あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

他の人のコメントを引用スターすることができなくなった?

別にどーでもいいことなんですが、ふと気づいたので。

はてなスターには、スターをつけたい文章の部分を選択しながらスターを付けると、文章にはてなスターを付けることができる「引用スター」という機能があるんですが、どうやらはてブ上だと、その本人のコメントしか選択できなくなっているようです。

↓のはてブ画面を例に説明すると*1
b.hatena.ne.jp
下記のようにスターを付けたい当人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223742p:plain
このように選択した文章が、スター上にカーソルを持ってきたときに表示されますが
f:id:amamako:20220403223850p:plain
下記のように、他人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223954p:plain
スター上にカーソルを持ってきたときに何も表示されません。
f:id:amamako:20220403224022p:plain

別に、特にこれで何か不具合があるというわけではないですが。

まあ、強いて言えば、ある人のコメントに、その人のコメントを批判するコメントがあることを知らせるために、批判コメントを選択しながらスターを付けるみたいな、そういう「喧嘩売りスター」が付けられなくなった、ということですかね。

あ、これを書いたら、なぜ僕がこの仕様変更に気づいたかばれてしまう。

*1:説明画面にこのページを選んだことに他意はありません

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る―『NEEDY GIRL OVERDOSE』の「精神疾患」描写について

jp.ign.com
まず最初に自分の立場表明をしておくと、僕はNEEDY GIRL OVERDOSEというゲーム
store.steampowered.com
にかなりはまっている人間です。
note.com
ですので、ゲーム自体に対しては肯定的なバイアスが入っていますし、逆にゲームを批判するこの記事については否定的なバイアスがかかっています。
そのバイアスを知った上で、今回の記事は読んでいただけると幸いです。

精神疾患」にも色々あるのに、全て一緒くたにすることへの違和感

上記の記事を読んで、僕がまず思ったことは、精神疾患の当事者」という肩書きでこの記事が書かれた事への違和感です。

例えばこの記事では著者の双極性障害という病名が告白されていますが、ゲーム内の描写を見る限り、このゲームの登場人物であるあめちゃんは、双極性障害と言うより境界性人格障害であるように思えます。

といってももちろんこれは素人からみた憶測に過ぎず、実際はあめちゃんを診断した精神科医しかそういう診断名を付けることはできないわけで、いずれにせよ著者が「同じ精神疾患の当事者」として勝手に共感したとしても、実際は全く別の悩みをあめちゃんが抱えているという可能性だった多々あるわけですね。

他にも統合失調症発達障害、あるいは薬物精神病など、一口に「精神疾患」といってもその内容は全く異なってくるでしょう。僕は一応うつ病発達障害の当事者ですが、同じ精神疾患だからといって統合失調症とか薬物精神病とかに対する見解を求められても、正直部外者の一市民としての見解しか答えられません。

そういった多種多様な病気を「精神疾患」という一カテゴリに納めようとするのは、端的に言えば社会の福祉や医療制度の都合でしか無いわけで、そこで精神疾患だからこうなんだろ」という風なことを言い切ってしまうのは、まさしく筆者が批判しているスティグマに当たるんじゃないか。この記事を読んで最初に僕が覚えた違和感は、そこでした。

「やみ度0エンド」は「ハッピーエンド」として描かれなければいけないのか?

この記事の筆者は、やみ度0になったとき、あめちゃんが配信を止めてしまうエンドに到達することについて、以下の様に批判しています。

そんな手応えのあるゲームプレイだが、痛烈な違和感を持ったのはいくつかの結末だった。私は彼女にはなるべく健康に“インターネットエンジェル ”になってほしいと思ってプレイしていた。ところが「やみ度」が0になると彼女は配信者をやめてしまい、びっくりするような結末になるのだ。「生きるためには、精神の負荷も必要だと思います」というウィンドウがあらわれ諭してきて、ゲームオーバーになってしまう。

納得がいかない。配信者をやめるのはわかる。しかし本作でいうところのやみ度とやらが0の状態で精神の負荷がないというのはいかがなものか。寛解への軌跡がない。精神疾患を帯びていない人たちにも存在する心の痛みを否定するものだし、明るく生きる人たちの生き様をも否定している。

このような観点にはゲーム作者のにゃるら氏も自覚的で、ゲーム発売当初に次のようなツイートをしているわけです。


ただ、じゃあ「やみ度0エンド」が本当にハッピーエンドなのか?一応全エンド到達した僕から言わせてもらうと、とてもそうは思えないわけです。

ゲームを進めていって分かるのは、あめちゃんというのがとても「歪んだ人間」であることなんですね。最後に到達するエンドをみればそれは一目瞭然だし、そこまで行かなくても「アンチを叩いて満足した配信の直後に別の配信者にアンチコメをしにいく」、「宣伝費を払って宣伝して欲しいと行ってきた会社の商品を侮辱する」といった振る舞いをみれば、精神疾患とか関係なく、まともに社会に適合できない人間であることは明らかなわけです。
そんな彼女がやみ度0になって配信を止めたとして、その後幸せに暮らせるか?僕はそうは思わないんですね。それこそ短期アルバイトに就いては辞めを繰り返し、最終的には中年引きこもりとなる、そんあ結末しか見えません*1

寛解への軌跡がない」描写こそがリアルな人だって居るでしょう

筆者は「寛解への軌跡がない。」という点を批判します。これは、もしあめちゃんが、うつ病双極性障害、あるいは統合失調症といった「病気・障害がわかりやすい」精神疾患として描かれているなら、確かに妥当な批判だと思います。

しかしあめちゃんの抱えている問題って、そういう「病気・障害の問題」というよりは、どっちかというと「人格の問題」なわけです。となると、もしあめちゃんが「寛解」に至るとしたら、上記で挙げたような問題行動をしない、まともな人格になって、それこそ「明るく生きる人たち」のように自分の人格を改造しなくてはならないわけです。

しかし、そうやって自分の人格や性格を改造することまで、果たして精神医療はできるのでしょうか?仮にできたとして、本当にそこまですべきなんでしょうか?

