あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか

経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、れいわがブームな今だからこそ、改めて問いかけてみたい。

anmintei.net

やすとみ氏については毀誉褒貶色々あるけど、この記事自体は色々面白かった。れいわが何であれだけ左右問わず既存の政治関係者から嫌われているのか、にもかかわらず、それが、僕を含めたある種の人々(この記事では「無縁者」と呼ばれている)を惹きつけるのか、わかった気がする。

ただ、今回とりあげたいのはその話ではなく、この記事についた、以下のようなコメント。

b.hatena.ne.jp

rna 富国強兵と経済成長をごっちゃにしてるところで読むのやめた。 

 preciar 頭の悪い文学系らしいクソポエム社会認識。何が富国強兵より子供、だ。技術と経済の発展がなけりゃ人が死ぬんだよ。/れいわの評価点は経済だけなので、こんなパープリンを混ぜるのは勘弁してほしい 

 「経済成長こそが大事だ」っていうのは、確かにれいわのブレーンの一人である松尾匡氏なんかも散々言ってることなので、まあこういう意見も出てくることは当然予想できます。

ですが、一方でれいわのもう一つの側面、特に今回当選した二人の障害者に対して散々言ってる下記の言葉からすれば、そりゃ当然こういう成長否定論になるだろうと思うわけです。

www.nhk.or.jp

生産性で人間をはからせない世の中を目指すことと、経済成長こそが一番大事だとすること、この二つは両立するのか、僕は大いに疑問なんですよね。

だって、「生産」することなしに経済成長なんてありえないでしょう?こう書くと、ちょっと経済学をかじった左派経済学者は「いやいや生産という供給ではなく需要が問題なんだ」ということを言います。ですが、需要ばっかり高めても生産が一切増えなかったら、経済がうまく回らなくなることは、流石に僕だってわかりますよ。今の経済状況がどうかはひとまずおいておいて、原理の話だけするなら、供給と需要、つまり生産と消費、その二つが共に増えていくことが、経済成長の必要条件なわけです。ということは、「経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」なわけです。

となれば、そういう社会は、「どれだけ何かを生産しているか」「どれだけ何かを消費しているか」でもって人間をはかるようになるわけで、やはり生産性で人間をはからせない世の中とは両立しないんじゃ、ないんですかね?

もちろん、僕は経済学が、大学時代様々な社会科学をかじった中で一番苦手だった学問だったので、経済学に詳しい人からすればツッコミどころだらけでしょう。

ですが、じゃあそういう人は、経済成長ってなんなのか、それが人々に何を強いるのか、マクロな政策の次元ではなく、ミクロな行為の次元で語れるのでしょうか?

amamako.hateblo.jp

なぜ経済成長論争がこんな風にレッテル貼り対決にしかならないか。それは、結局経済成長肯定派も否定派も、経済成長それ自体や、その経済成長を人々に強いる、または脱成長を人々に強いるということが、人々のミクロな生活(労働だったり余暇だったり)をどう方向づけるのか、価値表明の前の事実認定の段階での合意形成が取れていないし、取る気もないからではないでしょうか。
いや、マクロな面で言えばそりゃ経済成長の定義っていうのは明白なんでしょう。国内総生産が前年と比べて増加すれば経済成長?とかそんな感じなんでしょう。
しかし、そうやってマクロな現象である経済成長が、人々の一体どういうミクロな営みによって形成されているのか、経済成長が人々を幸福にするか不幸にするか問うなら、まさにそういうミクロな視点から見た経済成長論こそが重要なはずなのに、経済成長肯定派も否定派も、そういうミクロの営みについてはほとんど語らないわけです。

……

なぜこういう風にミクロな観点から経済成長というものが生活に占める位置を確定させることが重要なのかと言えば、こうやってミクロな意味をはっきりすることで初めて、「では人々は経済成長を選択すべきか否か」がわかるからです。
例えば上記の定義に従って言うならば、経済成長を肯定し、経済成長を推し進める政策とはつまり「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことを奨励し、人々にこのように振る舞うよう条件付ける政策ということになります。そして逆に言えば、経済成長を批判し、脱成長を推し進める政策とはつまり、「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことをむしろ悪いことだと考え、人々にこのようにしないよう条件付ける政策ということになります。
このように具体的に、人々の生活をどう条件付けるかが分かって初めて、そのどちらを選ぶか判断ができるわけです。

僕がこの記事を書いたのは今から2年前ですが、 しかしこの記事に対して経済成長肯定派が返答することはありませんでした。もしかして答えられるものがないのでしょうか?だとしたら、実際に経済成長を推進することが、人々のマインドをどう規定するかわからず、ただ「経済成長」という概念を神様のように崇めてるだけなんじゃないの、それって経済成長真理教と何が違うの?と批判されても、仕方ないでしょう。

だから、れいわ支持者を含め、「経済成長こそが一番大事だ」と考える人は、経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、両立するとしたらそれはどんな社会で、そこで人々はどんなマインドで生きることになるのか、是非答えてほしいとおもいます。

が、まあおそらく、前回の記事と同じように、この記事も黙殺されるんでしょうね。

障害者の家族こそ、障害者の敵である(少なくとも、ある側面では)

どうも、あままこです。

もう、本来だったら前回の記事に引き続き天気の子の話をしたいんですが、twitterを見ていて、あまりに腹が立つというか、「リベラルの中でさえ未だこのレベルなの!?」と落胆するような出来事があったので、記事を書きます。

