂になっているという印象を持たざるを得ない。いったいどうしたことか…。(絵コンテにはこう書かれていたというだけの話なので、実際どう言っていたか、ちゃんともう一度劇場に足を運んで確かめるつもりだ。)


 この件に限らず、この作品における、「見たくないものの隠蔽」という側面から目を背けるわけにはいかないのではないかと思う。太極旗が視認できるくらいだから、すずの生活圏に朝鮮人は普通にいたわけだが、それは一切出てこない。

golconda.hatenablog.com

あらためて、なぜ「すず」は太極旗を見て泣いたのか、自分なりの考えを書きたいと思う。玉音放送の聞くシーンでは、お年寄りは「やれやれ、やっと終わった」といい、一番若いすずさんだけが憤る。子を育て終わり、最も大変な自分の社会的使命を終えつつあることを自覚する人間よりも、不具になりながらも未来に向けて挑戦し、来るべき自分の使命に生きる人間の方が、より困難な生活の予感と、これまでの努力の報われなさに、怒るのは当然ではないだろうか。そして、掲揚された太極旗を見て、自分達が食べていた外地米がこれから無くなる恐怖、そしてそれらを作っている植民地の労務者への自分たちの仕打ちと、その報いが自分たちにも返ることを想像し、今後の屈辱の予想に悲しみを感じたのではないだろうか。

blog.goo.ne.jp

原作では、
「暴力で従えとったいうことか」
「じゃけえ暴力に屈するという事かね」
という台詞があり、
理不尽な暴力に日常の力で戦ってるつもりだったすずが、
日本が負けて朝鮮人が日の丸を太極旗に描き替えて掲げ祝う光景を遠目に見て、
自らも他者を抑圧していたことを知るという重要なシーンであるのだが、
映画では、このセリフを微妙に変えてある。
「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」
と叫ぶのである。
戦時中は食糧難で、暴力で収奪した植民地の食料が、国内の食料の3~4割を占めていたらしい。
それが敗戦したことで、一気になくなり、地獄へと突き進むことになるのだ。
原作では、他者を抑圧していたことを知るのだが、
映画では、またもや被害者意識が台頭している。

はてな匿名ダイアリー

anond.hatelabo.jp

この世界の片隅に」とか
勝手に国連抜けてアメリカに奇襲仕掛けて戦争始めたのに空襲にあって大変アメリカは悪魔ですって映画ばっかりなの?
どう考えても日本の自業自得なのに被害者面する映画が反戦映画なのか?

anond.hatelabo.jp

だからさあ。なんつーか「反戦イデオロギーうぜえ。コノセカ万歳」って唱えるのはいいけどさ(個人的には名作(かもしれない)映画をそんな目線で賞めたくないけどそれは人の勝手だからまあいいけどさ)、悪いけどそれが「イデオロギーうぜえ。アート万歳」って意味で言ってるつもりなら、その「反イデオロギー」主張だって十分に偏ったイデオロギーであり、すでにあなたの頭の中で歴史のねつ造が始まってるってことは知っておいて欲しいね。少なくとも、うちのひいじーちゃんのような人の存在をなかったように得意げに話されると、ちょっとムカッとくるわ。


だいたい、宗教とかマルチにしても、ふだん「宗教/マルチなんて」って言ってる連中をはめるのが一番チョロいのなんて常識だよ。右翼でも中道でもいいけど、自分のもってるその感覚が、左翼と同じく一つの「イデオロギー」であることを十分自覚した上で、左翼を批判するなら批判してほしいやね。それができない人は、ほんと、その手の人間の手にかかればチョロく騙されるんだから。自分はイデオロギーから自由だ、とか思ってる時点ですでにあんたはイデオロギーに染まってるんだから。

anond.hatelabo.jp

映画やフィクションで反戦思想を押し出すべきではない理由 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/1048335