少なくともそういった問いに対する答えは、まだ精神医学全体や、更に言えば社会全体は出せていないでしょう。とすれば、そこで安易に「人格のゆがみ?そんなの精神医学で矯正すれば楽になるんだからそうすべきだ」と断言するよりは、そこで「安易に答えは出せないよね」と踏みとどまる、にゃるら氏の態度の方が、僕には誠実に思えます。

「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージも、また一つの誠実な向き合い方では

そして、このゲームはそういった既存の精神医学の有効性に対して疑問を持つ立場から、むしろR.D.レインのような「反精神医学」に近い立場を取るわけですね。

NEEDY GIRL OVERDOSEと反精神医学の関係については
note.com
という記事が考察しているのでそちらも参照してほしいのですが。

簡単に言うと「精神病を治して社会に適合させるよう人間を改造するなんていうのは、社会による人間への弾圧だ。そうでなく、精神病を抱えた人が、それを抱えたままのびのびと生きられるとう、社会を変革していかなければならない」というのが、反精神医学の立場です。

このような思想は、特に既存の社会や体制に反対する運動が盛んだった1960年代から70年代に栄えました。そしてそれら思想の元に起きた運動によって、それまで「精神病者は治るまで病院に監禁しておけ」という考えが大勢を占めていただった精神医学に、「精神病者も社会の中で生活するようにしよう」という考えが生まれてきたわけです。

ただその一方で、反精神医学という考えにも限界があるわけです。そもそも社会を変えるなんてこと自体、そう簡単にできるものではありませんし、更に言えば「精神医学は悪!」という考えに凝り固まった故に、普通に薬物療法とかをすれば病状が改善するはずだった患者にも薬物療法を行わず、結果として病状を悪化させるみたいなこともありました。

上記のような反省を元に、現代の精神医学においては概ね「反精神医学という考えは、良い面もあったが全体としては否定されるべき」という風に考えられているわけです。*2

ただ一方でにゃるら氏は、現代っ子らしく「社会変革」というような夢は持っていないでしょう。彼がむしろ描いているのは「既存の社会とは違う場所(このゲームにおいては「インターネット」)で、社会に抑圧されずに生きる」という夢なわけです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームは、確かにぱっと見アイロニーと戯画化ばっかりで、全てを馬鹿にしてるゲームのように映るかもしれませんが、そのバックボーンには、こういう、インターネットが大衆化する前からインターネットに入り浸っていた人が、インターネットに持っていた理想があるんじゃないかと、僕はそう解釈するわけですね。

そして、その理想から、敢えてにゃるら氏は「寛解への軌跡」を描かず、むしろ「治らなくていいんじゃないのか」と言う態度を取っている訳です。

それは、確かに既存の精神医学の考え方とは違うものかもしれませんが、しかしそれもそれで、一つの誠実な「精神疾患への向き合い方」だと、僕は思うのです。

ロマンティックなメンヘラは存在するか?

ただ一方で、そのような考えに基づくが故に、「精神疾患」というものの描き方にバイアスがかかっているのではないかと問われれば、それは否定できません。

ほかにも考えられないバッドエンドがあった。精神疾患で使用される薬物について偏見を助長させる描写だ。あめちゃんに軽い処方箋ドラッグを与えているとそのうちにエスカレートしてイリーガルなドラッグが登場し、さらに与え続けると「LSDのやり過ぎで向こう側の世界にいってしまう」ものすらある。

これがただ過激さをあおるテンションで平然と描かれている。毒性の低い薬品から始まり、使い続けると毒性の高い薬品があらわれていくことなど、ゲートウェイドラッグという反論の多い不確かな理論をそのまま運用している危険性があり、精神疾患を負う者が精神安定剤を飲まざるを得ないことへの無理解を生みうる。

ゲートウェイドラッグ理論の正否は、専門家でない僕には分からないので保留しておきますが、薬物に対する描き方っていうのは確かにちょっと問題があって、なにより「薬物を使えばこの世を超越することができる」というような描き方は、確かに問題だなーと思うわけです。

ただこれは、どっちかというとにゃるら氏が意図してそういう描き方をしているというよりは、にゃるら氏が自分の筆力や演出力を過小評価していたからなのかなーと思ったりもするわけです。

例えば、LSDをあめちゃんが接種した後、その感想についてあめちゃんが書いたと思われる「たいけんき」という内容の文章が読めるんですね。これ、本来は「あーヤク中ってこういう文章書くよねー」みたいな、そんなしょーもない文章で良かったはずなんですよ。

ところが、これが実に読んでいて面白いし、引き込まれる文章なんですね。それを読んでると「こういう体験ができるんなら、自分も薬物体験してみたいな」と思ってしまう程度には。

もちろん実際は、薬物を摂取しても大半の人はしょーもない文章しか書けません。このLSD体験記が素晴らしいのは、LSDのおかげというよりは、あめちゃん≓にゃるら氏の文章力がすごいからでしかないわけです。

上記のようなことはゲーム全般に言えて、実際事実だけを取り出すとそんなに憧れる要素も無いしょうもないことなのに、にゃるら氏の文章力や演出力にかかると極めて特異でキラキラした体験であるように見え、「自分もそういう破滅的な体験をしてみたい」と思わせてしまう作用は、確かにこのゲームにはあるわけです。だから、そこの影響力には確かに注意しなきゃならないなと思ったりはするわけです。太宰や坂口に憧れ睡眠薬を乱用したりする若者が出ることに注意するのと同程度には。

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る

ただ、そういう面を差し置いたとしても、「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージを敢えて伝えるということは、僕はそんなに悪いとは思えないのです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームをやっているとき、ずっと僕の頭の中でBGMとなっている曲がありました。それはアーバンギャルドの『ももいろクロニクル』という曲です。
open.spotify.com
amzn.to

君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく

アーバンギャルドというバンドも、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームと同じように、リストカットとかいうようなメンヘラのことを沢山歌っていて、まさしく上記の記事の筆者が聴いたら「けしからん!」と怒るような、そういう曲ばっかりを書いているバンドです。
でも、精神疾患を抱いている人の中には、むしろ「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージよりも、むしろこういう、ちょっと自分たちのことを茶化しながら、しかし真っ直ぐ向き合ってくれる、こういうバンドの曲に救われる人だっているわけです。そしてそれは、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームにも言えます。

もちろんだからと言って、「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージが無意味とは言いません。そういうメッセージこそが必要な人もいるでしょう。僕だって、もしリアルで「私メンタル病んで悩んでるの」と問いかけられれば、その人がどういう状態かを見て、心療内科を勧めた後、その人のタイプによってどちらの言葉を投げかけるか決めますし、多くの場合「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージを伝えるでしょう。

(ただ現実問題、そうやって心療内科を勧めても、初診は2ヶ月先だったりするわけで、こういうゲームの精神疾患の描き方を問題視するなら、まずそういう心療内科にきちんと罹ることができる体制を作れよと思ったりもするが)

精神疾患に効く万能薬というものがない以上、重要なのは、自分に合い、自分を癒やしてくれる多様な表現に接することができる環境を作ることなのだと思います。もちろん、そのメッセージそれぞれに対する批判もまた、あって然るべきだし、それを受けて表現を変えるということもありでしょう*3しかし「こういう表現は精神医学の標準的な考え方から違うから表現しては駄目」と一概に言い切ってしまうことには、僕は反対です。上記のような記事は、そのような、表面だけを見た一律な批判であるように、思えてなりません。

*1:うわー、他人事とは思えない……

*2:今回の記事の立場も、基本的にはそれと同じロジックに基づいているといえます

*3:『ルックバック』について、著者が表現のやり方を変えたように

インターネット上で「声」を発することについて

🔥もしくはマーマー神💙💛 on Twitter: "青識亜論ことパパミルク太郎君のスペースを少し聞いていたけれど、最低最悪だった。 酔っ払って奇声をあげる、他のスピーカーに黙れと大声をあげて喋らせない、何か言われたらトーンポリシングだと叫ぶ、とにかく酔っ払っていることを言い訳にする、部落民はにおいでわかる等の差別発言。 1/2"