きっかけはこのツイート。

 このツイートを、木上ちがやとかいう大月書店から本を出したり、論座に記事を書くような人が、以下のように擁護するわけです。

 これを見たとき僕は愕然とするわけです。

「障害者の家族が障害者の意見を代弁したり、障害者の権利を擁護することなんてできない。なぜなら、障害者の一番の敵は、障害者の家族だから」

こんなの、ちょっとでも障害者問題に関心があったり、障害者に普段接する機会があったら、当たり前のことなんですが、大月書店から本を出したり、論座に記事を書くような人、僕よりずっと勉強してるような人が、それを知らないなんてことあるのかと。

障害者の家族は、むしろ障害者が意見を言うのを嫌がる。面倒だから

告白すると、実は僕自身、障害者の家族です。具体的に言えば、知的障害を持つ者の兄です。

ですが、僕は今まであまりネットではそれを公言してきませんでしたし、さらに言えば、障害者の権利擁護や差別反対といった活動からも、敢えて距離を取ってきました。

なぜか?

「障害者の家族」だから、障害者のために頑張りなさい。障害者の意見を代弁してやりなさいという、世間の声がうざかったからです。

一般的な社会問題としてなら、別に障害者の権利擁護とか差別反対には何ら反対しません。ですが、じゃあ実際、家族である障害者が、そういう声を上げ始めたらどう思うか?分かるでしょう。「面倒くさいなぁ、やめてくれないかなぁ」ですよ。

「そう思うのはお前が薄情で冷淡なだけ」と言う人もいるかも知れません。まあ自分が薄情で冷淡な人間であることは別に否定しませんが、じゃああなたがもし障害者の家族だったら、どうですか?

例を挙げて説明しましょうか。実際にあった例です。

僕と弟はある日遊園地(具体的に言うと、浅草にあるやつ)に行きました。その遊園地では、障害者割引があったため、弟はその障害者割引を使って入りました。

するとその遊園地では、バッジを弟の胸につけました。そしてこう言います。「障害者は、いざという時に危険だから、ローラーコースターやフリーフォールみたいなアトラクションには乗れませんと」。

それに対して弟は激怒するわけです。いや別に自分は身体に障害があるわけではないから、別にそういうアトラクションにも普通に乗れると。事実他の遊園地では普通にローラーコースターやフリーフォールみたいなアトラクションにも乗っている。これは明らかに、障害者に対する合理性のない差別だと。

そして弟と遊園地のスタッフの間で口論が始まるわけです。

それをそばで眺めていて僕は何を思ったか?「そうだ弟の言うとおりだ。これは差別だ」と弟と一緒に憤る?「いやでも遊園地のスタッフの言う通り危険かもしれない」と、遊園地側に理解を示す?

答えはこれ。

そんなのどっちでもいいよ。なんで遊園地を楽しみにしてたのに、こんな口論をしなきゃならないのさ」ですよ。

だって別に弟が我慢さえすれば、僕は普通に自由にいろんなアトラクションにも乗れるんですから。さらに言えば、口論をしてれば当然周囲からはいろんな目で見られます。遊園地のスタッフからは「なんとか弟さんを説得してよ」という目で見られるし、周りの人からは「なんかクレーマー二人が遊園地のスタッフにクレーム付けてる」という目で見られるわけです。

そんな状況に至れば、人間「面倒くさい」と思うわけです。そしてそういうことが何回も重なるうちに、障害者の家族はこう思うわけです。「こいつが黙ってさえいてくれれば、全てが丸く収まるのに」と。

だから、障害者のことは、家族ではなく、障害者自身に聞かなければならない。障害者のためにも、家族のためにも

もちろん世の中には「いやそうは思わない!私は障害者のために自分を犠牲にして頑張っている。」と主張する障害者の家族もいるでしょう。ですがね、そんなの人間が耐えられるわけないんですよ。必ずどこかで、「障害者のため」と言いつつ、自分のためにする行為が混ざってくるわけです。ていうかむしろそれが人間として健全なありようなわけで、その健全な有り様を否定すればどうなるか?障害者の家族によくある話。「これはあなたのためを思ってやってるんだから」という暴力・虐待です。

しかし世間はそれに対してこう言います。「障害者で同じ家族なのになんでこんなひどいことを。愛が足りないんでしょ」と。そして、更に障害者の家族に、障害者のために自分を犠牲にしろ、それが家族の正しい姿だと、圧力をかけるわけです。

もうこんなの、やめにしませんか?

障害者のことは、家族や、支援者ではなく、障害者自身が語るべきなんです。意見や要求を主張するのも、まず第一は障害者自身が声を上げるべきなんです。

そして障害者の家族は、「障害者」の意見や気持ちを代弁なんかできないということを認め、「障害者の家族」としてではなく、「自分」の意見を持ち、自分のために生きるべきなんです。

そのためには、まず社会が、障害者に意見を聞く時に、障害の当事者ではなく、まず家族や支援者に意見を聞こうとするのをやめるべきでしょう。障害者の家族が「障害者のためを思って〜」とか言うときは、むしろ「それは障害者本人ではなく、あんたの意見でしょ」と、遠慮なく批判すべきです。

そうやってこそ、真に障害者と、障害者の家族が両方幸せになれるのではないでしょうか。

「障害者の家族で苦労してるんだから、それを批判するのはよくない」という偽善的態度こそが、何より障害者と、障害者の家族を追い詰めるのです。

「天気の子」を見に行ってきて、おもいだしたこと(ネタバレ無し感想)

「天気の子」、公開初日の午前9時から見に行ってきました。

https://www.instagram.com/p/B0FMcvsg_nc/

というわけで『天気の子』見終わったー!百点満点中一億兆点!出来れば梅雨のうちに見て!


