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「広告」こそが、見たくない現実を暴く力となる(LOFTバレンタイン広告について3)

amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp LOFTのバレンタイン広告について擁護の論陣を張ってきましたが、案の定ネット上では大不評です。 ですが、はっきり言うと僕はこれらの記事に批判をされればされるほど、むしろ逆に「あの広告は価値ある広告だった。撤回したのは実にもったいない」と思うようになっています。というか、最初は僕も「まあ広告だし批判を受ければ撤回するのは当然だよね」という考えの人間でしたが、今はもう「批判を受けようがあの広告は撤回すべきではなかった。広告を撤回させたネトフェミ共に、その声に安易に屈して広告を取り下げたLOFT、両方クソである」とすら思うようになっています。 なぜなら、批判をしてくる人の論調こそが、あの広告を今、「広告」として世に出すべき理由を証明しているからです。 それが一体どういうことか、批判してきたコメントに答える中で説明していきます。

「広告にアーティスティックな表現を持ち込むとか古臭い」のか?

LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「80年代広告のアーティスティックな表現」(筆者談)なるものの絶望的な古くささに、80年代から30年もたっているのに気づけない感性ってやばくね?まだこういう楽屋オチみたいなもんで笑えるの?

2019/02/04 23:02
b.hatena.ne.jp 最初は僕もこう思っていました。広告でアーティスティックな表現やるなんてもう古臭いと。 でも、はっきり言いましょう。今みたいな時代だからこそ、広告は「アート」であり、「問題提起」をしなければならないんだと。何故なら多くの人がフィルターバブルに引きこもり、自分に取って気持ちいい言葉しか受け入れなくなっているこの時代、「広告」こそが、その棲み分けの壁をぶち破り、人々の意識を侵襲するメディアになりうるからです。 この確信は、↓のような、「広告はターゲットに気に入らなければならない」という、甘ったれた声を見て、生まれたものです。
LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「女の子はみんな仲良し」をひっくり返したいならそれ相応の場で。バレンタイン(近年は特に自分・友チョコメインの行事)の広告だよ?お前友チョコ買ってるけど実はそいつの事ほんのり嫌いだろ?って言われるとさぁ

2019/02/04 14:39
b.hatena.ne.jp
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

「ネトフェミのせい」にして楽に炎上狙い?アーティスト活動は自由にやればよいが、広告に使ったことでターゲットができて、そのターゲットが気に入らんと言うから下げただけ。単なる商業活動では。

2019/02/04 22:57
b.hatena.ne.jp こういう考え方を下敷きにして、金田氏のように、「ハッピーになれる表現だけ求めて何が悪い!」みたいな開き直りが生まれるのでしょう。 ですが、当たり前のことですが、自分がハッピーになれる、心地よい甘言だけを聞いて生きていくことは、いけないことです。そうやってフィルターバブルの中に閉じこもり、自分と同じ考えの者同士で傷をなめあっているうちに、考え方はどんどん過激かつ狭量なものになっていくからです。 しかし現代においては、あまりに簡単にそうして「フィルターバブルへの閉じこもり」が可能になってしまいます。よく今回の広告について「アートとしてやれば許された。広告だから許されない」と言う人がいますが、もしこれが単なるアートとして届けられるなら、こういう表現を本当に届けるべき、まさしく今回のような表現を見て怒り狂っている人たちに届けられることはなく、全く問題提起にはならなかったでしょう。それじゃ駄目なんです。 この表現は、これが「広告」として届けられたからこそ、こういう表現を嫌がる人のところまで「誤配」されていった。しかしこの「誤配」こそが、フィルターバブルをぶち破る鍵なのです。そして現代の情報社会において、このような「誤配」が可能なのは、まさしく広告の世界以外にないのです。 その代表的な例が、まさしくフェミニストたちが散々称賛していた、「ジレット」の広告です。 www.huffingtonpost.jp 「男らしさ」を疑えというような表現は、学者の議論やアートでさんざん描かれてきたことですが、しかしそのどれも、このジレットの広告のように、その表現を嫌がり、ボイコット運動まで起こすような、男らしさに囚われた男性にもとまで「誤配」されていくことはありませんでした。広告だからこそ、そういう表現を嫌がる=本当にその表現を届けるべき相手まで、届いていったのです。
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