古のrir6君がちゃんと大人の小汚さを身につけて、社会の弾力性を理解する。ということができずに、糸のキレた凧みたいになったのが、青みたいな人間にも思えるんだよなあ。黙らせる事ができない存在が憎いみたいな

2022/03/12 01:39
b.hatena.ne.jp
なんかネットサーフィンしていたら、流れ弾を受けたので。

といっても、ああいうTwitterとかのSNSにうごめいてるミソジニストについては、まあ散々語ってきたのでし、最近も↓
note.com
みたいな、特には語りません。「そういう発言をすると傷つく人がいる」というナナメの関係の知人・友人を持たないことの不幸を、ただ哀れむしか無いわけで。

僕が興味を持つのは、こういう暴言を発してしまうTwitterのスペースという場。

というか、スペースに限らず、音声配信とか動画配信って、ブログのような「文字で発表するメディア」とはまた違ったメディア特性があるんだけど、文字書きに慣れ親しんできた古のネット民ってあんまりそのメディア特性の違いに敏感でない気がする。上記のような暴言をインターネットで声に出してしまうのって、その特性の違いに対する鈍感さがあったりするのかなーと思ったり。

そういうメディア特性の違いによる、発せられるメッセージの違いを分析するのが、彼らが忌み嫌う社会学だったりすると思うんだけどね。

クールなメディアとしての「文字」、ホットなメディアとしての「声」

いわゆるクールなメディア/ホットなメディアという、社会学の古典的分類に沿って言えば、ブログとかネットニュースとかの「文字」というのはクールなメディアに分類される。それに対して、声による音声配信とか、またはYouTubeでの動画配信というのは、ホットなメディアに分類される。

で、このクールなメディアとホットなメディアには色々な違いがあるんだけど、今回の記事で重要になるのが「自分とそのメディアを切り離すことができるか」という点。

よく「発言内容への評価と、その発言者の人格への評価は切り離して考えましょう」ということが言われる。このこと自体の妥当性はさておき、この切り離しって、文字だと容易だけど、声にすると結構難しい。

例えば、「今から発する言葉は嘘ですよ」と宣言した後に

「お前は馬鹿だ!死んでしまえ!」

ということを、文字と声それぞれで伝えたとする。多分、今ブログであなたが見ている様に、文字で伝えている場合は、上記の文章はそれほどショックではないはず。

ところが、それこそ電話越しに怒鳴り声で上記のようなメッセージを伝えたとしたら、嘘だと分かっていても、結構ショックなのではないでしょううか。少なくとも僕は、その言葉を発した人に対しイヤな感じを受けてしまう。

ことほどさように、声というものは文字より、与えられる側の感情に作用し、そしてそれ故に、「声を発した当人」と「発せられたメッセージ」を近づけてしまう。だから、声を発する声優や、声や体でメッセージを伝える俳優は、「この人は役柄を演じているだけ」と知っていても、演じていた役柄がその人本人のキャラクターとして認知されがちなのです。いくら怖い小説とかを書いてもその人自身が怖い人とは思われないのと対称的に。

「声」は自己暗示を生みやすい

そしてこれは他人に与える印象だけの話ではない。声を発する自分自身にも同じ事が言えます。

自分が心から思ったことでもないことを、他人の反応を得るためにわざとインターネットに書くという行為があります。いわゆる「釣り」という行為ですが、例えば掲示板やブログ記事でそういうなことをやっていても、多くの人はそれと現実を切り離すことができるわけです。

昔のインターネットではよく「インターネット上ではあんなに過激なことを言っているのに、現実のオフ会で会ってみると全然おとなしい人だった」ということがあり、「ネット弁慶」なんて揶揄されたりもした。つまりこの場合は、良くも悪くも「ネット上での人格」と「現実での人格」というものが使い分けられているわけです。

ところがインターネット上で声を発することができるようになると、この使い分けは途端に難しくなります。なにしろネット上で声を発するときも、現実で声を発するときも、やることは一緒なのですから。そこでもし「ネット上での人格」と「現実での人格」を使い分けようとするなら、かなり理性上で意識して使い分けをする必要が出てくるわけ。ところが多くの人は、その意識的な使い分けができていない。

そうなると、例え「敢えて露悪的に言ってやる」みたいに本人が考えていたとしても、その「露悪的な演技」に引っ張られて、本人の人格までもが悪しき方向に引っ張られるのである。そして集団分極化がより促進されやすいというインターネットの特性により、その露悪はさらに過激になっていく。

上記のスペースでの暴言が、具体的にどういう流れで発せられたかは、僕は知りません。しかし一般論として、インターネット上で声でコミュニケーションするということは、極端な方向に人格を変形させていく効果が、文字より高いと言えます。

「声」で発するメッセージは、より抑制的にしよう

上記のようなことを踏まえた上で、Twitterのスペースや、YouTubeでの動画配信で注意すべきことを考えてみましょう。

最初に言えることは、声で発するメッセージは、文字で発するメッセージより抑制的な、穏やかなものであるべきということです。上記の例で挙げたように、他人を批判するメッセージも、文字で書けばそれほどダメージを与えないが、声で発するとショッキングということも多々あるのです。

インターネット上で動画配信とかを見ていると「この人面白いけど過激なこと言ってるなー、Twitterでみんなに知らせてみよ」と考え、いざ発言を文字起こししてツイートしようとすると「あれ、これそんなに過激でもないし面白くもないな……」と思う経験を、よくするんですね。実際、「過激な配信者」として知られる配信者の配信内容も、文字起こししてみるとそんなでもなかったりするわけです。でも、それでも「声」のメディアでは十分過激で面白く聞こえるから、それはそれでいいんですね。

逆に、文字起こししてもなお「過激だ」と思うような配信は、今回炎上したスペースの例にあるように、度を逸した、不快な過激さといえる訳です。

「演技する」という技法をきちんと訓練する

そして、二つ目に重要なのが、「演技で発する声と、自分の人格を分離する訓練をする」ということです。
声優とか俳優というのは、まさしくそういう訓練を積んできた人です。彼らは、好青年の役をやった数時間後に卑劣な悪漢の役をやったりすることが多々あるわけで、そこでは、それぞれの役柄を演じる人格を分離する必要があるわけです。そして、それは自然に身につくものではなく、訓練が必要なのです。

インターネット上で人気の配信者に、演劇経験者や、あるいはTRPGのような「演技するゲーム」が好きな人が多いのも、まさにそこなのですね。演劇とかTRPGといったものは、「自分と異なる存在」を意識的に演じる必要が出てくるわけです。そしてそれは、頭で理解すればなんとかなるものでなく、何回も反復練習して、身体にたたき込まなきゃならないものなのです。

ところが、インターネットの人というのは、こういう身体性というものを軽視していることが多いため、「頭で理解しているから」とかいって安易に露悪的に振る舞って、ドツボにハマっていくのです。

僕はよく知らないけど、上記のブコメで言及されたrir6くんとかいうのも、そんな感じだったんじゃないかなー?

メディアの違いを理解せよ!

