あままこのブログ

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「俺TUEEE」が若者たちに嫌われる理由

id:lastline氏のこんな論考が、はてなで話題になっています。
「俺TUEEE」の発生と変遷過程 - 最終防衛ライン3
内容を要約すると

  • 「俺TUEEE」はもともと、ネットゲームにおいて、課金等をして強くなり、その強さを見せびらかすようなユーザーを揶揄したものだった
  • だがやがて、その言葉がWeb小説やライトノベルに対して使われるようになり、その過程で「俺」が何を示すかは曖昧になっていった

という分析を、一次資料から行ったものです。
この分析自体は僕も納得いくものなんですけど、一方でそれを踏まえてのこの主張には、納得がいかなかったりします。

「俺TUEEE」における意味の変遷は、「俺」の意味するところがはっきりしないためだろう。「俺」の視点が定まらないため、広まる過程で意味が曖昧になっていったと考えられる。
言葉のイメージが曖昧であるため、拡散される過程で意味がきちんと伝わらないのは「俺TUEEE」に限らずよくあることだ。
(略)
「俺TUEEE」の変遷を追ってきたが、広まる過程で意味が変化している。特に「俺」の指すところが変わっており、本来はプレイヤーであったのが、読者や作者、そして物語の主人公をも意味するようになっている。
意味が非常に曖昧な言葉で、使用者自身も定義をはっきりさせずに感覚で使っていることがしばし見られる。批評などで使うべきではないだろう。

というのも、「むしろそういう、曖昧な使い勝手の悪い言葉にもかかわらず、人々の間で広く使われるというところに、この概念の面白みはあるんじゃないか」と、僕は考えるからです。

「TUEEE=強さ」だって曖昧だ

さらに言っちゃえば、id:lastline氏は「俺」という言葉の意味の曖昧さのみを問題にしているけど、「TUEEE」の部分、「強さ」だって、曖昧なものなわけじゃないですか。
id:lastline氏の論考においては、「俺TUEEE」という言葉は「他者の反応」が必要不可欠であると述べ、そのような点から「俺TUEEE」と揶揄される作品の具体例として、『魔法科高校の劣等生』を挙げています。

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

オンラインゲームにおける「俺TUEEE」の用法では「他者の反応」が不可欠である。 「俺TUEEE」とされる物語において、主人公は自己顕示欲のために「俺TUEEE」しているわけではない。物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠だ。「俺TUEEE」な物語では、主人公に対する他者の評価が過剰となりがちで、一方的な展開になることがしばしある。本来は「主人公TUEEE」であるが、物語において一人称の「俺」は主人公を意味し、「主人公TUEEE」な作品は、主人公が「俺TUEEE」をしているかのように見えてしまう。
2014年にアニメ化された魔法科高校の劣等生は、過剰なまでに主人公を持ち上げた「俺TUEEE」作品と認識される傾向にある。劣等生と冠されているものの、主人公には万能感がつきまとう。アニメにおいては主人公にまつわる説明や描写が不足しているため、自己顕示欲がないはずの感情の無い主人公が「俺TUEEE」しているかのように見えがちである。正確には「流石お兄様」に代表されるように「お兄様TUEEE」作品なのだろうが。また、あまりにも一方的過ぎる展開は、不快感を伴うこともある。

上記の様に、「物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠」とid:lastline氏は述べるけど、物語において強さを表す手法はそれだけじゃないわけですよ。
例えば、よくバトル漫画などでは、強さを数値化したものが用いられます。有名なのは『ドラゴンボール』の戦闘力や、ワンピースの懸賞金でしょう。
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これらの数値は、確かに(上記の画像)のように、「他者の反応」として示されることもあるのでしょうが、それ自体は他者の反応ではなく、元からある「その世界での客観的な強さ」です。ですから、例えばいかにも弱っちいキャラクターが出てきて、物語に登場するキャラクターみんな弱いと思っていたら、実はとんでもない戦闘力や高額懸賞金のキャラクターで驚く、みたいな展開もあるわけです。
また、「(物語の中では語られないけど)設定として強い」というケースもあります。例えば『機動戦士ガンダム』においては、ザクは、それまでの戦車といった兵器よりは強く、ガンダムよりは弱いわけですが、これはもう、他者の反応も何も、そういう設定があるから、「強い」わけです。
更には、物語の都合上の強さというものも存在します。『機動戦士ガンダム00』という作品において、パトリック・コーラサワーというキャラクターがいます。
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このキャラクターは、何回も死ぬような目にあっても生き残ることから、「不死身のコーラサワー」と呼ばれたりするわけですが、ではなんでそんなに生き残るかといえば、これはもう(理屈をつけようと思えばつけられますが、ぶっちゃけると)「作品の都合」としか言いようが無いわけです。また同じように、ギャグ漫画ではいくら死ぬような目にあっても次の瞬間にはケロッとしているようなキャラクターがよくいます(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉とか)が、これも「作品の都合」としか言いようがないでしょう。
このように、

  1. 作品内のキャラクターの反応
  2. 作品内での客観的数値
  3. 作品設定での強さ設定
  4. 作品外での作者による介入

と、単純にキャラクターの強さを表す要素と言っても、多種多様な要素があるわけです。
逆に言うと、ある作品について、「これって『俺TUEEE』じゃん」と批判されるのは、このように様々な「強さ」のレイヤーがあるのに、そのどれもが不自然に「主人公が一番」であると統一されちゃってる点じゃないかと思うわけです。

キャラクタースリーブコレクション 逆境無頼カイジ 「限定ジャンケン:パー」

キャラクタースリーブコレクション 逆境無頼カイジ 「限定ジャンケン:パー」

「じゃんけん」を例に出して考えてみましょう。「グー」「チョキ」「パー」はそれぞれ勝てる相手と負ける相手が異なる≒強さの基準が1つではなく、複数の基準があるから、一応ゲームとして面白さがあるわけですが、ここに「グー」「チョキ」「パー」全てに対して勝てる第四の手が登場したら、当然みんなそれを使いますから、遊んでいる人も見ている人も面白く無いですよね。それと同じようなことが、「俺TUEEE」作品に対しては言えると思うんです。