はい、もう声を大にして言いたい。今を生きる人間なら、絶対これはリアルタイムで見に行くべきだ!と。


なぜ見に行くべきか?これは、「あなたのための映画」だからです。

 

前作の「君の名は」は、「みんなのための映画」でした。あの震災を経験したみんなが、漠然と思っていた「世界はこうあってほしい」と、エンターテイメントを求める中で、それに見事答えた作品です。つまり、万人が共通して持っている要素に働きかける作品だったんだと、僕は思っています。

しかしそれに対し、今回の「天気の子」は、決して万人に受け入れられる、そんな作品ではないです。しかし、少なくとも、このブログに辿り着いた人なら、それがどういう形であれ、「刺さる」部分を持つ、そんな尖った作品になっています。

もちろん、具体的にどういう部分が刺さるのかというのは、ネタバレになってしまうので詳しくは言えません。ですが、例えばこの予告編


映画『天気の子』スペシャル予報


この予告編をみて、「そうそうこれが新海誠なんだよ。だから新海誠が好きだ」と思う人、あるいは、「こんな作品ばっかだよな新海誠は。だから新海誠は嫌いなんだ」、そういう人は、まさしく今回の作品を見て、今の新海誠が、過去を礎にどう人々にメッセージを送ろうとしているのか、そして自分はそれをどう受け取るのか、確かめるべきです。
あるいは、新海誠に全然思い入れが無かったとしても、思春期をくぐり抜けたり、今思春期真っ最中という人には、ぜひ見てもらいたいです。
更には、年齢とか関係なくこの社会に息苦しさを感じてる、そんな人にも見てもらいたいし、あるいは逆に、今の社会万歳!と思っている人にも、この作品の問いかけを聞いてほしいと思います。


とにかく、もしあなたが、「物語」というものに、人の心を揺り動かす力があると信じていたり、揺り動かされる人間ならば、断言しましょう、この「天気の子」という映画は「あなたのための映画」なのです。


では、「天気の声」のどういう部分が僕に刺さったのか、ネタバレにならないように、敢えて「天気の子」の作品のあらすじには一切触れない形で、語ってみましょう。


 「天気の子」を見に行ってきて、おもいだしたこと

「天気の子」を見に行ってきて、僕は、中学・高校の頃を思い出したんですね。なぜか?答えは単純で、「天気の子」の主人公の男の子が行く新宿のマクドナルド、あそこに僕もよく行っていたからです。
その頃の僕は、東京から新幹線で一時間半ぐらいのところにある地方暮らしでした。島ぐらしだった主人公の男の子よりは恵まれた環境だったかもしれませんが、それでも、地方の中高生がだいたいそうであるように、僕も、地方での生活に息苦しさを感じる日々でした。それで、長期休暇にはよく、宿のあてもなく東京に飛び出てきて、それこそネカフェやマクドで一週間ぐらい寝泊まりする、そんなことをやっていました。
東京に出れば何かが自分のこの息苦しさを振り払う出来事が起きるだろう、そんな期待もちょこっとありました。もちろん、そんな期待は成就することはなかったわけですが。


ただ、そんな中で、東京にいるということをネットでつぶやいたりすると、時たまネットの向こう側から「じゃあ会わない?」みたいな声がかかることがあります。今考えれば、そんな怪しい誘いに乗るなんて危険なことよくやっていたと思いますし、事実、トラブルもまあまあありました。

ただ、それでも会いに行くと、そこでは様々な人に出会いました。同年代の人と会うこともあれば、全然年下だったり年上だったりする人と会うこともあります。ただ、その全てに共通して言えるのは、大体「まともじゃない、社会から外れちゃった人」ということです。未成年だろうがタバコやアルコールはみんなほぼやってましたし、学校や会社にまともに行ってなかったり、行ってたとしても、そこでの暮らしは「擬態」なんだと言い切っていたり、はては、このご時世に暴力革命の夢を見る運動家だったり……彼らには、「今の社会のために自分を犠牲にする」という考えがはなからありませんでした。彼らの生活の様子をネット上にアップすれば、それだけで炎上しそうな人たちです。社会が何だ、俺/私はやりたいようにやりますよ、そんな人たちだったのです。しかし、そんな「社会から外れちゃった人」の間にいると、不思議と息苦しさが、なくなったのです。

……しかし、そんな思春期はやがて過ぎ去り、ぼくは、一応年齢的には大人、というかおじさんの年齢になりました。当時の付き合いで、今も続いているものは殆どありません。時折、風のうわさで、お彼岸に行ってしまった人が出たことを聞くぐらいです。

 