しかし、こういう騒動を見る度に思うのが、かの名言、「メディアの違いを理解せよ!」です。

なんていうか、インターネットの人って、「伝えるメディアなんて関係ない、メッセージが全てだ!」という素朴なメッセージ至上主義の人が多い気がするんですね。社会学とか、あるいは人文的な高等教育をきちんと受けず、更に言えばそれらを「お気持ちw」とかいって馬鹿にする。

で、そういう人が「インターネット上でこういう技術を使ってメッセージを伝えれば余計なノイズにじゃまされない!」とか思って新技術とかを賞賛したりするんですが、いやそのノイズこそが重要なんだって。

つい最近も、「VTuberは生身の人間の人格にじゃまされず、真にバーチャルなキャラクタを生み出すことができたはずなのに、今あるVTuberはただの生主じゃないか」とか言って勝手に失望している人がいましたが、文字でやりとりするならともかく、「声」というメディアの特性を理解していれば、そこで生身の人間の介在しないバーチャルな存在が現れるはずないじゃないですか。マクルーハン読み直せと。

というか、技術者の人ってほんと「生身の人間」の匂いが嫌いですよね。

僕なんかのような人文系の人からすると、「生身の人間」の匂いこそが好きなんで、インターネットという新しい情報技術で、生身の人間がどのような表現をしていくか、その可能性とリスクこそが面白いんじゃ無いかと、思わずにはいられないのですが。

備忘録:Chrome拡張機能のSecure Shellで公開鍵認証をしたいときはSSH Agent for Google Chromeを使う

タイトルで完結してるが。

ChromebookとかでSSHをしようとするには、ChromeSSH拡張機能を使うのが正攻法。
chrome.google.com
だけど、公開鍵認証しようとして秘密鍵を登録しようとしても、以下のエラーが出てうまくいかないバグがある。

Load key "/.ssh/identity/id_rsa": invalid format

groups.google.com
ので、とりあえず以下のサイトの記述に従ってSSH Agentの拡張機能を追加し、それを利用して秘密鍵を登録させると、うまくいく。
blog.c6h12o6.org
ちなみに、上記サイトではRSA鍵のみ動作確認しているが、ED25519鍵でもうまくいく。

いくらグダグダ言い訳しようが、悪は悪である

blog.tinect.jp
まー、しょーもない記事ですな。
ただ、この記事で批判されている「無礼な奴がいると職場の生産性がおちる」という主張の本も、まーしょーもない本です。

無礼さは人を傷つけるからよくない、それだけで済むことであり、生産性云々など持ち出す必要は無い。

そして、それと同様に「無礼なパワハラ上司がいることにより生産性が上がる」という職場が仮にあったとしても、パワハラがいくら生産性を上げようが関係ない。パワハラは人を傷つけるいけないことであり、故に断罪されるべきなのです。

「現実問題」という言葉が言い訳以外に使われるの見たことない。

反対にこの対極に位置するのが地獄だ。地獄で何が起きているかというと定期的な締め上げである。

かつて某軍隊や運動系部活でもって朝礼の度にウルトラ理不尽な事が繰り返されているのをみて僕は頭を抱えてしまった事がある。昔はマジであれが何の意味があるのかサッパリわからなかった。

だが、『問題上司 「困った上司」の解決法』を読んだ今ならわかる。

あれは自尊心ドレインだ。上に立つものが下のものに残虐行為を働く事でもって自尊心を回復しつつ、下のものの反逆の意志が無くなるように〆あげているのだ。

この残虐行為をみて「なんて酷いんだ!」と嘆くのは簡単だ。

しかしそれにもかかわらずこの行いが太古の昔より連綿無く続いているのは、それが最適解だからに他ならない。

現実問題としてである。面倒な人間を従順に取り扱う為には締め上げ行為は必要不可欠だ。

なんかもう、上記の文書は、差別や抑圧といった本来この社会に存在してはいけないことを擁護しようとするクズ野郎どもの言い訳のテンプレートとして、陳腐ですらありますね。

「ひどく見えるかもしれないが、集団を管理するためにはそれが最適解なんだ」、「現実問題そういうひどいことが存在しないと社会がなりたたない」と。奴隷制やらアパルトヘイトやら性別役割分業やらは、まさしくこういう風に擁護されてきたわけです。

全くしょうもない。そんな非人道的なシステムでしか管理できないような社会・集団なら、そんなものは存在してはいけないというごく当たり前のことに、なぜこの人たちは気づかないんだろう?「黒人奴隷がいなければプランテーション農業がなりたたなくなる」といわれれば、そもそもそういう「奴隷に依存したプランテーション農業」というもの自体が存在してはいけないわけで、人を犠牲にすることでしか成り立たないシステムなら、そもそもしそのシステムを破壊する以外に選択肢はないのですよ。

残念ながら世の中には定期的に〆ないと管理できない集団というのは一定数存在する。

もしあなたがそういう集団に紛れ込んでしまったのなら、そこでどんなに声をあげようが絶対に制度が覆る事はない。

だって問題なのはあなた1人ではなく、集団にあるのだから。

そんな所で声をあげるのは囚人が刑務所で制度改革を声高に主張するのと同じぐらいに虚無である。

「囚人な何を偉そうな事を言ってるんだ!黙って規則に従え」と言われて即・終了である。

それ、監獄の中でアパルトヘイトに非を唱えた南アフリカの黒人活動家の前で言える?まあ、ここまで厚顔無恥なら、「あなたたちは従順に看守に従っていればよかった」とか言えるのかもしれませんがね(笑)

アーレントを「自分が何もしないこと」の言い訳に挙げるって、どこまで恥知らずなの?

皆さんも御存知のとおり、第二次大戦でドイツは負けた。

アイヒマンはその罪を問われ戦後裁判にかけられるのだが、彼はドイツ政府によるユダヤ人迫害について

「大変遺憾に思う」

と述べたものの、自身の行為については

「命令に従っただけ」

と主張し、一貫して無罪を主張し続けたという。

若かった頃の僕はこのエピソードを読んで

「スゲェ。こんな反省のカケラもない悪人が、この世にいるんだ」

と思ったが、サラリーマンとして働くようになったいま現在、僕は彼の事を全く笑えない。

「シキタリに従っただけ」
「自分の職業理念に基づいて合理的に判断した」
「社会のためには仕方がない」

私達は大なり小なり、アイヒマンの二番煎じをやっているはずだ。

故にサラリーマンをやった事がある人間でアイヒマンの事を笑って切り捨てられる人間などいないのではないだろうか?