能力主義」の登場が、「俺TUEEE」批判をより激しくしているのでは

そして更に言うなら、そのような「強さのレイヤーが一定である」というのは、若年層をとりまく社会のモデルからもかけ離れていってるというのも、「俺TUEEE」作品が、特に現代において好まれなくなるようになった要因ではないかと思うわけです。
今までの社会においては、年功序列・学歴主義というのが、大きな柱にありました。つまり「学歴が高く、年齢が上であるほど偉い」というのが、社会の大前提にあったわけです。
ところがバブル崩壊以降、「能力主義」「業績主義」といったものがより重要視されるようになり、「仕事を達成する専門的能力」とか「あるコミュニティでやっていけるコミュニケーション能力」とかといったものが、より、重要視されるようになってきたわけです。
そして、後者の方の「専門性」「コミュニケーション能力」というのは、極めて多用な種類があるわけです。専門性は、もちろん多種多様な専門分野がありますし、コミュニケーション能力にしても、「中小企業の工場でのコミュニケーション能力」と「国際的大企業のオフィスでのコミュニケーション能力」では、求められるコミュニケーション能力がだいぶ異なってくるわけです*1
このように、状況・場所によって日々異なる「強さ」がある社会を生き抜いている若年層にとっては、たった1つの「強さ」さえ身についていればずっと安泰である風に見える、「俺TUEEE」作品の主人公は、それこそゲームで例えるなら「イージーモードでいきがってる小僧」にしか見えないわけで、嘲笑の的になっても仕方がないと、なるわけなのです。
逆に言うと、「強さ」を規定するレイヤーが複数あり、あるレイヤーでは絶対強者でも、別のレイヤーでは弱者でしかない、という構造の作品は、いくら主人公が、あるレイヤーで強くても、「俺TUEEE」とは呼ばれないんじゃないかと、思ったりします*2

*1:そこのところを分かってない人が「コミュニケーション能力を伸ばせ!コミュニケーション能力はどんな職場でも役立つ技能だ!」とか言っちゃうんだよなぁ……

*2:自分の好きな作品も、そんな作品が多い気がします

「怒り」という力が失われた時

ものすごい久しぶりに書くブログ記事な気がします。皆さんお元気でしょうか。僕は色々あって元気じゃないです(てへ)。
今日の記事は完璧に自分の内面だけを吐露するような記事なんで、なにか有益な情報とか、また誰かを批判するのかとか、そういうのを期待している人は読まなくてもいいです。

「怒り」がなくなって、何のために生きればいいか分からなくなる

で、早速本題なんですが、最近の自分は、どーも「怒り」が足りないのではないかと、そう思えてならないのです。
これ、まあ普通の人にとってはいいことなんでしょうが、僕みたいに「怒る」ことが、ブログを含めた全生活を、なんとか支えていたものだったわけで、これが足りなくなると、すごい困るんです。
色々試してみました。なんとか他の、喜びみたいな感情を動機に生活できないかとか……でも、喜びって結局刹那的で、かつ孤独なものじゃないですか。何か食べて美味しかったー、アニメやゲームが面白かったーなどのように、その一時に対しては、喜びが行動の原動力になるわけですが、じゃあその為に自分の生活をきちんとしようとは思えないというか……「今が楽しければそれでいい」でズブズブと堕ちていってしまう。
怒りは違うんですよ、怒りっていうのは、尾を引くものであり、何か対象を持つものなわけで、怒りの対象をなんとか貶めてやろうという計画を練り、その為に日々の日常生活を送ろうとする。少なくとも以前の僕にとっては、そーいう怒りの感情が、ブログ執筆も含めた、日々の生活を支える原動力だったわけです。
そしてその原動力がなくなった今の僕は……結構生きること自体がきつくなっちゃうわけです。

怒らなくなったのか、怒りを表現できなくなったのか

ただ、瞬間瞬間で頭にくることは、自分だって結構あるわけです。今の日本の政治なんて頭にくることばかりだし、サブカルチャーにおいても、教養もない、うちわネタでただ楽しんで、その表現の意味を考えることすらしないような作品を見れば、頭に血が昇りますし、それに対する不満をtwitterにぶつけたりするわけです。
でもじゃあ、それが、かつての自分を支えていた「怒り」と同じものなのかを考えてみると、どーも違うような気がするんです。例えるなら、昔の怒りは、それが届いていたかどうかは疑問ですが、とにかく怒りの「対象」に向かって、拡声器で怒りの声を上げるような、そんなものだったのに対して、今のこの刹那的な感情の吹き上がりは、本当にただ刹那的に吹き上がって、壁ドンとかはするけど、すぐ収まってしまい、自分の中で解決してしまう、そんなものなのです。
だから、もしかしたら後者の刹那的な感情の吹き上がりは、前者の感情の成れの果てなのかもしれない。いずれにせよ、もはやそれらの感情の吹き上がりもまた、先ほど上げた喜びと同じように、自分の人生の目的となるようなものではなくなってしまっている。

これからどうやって生きていくか

これからどうやって生きていけばいいんだろう、そんなことをふと考えます。怒りを取り戻すべきなのか、怒りなんかに囚われないで、自分の生きる目的を探すべきなのか。
ただひとつ言えることは、今の自分は、昔の自分がまさしく嫌悪していたような、そんな人間になってしまったんだなと、いうことです。

「終わり」の時代のアイドル

https://instagram.com/p/0pj_QosWfj/
今日はこんな映画を見にきたり
というわけで、世界の終わりのいずこねこという映画を見に行ってきました。西島大介先生のマンガが結構好きだったりするので。
なんかこう、まさしく「僕たちの生きるこの世界」って感じの、そんな映画でした。

夢も希望もなくなった時代で

最近僕が聞いている曲って、アイドル曲ばっかりなんですよね。まあ、3次元のアイドルにはそんなに詳しくないので、「アイドルマスターシンデレラガールズ」の曲とか、声優アイドルの曲とか、そういうのですが。
昔は、もっとロックとかも聞いていたんですよ。頭脳警察とかブルーハーツとか。あるいはミスチルとかBUMPとかの曲とか*1。でももう最近は、なんかそういう曲が受け付けなくなって、アイドルっぽい曲しか聞けないんです。
なぜか、まあ端的に言えば「何か真剣に考えるのが辛くなって、とにかく気持ちよくなりたい」からです。アイドルの歌詞には、メッセージ性なんてあってないようなもんだし、それも当人たちは分かってる。アイドルの曲の目的って言うのは、結局「可愛い女の子を頑張ってるふうに見せる」ことと、「コールレスポンスとかで一体感を生む」、その二点だけです。
一時の高揚感があればそれでよくて、後になにか考えさせられるメッセージなんていらない、だって、どうせ何か考えたって、何かその後の人生が変わるわけでもなく、今までの人生の延長が続き、そして、終わる、ただそれだけなんですから。