そして、息苦しさは今なお消えません。ただ、年をとって、その息苦しさをうまくやり過ごすすべは身につけました。「誰も一人で生きてなんかいない。みんなで助け合って生きているんだ」とか言ったり、「誰かが犠牲にならなきゃいけないんだ」と諦めてみたり。幸い、世間の物語で、そういうメッセージを助けてくれるものは山程あります。まさしく、「大人のための、ビターな物語」というやつです。5人を救うために1人を殺すポイント切り替え。

 

……「天気の子」は、そんな今の僕と、そんな今の僕をきっと蔑んでる、あの頃の僕への物語なんだと、僕は勝手に、思い込んでいるのです。

おまけ

増補改訂 アースダイバー

増補改訂 アースダイバー

 

 新海誠氏がツイッターでこの本が陳列されている本棚の写真をアップしていましたが、「天気の子」を見る人で、人文系の本に抵抗がない人は、見る前でも見たあとでもいいんで、この本読むと、「あーそういうことか!」とわかることが多々あると思います。詳しくは、これもネタバレになっちゃうので言えませんが……

夢見りあむって誰?ザコメンタル?炎上経験がある?曲は?声優は?好きな漫画は?調べてみました!

2019年2月7日に『アイドルマスターシンデレラガールズ』というゲームに初登場した夢見りあむというアイドルが、「ほんとすこ」、「まじ無理」、「こういう子いるいる」、「古傷を思い出す」、「ひどいことしたい」などと、様々な形でtwitterで話題になっています!

この記事では、そんな夢見りあむがいったいどんな子なのか。調べてみました!

夢見りあむのプロフィール

アイドル名 夢見りあむ
フリガナ ゆめみりあむ
年齢 19
身長 149cm
体重 リンゴたくさん
B-W-H でっかい-ふつう-たぶんふつう
誕生日 9月12日
星座 乙女座
血液型 AB型
利き手
出身地 やさしい世界
趣味 夜中の意味深ポエム、現場参戦

夢見りあむ - アイドルマスターシンデレラガールズwikiより)

出身地が「やさしい世界」っていうのは一体どういうことなんでしょう?趣味が「夜中の意味深ポエム、現場参戦」ということですが、一体どんなポエムを書いてるのか、気になりますね!

ザコメンタル?

夢見りあむちゃんは特技が「ザコメンタル」ということで、他にも

  • マウントとられて…めっちゃやむ!
  • 学校続かなかったしこれでアイドル向いてなかったら本気でやむよ!?頼むよPサマ!ぼくを救って!その力でアイドルにして!!!
  • アイドルはメンタルに効くんだよ特効薬だよ!財布にダメージだけど!

などと、様々なセリフで、メンタルが不安定なことをほのめかしています。 ただ、一方でりあむちゃんはこんなことを言っています。

ということでtwitterでは、「りあむちゃんはファッションメンヘラ」「病気じゃない。ただクズなだけ」などと言われています。

[https://twitter.com/Az_91/status/1093689536909996034:embed] [https://twitter.com/tnta_mcas/status/1093517019708719105:embed]

本当のところはどうなんでしょう?とっても気になりますね!

炎上経験がある?

夢見りあむちゃんは「炎上でもいい!目立ちたい!」と言っています。

しかしその一方で、

  • 意見はマシュマロに包んでそっと投げてほしい…甘い言葉だけくれ
  • ネットで叩かないでほしい!!
  • え、ネット炎上してる?何で!?

というように、実際に炎上するとうろたえてしまうようです。

twitterでは、夢見りあむちゃんが一体どんな炎上をしたのか、様々な想像がされています。

一体どんな炎上をしたんでしょう?とっても気になりますね!

曲は?

アイドルといえば歌!ということで夢見りあむちゃんが一体どんな歌を歌うのか?とっても気になりますね!

しかし 2019年2月8日現在、まだ発表されている曲はありません。残念……

しかしtwitterでは早くも、夢見りあむちゃんにどんな曲を歌ってほしいかなどが、話題になっているようです!

www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com

大森靖子神聖かまってちゃん倉橋ヨエコ、ナナヲアカリなど、さまざまな歌手の曲が上がっていますが、一体どんな曲を歌うことになるんでしょうね!

声優は?

夢見りあむの声は一体どんな声優が担当するのか、気になりますね! しかし2019年2月8日現在、まだ夢見りあむに声はついていません。残念……

twitterではさまざまな意見があるみたいです。

 中にはこんな声も。

これを受けてはるかぜちゃんはこんなツイートをしています。

……とってもわくわくしますね!

好きな漫画は?

そんな夢見りあむちゃんですが、非公式情報ですが、実はこんな一面もあったりするようです。

これを受けて、知るかバカうどんさんはこんなツイートをしています。

……注目ですね!

なんでここまで好かれるの?

しかし夢見りあむちゃんは一体なんでこんなにネット上で人気を集めるのでしょうか?twitterではこんなことが言われています。

[https://twitter.com/rea_rin/status/1093449681139462145:embed]

要するにtwitter民は自分が今まで出会ってきたり、自分の心の中にある闇を夢見りあむちゃんに投影しているみたいです。

うーん、なんか夢見りあむちゃんがかわいそうですね!

まとめ

いかがでしたか?

今回は夢見りあむちゃんについて調べてみましたが、結局夢見りあむちゃんが本当はどんな子なのか、詳しいことは分かりませんでした。

夢見りあむちゃんの今後に注目ですね!