このアイヒマンの姿をみて、ユダヤ人の哲学者であるハンナ・アーレントは悪という概念を以下のように定義づけた

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」

実に重い言葉である。

まさか「アイヒマンだって悪意がなくても悪に手を染めるんだから、自分が悪に手を染めても仕方ない」なんて解釈をする人がいるとはびっくりだわ。アーレントもあの世で目ん玉丸くするわ。

アイヒマンのエピソードから学ぶべきはただ一つ、「自分の属するシステム自体が巨悪であることがあるのだから、もしその場合にはシステムに反抗せよ」である。

というか、僕からすると、むしろアイヒマンよりこの記事の著者の方が害悪だとすら言える。アイヒマンは、自分の属するシステムがしていることに対し、「でもそのシステムに逆らえない」という小役人根性から、思考停止してシステムの悪に加担していたわけですね。

でもこの記事の著者は、システムが人を傷つける悪であることを気づきながら、「しかしその悪によって社会は成り立っているのだから、悪は守られるべきだ」と、積極的に悪を擁護しているわけです。思考停止しているのはなく、むしろ率先して人を傷つけることを肯定するように思考しているんですから。アイヒマンの罪はもしかしたら問われないかもしれませんが、この記事の著者の罪は絶対に断罪されますよ。

「世の中は難しい」じゃなくて、あなたが単純明快な答えから逃げてるだけ

あなたもシステムに飲み込まれたら…アイヒマンになっていたかもしれないし、貴方が大嫌いな問題パワハラクソ上司にこれからなるのかもしれない。

何が善で、何が悪か。

何が人として許されない行いで、何が仕方がない事なのか。

人としてあるべき姿とは何か。

いやはや、世の中は難しい。最後まで良く生きられればよいのだけど。

「システムに飲み込まれたから自分は悪になってしまうのだ。自分は悪くないー」じゃないんですよ。システムとは人が作り出したものであり、それを利用するのが人である以上、システムの中で悪に手を染めるか、システム自体を破壊するかは、あなたの選択なんです。

ていうか「何が善で、何が悪か。」なんて話は、そもそもこの記事では全然してないですよね?この記事の著者がしているのは、善悪の境界線にあるようなことについて悩むのでは無く、明白な悪に対して「悪だけど擁護されるべきだ」なんて屁理屈をこねてるだけなんですから。

そして結論が「いやはや、世の中は難しい」?笑わせてくれるわ。「システムは悪をなすことがある。だから人は時にシステムに反抗し、それを破壊しなければならない」という単純明快な答えから逃げてるだけじゃん。

走り疲れたアンタと改めて話がしたい―『NEEDY GIRL OVERDOSE』感想文

store.steampowered.com

www.youtube.com
というわけで、早速やってみました『NEEDY GIRL OVERDOSE』、といっても当然この短時間で全クリなんてできるわけもなく、せいぜい見たエンドは自分でクリアしたものが、3個ぐらいと、YouTubeVTuberが配信している中でたどり着いた数個のエンドぐらいなんですが。

で、感想なんですが……やっぱ何というか、心に来るものがありますね。僕も精神的に不安定な思春期をインターネットで過ごしてきましたから、一歩間違えばこのゲームの女の子みたいになってしまう可能性も多々あったわけで、そこで僕が(ここまで)病むこと無く生きていけたのは、インターネットが今よりほんのちょっと優しかった時代になんとか間に合ったのと、あとはもう運でしかないわけです。

実際、僕よりほんのちょっとインターネットに来た時期が遅かったり、あるいは運がなかった子どもたちが、病んでいってしまったのは、ほんと多く見てきましたから。

逆に言うと、そういう点で、僕はどうしても単純にこのゲームを「うわー悪趣味だなー(笑)」と無邪気に楽しむことはできなかったりして。

なぜ1990年代の電波ゲーフォロワーが、今の時代により意味を持つのか。

このゲームの作り手であるにゃるら氏は、1990年代のエロゲー、それも鬱ゲーや電波ゲ―が大好きらしく、そのようなゲームの雰囲気を模してこのゲームを作ったと、インタビューで述べています。
www.4gamer.net
しかしじゃあ、このゲームは今流行の1990年代回顧のようなものなのかというと、そんなことはないわけです。むしろ、そのような1990年代の電波ゲーを参照点としているからこそ、このゲームは今の時代により意味を持っていると言えるのです。

なぜそうなっているか。それを考えるには、そもそもその1990年代当時の鬱ゲ―や電波ゲ―といったものがどういう時代背景のもとに作られたか、遡る必要があります。

多分これはもう今の若い人には歴史の授業の様な話になってしまうと思うのですが、1990年代というのは、とにかくあらゆるものが「壊れていった」時代なわけです。世界情勢を見れば、ソ連の崩壊や中国の天安門事件によって、「みんなで仲良くより良い社会を目指す」という社会主義の理想が崩れ去り、弱肉強食の資本主義やジェノサイドを起こすような民族主義が世界を覆い、国内でも正社員による終身雇用制度が終わりを告げ、「真面目に働いていれば報われる」というのが幻想に過ぎないことが露呈していく。そして更に高度情報化社会における差異化競争によって、「一体私達は何を望むのか」という価値観すらもばらばらになっていったのです。

要するに、人々がそれまで共有していたはずの「理想」や「正しさ」といったものが、どんどん崩れ去っていったのです。

そして、それに呼応するように、埼玉幼女連続誘拐殺人事件や神戸連続児童殺傷事件、またオウム真理教の一連のテロのように、「はたから見ると狂っているとしか思えないような動機で起きる凶悪犯罪」が、世間で大きく取り上げられるようになります。

そのような社会を、社会学者の大澤真幸氏は「『第三者の審級』が失効してしまっている」と述べています。

これがどういうことかというと、要するに、同じ神を信仰していたり、神は信じていなくても、同じ理想を共有していたりといった、「その行為は一体どのような意味・価値を持つのか」という基準を示す、第三者が、社会からいなくなってしまったということなわけです。

そして、その「正しさの不在」に耐えられなかった人たちが、神戸連続児童殺傷事件で犯人が、自らが信仰していると言った「バイオモドキ神」や、あるいはオウム真理教の信者が信仰した麻原彰晃のような、自分たちの中だけで「正しさを保証するもの」を作り上げてしまった、そういうわけなのです。

そして、1990年代の電波ゲームや、それらに多大な影響を与えた大槻ケンヂ氏といった当時のサブカルチャーも、まさしくその「正しさが存在しない日々をどう生き抜いていくか」ということが、そのテーマの根本にあったわけです。事実、オウム真理教は「コスモクリーナー」や「光の戦士」など、アニメに出てくるイメージを、自らの信仰体系に利用していたり、あるいは大槻ケンヂ氏は神戸連続児童殺傷事件について「自分も一歩間違えば少年Aになっていたかもしれない」と言ったりと、当時の事件とサブカルチャーはかなり近い場所にあったのです。

(より当時の雰囲気を詳しく知りたい人には、竹熊健太郎氏の『私とハルマゲドン』という本を勧めます。

ただ、そうはいっても当時はまだ、理念的に「社会全体で『正しさ』とか『理想』みたいなものが失われている」という段階で、それに不安を抱くのは、正直頭でっかちな「純真まっすぐ君」ぐらいでした。むしろ多くの若者は、そんな正しさなんてどうでもいい。ただ今を楽しく生きていればそれでいいじゃんと思って暮らしていたわけです。宮台氏はむしろそういう若者たちこそ希望だと考え、「終わりなき日常を生きろ」