絶望の中でアイドルは輝く

ただ、多くのアイドル映画はそういうアイドル曲の延長線上で、アイドルの頑張る姿とかを見せるわけですが、この映画は、むしろそういう「アイドル」を取り巻く構造を、俯瞰してくるわけです。
華やかなアイドルソングが流れ、思わず映画館でコールアンドレスポンスしたくなる映像と、ほとんどノイズ・ミュージックなBGMが流れる、学校や廃墟での映像、この両極端な2つの空間が、しかしあくまで地続きに描かれるわけです。
でもそれこそが、まさしく僕らの日常なんじゃないかなと、ふと思うのです。
日曜日はライブ会場に行ってサイリウムを振り回し、「この世界は天国だ!」なんて気分になりながら、その翌日には布団から起き上がるのすら憂鬱になり、満員電車を待つホームで、線路に飛び降りたくなる様な絶望を必死で抑えこむ、そんな毎日を送る日々。
「頑張ればいつかは報われる」「この世界は明日にはきっともっと良くなる」、そんな夢や希望なんてどこにもない現代。
そんな世界でも、というか、そんな世界「だからこそ」、アイドルは輝きを放っているのかなと、ふとそんなことを考えたりするのです。

そして「終わり」に向けて

しかし、そんな「アイドル」も、永遠のものではなく、いつかは終わりが来る。
というかこの映画自体、いずこねこというアイドルの活動が終了する最後に作られた映画だそうで、まさしくタイトル通り、この映画は「終わり」にまつわる映画なのです。
一応作品の中では「高次元の存在になる」とかいう、どっかの神様になっちゃった魔法少女みたいな説明がされますが*2、そのどっかの概念さんと違って、この作品では、主人公自体が、そんなのはインキュベータ……じゃなかったブリーダーである宇宙人のおためごかしに過ぎないとわかっています。
この作品は、「終わり」を決して美化しません。それは、映画のラストのあの「コメント」を見ればわかるでしょう。所詮人間なんてそんなものです。「終わり」が来ることは、結局「終わり」でしかなくて、そこから何かが変わったり、始まったりするわけではない。この世界が津波で流されたって、その荒野に、80年代のマンガやアニメのような「新たな希望」が生まれたりはしないわけです。
だから、僕らはこう言うしかないのです。

「さようなら」と。

*1:自分で書いていて思うが、ホントニワカだなぁ

*2:元ネタはむしろ2001年宇宙の旅とかなんでしょうが、僕はゆとりオタなのでそんな高尚なSF作品は分かりませーん

鎮守府で会った艦娘だろ

鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
着任した時の自己紹介で
「よろしくお願いいたします」と言ってただろ
鎮守府で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

なのにどうしてゲームで会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲良くしたいから
アニメ版で
アニメ版で
アニメ版で

主役にするよ

夢の世界で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
夢の世界で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
ケッコン(仮)指輪を差し出した僕の手を見て
「I LOVE YOU」(私司令官のこと、だいす…)と言ってただろ
夢の世界で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

いつの間にかひとり遊び
1-1でレベル上げ
あんたといいことしたいから

アップデートで
アップデートで
アップデートで

貝にしてやる

鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
貝にしたあと鎮守府
「いつもお疲れさまです司令官! あの・・・これ・・・吹雪が作りました! 
 もしよかったら・・・召し上がってください・・・ど、どうぞ!」
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ

なのにどうしてゲームで会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲良くしたいから
鎮守府
鎮守府
鎮守府

直接爆撃させるよ

        • -

艦これ感想をネットで見ていて、「夢の世界で会った」から思いついた。こういうのは実際に見ている人が作ったほうが面白そうなのけれど、テレビ最終回放映直後のエヴァオタ並に艦これ好きが恐慌に陥っていてそれどころではないみたいなので。
参照:
http://blog.livedoor.jp/g_ogasawara/archives/8092537.html

P-MODEL 平沢進 - YouTube

IN A MODEL ROOM (紙ジャケット仕様)

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「宿命」のレールを乗り継いでいく、「何者にもなれない」自分

熊代亨(id:p_shirokuma)氏が、ブログで「週刊金曜日」に、サブカルチャー作品における「努力の位相の変化」について寄稿したという記事を見ました。

『週刊金曜日』の特集「若者に広がる“新しい宿命観”」に参加しました - シロクマの屑籠
それで、今回特集のタイトルが、「若者に広がる“新しい宿命観”」という面白そうなテーマで、しかも斎藤環氏や内藤朝雄氏に土井隆義氏といった、自分が大好きな方々が寄稿しているということで、さっそく買って読んでみました。

週刊 金曜日 2015年 1/16号 [雑誌]

週刊 金曜日 2015年 1/16号 [雑誌]

まあ四人とも、普段著書や講演・ブログ等で書かれていることとそんなに外れたことは書いてない感じなのですが、ただこうして「努力」「宿命観」というキーワードでまとめられると、また新たな視点が広がる感じがして、面白かったです。
というわけで、特集を読んだ感想を書いていきます。

「努力によって自由な選択ができる個人」v.s.「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」

今回の特集は、斎藤環氏が30代の友人から「努力は才能のうちです」という言葉を聞いて、驚いたことがきっかけで組まれた特集だそうです。で、内容の構成としては

  1. 斎藤環氏による大学生へのグループインタビュー
  2. 熊代亨氏による、近年のマンガやゲームといったサブカルチャー領域における「努力」の描かれ方の分析
  3. 内藤朝雄氏による、「スクールカースト」的な空気に支配され、前近代化していく日本の人格形成についての考察
  4. 土井隆義氏による、「努力したって報われない」けど「幸せ」という、現代の若者たちに刷り込まれつつある、「新たな宿命観」という概念の提示
  5. 斎藤環氏による「一部の特権階級にのみ努力することが認められなくなっていっているのではないか」という、これまでの記事のまとめと、それを修正するために、「努力」を認めるコミュニケーションをしようという提言

という風に、5つの記事から、若者の「努力」についての考え方と、その背後にある「新たな宿命観」という人生観を見ていく、という特集でした。
そして、どうやらいずれの記事においても、それぞれ微妙なずれはありながらも