こんなまとめまで工作して「この世界の片隅に」は保守層のための映画だと言わんばかりですけどね。


作者のこうの史代はかつて「古い女」という短編で、まさにこういう国士様たちを思いっきりコケにしてたんですけどね。


その事実をこの人達が知ったら一気に掌返すんじゃない?w

anond.hatelabo.jp

そんなことがアメリカでトランプが登場したときに日本でどう語られたかといえば、ポリティカルコレクトネスだよ
なるほどっておもったね
こうすればいいという公式がポリティカルコレクトネスなのよね
日本の戦争映画も老人ホームも紅白も、みんなが納得するよしなにな最適解なわけで、そういった公式に対する反発がいくつも起こっているわけで
たまたまアメリカで起こったから関心高く語られてるけど、こんなことはいくつもあるよなって思う


この世界の片隅には、べつにトランプと一緒にするのは失礼な話だけど、でもようやく出てきたって感じだよね
そうだいいぞ!やってやれ!戦争映画はこうすればいいとか思ってるやつらにみせてやれ!みたいな感じはあったね

anond.hatelabo.jp

大丈夫!
最近の戦争は日本人がほとんどいないような外国に自衛隊を送り込むだけだから!
現地の人たちが虐殺されてるあいだでも俺たちの生活は変わらないよ!
映画で描かれてるような悲惨な戦争なんて今どきやらないよ!
安心してね!

anond.hatelabo.jp

あの映画を見た感想は日本が、とかそういう印象も確かにあるけどもっと違って…
日本はこの世界の片隅でしかないんだな、ということだった。
今は普通のフリして暮らしてるけど
一歩外に出たら人が爆撃で死んでて…自衛隊が戦地に居て…
充分分かってたつもりだけど分かってない
映画を見た後、それを一度体感してしまった気になっている
もう連日報道されている外の国の戦争の映像が、映画を見る前と同じ映像とは思えなくなってしまった
あそこにはたくさんの人が住んでいて、精一杯生きていて。
そういう衝撃を持っている映画だと思う

anond.hatelabo.jp

この世界の片隅に』の感想を述べている人たちは、こぞって、「反戦思想を押し出していないのがよい」という言い方をする。
そして「主人公が反戦思想を語らないのがよい」と言っている人もいた。


それで気になったんだけど、『火垂るの墓』って主人公が反戦思想を語るシーンがあった?
主人公の男子はむしろ愛国少年だった。彼は政府や軍部を批判しなかったし、日本の勝利を信じていたので、けっして反戦思想を語ったりしなかったと思う。


なので、あれが反戦映画とされるのは、「おいお前ら、この悲惨な子供たちを見たら戦争のひどさが分かるだろ!?」という理由ではないのか。
ようは受け手の解釈の問題だ。

Web系の「労働生産性」が低いのは、Web系の仕事の効率が悪いからなのか?

労働 IT 統計 流行の話題でアクセス数稼ぎ

はてブでこんな記事が話題になっていました。
getlife.hateblo.jp
この記事の主張を簡単にまとめると
SIer*1労働生産性はWeb系の労働生産性より低い。よってWeb系はSIerより労働の効率が悪く、劣っている」
というものになるでしょう。
そして、その根拠として挙げているのが、経済産業省の「平成27年度 ICT の経済分析に関する調査(http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/ict_keizai_h28.pdf)」の、労働生産性についての統計です。この統計によれば、2014年度の労働生産性は、情報サービス業で992万円なのに対し、インターネット付随サービス業は293万円と、たった3割しかない、そして、情報サービス業とはいわゆるSIerであり、インターネット付随サービス業はWEB系とみなせるから、WEB系の労働生産性SIerより低いと、そう上記のブログでは解釈しているわけです。
しかしこれには下記の2点、疑問点が提示されています。

  1. 「情報サービス業とはいわゆるSIerであり、インターネット付随サービス業はWEB系とみなせる」というのは本当か
  2. 労働生産性が低いということは、本当に労働の効率が悪く、劣っているということなのか