……

f:id:amamako:20190208154356j:plain というわけで、夢見りあむちゃんについて気になった人は、こんな記事を読んでる暇があったら、さっさとデレマスをプレイしなさい。 www.andapp.jp

「エンパワーメント」なる言葉のうさんくささ

このツイートに対し「いや受け手を不快にするものが全て『広告』として許されないなら、フェミニストたちがさんざん称賛してきたジレットの『男らしさ』広告なんてどうなるのよ」という批判をしたら、多くの人から「いや、ジレットの広告は男性をエンパワーメントするものだが、ロフトの広告には女性をエンパワーメントする気が見られない。だから駄目だ」という反論が多く寄せられました*1。 要するにこの人らの脳内では、「エンパワーメント」の要素こそが、ある表現が許されるか/許されないかを決める、決定的要素となっているみたいです。

しかしねぇ……僕は思うのです。

「エンパワーメント」,これほどうさんくさい言葉も、なかなかねぇぞ?と。

エンパワーメントとは結局、心地よい疑似現実に逃げ込む言い訳にすぎない

エンパワーメントという言葉は、どうやら最近の「意識高い系」の人々の間では流行語になっているようで、Googleニュースで検索してみると、「女性をエンパワーメント」とか、「クリエイターをエンパワーメント」なる言葉がずらずらっと出てきます。

www.google.com

では、「エンパワーメント」なる言葉は一体どういう意味なのか。Wikipediaを引いてみると、次のような定義が載っています。

ja.wikipedia.org

エンパワーメント(empowerment、エンパワメントとも)とは一般的には、個人や集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織的、社会的、構造に外郭的な影響を与えるようになることであると定義される。日本では能力開化や権限付与とも言う。エンパワメントの考え方は昨今大きな広がりを見せ、保健医療福祉、教育、企業などでも用いられている。広義のエンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される。

「人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させること」ねぇ……

まあ、なんていうか……この文章を見て「うわきもっ」と反射的に思えない人とは、正直一生分かり合える気がしません。

大体、もし自分が本当に「それが正しい!」と思ってる信条なら、エンパワーメントなんてされなくてもそれを貫けるはずなのです。もし、「女性の絆は清く美しいもので、そこには打算とか抑圧なんてものはない」と本気で信じているのなら、それが他者の表現でどう描かれようが気にならないはずでしょう。

それが、エンパワーメントされなきゃ信じられないというのなら、それは所詮それまでのことなんですよ。心のどこかで「いやでも女性の絆にも足の引っ張り合いとか普通にあるんじゃないか?」という疑念が心のどこかにあって、それを打ち消したいから、「女性の絆は生来美しいものなのだ!」という表現を、「女性をエンパワーメントするものだ」といって称賛し、そうでない表現を「女性をエンパワーメントしない!」と言って過剰に貶める。そうやって自分の身の回りから、自分の心の奥底に眠る疑念を呼び起こすものを排除し、「やっぱ女性の絆は美しいねぇ」と仲間内で確認し合う。

はっきり言いましょう。「エンパワーメント」とは結局、同調圧力によって現実から目をそらし、心地の良い「疑似現実」に逃げ込む、体の良い言い訳に過ぎないのです。

凡人は、真に世界を変えうる稀人の邪魔をするな

まあ、そうやって心地よい疑似現実の中で一生を終えられれば、それはそれで幸せなのでしょう。しかし、世の中そういう鈍感な人ばかりでできているわけではありません。例えどんなに心地よい「エンパワーメント」で覆い隠そうとしても、その裏にある「見たくない現実」というものを見てしまう人も、世の中にはいるのです。そして、本当に素晴らしい、人の心を揺り動かし、後世まで残る表現を生み出す表現者というのは、まさにそういう感受性を持った人なのです。

そういう表現者の表現というのは、むしろ「エンパワーメント」なる美辞麗句とは程遠いものになります。その表現を受け取っても決して愉快な気持ちにならないし、元気づけられもしない。「夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させる」なんてもっての外です。

でも、「エンパワーメント」なる言葉を無邪気に称賛する輩には一生理解できないことかもしれませんが、こういう表現こそが、この社会で生きづらいと思っている人たちにとっては、この社会をサバイブする「武器」となるのです。そして更に言うなら、「エンパワーメント」的な表現によってしか自分の信条を本気で信じることができない人がいくら集まっても変えることができない現実を、打ち破る力を持つ人は、まさにそういう感受性を持った「稀人」なのです。

僕が言いたいことは唯一つ。「凡人はそういう稀人の邪魔をするな」ということです。凡人たちは自分たちの内輪で散々「エンパワーメント」なるものを称賛していればよろしい。清く正しい人たちが、悪を打ち破る勧善懲悪なポリコレ的物語でも読んで、「とーってもエンパワーメントされました!ポリコレサイコー!」と、目から出る体液の量でしか映画の良し悪しを測れない〇〇どものようにのたまっていればいい。ただ、自分たちの好む物語と違う、その鈍感さでは図りえない表現が出てきたとき、それを邪魔するのはやめてほしいと、そう思います。

「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

LOFTのバレンタイン広告問題、いいかげんこの記事で最後にする予定だけれども、最後にこれだけは言いたいので言わせていただく。 「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