  • 近代的な「努力によって自由な選択ができる個人」
  • 現代的な「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」

という二項対立が想定され、そしてその内前者のような近代的自己は衰退し、後者の現代的自己が台頭しつつあるのではないか、そんな認識が、根底にはあると、僕は読解しました。
その認識自体は、僕も同意できます。自分が普段付き合う人たちの人生観や、あるいはサブカルチャーに描かれる世界観においても、「何が何でも自分がなりたい自分になれて、そしてみんながそういうなりたい自分になれる社会」という理想や思いはほとんど語られたり描かれたりすことはなくて、「みんな周りの状況を見ながら、求められるよううまく適応し、そしてその決められた立ち位置で社会を支えていく」、ということが、自分のライフスタイルや、社会全体の幸せな形であると、そんな風に語られたり描かれたりすることが多いと、感じるんですね。
前者のような自由な社会は、でも自由であるがゆえに、自分で決めて、責任も取らなきゃいけないという点でしんどいし、もしそれで失敗したら何も救ってくれない。それに対して、後者のような生き方とそれに基づく社会は、周囲にある程度適応さえすれば安定も保証されるし、失敗する可能性も少ない*1のだから、多少我慢してでも、後者のような生き方・社会を目指すべきだ、そんな価値観が、現代の日本には、広がっている気がするのです。

「周囲に合わせて生きていくしかない」という宿命感は、もはや受け入れたほうが幸せになれるのでは

そして僕も、前者のような「近代的自己と社会」と後者のような「現代的自己と社会」のどちらがいいかと言えば―意外に思われるかもしれませんが―後者のほうが好きなのです。そもそも「なりたい自分」と言うけれど、なりたい自分なんてものを首尾一貫して持つってしんどすぎるし、ましてやそのために苦しい「努力」なんかするのは大嫌いですから。周りに流されてれば努力しなくても楽に生きられる方が、断然幸せじゃないかと、思うわけです。
その点は、後者の「宿命観に縛られる若者」を憂慮する、論説を寄稿した四者とは大きく意見が違うところかもしれません。でも、熊代氏も自戒していることですが、「宿命に縛られず努力しよう!」なんて考えは、結局その努力が報われるだろうというのがリアリティある現実だった、前期近代、日本でいう高度経済成長期だからこそ通用した考えじゃないかと思うんですね。今は、ある一方向に努力して技術を習得したり、資本を備蓄しても、その技術や資本がすぐ無意味になってしまうかもしれないくらい、進歩の方向が不透明で、流動化している時代なわけです。
例えば先日、イギリスの大学の研究で、現在の職業の半分が、ロボットや人工知能に取って代わられるかもしれないという報告が、注目を集めました。

ロボットは人から仕事を惜しみなく奪い、20年後にこの職業はなくなる
この予測がどれだけ当たるかわかりません。ですが、仮にこの予測が仮に当たって、しかもその職業が、「自分がなりたいと思って必死で努力してきた職業」だったら、もう悲惨極まりないですし、その後の人生一体どうするのさ、ということにもなるわけです。
(実は、こういうことは、それこそ既に「石炭から石油へのエネルギー転換」という形で、日本を含めた先進国で起きてきたことなんですね。それによって生じた炭鉱労働者の悲哀なんかは、それこそ普段の「週刊金曜日」読んでればいっぱい出てくるわけで……)
だとしたら、そういう社会の状況に合わせ、「『なりたい自分』なんていう、曖昧で根拠の無いものに固執するのではなく、周囲の状況・空気を読みながら、それに適応していく」という生存戦略を採用するというのは、極めて理にかなった効率的なやり方であり、人がより幸せになれる生き方なんじゃないかと、そう思うわけです。
例えそれが「宿命論」と呼ばれるものであっても。

ただ出来れば、「宿命の乗り換え」が出来るようにはなりたいよね

ただ、じゃあ完全に「宿命論」を受け入れれば、人と社会は幸福になるのかというと、そうも思えないというのも、また事実なわけです。
例えば、ワタミすき家などに代表される長時間労働や、それによる過労死過労自殺。あるいはそれこそ内藤朝雄氏の専門である「いじめ」の問題など、これらはまさに「そこにいることが自分の『宿命』なんだから、そこから逃げ出すことはできない」と、個人が思ってしまうことによって生じうる、「宿命論」の負の側面であるといえるでしょう。
また、そこまで悲惨でなくても、人は今いる場所から抜け出したくなることがどうしたって生じてしまう生き物なのです。この様に。
「生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう 腐海も共に生きるだろう」

「あの幼稚園に入って楽しく暮らせってのかよぉ! 毎日、薬を貰ってあのガキどもみてぇに干からびてけってのかよぉ!!」
AKIRA 〈Blu-ray〉

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「あなたは、この居心地のいい柩の中で、いつまでも王子様ごっこしていて下さい。でも、私は行かなきゃ」「無理に踏ん張って疲れるのは嫌」だけれど、「でも新しい世界も見てみたい」、このアンビバレンツさを、どちらも犠牲にすることなく、達成することはできないのでしょうか。
僕は、「宿命の乗り換え」という選択肢が示されることが、このアンビバレンツを解消する、重要な方策ではないのかと考えるのです。
つまりこういうことです。人には確かに「宿命」が存在する。だけれど、その「宿命」はたった一つだけあるのではなく、いくつも並行して存在しているのかもしれないのです。「地元で小中高ずっと同級生だった仲間と過ごす」という宿命もあれば、「大学デビューで東京に行って、毎日クラブ通いする」という宿命もあるかもしれないし、「引きこもってサイバースペースの神になる」という宿命もあるかもしれない。そして、それらの宿命の間の垣根は、そんなに高いものではなく、ふとした時に偶発的に飛び越えてしまうかもしれない、そんな、「柔らかい宿命論」なら、前述したような「狭い世界から抜け出せない」という問題もなく、かつ、「『なりたい自分』になろうと日々努力する〈強い自己〉」でなくても大丈夫になるのではないかと、そんなことを考えるのです。