なんていっていたわけです。

ところが、2000年代になっていくと、そうやって終わりなき日常を華麗にサバイブしていたかのような女子高生たちもどんどん心を病み、「メンヘラ化」していったわけです。


jinbun.hateblo.jp

 まず宮台はこのような戦略をとった。「(生きる)意味」を求めるからこそ、このような惨事が起こる。ならば「意味」を放棄し、「(生きているという実感の)強度」を求める生き方をすればいいのではないか。

 そのような「意味から強度へ」戦略のベンチマークとして宮台は、「ブルセラ少女」を紹介する。彼女らは、「生きる意味」なんて大層なものは求めないし、「未知なる未来」なんて必要ない。彼女らにとって大切なのは「今を楽しく生きること」である。

 その「強度」を高めることを価値とすれば、オウムのような事件は回避できるのではないか。

 しかしこの「意味から強度へ」戦略は、10年も立たない内に崩壊する。宮台が紹介した「ブルセラ少女」が、次々と「メンヘラ女性」に変貌し、自殺を図ったからだ。

 結局、「(生きる)意味」なしで人は生きていけない。それを回避しようとすると、「終わりなき日常」の「あいまい化」した世界に耐え切れず、精神を病んでしまう。

この時間差が一体何故だったのか。それはまた別の問題なので置いておきます。一つ言えるのは、1990年代は頭でっかちの「純真まっすぐ君」の問題だった、「理想や正しさが存在しない社会でどう生きるか」という問題は、2000年代以降、消え去ったのではなく、むしろあらゆる人々に普遍的な問題として現れるようになったということです。

フォロワー数という、神なき時代の「バイオモドキ神」

そして、そんな「正しさが存在しない社会で何を信じるか」、つまり、ゲームに出てくるキャラクターにとっての「(バイオモドキ)神」として現れるのが、まさしく「配信のフォロワー数」なのです。

もし、ゲームに出てくるキャラクターたちが「ただ楽しければどーだっていい」と思うなら、それこそただ薬物に頼ったり、あるいは性行為による快楽に身を委ねていればいいでしょう。実際、このゲームではそういった選択をとり、そのようなエンドを目指すこともできます。しかし、多くのプレイヤーは最初から望んでそのようなエンドに行こうとは思わないでしょう。現実の私たちがそうであるように、ゲームをプレイするプレイヤーにとっても、そのような行為はあまりに「無意味」だからです。

このゲームにおいて、「一体どの選択肢を取るべきなのか」ということを指し示す意味あるものは唯一つ、「配信のフォロワー数」です。だから、他のパラメーターを制御しながらも、以下にしてそのフォロワー数を増やすかということが、キャラクターがゲームの中で配信をする意味であり、プレイヤーがゲームをプレイする意味なのです。

そして、実はこれこそ、まさしく現代における「正しさ」の在り様なのです。これは、配信やSNSでのフォロワー数といったことも含みますが、それだけではありません。例えインターネット外でも仕事の場でも常にKPI(重要業績評価指標、Key Performance Indicator)という形で定量化された成果を出すことを求められ、プライベートでもQOLを向上することこそがやるべきこととされるわけです。

とにかく、「成果」を出すことが重要であり、そしてその成果は数値化されるものであることが、人々のライフスタイルにおいて重要になっているのです。

ですが、ここで問題になるのが、そのような「数値化された成果目標」は、事後的に「自分が行った行為が正しかったか」を判定し、そしてその判定によって「だからこれから先こうしたほうが良いかもしれない」という予測の材料にはなっても、「その時点でそう行動することが正しい」ということを保証するものではないということです。

実際、このゲームをやっていると「この前はこういう選択肢を選んだら良い反応帰ってきたから、次も似たような選択肢を選ぼう」と思っても、それがフォロワーすを増やすのに正しい選択肢ではない、ということが多々あります。ちょっとエッチな配信を行ったらいい反応が帰ってきたからといって、より過激な方向に舵を切っても、逆に引かれてしまったりというような感じで、「配信のフォロワー」という神は常に不確実性を含み、予測と反する行動をするリスクを持つ存在なのです。

そしてそうであるがゆえに、「正しさ」を求めてフォロワー数という神を信じる行為が、むしろその神に振り回され、「自分がどうあればいいのかわからない」という不安を生み出し、そしてその不安を解消するためにさらにフォロワー数という神にすがるという、負のスパイラルが生まれるのです。

つまり、構造的に「フォロワー数」というバイオモドキ神は、その神にすがる限り、メンタルを悪化させ、「メンヘラ化」を促進してしまうわけです。

このゲームで、例えハッピーエンドにたどり着いたとしても、それを信じられない根本原因はそこにあります。例えプレイした30日間がたまたまうまく行ったとしても、「フォロワー数を意味あるものとする」というシステムがある以上、それは必ずやがて破滅へといきついてしまうのです。

「フォロワー数という神」から抜け出しても、そこで待つのは「僕のカルト宗教」

このように書くと、読者の中には

「では、「フォロワー数」なんて気まぐれな神ではない、もっときちんとした「正しさ」を信じれば良いのではないか?」

と思う人がいるかもしれません。しかし、そこで問題となるのが

「ではその『正しさ』は一体誰が保証してくれるの?」

という問題です。
このゲームのエンドの一つに「陰謀論エンド」というのがあります。最初フォロワー数を増やすためにネタとして陰謀論を取り上げていたはずが、取り上げているうちに本人がその陰謀論を信じ込んでしまうというエンドです。このエンドでは、フォロワー数は関係ありません。

このエンドは、一見荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし僕は、実は一番このエンドに、自分と近いものを感じたんですね。具体的に言うなら、1990年代に小林よしのりとかにのめり込み、『戦争論

とかを読んでいた自分に。

前回の記事
amamako.hateblo.jp
の後半でも述べましたが、「社会の中での正しさの不在」に対し、先駆的に警鐘を鳴らしたのは、小林よしのりや、そのブレーンである呉智英浅羽通明大月隆寛(さらに言えばそれら人々を取り上げた町山智浩)といった人たちでした。彼らは、ある時点では「まったり生きればいいじゃん」と言っていた宮台氏とかよりは、「正しさの不在」という問題が人々の実存に与える悪影響を、より深刻に捉えていました。
しかし、そこで深刻に捉えていたが故に、彼らは歴史修正主義ナショナリズムにのめり込んでいき、そしてその延長線上に、ネット右翼や、Qアノンといったカルトを生み出してしまったわけです。

社会の中でもうすでに「正しさ」が失われてしまっている以上、そこで観念的に「正しさ」を生み出そうとしても、それは自分たちの共有する偽史の上にしか生み出せないわけです。そしてさらに言えば、そのように生まれた「正しさ」は、その正しさに同意できない他者の、存在そのものを排除することでしか成り立ちません。