「女子校は桃源郷!嫌な思いなんて一つもしなかった」として、女の絆をことさら美化する人たち。 まー彼女らにとっては確かにそれは幸せだったのでしょう。しかし、それが弱者を踏み台にしたスクールカースト強者の言い草であることは、ちょっとtwitterを検索すればすぐ分かることです。 しかし、この記事ではそういう意見はあえて引用しません。なぜなら、そういう意見を目にした途端、ツイフェミたちは↓のように攻撃を加え、そういう被害者たちを沈黙させようとするからです。 そしてこうやって現実を否定することによって、ツイフェミたちの間で生まれる「女同士はみんな仲良し!女の絆は何よりも強く、そこには打算も何も含まれていない」という疑似現実。 それ、学校の先生たちがよく言う「うちのクラスはみんな仲良し、いじめなんかありません」と一体何が違うというんでしょう? 「そういう見方は古い。今の流行りはみんな仲良しだよ」と言う人がいます。そういう人たちの脳内では、集団でのいじめなんていうものは過去のものであり、もはや克服されたものなんだということに、なっているのかもしれません。 しかし現実は違います。 mainichi.jp 男だろうが女だろうが、人が集まって集団というものを形成すれば、そこには必ず勝者と敗者が生まれる。「絆」っていうものは決して美しいものじゃない。むしろ、醜悪なものである。 その現実を見ないですまそうとする輩は、フェミニストだろうがなんだろうが、僕の敵です。

「広告」こそが、見たくない現実を暴く力となる(LOFTバレンタイン広告について3)

amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp LOFTのバレンタイン広告について擁護の論陣を張ってきましたが、案の定ネット上では大不評です。 ですが、はっきり言うと僕はこれらの記事に批判をされればされるほど、むしろ逆に「あの広告は価値ある広告だった。撤回したのは実にもったいない」と思うようになっています。というか、最初は僕も「まあ広告だし批判を受ければ撤回するのは当然だよね」という考えの人間でしたが、今はもう「批判を受けようがあの広告は撤回すべきではなかった。広告を撤回させたネトフェミ共に、その声に安易に屈して広告を取り下げたLOFT、両方クソである」とすら思うようになっています。 なぜなら、批判をしてくる人の論調こそが、あの広告を今、「広告」として世に出すべき理由を証明しているからです。 それが一体どういうことか、批判してきたコメントに答える中で説明していきます。

「広告にアーティスティックな表現を持ち込むとか古臭い」のか?

LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「80年代広告のアーティスティックな表現」(筆者談)なるものの絶望的な古くささに、80年代から30年もたっているのに気づけない感性ってやばくね?まだこういう楽屋オチみたいなもんで笑えるの?

2019/02/04 23:02
b.hatena.ne.jp 最初は僕もこう思っていました。広告でアーティスティックな表現やるなんてもう古臭いと。 でも、はっきり言いましょう。今みたいな時代だからこそ、広告は「アート」であり、「問題提起」をしなければならないんだと。何故なら多くの人がフィルターバブルに引きこもり、自分に取って気持ちいい言葉しか受け入れなくなっているこの時代、「広告」こそが、その棲み分けの壁をぶち破り、人々の意識を侵襲するメディアになりうるからです。 この確信は、↓のような、「広告はターゲットに気に入らなければならない」という、甘ったれた声を見て、生まれたものです。
LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「女の子はみんな仲良し」をひっくり返したいならそれ相応の場で。バレンタイン(近年は特に自分・友チョコメインの行事)の広告だよ?お前友チョコ買ってるけど実はそいつの事ほんのり嫌いだろ?って言われるとさぁ

2019/02/04 14:39
b.hatena.ne.jp
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

「ネトフェミのせい」にして楽に炎上狙い?アーティスト活動は自由にやればよいが、広告に使ったことでターゲットができて、そのターゲットが気に入らんと言うから下げただけ。単なる商業活動では。

2019/02/04 22:57
b.hatena.ne.jp こういう考え方を下敷きにして、金田氏のように、「ハッピーになれる表現だけ求めて何が悪い!」みたいな開き直りが生まれるのでしょう。 ですが、当たり前のことですが、自分がハッピーになれる、心地よい甘言だけを聞いて生きていくことは、いけないことです。そうやってフィルターバブルの中に閉じこもり、自分と同じ考えの者同士で傷をなめあっているうちに、考え方はどんどん過激かつ狭量なものになっていくからです。 しかし現代においては、あまりに簡単にそうして「フィルターバブルへの閉じこもり」が可能になってしまいます。よく今回の広告について「アートとしてやれば許された。広告だから許されない」と言う人がいますが、もしこれが単なるアートとして届けられるなら、こういう表現を本当に届けるべき、まさしく今回のような表現を見て怒り狂っている人たちに届けられることはなく、全く問題提起にはならなかったでしょう。それじゃ駄目なんです。 この表現は、これが「広告」として届けられたからこそ、こういう表現を嫌がる人のところまで「誤配」されていった。しかしこの「誤配」こそが、フィルターバブルをぶち破る鍵なのです。そして現代の情報社会において、このような「誤配」が可能なのは、まさしく広告の世界以外にないのです。 その代表的な例が、まさしくフェミニストたちが散々称賛していた、「ジレット」の広告です。 www.huffingtonpost.jp 「男らしさ」を疑えというような表現は、学者の議論やアートでさんざん描かれてきたことですが、しかしそのどれも、このジレットの広告のように、その表現を嫌がり、ボイコット運動まで起こすような、男らしさに囚われた男性にもとまで「誤配」されていくことはありませんでした。広告だからこそ、そういう表現を嫌がる=本当にその表現を届けるべき相手まで、届いていったのです。
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