例えばビールを男性に売りたい会社が、革靴に注いだビール飲ませてゲラゲラ笑ってる宴会の画に「男って楽しい」とコピーつけて、茶目っ気ある絆と残酷さを描くことで男の解放を表現しましたとか、言うかな。広告で。

2019/02/04 23:30
b.hatena.ne.jp こういう反論をする人がいますが、むしろ僕は、今までのフェミニズムの考え方に則って、そういう自分たちにとって気分の悪い表現でも、受け入れなければならないと言ってきているんです。そしてその立場は、変わりません。 しかし、ジレットのCMについてはさんざん「嫌な気分になろうが男どもはその表現に真剣に向き合え」といってきたフェミニストたちが、今回の広告の話になるところっと立場を変え、「広告はターゲットを不快にしてはいけない。ハッピーなものであるのが当たり前でしょ?」とのたまう。はっきり言いましょう。ダブルスタンダードにも程があります。 では今回の広告が、示そうとした「向き合わなければならないもの」とはなにか。それは、「絆・連帯というもののは時に抑圧的に働くことがある」という事実です。

「僕たち/私たちみんな仲良しだよね」の裏にある地獄を直視しろ

例えば、今回の広告に対しては、twitterでこんな反論がよくされていました。

ここでは、例えば女子校でいじめられて最悪の学校生活を送ったり、いじめられなくても同調圧力で自分の個性を押し殺したりするような体験をした人の視線は全くありません。まるであたかも同性同士でつるめばそういうことはなくなるかのように、「理想の女同士の絆」というファンタジーが描かれるわけです。 しかし、もちろん本当はそうではありません。女子校だろうが男子校だろうが共学だろうが、「みんな仲良しのスクールライフ」の背後にあるのは、壮絶な空気の読み合いと、そしてそこに適合できなかったはぐれものに対する容赦ない排除です。まあ、その中で強者としてスクールカーストの上位に君臨すれば、それこそ「みんな仲良しのスクールライフ素晴らしい!」みたいなことが言えるんでしょうが、そういうことが言えるのは、そのスクールカーストの下で悲惨な目に合う弱者を犠牲にしているからです。 今回の広告が嫌われるのは、まさにその弱者を踏み台にして気づきあげてきた、虚構の「みんな仲良しのスクールライフ」が、虚構であることを暴くものだったからと言えるでしょう。 しかし、僕は思うのです。そのように、一見理想郷のように見える社会が、むしろ何かを犠牲にしてできたものであると告発するのは、むしろ今までフェミニズムが率先してやってきたことじゃないかと。 例えば、今回の広告についてある漫画家はこのようなことを言っています。 要するにこの漫画家さんの脳内では、家族の絆は家族の絆として描くのが正しい広告の有り様で、そこで露悪的な表現をしてはならないとなっているわけです。 しかし、フェミニズムっていうのは本来、むしろそういう「家族の絆」みたいな美辞麗句が、いかに女性たちを犠牲にしてなりたっているか、ということを暴露してきた側なはずなわけで、本来のフェミニズムでは、そういう家族の絆を露悪的に描くことのほうが素晴らしくて、家族の絆という美辞麗句をそのまま受け入れることは、むしろ家父長制を擁護するものとして批判の対象になってきたはずなのです。 所が現代のネット上では、そういう「絆」を美しく描くことがフェミニズム的であり、絆の嘘を暴くようなことは反フェミニズム的だとされる。 これって、明らかに転倒してるんじゃないかと、僕には思えてならないのです。 まあこれは、僕が古いフェミニズム観なだけなのかもしれませんが、しかしその古いフェミニズム観からすると、絆という美辞麗句の虚構を暴く竹井千佳氏の表現のほうが、脳天気に「女子校は素晴らしい空間でした」とのたまい、絆の素晴らしさを謳うネトフェミたちより、よっぽどフェミニズム的であると、そう思えてなりません。