サブカルチャーから見る、二つの「ル―プについての想像力」

例えば、ぼくはいわゆる「サザエさん時空」な作品が大好きなんです(ただ、「サザエさん」自体は余り好きではない)。うる星やつらドラえもんクレヨンしんちゃんケロロ軍曹銀魂……なぜこれらの作品が好きなのかといえば、それは「ループしているからこそ、その一回一回の中でハチャメチャに面白いことが起きて、世界の豊かさを垣間見ることが出来る」からです。
一方、近年ギャルゲーとかノベルゲーム、ライトノベル原作作品によくある「ループを繰り返すことによって何かを達成する知識や経験値を得ていく」というループものは、あまり好きではないんです。だってそこでは、「ループ」というものが、その上位の目的のためにクリアされる、道具的存在になってる気がするのです。それこそ「作業」のようにループを淡々とこなして公開CGを埋めていって、で最後にこの世の真実に到達出来ましためでたしめでたしって……一体何が面白いと言うのか!?世界の真実とかそんなことどーでもいいでしょうが!あなたがその何百回、何千回と繰り返したループは、全てそんな、くーーーーーーーーーだらない目的のためになされたのですか!それなら、きちんと友だちと遊んだりしたほうがよっぽど大事だよ!と、こう叫びたくなるのです。
多分、同じループを前提としたゲームでも、そのループ周回ごとにきちんと別の楽しさがあるなら、楽しめると思うんですよ。例えば僕は、「Fallout 3」というゲームが大好きで、ほんと今でも、一旦プレイし始めると朝までかならずプレイして徹夜になってしまうのですが

このゲームは、ただメインシナリオをクリアするだけならそんなに時間はかからないんです。でも、サブの要素が本当に盛りだくさんあって、そしてそのサブの要素を組み合わせると、全くの極悪人から、正義のヒーロー、金にがめつい商売人、ハードボイルドな男まで、幾百通りのロールプレイが楽しめる、そんなゲームなのです。だから、一旦メインシナリオをクリアしても、今度は別のロールプレイで遊びたくなる。
このように、「ループもの」と言われる様な作品も、「ループ自体に楽しみがある」か「ループを繰り返すという手段によって、最終目的が達成される」という二つの類型があるのではないかと、僕は考えるわけです。なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
そして僕は、「ループ自体を目的とする作品」に、「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」を持つための、重要なヒントがあるのではないかと、そう考えるのです。

「きっと何者にもなれない」でいいじゃんと言える、自分になりたいし、社会でありたい

僕の提示するこの「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」は、人によってはほんと甘っちょろい考え方に映るのでしょう。どんな職業(=Beruf(宿命))も、一生かけて苦労してやっと一人前になれるようなものであって、そんなにほいほい乗り換えるような奴は、きっと「何者にもなれない」まま一生を終えてしまうだろうと。そうなれば他者からの承認も得られず、貧しい一生を送ることになるだろうと。
ですが、「何者にもなれない」でいることってそんなに悪いことなのか?むしろ、「何者」かにならあければ、基本的な承認からも疎外されてしまう社会のほうがおかしいのではないんでしょうか。
そして更に言うなら、実は社会ってもっと優しくて、「何者にもなれない」ままでも、肩肘張らずに周囲に流されてゆるく生きてれば、結構承認もしてくれるんじゃないかなと、そうも思うのです。
これは、僕が、両親共に健在であり、貧困にも喘いでおらず、学歴もそこそこあるという、何重にも恵まれたセーフティネットがあるから、そう楽観的になれるだけなのかもしれません。
でも、だとしたら、そういうセーフティネットが万人にあって、そしてその結果、がむしゃらに頑張りたい人はがむしゃらに頑張ればいいけど、そうでない人は「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」の元で、「何者にもなれない」自分を謳歌できる、そんな社会を目指すべきいじゃないかなーと、僕は思うのです。

*1:かどうかは、実は怪しかったりするのだけれど

どうも自分が「私はシャルリ」と言う気になれない理由

例のフランスの新聞社襲撃事件。まず、犠牲者の人には心より哀悼の意を表します。
また、暴力によって表現を抑圧しようということは絶対に許されてはならないと、僕も思います。そしてその一方で、これを気にイスラム教徒全体が過激なテロリストと思われることも、あってはならないと思います。
ただ、その一方で、襲撃を受けた新聞社が英雄視され、その新聞社が発行していた新聞の名を取って「私はシャルリ」という大合唱が繰り広げられる、マスメディアやネットに、どうも違和感を覚えてしまうのも、率直なところなんですよね。
自分は、あの標的となった「シャルリ・エブド」という新聞がどういう立ち位置にあった新聞なのかは、テレビのニュースで見てるぐらいの内容しか知りません。
ただ、報道されたり、ネット上で見る風刺画を見る限り、イスラム教の預言者であるムハンマドをひどくこき下ろす内容の漫画を掲載していたのは、事実のようです。
もちろん、そういった表現も認めることが、「表現の自由」なのだということは、頭では理解できますし、これに表現の自由を認めなかったら、やがて他の表現にも規制がかかってしまう、だからこういう表現であっても、きちんと守らなくてはならないというのも、論理としては、理解できるのです。
でも、その一方でやっぱりこうも思ってしまうのです。「これは、この宗教を大事にしている人からしたら、耐えようのないほど屈辱的なのだろうな」と。