例えばビールを男性に売りたい会社が、革靴に注いだビール飲ませてゲラゲラ笑ってる宴会の画に「男って楽しい」とコピーつけて、茶目っ気ある絆と残酷さを描くことで男の解放を表現しましたとか、言うかな。広告で。

2019/02/04 23:30
b.hatena.ne.jp こういう反論をする人がいますが、むしろ僕は、今までのフェミニズムの考え方に則って、そういう自分たちにとって気分の悪い表現でも、受け入れなければならないと言ってきているんです。そしてその立場は、変わりません。 しかし、ジレットのCMについてはさんざん「嫌な気分になろうが男どもはその表現に真剣に向き合え」といってきたフェミニストたちが、今回の広告の話になるところっと立場を変え、「広告はターゲットを不快にしてはいけない。ハッピーなものであるのが当たり前でしょ?」とのたまう。はっきり言いましょう。ダブルスタンダードにも程があります。 では今回の広告が、示そうとした「向き合わなければならないもの」とはなにか。それは、「絆・連帯というもののは時に抑圧的に働くことがある」という事実です。

「僕たち/私たちみんな仲良しだよね」の裏にある地獄を直視しろ

例えば、今回の広告に対しては、twitterでこんな反論がよくされていました。

ここでは、例えば女子校でいじめられて最悪の学校生活を送ったり、いじめられなくても同調圧力で自分の個性を押し殺したりするような体験をした人の視線は全くありません。まるであたかも同性同士でつるめばそういうことはなくなるかのように、「理想の女同士の絆」というファンタジーが描かれるわけです。 しかし、もちろん本当はそうではありません。女子校だろうが男子校だろうが共学だろうが、「みんな仲良しのスクールライフ」の背後にあるのは、壮絶な空気の読み合いと、そしてそこに適合できなかったはぐれものに対する容赦ない排除です。まあ、その中で強者としてスクールカーストの上位に君臨すれば、それこそ「みんな仲良しのスクールライフ素晴らしい!」みたいなことが言えるんでしょうが、そういうことが言えるのは、そのスクールカーストの下で悲惨な目に合う弱者を犠牲にしているからです。 今回の広告が嫌われるのは、まさにその弱者を踏み台にして気づきあげてきた、虚構の「みんな仲良しのスクールライフ」が、虚構であることを暴くものだったからと言えるでしょう。 しかし、僕は思うのです。そのように、一見理想郷のように見える社会が、むしろ何かを犠牲にしてできたものであると告発するのは、むしろ今までフェミニズムが率先してやってきたことじゃないかと。 例えば、今回の広告についてある漫画家はこのようなことを言っています。 要するにこの漫画家さんの脳内では、家族の絆は家族の絆として描くのが正しい広告の有り様で、そこで露悪的な表現をしてはならないとなっているわけです。 しかし、フェミニズムっていうのは本来、むしろそういう「家族の絆」みたいな美辞麗句が、いかに女性たちを犠牲にしてなりたっているか、ということを暴露してきた側なはずなわけで、本来のフェミニズムでは、そういう家族の絆を露悪的に描くことのほうが素晴らしくて、家族の絆という美辞麗句をそのまま受け入れることは、むしろ家父長制を擁護するものとして批判の対象になってきたはずなのです。 所が現代のネット上では、そういう「絆」を美しく描くことがフェミニズム的であり、絆の嘘を暴くようなことは反フェミニズム的だとされる。 これって、明らかに転倒してるんじゃないかと、僕には思えてならないのです。 まあこれは、僕が古いフェミニズム観なだけなのかもしれませんが、しかしその古いフェミニズム観からすると、絆という美辞麗句の虚構を暴く竹井千佳氏の表現のほうが、脳天気に「女子校は素晴らしい空間でした」とのたまい、絆の素晴らしさを謳うネトフェミたちより、よっぽどフェミニズム的であると、そう思えてなりません。

「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について)

LOFTのバレンタイン広告、案の定取り下げになったそうで。

ロフト、バレンタイン広告取り下げへ 女子の不仲描いて「女性蔑視」と指摘相次ぐ : J-CASTニュース

まあ、あれだけ炎上して「LOFTの商品は二度と買わない!」とかいう不買運動起こされれば、企業が怯えて広告を取り下げるのも当然でしょう。

しかしやっぱり納得がいかないのが今回の件についてのtwitterでの反応。

どうやらこの結果を受けてtwitter上のいわゆる「ネトフェミ」と呼ばれる人たちは勝利宣言をしているみたいですが、やっぱり彼女らの主張は僕にとっては首を捻らざるを得ないものでした。

なかでも一番イライラするのがこういう主張

ハッピーゆべ on Twitter: "ロフトのバレンタイン広告イラストもテーマもくそださ… これぜったいお上()のおっさん達がゴリ押ししたんじゃない?"