この内、1点目については、具体的に「情報サービス業」にどのような企業が属し、「インターネット付随サービス業」にどのような企業が属しているか定量的に調査する必要がありますが、ぶっちゃけ面倒なのでそれは他の人にまとめます。
(ただ、自分の求職経験から言うと、いわゆるWEB系と言われる企業でも求人においては「情報サービス業」として求人していたし、「インターネット付随サービス業」で求人を検索すると、携帯ショップみたいなWEB系とも言えないような企業が引っかかったりしたので、この2つのみなしはかなり怪しいなーと思ったりします。ただ、これはあくまで感覚的な話なんで、きちんと分析するにはやはり定量的調査*2が欠かせないでしょう。)
この記事で考えたいのは2点目の疑問、「労働生産性が低いということは、本当に労働の効率が悪く、劣っているということなのか?」という問いです。

そもそも労働生産性とは一体何なのか

そもそも労働生産性とは一体何なのでしょうか。厚生労働省の説明*3から引用すると労働生産性とは

労働生産性とは、従業員一人当たりの付加価値額を言い、付加価値額を従業員数で除したものです。労働の効率性を計る尺度であり、労働生産性が高い場合は、投入された労働力が効率的に利用されていると言えます。

というものだそうで、数式で表すと

労働生産性=付加価値額(人件費+支払利息等+動産・不動産賃借料+租税公課+営業純益)÷従業員数

となるそうです。
といっても、僕は数式が大の苦手でこれだけじゃチンプンカンプンなので、ちょっと例にして考えてみます。
社員数1人の、給料が全員月給25万円(年給300万円)、営業外利益が全くなしで税金支払額も全く同じの2つの企業、X社とY社があったとします。この2つの会社が同じ1年間で1つのプログラムを開発します。そしてこの2つの会社の内、X社はそのプログラムを10人に1つ100万円で売って1000万円の利益を挙げ、一方でY社は10人に1つ200万円で売って2000万円の利益を上げたとする。その時

ということになり、Y社はX社より労働生産性が高いということになります。
そして、αという業界がX社みたいな企業ばかりで構成され、βという業界がY社みたいな企業ばかりで構成されている場合、β業界はα業界がより労働生産性が高いということになります。

労働生産性は「仕事の効率」や「品質」だけでなく様々な要因で変動しうる

さて、このように算出される労働生産性ですが、この労働生産性、国別でいうと日本はOECD加盟33カ国中第22位、先進7カ国で最低となります。低いですねー。ですがこれ、労働法学者の濱口桂一郎氏によると、必ずしも「生産性が悪いから」とだけは言えないそうなんです。
eulabourlaw.cocolog-nifty.com