敢えて、「日本人」的に例えてみる

自分は、多くの「日本人」と同じように、普段生きていく中で宗教を意識なんてしていないです。だから、この絵がどれだけの屈辱をイスラム教徒にもたらすのか、ほんとうの意味では理解できないでしょう。
ただそれでも、なんとか自分の身に置き換えて考えてみると、要するにこれは、「自分が大切に思っている人(家族でもいいし恋人や親友でもいい)が、公然と揶揄され、そのことに何も抵抗できない」という状況なんじゃないかと、思うわけです。
これから示す比喩が適切かどうかわからないですが、とりあえず僕は、こういう比喩をすることで、今回の事件を何とか解釈しようとしています。
……
止むに止まれぬ事情で、単身別の国に引っ越すことになったあなた。
その別の国では、表面上はみんな平等ということになっているけど、実際は明らかに「外国人」ということで差別され、周囲とうまくコミュニケーションも取れず、まともな職業にもつけないで、貧しい生活を送っています。
そんなあなたの唯一の心の支えは、祖国に残してきた「大切な人」です。大切な人を思うことによって、あなたは何とかその辛い生活を耐えてきました。
しかしそんなある日、その国の新聞にでかでかと、その「大切な人」を揶揄するような漫画が載るようになりました。ある日はその「大切な人」の顔をとことん見難く描いた絵。また別の日はその「大切な人」が殺される絵、更にまた別の日には、その「大切な人」が誰かに犯されている絵が、掲載されます。
あなたは驚き、怒りを覚え、新聞社に抗議します。しかし新聞社は「この国は、誰もがこういう風に『風刺』されるのが当たり前の国なんですよ。ほら別の日には、全然違う人をひどく描いてるでしょ。でもこの人の家族も恋人も、笑ってこれを許します。だからあなたも、この国に住むなら、こういう絵を認めるユーモアを持ちなさいね」と言い、講義を無視して、あなたの大切な人を揶揄する漫画を掲載し続けます。
あなたは何とかそれを止めようとして、裁判所に訴えたり、新聞社の前で座り込みをしたりします。でも裁判所は「この国では表現の自由があるから、そういう表現も規制することが出来ない」と言うし、座り込みをしたって周りから笑われるか、「表現の自由を認められない野蛮人」として罵られ、馬鹿にされるだけ。一方、新聞社の方は「不当な圧力に屈せず表現の自由を守った英雄」として、その国の人々の殆どから賞賛され、そして新聞の編集者と、漫画を描いている漫画家は鼻高々にこう宣言するわけです。「私達はこれからも、こういう漫画を載せ続けますと!」。
あなたの味方をしてくれたり、あなたの気持ちをわかったり、同情してくれる人は、その国には誰もいません。
……
こういう状況で、絶望に陥り、その新聞をつくっている編集長や漫画家に、殺意を抱いてしまうことは、それを行動に移すかどうかを別にすれば、当然であるように、僕は思えてならないのです。
さらに言えば、そうやって「大事な人」を馬鹿にし続けた、「シャルリ」という新聞社を英雄視し、「自分はシャルリだ!自分もシャルリと同じようなことをし続ける!」なんてことは、どうも言う気になれないのですね。

むしろ、「私はシャルリではない」と言うことが必要なのでは?

というか、むしろ僕が思うに、そういう「シャルリみたいな風刺は無条件に社会で認められなければならない」みたいな雰囲気こそが、今回の事件の原因であるように、思えてならないのです。
例えば、今回の風刺画が風刺画ではなく、真正面から、「ムハンマドは実はひどいことをしていたんですよ」と書く文章の記事だったら、おそらく「それは事実誤認だ」という批判や、あるいは「当時の時代のことを今の倫理でさばくのはおかしい」みたいな、反論もできたし、それで溜飲が下がるということも、もしかしたらあったかもしれません。
ただ、風刺って、むしろ「真面目に反応した方が負け」みたいな、そういう雰囲気があるじゃないですか。風刺を認められない人は、頭の固い、ユーモアセンスのない人だとされてしまい、一向に相手にされない。風刺というものに欧米と比べれば不寛容である日本でさえ、そういう風潮を感じる時もあるんですから、「ユーモア大国」であるフランスなら、もっとそういう風潮は強いと思うのです。
そして、「相手にされない」ということは、おそらく「真正面から批判される」ことよりずっと、その人の心を傷つけると、思うんですよね。
そう考えると、「私はシャルリ」という言葉は、そういう「風刺は無条件に認められるべき」みたいな空気をむしろ強め、そして、今回のようなテロを起こしてしまう心情を作り出すことにしか、ならないのではないかと、僕は思うのです。
むしろ今必要なのは、表現の自由は大事であり、暴力に屈するようなことはあってはならないということを大前提においた上で「でも自分は、シャルリのような風刺画はよくないと思うし、自分が仕様とは思わない。その点で、私はシャルリじゃない。」と言い、別にシャルリのような風刺画が無条件に賞賛されているわけではないんだ、あれはダメじゃないかと思ってくれる人もいるんだという、共感されているという安心を、テロリスト予備軍になってしまいそうな、絶望している人々に、与えることなんじゃないかと、僕は思うのです。
先ほど無理やり例えた例でも、あれが苦しい原因の殆どは、「自分の声がその国では誰にも相手にされない」からだと思うんですね。自分の大切な人がこき下ろされる漫画があって、それに抗議の声を上げた時、例え少数でも、「君の怒りはよく分かる。自分もあの漫画はひどいと思う」と、共感している人がいれば。そして、その新聞も、無条件に賞賛されるのではなく、賛否両論といった扱いを受ければ、その新聞に感じる絶望や怒りも、和らぐと思うのです。
表現の自由」が暴力によって脅かされ、それに対し「表現の自由」を守る側は、一致団結してそれを守るために戦わなければならないという時に、何寝言を言っているのかと、思われるかもしれません。ですが、むしろ僕は、こういうやり方でしか「表現の自由に対する暴力」を根本的に止めることは、出来ないように、思えてならないのです。

ネットを窮屈にする側の論理

新年あけました。めでたい人もめでたくない人も、今年も一年よろしくお願いいたします。
さて、新年早々はてなでは、「ネットは昔と比べ寛容性がなくなり、窮屈になってきているんじゃないか」という議論が話題を集めているようです。

最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか? - orangestarの雑記

ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠

インターネットの空き地

ネットが窮屈に感じる原因はfacebookルールと拝金主義 - かくいう私も青二才でね
で、はてブも含めて議論の大勢は、「確かにネットが大衆化するにつれて、尖った発言や、社会では受け入れられにくい発言って、すぐに炎上したりして、しにくくなったよね。それってしょうがないことかもしれないけど、なんかつまらないよね」という流れになっているようです。
でも、僕は思うのです。
「これって自分にとってはむちゃくちゃ違和感ある表現だけど、ネット上ではまあ許されるべきだよね」とか「余程のことがない限り他人を批判するのとかやめようよ」とか言って、disりや批判を自己規制しなくちゃならなくなるほうが、よっぽどつまんねー世の中じゃねーの?と。