📛みんみん📛 on Twitter: "ロフトの炎上したバレンタインの広告絶対作ったのおっさんだろ。「ズッ友」とか「うちの彼氏」とか絶妙な死後なんだよ"

美夜 on Twitter: "日本のおっさん管理職連中は、意地でも女子を分断して自虐をさせたいらしいな。こんな店では今後絶対買わねえ。 ロフトのバレンタイン広告「女の子って楽しい!」にTwitterユーザー困惑 「どういう意味?」「チョコを売る気はあるのか」 - ねとらぼ https://t.co/DsqCyn5D8M @itm_nlabさんから"

全肯定プラスチックフィールド on Twitter: "ロフトのやつは40代くらいで俺まだ若いしってやってる太いリムのメガネかけたパーマのおっさんとかがこういうのが女の子にはウケる!ってやってたんだろうなってありありと眼に浮かぶ"

にぎりめしおかか on Twitter: "LOFTのバレンタイン広告酷過ぎwww あれ企画したのっていい大人たちでしょ??え、女の人携わっていなかったわけ??おっさんたちばっかで考えたの?最悪すぎwwwwwwwロフトのチョコは絶対買いませんお疲れ様でした!"

🐜 on Twitter: "てかそのコンテンツを作ってる役者とかはほんとに罪がなくて大元になってる上の奴らがゴミなんだよね結局じじいとか偉そうなだからロフトの広告も問題になってるんじゃないの?どーせよくわかってないおっさんとかが会議とかで決めたんでしょあれでバレンタイン楽しむと思ったわけどうかしてるでしょ"

「ロフト 広告 おっさん」とかでTwitter 検索すりゃこの他にもこういう主張は山ほど出てきます。

要するに今回の広告は、ネトフェミたちの間では「女性蔑視のおっさんたちが発案した差別広告に、全女性が一丸となって対抗し撤回させた案件」として認識されているわけです。

でも、現実は違うわけです。

今回の広告のイラストを描いたのは、竹井千佳という “女性の”イラストレーターの方なんですよ。

しかも彼女は、この広告以前にも、こういう「女性たちの仲良しの裏にあるギスギスしたもの」をいっぱい描いてきた。というかそれがメインテーマとも言える人なわけです。

その瞳は悲しみを流しだす。愛とパワーを感じる竹井千佳画集『Sp:telling,(テリング)

もちろん、それを「男に媚びた名誉男性」とか言って批判するのは、そりゃネトフェミたちの自由でしょう。けど少なくとも、「女性蔑視のおっさんたちv.s.全女性」みたいな構図に持っていくのは端的に間違いであり、おっさんへの評判を不当に貶めるものである。そこのところは素直に謝ってほしいと、1おっさんとしては思います。

そして更に重要なのは、こうやって女性の中からも「女の絆(シスターフッド)ってそんなに美しくて正しいもの?それが時に自分たちを傷つけるものとして働くこともあるんじゃない?」という疑義が提示されていること、そのことにネトフェミたちは向き合うべきなんじゃないの?ということです。

今回のLOFT広告を受けて、twitter上では「対案」と称するイラストが多く投稿されました。

ぬまがさワタリ@『絶滅どうぶつ図鑑』&福岡マリンワールドで1月よりコラボ展! on Twitter: "ロフトのバレンタイン特集のやつ(https://t.co/gllsW7W1mw)、今時「女同士は実はギスギスしてて…」でもないと思うし、こんな感じにすればよかったのに。(ドニーさん脳)… "

時田時雨*月田さん1巻発売中 on Twitter: "思わず2次創作しちゃった… #ロフト #バレンタイン #百合… "

でも、はっきり言いましょう。これらのイラストに、表現として素晴らしいと思える点は一ミリもありません。少なくとも竹井千佳氏が描いているような表現に比べれば、毒にも薬にもならない、陳腐な表現です。

なぜならそれらのイラストは、「仲のいい女の子って素晴らしいね」という、一般常識から一ミリも外れることのない、安全な表現だからです。

それに比べれば竹井千佳氏の表現は、多少毒かもしれませんが、よっぽど問題提起的であり、表現として見るべき部分があります。

そして更に言うなら、上記の「対案」と称するような表現は、誰も救いませんが、竹井千佳氏のような表現に救われる人は、いるでしょう。

これは男性とか女性とか関係ありません。人間の普遍的性質として、群れて行動すれば、そこには必ず同調圧力というものがうまれ、異質なものを排除しようとします。

特に学生時代というのは、その同調圧力がとても強いもので、ある人はそれを「友だち地獄」とすら呼んだりするわけです。

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

 

仲良しグループの素晴らしさ、楽しさばかりを誇示しようとする人間は、絶対見ようとしないものですが。

というかむしろ昔のフェミニズムは、こういう「一般に良いものとされているものの内実はむしろ醜悪なものである」という風に、一般常識の嘘を暴くものだったはずです。

それ故にフェミニストと呼ばれる人たちは孤独であったけど、むしろその孤独を誇っていた。「群れてしかものを言えない連中たちとは違うんだぜ」と、僕はそういうフェミニストたちを、カッコいいと思っていました。

ところが今のフェミニストはどうか。シスターフッドとか美辞麗句を駆使しながら、結局やっていることは、世間的に正しく、美しいとされていることをただ追認して、そこから外れた、今回の広告のような表現を集団でぶっ叩き、数の力で沈黙させる。そこでその表現の背後にどのような思いがあったのかを、真剣に考えようともせずに。

そんなネトフェミたちを見ていると、もはやフェミニズムとは世間の多数派の、抑圧の口実にしかなってないんじゃないかと、そんなことすら思いますね。