しかし、そうやって作られた「正しさ」は、たとえどんなにうまく言い繕おうとも、結局オウム真理教や、あるいはナチスのようなカルト的なものにしかなりえないわけです。

張り巡らされた絶望から抜け出すためにー「顔のある多様性」をいかに取り戻すか

このように、このゲームをプレイしているとひたすら、いかに今の社会が「病まずにいられない」空間であるか、ということを痛感してしまうわけです。

ですが、そうやって絶望しているなかで、このゲームをプレイしたあるVTuberが、こんな感想を言っているのを目にしました。

「なんでこのあめちゃんは、彼ピの方ばっか向いて、視聴者と向き合わないの?」と。

最初何言ってるんだと思いました。あめちゃんはむしろ彼ピよりフォロワー数ばっか気にしてるじゃんと。

でも、そこでふと気づくわけです。あめちゃん、フォロワー数はほんと気にするけど、「フォロワーがどんな人間で、どんな気持ちでコメントしたりリプしたりしているか」については、類型的に「オタク」とかいうカテゴリーに押し込めるだけで、全然見ようとしてはいないということを。

これは、実はゲームシステムがそう仕向けていたりもします。コメントやリプライは、確かに見えることは見えるんですが、見えるのは発言単体だけで、その人にプロフィールとかはシステム上見ることができないんですね。あくまで有象無象の「発言」だけが見え、それが一体どういうバックグラウンドのもとでされているかは、全然見えてこないんです。

そして見えないからこそ、それを「数値」としか捉えられなくなるわけです。そして、数値としてしか見えないからこそ、その上下に不安になってしまう。

このゲームのキャラクターは「承認欲求」ということを盛んに口にし、承認欲求を満たすために大量のフォロワーが必要なんだといいます。ですが、本当に承認欲求を満たすために必要なのは、「大量のフォロワー」なのでしょうか?

「彼ピがいればそれでいいじゃん」というのは確かに間違っています。それはただの共依存だし、そこに根拠がない以上、結局「常に相手の愛を確認してしまう」という不安定な関係にしかなりえません。

ですが、そこに彼ピとは違う第三者が、お互いに気持ちを察することができるような「顔の見える場所」にいれば、また異なってくるでしょう。そしてその第三者が複数であり、かつ価値観に多様性を持っていれば、さらに安定性は増すでしょう。

実は、本当に必要な承認とは、そのような「顔が見え、多様性がある複数の第三者による共同体」における、「そこにいてもいいよ」という安心感なのではないか。

実は、このようなことは、社会学の引きこもりについての研究でよく言われることだったりします。

「承認欲求」を求める状態とは、社会学的に言えば「存在論的不安」を抱いている状態だと、イギリスの社会学アンソニー・ギデンズは述べています。つまり、「じぶんはここにいてもいい」という安心感が得られないから、「ここにいていいって言って」と他者に求めるわけです。

そして、「ひきこもり」とはまさにそのような存在論的不安を抱えた存在なわけです。よって多くの精神科医は、「まず家族の人たちが『いてもいいんだよ』と認めてあげることが重要です」と述べたりします。

ところが実際は、そうやって家族内で問題を解決しようとしても、ひきこもりはまず良くならないんですね。なぜならそこで家族と引きこもり当事者の間には、先に述べたような病的な共依存関係が生まれてしまうからです。

そこで困った家族は、「引き出し屋」と呼ばれる人たちに、無理やりひきこもりを外に引き出して、鍛え直してもらおうとします。しかしそんなショック療法をしても、「存在論的不安」は強まる一方ですから、結局当人のメンタルヘルスを破滅させる結果にしか繋がらないわけです。

news.yahoo.co.jp

重要なのは、「ひきこもっててもいいから、家族以外と関わりを持つ」ということです。それは、例えば好きなアニメのファン同士のチャットルームに入り浸るとか、あるいはゲームの仲間のオフ会にでかけてみるとかでも良いです。そういう「家族とは異なる第三者」と付き合うことが、実は引きこもりから抜け出す、一番の治療法なんですね。

配信者でもそれは同じことです。最近、とくにVTuberでは、ホロライブやにじさんじ、774incのように、企業に属したり、あるいは個人VTuberでも、ゆるやかなネットワークを作る動きが盛んです。このような動きを批判する人もいますが、しかしそのように、「顔の見える仲間」を作ることっていうのは、配信においてメンタルヘルスを保つために、実はすごい重要なんじゃないでしょうか。例えどんなに配信で顔の見えないリスナーに叩かれて炎上しても、「おかえり」と言ってくれる場所を持つこと、それこそがこの誰もが病んでしまう現代インターネットをサバイブするの重要なことなんじゃないかと、思うわけです。

VTuberがこのゲームをプレイするときに、口を揃えて言う言葉があります。

「フォロワー数少ないってあまちゃんは言うけど、十分すごい数だよ」と。

なぜ彼・彼女らがそう言うかといえば、例え数十人のフォロワーでも、その数十人を「顔のある人達」として思えば十分すごいことだとわかっているからなわけです。百万人という数字を目指すより、まずは今見てる数十人と向き合おうよと、そう言うわけですね。

もちろん、そんなのあめちゃんや、あめちゃんに共感する多くのフォロワー数に飢えた若者からしたら「満ち足りた大人のお説教」なのでしょう。ですが、数だけを追い求めていたっていつか病んで、ヘトヘトになってしまうわけで、そんなヘトヘトになったときには、このお説教を思い出してくれればいいんじゃないかと、そう思うわけです。

走り疲れたアンタと 改めて話がしたい
心から話してみたい

BUMP OF CHICKEN - レム

ユグドラシル

ユグドラシル

Amazon

続き

noteのほうにこの記事の続きかきました。
note.com

そしてみんな「病んで」しまった

f:id:amamako:20220123061035j:plain
www.4gamer.net
にゃるら氏が作ったこのゲーム、早速結構話題になっているようで、僕が普段見ているVTuberでも、実際にこのゲームを実況プレイしてみたり、まだしてなくても「これから実況プレイしようかな」と呟いていたりするのがよく見られます。
まあ僕自身、こういうメンヘラとか病み系の美少女キャラクターとか大好きですし、ぜひやってみたいなーとは思うんですけど、しかしその一方で、こうも思ったりするわけです。

「こういうゲームが『面白いゲーム』として安易に消費される世の中って、果たしていいのだろうか?」と。

僕としては、とりあえずどーしてもその思いを書き留めておかないと、ゲームをやろうにも実況プレイを見ようにも、なんかずっともやもやしたものを抱えそうなので、ここに書き留めておきます。

僕たちが生きる現実としての「悪趣味」

このゲームは、ゲームの紹介やら実況動画を見ていく感じ、インターネット上で生配信をする女の子を、その女の子の彼氏として導いていくゲームだそうで、それこそ例えが昔の『プリンセスメーカー

のインターネット配信者版みたいなゲームっぽいです。

ただこのゲームの特殊なところは、そこでインターネット配信者としてネタを見つけたり、あるいはインターネットで配信をしていく中でダメージを受けるメンタルを回復するために、例えば薬物を摂取したり、女の子と性行為をしたり、陰謀論を教え込んだりするということが、できることなわけです。