ネットを窮屈にする側の論理

例えば僕なんかは、上記のリンク先で増田に文章書いているコンビニ店長氏とかが、むっちゃくちゃ大嫌いだったんですね。ホント、薄っぺらいロリペド妄想並べて「僕って異常だよねービョーキだよねー」オーディエンスに媚び売って、そしてそれに対してオーディエンスが「おめーホント異常wwwでも俺も同じぐらい異常www」なんていう、半身浴でも風邪を引くわってぐらいのぬるぬるの共感共同体を構築している光景や、そしてその共感共同体で散々認められていながら「でも僕らって社会から見たら異常者だから、迫害されちゃうのよね」なんていう被害者意識バリバリ(てめーの変態ぶりなんて社会じゃとっくに認められてますからー、お昼の12時にフジテレビで司会やったって許されるレベルですからー)なところが、ホント大っ嫌いだったし、ブクマやtwitterでも散々大嫌いだと言ってきました。だから、まあ僕はむしろコンビニ店長氏がブログを閉鎖するのに加担した人間なわけです。
そして、コンビニ店長氏ほどではありませんが、色々なネット上の人物について、僕は「あんたはそうやってずっと何かを見下して生きてるんでしょうね!死ねばいいのに」とか、「もう回線切ってネットから出てけよ。痛々しくて見てらんねーよ」とか「散々成功しながら何言ってやがったんだ、いい加減その生ぬるい絶望ごっこ卒業しろよ」とか、色々思うし、そしてそれを文章にしたり、コメントしたり、つぶやいたりしてきました。おそらく、そういう言葉に傷ついて、「もうネットで文章発表するのやめるわ」とか思う人間もいたことでしょう。
そう、まさしく僕は、上記の記事でやり玉に上がっているような、「ネットを窮屈にしてきた側」の一人なわけです。
ただ、それが間違っていたとは思わないんです。というかむしろ、往年のネットの名台詞を借りて言うなら、「てめーらのその自称『ネット上でしかつぶやけない言葉』が、どんだけの人間を無気力にさせているか少しは考えろ」と、言いたくなるわけです。
よく「世間の常識とは少し外れてるから叩かれるんだろうな」と、批判にさらされたり、炎上している人間は勘違いするんですが、それは違います。批判・罵倒したり、炎上させる人間は、一人の自立した人格として、あなたの意見に反対していたり、あなたのことが大嫌いだったり、あなたのことが憎いから、あなたを叩いているんです。あなたがその文章をネットに発表して、幸せになったり、気持ちよくなったのと同じように、あなたのその文章を読んで、不幸せになったり、気持ち悪くなった人間もいて、そういう人間が、あなたが元の文章を書いた動機と、ほとんど同じ動機で、あなたを批判したり炎上させたりしているんです。
ただ、多くの人は、そうやって自分の感情を「自分のもの」として表象することになれてないので、「世間の常識」とか持ち出すわけですけど、しかしそれはあくまで方言でしかなく、本当は、どんな議論や喧嘩、炎上も、「ある個人の思い」対「また別の個人の思い」なんです。
だとしたら、ある人が自由に言葉をネット上に発表するのと同程度には、ある人がその言葉を自由にその言葉を批判・罵倒できるべきだし、もしそうじゃないネットがあるとするなら、それは、ある種類の人に、「自由に発言できるけど、それを批判されない」という特権を与え、それ以外の人には発言を認めない、極めて不公平なネットでしょう。

今のネットは「窮屈」かもしれないけど、昔のネットよりはずっと「公平」だし、良くなっている

そして、残念ながら、昔のネットというのはそういう不公平な場であり、そしてその不公平さはきわめてネットをいやなものにしていました。
ネット古参の人は、さんざん「昔のネットは良かった」と郷愁にひたりますが、僕は全く同意できないんですね。「自由に発言できた」というけど、その内実は、人種差別・民族差別・部落差別・性差別など、あらゆる差別が「タブーに切り込む」なんて口実で野放しにされてた時代だったし、(マミー石田とか、知らないとは言わせません)。掲示板等では、人間の尊厳を無視したコラージュ写真や、動物の虐待記録、実写の性虐待記録物が公然と交換された、そんな時代なわけです。
もちろん、今だってそういうものがネットから一掃されたとは言えません、ですが、少なくとも今のネットでは、ネット古参がさんざん忌み嫌う「普通の人々」が、そういうものをひどいと思い、炎上させ、法に違反している場合は、司法の場にまで引きずりだせるようになりました。もしこれを「ネットが窮屈になった」と表象するのなら、僕はこう叫びます。むしろネットの窮屈さ万歳だ!ネットよもっと窮屈になれ! と。

なんで炎上や批判がそんなに「怖い」の?

もちろん、コンビニ店長氏のようなロリペド感情を文章にして告白することと、差別を公言したりすることが、同じように否定されるべきものだとは言いません。ただ僕が言いたいのは、「後者の言論を批判することができるのなら、前者のような言論も、それを批判したい人によって批判の対象になる」ということなのです。ネットというものが、中央の規制なく、あらゆる言論を等価値に扱うメディアである以上、「後者は批判されるけど前者を批判しない」なんていうことは無理なのです。
「そんなネットは嫌だ!だって批判されたり炎上するなんてこわいもん」と言う人がいるかもしれません。
ですが、そういう人に僕はこう言いたい。そもそも、なんで炎上や批判がそんなに「怖い」の?と。
いや僕だって炎上や批判は嫌ですよ。自分の発言が頭の悪い誰かに曲解されて批判されれば頭に血がのぼるし、ネットの向こう側には生身の人間がいるってことがわかっていないのか、あるいは分かっていながらも「生身の人間」ですらどうでもいいと思うぐらい倫理観が欠落しているのかって、そんな奴らが罵倒してくれば、ほんと今すぐ僕にどくさいスイッチデスノートを与えてくれ、こいつら全員○してやるからって、そんな気分になります。
でも、そういう怒りとかは湧いてきても、「怖い」とか、「ブログ辞めたい」とか、そんな感情には結びつかないんですね。というかむしろ、そういう人間を見れば見るほど、そういう人間の好きにさせないためにも、ブログやtwitterできちんとこういう奴らと戦って、こういう奴らを潰さないとと、そんな感情になるのです。
思うに、「炎上したり批判されるのが怖いし、そんなことされたらネット上で文章表現するの続けられない」っていう人は、そうやって批判してくる人のことを「大事に思いすぎ」なんじゃないでしょうか?
例えば、「たとえ批判だとしても、それは自分のためを思っての発言なんだから、真摯に受け止めなければならない」とかいう人がいます。いや、別にポーズとしてそういうことを言うのは構わないんですよ?でも、どうやらネットをやっている人の中には、本気で「こういう態度でいなきゃならない」と思っている人がいるそうです。
……そんなわけないじゃん。
自分もよく他人を批判・罵倒する身だからこそ言えますけど、批判・罵倒する側が望んでいるのは、とにかくお前を潰して、ネット上から葬り去ってやりたいということですよ。「あなたがもっと成長してくれますように」なんて思いは、これっぽっちも持ってないんですよ。
だとしたら、そんなことを思っている奴らに対して思う感情はひとつでしょう。
「うるせえ、誰がお前らの思うとおりに潰されたりするか。逆に俺がお前らを潰してやる。」
それだけの感情でいいんです。もちろん建前として「貴重なご意見ありがとうございます。」「この問題については、他人の意見もとても参考になります」とか言っててもいいんですが、本音はこうでいいんです。
そして、これはおそらく、ネット上に限ったことではなく、社会のあらゆる場面で言えることなんじゃないかと、僕は思います。