製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf

この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。

1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。

わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。

それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。

ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

一体どういうことか。
先程の例に再び戻りましょう。労働生産性を出す公式は以下のとおりです。

労働生産性=付加価値額(人件費+支払利息等+動産・不動産賃借料+租税公課+営業純益)÷従業員数

この内、「支払利息等+動産・不動産賃借料+租税公課」はぶっちゃけ良く分かんないので定数Aとすると以下のようになります。

労働生産性=(人件費+営業純益+A)÷従業員数

さて、これで労働生産性を上げるにはどうすればいいか。方法は定数Aに関するものを除くと次の3つでしょう。

  1. 人件費を上げる……賃金を上げる
  2. 営業純益を上げる……価格を上げる
  3. 従業員数を減らす

「賃金を上げる」とは、そのまんまの意味ですね。同じ社員数の会社が、同じソフトを同じ値段で売って同じ利益を上げていたとしても、社員の賃金が高いほうが、労働生産性は高いとされるのです。逆に言うと、低賃金でも文句を言わず働く社員が多いと、その分労働生産性は下がります。
さらに言えば、年功序列型賃金の場合、より社員が若いほど賃金も下がります。
「価格を上げる」とはつまり、開発したソフトをより高い値段で売ったほうが労働生産性は高いということです。高く売る方法はここでは問われません。ですから、優れた生産性でより高い付加価値を与えるソフトを作るというのも方法の一つですが、それだけでありません。例えば競争相手が少ない、あるいは殆ど無い分野なら、価格は高止まりしますし、逆に競争が激しい分野なら、価格はどんどん下がり、労働生産性は悪くなります。SIerとWeb系の比較で言うなら、オープン系でない汎用コンピューターで作られたシステムの維持ならその分高い値段をふっかけられますが、オープン系で作られたシステムなら競争相手が多々いるためそんなに値段はふっかけられません。*4
「従業員数を減らす」も、そのまんまの意味です。

なぜ「雇用者数の急な増加」が労働生産性を下げるのか

ちなみにこのように考えると、なぜ「雇用者数の急な増加」が労働生産性に負の効果をもたらすかも、理解できます。
まず単純に、雇用者数が増加したということは、未経験者が増加したということで、未経験者が給料の平均を押し下げれば労働生産性は悪くなります。
次に、その増加した未経験者は当然経験者より生産性が低いから、当然同じソフトでも掛かるコストは多くなってしまい、利益が減少します。さらに言えば、未経験者の場合、OJTにしろOffJTにしろ、教育コストもかかります。
そして、雇用者数が増加すれば、当然従業員数も増加します。
逆に言うなら、雇用者数が増加しないSIerは、給料が高い経験者だけになってしまっていて、全体としては維持もしくは縮小傾向であるとも言えるでしょう。*5

SIer業界の人とWeb系業界の人が噛み合わないのは、そもそも双方の議論の土台の労働倫理観が異なっているからでは

いままで述べたように、労働生産性が低いのには、様々な要因が考えられ、一概に「劣っているから」とは言えない、といえます。
これらの要因の内、一体どれが労働生産性の差の要因なのかは、より精緻な調査が必要でしょう。
最後に僕の推測を言うと、SIerとWeb系で労働生産性がここまで異なってくる理由は、第一には産業構造の差があるのでしょうが、一方で、双方の労働者における労働倫理の差も大きいのではないかと考えています。
簡単にいえば、Web系の業界に就職する人は、SIer業界に就職する人より、ハッカー倫理を自らの労働倫理とする人が多いのではないかということです。
ハッカー倫理とは、下記の本で「プロテスタンティズムの倫理」と対比させられている倫理観のことで

リナックスの革命 ― ハッカー倫理とネット社会の精神

リナックスの革命 ― ハッカー倫理とネット社会の精神

その内容は端的に言うと

  • 仕事を苦行ではなく楽しみとして捉える
  • 規則的なスケジュールではなくフレキシブルなスケジュールを好む
  • 金銭的な報酬より精神的な報酬を求める

といった内容です。一方で、「労働生産性」が良いほど労働者にとっては良い労働環境だと考えるのは、旧来のプロテスタンティズムの倫理

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

に基づく考え方であり、だからSIer業界の人とWeb系業界の人が噛み合わないのは、そもそも双方の議論の土台の労働倫理観が異なっているからではないかと、そう僕は推測するのです。
ただこれについてはもっときちんと調査・分析しなければ実証することができない、ジャストアイデアなんですがね。

*1:"SIer とは、System Integrationの略称SIに「~する人」を意味する-erをつけて「System Integrater」とした造語であり*1、エス・アイアーと読む。System Integrationとは、個別企業のために情報システムを構築することであり、戦略立案から、企画、設計、開発、運用・保全までトータルに提供するSIerもある。"via.keyword:SIer

*2:例えば求人情報から調べるとか

*3:https://www.mof.go.jp/pri/reference/ssc/keyword/keyword_04.pdf

*4:Web系から意地悪く憶測した場合の見解

*5:これもWeb系から意地悪く憶測した場合の見解