そしてその結果として、薬物を過剰摂取(オーバードーズ)してしまったり、性依存に陥ってしまったり、陰謀論者となってしまうみたいなエンドもある。

まあ、このように書くと普通の人なら「なんて悪趣味なゲームなんだ」と思うでしょう。実際僕も悪趣味だとは思うわけですが、しかし一方で「でもこれって、インターネットで生きる若者のリアルだよなぁ」と思ったりするわけです。

もちろんこれはあくまでゲームですから、過剰にカリカチュアしている部分はもちろんあります。しかし、実際自分の友人とか、あるいは自分がインターネット上で動画を見ている配信者のことを思い浮かべても、薬物の過剰摂取だったり、うつ病、性依存症とかいった形でメンタルを病んでしまっている人は本当に多く見かけますし、また陰謀論であったり、政治的に極端な思想に行ってしまった人とかも多くいるわけです。

というか、むしろそういう「正常から逸脱してしまった部分」を全く持たず、健康的に生きている人のほうが、接している人の中ではむしろ少数派なんではないかという気もするわけです。さらに言えば、僕が知るそのような健康な人も、実際は病んでいる部分を隠しているだけなのかもしれないわけで。

僕がもやもやするのはそこで、このゲームで描かれる「悪趣味」が、全く自分の生きている世界と関係ない「悪趣味」さなら、僕も別に何も悩まず「悪趣味だなーこのゲーム」と言いながらプレイすることができると思うわけです。しかし、このゲームの悪趣味さは、あまりに僕が生きる世界と地続きすぎるわけで、そんな悪趣味さを、例えゲームの中とはいえ脳天気に楽しんでいいのかどうかということが、自分の心の中でもやもやするのです。

「病み」があこがれの対象になるということ

そして更に僕がもやもやする、このゲームをプレイしたり、あるいはこのゲームをプレイするYouTuber・VTuberの動画を見る人にとっては、このゲームで描かれる「病み」って、実は憧れる対象になってしまっている、ということです。
実際、ここまで悪趣味に描かれなくても、精神的に不安定であることを「病んでる」とか表現したり、自分がポルノに依存している「ポルノ依存」であることを告白したり、陰謀論といった「オカルト」知識が豊富であることを、自分の個性として売りに出しているライバーは多くいて、そして実際に人気になったりしているわけで、このゲームで描かれるように、「病む」ことと「インターネットで多くの人に承認されること」というのは、実際トレードオフな関係だったりするわけです。
そして、そういう人気あるライバーに憧れる人たちが、「インターネットで承認を得るならこういうふうに『病む』ことが重要なんだ」と考え、一生懸命病もうとする、そんな流れが、実際あるわけです。

ただここで注意したいのが、僕は「『病み』を個性とすること」を一概に否定したいわけではないということです。というか憧れようが嫌おうが、社会の中の正常についていけず病んでしまう人というのは、必ずいるわけで、そういうひとが普通の社会では得られない承認と尊厳を、インターネット上で「面白い個性」として得ることができる、これ自体は、僕は肯定したいわけです。

ただ、そうはいってもやっぱり「病んでいる」よりは健康であるほうがいいはずなんですよ。まあ、昔の僕なら「健康なんてダサい!病んでることこそ最高!」とか言ってたでしょうが、しかしそうはいっても、気分が落ち込むよりは晴れやかであるほうがいいし、なにかに依存しているよりは依存していない方がいい、陰謀論にはまって周囲に迷惑をかけるのはやっぱり良くないと、思うわけです。「病んでいる」ときの休息場所としてインターネット空間があるのはいいが、しかしそこで休息を得たあとは、きちんと病いを治癒して健康になるのがいいんじゃないかと、今の僕は思うわけです。
しかし実際は、むしろインターネットで人気を得続けるには「病み続ける」ことの方が正解になるわけです。そして、インターネットで人気を得たいと思う多くの人々は、だからむしろ進んで「病もう」とするわけです。

このゲームは、そういったインターネットの現状を、ただ「面白いもの」として肯定しているように見える。そこが、僕のもやもやポイントなんですね。

私達の社会は「正常」を失った

でも、そこでじゃあ「今のインターネットを肯定する」以外の描き方があるのかと言われれば、ないのもまた、今のインターネットの現状、というか、現代社会全体の状況でもあるわけです。

「病み」、「性欲求の肯定」、「隠された真実の追求」といった、今の社会から逸脱した表現・表出が、大衆のサブカルチャーに浸透していたのは、1960〜70年代でした。いわゆる「カウンターカルチャー」というものの全盛期で、工業社会・家父長制といった、社会全体の支配的な価値観・システムに対する反抗として、それらの表現・表出は行われるようになったわけです。

しかし、1980年代になると、むしろそういったカウンターカルチャーこそが社会の全面にあられるようになっていった。「標準に沿うこと」こそが重要視される工業化社会から、「標準から差異化する」ことが求められるポスト工業化≒情報化社会になるにあたり、むしろ「いままでの社会と違うことをやること」こそが求められるようになったわけです。

ところが、1990年代になると、むしろそうやってどんどん差異化を求めていた結果、実は人々は疲弊しおかしくなっていったんではないかと、一部の人々が気づきはじめたわけです。そしてその人々は、それまでのただ「差異化」を求め奇異な方向に進化していく方向を否定し、むしろ「一人の職業人として真っ当に生きろ」「日常に帰れ」と言い始めた。

ところが、そうやって彼らが「帰れ」と叫んだ先の「真っ当な生き方」というのは、しかし現代においてはもはや持続不可能なものだったわけです。「一人の職業人として生きろ」と言われても、産業構造の変化の中でもはや従来の「職業人」なんてのはリストラ対象でしかなくなるし、昔の標準家族に戻ろうとしても、もはや経済的に共働きでない家庭なんてありえない。

そんななかで、無理やり「標準」「正常」なるものを求めようとすると、「古き良き戦前の日本」なんて歴史修正主義にすがるか

あるいは「高度経済成長期の夢よもう一度」なんてノスタルジーにすがるしかなくなる。

しかしそれらも結局、ネット右翼日本会議的な陰謀論にしかならないわけです。

でも、そんな人々を「頭悪いネトウヨどもwww」として笑う僕らは、じゃあ彼らの「正常さが社会から失われている」という問題意識に答える事ができているのか?

「多様性が大事」「多様性が認められない古いおじさんは価値観をアップデートしなきゃ」というけれど、「みんな違ってみんな良い」という世の中は、その実「どうやって幸せになるかはその人の自己責任」と言ってるだけなんじゃないのか?

少なくとも昔は、「このレールに従って生きれば幸福になれる」という道が指し示されていた。もちろんそれは、逆に言えば「このレールに沿って生きられない人は不幸になっても仕方ない」という残酷な切り捨てと表裏一体だったわけだけど。

でも今はそもそも「ただそれに沿っていれば幸福になれるレールなんて存在しない」社会なわけで。

上記で挙げたゲームは、「インターネット」に焦点を当てたゲーム。だけど、インターネットをやめても、この社会全体が「病んでいる」としたら、逃げ場は結局ないんじゃないか?

そんなことを考えると、「この今のインターネットを肯定する」ことが本当にいいのか?と、僕は悩んでしまうのです。