私達の望むものはあなたと生きることではなく
私達の望むものはあなたを殺すことなのだ

わたしを断罪せよ

わたしを断罪せよ

僕が「社民党」に投票する理由

選挙前日です。期日前投票をしている方はもう投票されているのでしょうが、まだ投票されていない方もおられるかもしれません。
僕自身は、東京在住なのですが、比例区社民党に入れる予定です。今回比例区で東京都から立候補されているのは石川大我氏一人なので、実質石川大我氏への投票となります。
なぜこのような投票をするか、まず、彼の示す政策が自分の政策と合致しているというのが、理由の一つとしてあります。彼がどんな政策を掲げていいるかは、下記のリンクなどを参照してみてください。

ただ、それ以上に、僕が石川大我氏を支持するのには、根本的な理由があります。それは、僕が理想とする政治が、「人権を大事にするという普遍的な考えの元に、多種多様な存在が認められる社会」をつくることだからです。

経済も重要だけれども

自民党は今回の選挙を「アベノミクス解散」と名づけ、アベノミクスを続けるなら自民党、という構図で選挙の争点を設定しようとしています。
僕は、経済にはそれほど詳しくはないので、アベノミクスへの賛否を問われても、正直わかりかねます。*1
ただ、僕はこう思うのです。「経済成長、この道しかない」が今回の自民党のキャッチフレーズですが、経済状況が悪くなっても、一人ひとりが幸せに生きられるように最大限努力するのが政治なんじゃないの?と。

一人ひとりが幸せになれる社会とは、多様性ある社会だ

そして、その点から考えると、はっきり言って今の政治状況はどれも、「国民は我慢して国家に従え」、「少数派は我慢して多数派に従え」というような、国民一人一人の幸せとは真逆な方向に向かっているようにして、ならないのです。
創作物への表現規制や、ヘイトスピーチに代表されるような人種・民族・性的指向に対する差別偏見の助長など、それこそ自民党や次世代の党なんかは党ぐるみで行ってきていることですし、他の党においても、これらの問題については、きちんと表現規制や差別に反対してくれる議員も居る(例えば菅直人氏とか)


一方で、むしろ表現規制賛成派に回ったり、差別偏見を助長させたりする議員がいたりするわけです。
「自分は過激なエロマンガみたいな創作物は読まないし、普通の日本人だから差別とかどうでもいい」という人も居るでしょう。ですが、例え自分が直接的にかかわりなくても、そういった多様な存在がめぐりめぐって、この社会に豊かさをもたらし、人々を幸せをもたらすのです。
少し前に、『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメが流行しました。というか、僕のブログの読者なら、ほとんど誰もが知っていると思います。たくさんの賞をもらい、社会現象にもなり、多くの人をとりこにした作品です。
そのアニメの脚本家だった虚淵玄という人は、このアニメが東京アニメアワードという賞をもらったとき、こんなコメントをしています。

この度の受賞を大変栄誉に思います。潔癖を是とする社会からは汚泥とも映るであろうアダルトゲーム業界ですが、そこで培った感性があってこそ、本作の脚本は成立しました。私を評価して頂いた皆様には、汚泥の養分あってはじめて蓮の花も咲くのだとご理解頂けたものと、喜びを新たにしています。憲法に保障された表現の自由が盤石であると信じるすべての表現者が、憚ることなく創作の翼を広げられる社会の実現を願って止みません。

考えてみたら、今日本の文化に大きな影響を与える百合・BLといったものだって、同性愛が厳しく禁止される社会では決して認められないものでしょう。また、異国の文化を全て否定するならば、私達の食卓は江戸時代に逆戻りです。
自分たちと異なるものであっても、(それが普遍的人権を犯すものでない限り)許容する、そういう社会を作る事こそが、結局、私達全員が幸せになる、一番の近道のなのです。
そしてそういう社会がこの国に作られる可能性があるなら、僕は、まだこの国に希望がもてます。

この国にまだ希望を持つために、僕は選挙に行く

では、どうやってそういう社会を作っていくか。今日は選挙前日なので、特に選挙について書きます。
「どうせ自民党が大勝するなら、自分が一票入れたって何も変わらない」。そう思うかもしれません。しかし、比例区なら、例え自民党の方が得票が多くても、一定の得票数さえあれば、議員を国会に送り出すことが出来ます。
「でも、議員一人送り込んだぐらいで何が変わるの?」とお思いかもしれません。しかし、国会とは国民の代表が集う場であり、例えそれが一人でも、そこに自らの思いを託せられる人がいれば、そこから、自分の思いを国会に届けられるのです。
そして、今回社民党から立候補した石川大我氏は、自分自身がゲイであり、まさに先ほど上げたような多様性の大切さをもっともわかってくれている候補者なのです。
こういう人が一人でも国会にいてくれたら、日本も少しは、先ほどのべたような「多様性を守ってくれる社会」になってくれるのではないか、そんな一縷の希望を胸に、僕は選挙に行き、「社民党」に投票しようと思います。
そして、もしこの記事に少しでも心動かされた、まだ投票に行ってない方がいましたら、「社民党」に一票いれていただければと思います。よろしくお願いいたします。

*1:リフレ政策はまあまあ良いとは思うけど、法人税減税したって、その分消費税を増税するんなら、個人から企業に所得が移動するだけで何の意味もないんじゃないの、「成長戦略」とか言うけれど、国が「この方面に成長していこう」とか先導を切ることが、経済成長に結びつくかといえば大いに疑問で、結局いかに、民間がイノベーションを起こす環境を提供できるかこそが重要なんじゃないのとか、色々思うところはありますが、まあ素人考えです。