あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある

note.com
plagmaticjam.hatenablog.com
人がどういう風に学問や思想を学んできたかということを読むのは好きなので、1000円払って白饅頭氏の記事を読み、その後plagmaticjam氏の記事を読みました。

白饅頭氏の記事の要約

まず、白饅頭氏の記事を要約すると次のような内容になります。

  • 最近、経営者やそれなりの役職に就いている人と話すことが多いのだが、彼らは異口同音に「昔は自分もリベラル派に親しみがあったが、今はそうではない」と言う
  • 有名な哲学者である東浩紀氏も同じように言う
  • 社会的責任を持つと、リベラル派の言説というのは、現実から遊離した物に感じるのだ

 「自分で金を稼ぎ、社員を食わせ、顧客に価値を感じてもらう」という、俗世シャバの泥臭い営みのしんどさと尊さを知った東浩紀さんが、公金をジャブジャブつぎ込まれ、なおかつ子ども(の親)からの高い学費を受け取りながら「反権力」をやる人文アカデミアの人びとの、二重三重の意味で浮世離れした社会感覚に嫌気というか、ある種の「白け」を感じてしまっても無理はないだろう。

  • リベラル派は実際は権力の側にいるのに、反権力を気取って、その権力にふさわしいふるまいや責任を取ることから逃げている
  • リベラル派の論は、自分で社会の理不尽を経験せず、稼ぐ苦労もしらない「無責任」な立場だから言えるものなのだ

 大学を出た若者たちのほとんどは、仕事をしながら「社会」の厳しさを知ることになる。苦労も理不尽もたくさん味わう。だがそうしているうちに、年齢では年下だが、大学の先生方よりもずっと「大人」になっていく。かれらが威勢よく展開してきた論は、自分で食っていく、自分で稼いでいくことを知らない、まさしく「無責任」な立場だからこそ言えたのだと気づくようになる。

  • そしてそういうリベラル派に感化された若者は、実社会に適応できず、社会で何も為せない。
  • 自分が論を寄稿した雑誌を買うなと言う北守氏も、同じようにそういう社会で生きる人々の苦労を無視していている。

一般的な社会通念においてはまず絶対にありえないことだ。会社員がそんなことをしでかせば、普通にクビになってしまうだろう。少なくとも、まともなメンバーとして見なされることはない。ところが、人文アカデミアにおいてはそれが平然とまかり通ってしまう(「キャンセル・カルチャー」を特集するにあたり、その実例を前もって例示するハイコンテクストな販促パフォーマンスの可能性もあるが、おそらくは「真顔」だろう)。


(中略)


 出版社を経営し、雑誌ひとつ手掛けるのにも多くの人の労力があり、生活がかかっている。かれらの語る「正義」には、いつもそのような観点が欠落している。意図的にそうしているのではなくて、かれらは本当にそのようなレイヤーにある「名もなき人間の生活のリアル」を想像することができなくなっているのだ。

(ここは他者に対する批判だから、下手に要約して意図をねじ曲げるのは危険なことなので、長くなるが引用する)

  • 実社会に生きていれば、自分の考えを曲げなければならないことも多々あり、それが現実を生きるということだが、リベラル派はそれができない
  • 大衆はそういうリベラル派に愛想を尽かしているが故に、「常識」や「伝統」が再評価され復権しているのだ
  • 私は単純な知力や学力ではそういうリベラル派に及ばないが、大衆感覚を身につけているという点で、彼らより優れており、だから寄稿依頼や出演依頼がひっきりなしに来る


そして、そのような白饅頭氏の記事を受けて、plagmaticjam氏は、そのような感覚を白饅頭氏が持つようになった背景には、「自由であれ」と「社会に適応しろ」という、矛盾する二つの要求に挟まれた「狭間の世代」だったからという経緯があるのではないかと述べているわけです*1

白饅頭氏の記事を読んで覚えた既視感

読んだ最初の印象を語ると、「うわぁ、社二病だぁ」というものです。
bizspa.jp

同率3位:「社会ってそういうもんだよ」と酸いも甘いも知っている感を出す(18人)

 入社数年目では、まだまだ知らないことも多いはずですが、「自分はいろいろ知っています」と言った雰囲気を醸そうとするようです。

「社会の何を知っているのか実際の体験をもとに話してほしい」(28歳・男性・東京)

「社会の良し悪しを知っているし、それを受け入れられる自分カッコいいと思っていそう」(25歳・男性・東京)

 大した苦労もしていない人が語る「社会ってそういうもんだよ」が後輩に響くはずないですよね。

ただ、馬鹿にできないのが、こういった社二病的心性こそが、1990年代から2000年代において、新しい歴史教科書を作る会に代表されるような新保守主義の流れを生み出してきたともいえるからです。

「現場の感覚を信じる」ことこそが、カルト化を生み出した

『脱正義論』という本があります。小林よしのりが1996年に出版した本なのですが

白饅頭氏が述べたようなリベラル批判は、まんまこの本にも書かれているわけです。

曰く、リベラルは上から偉そうなことを言ってるだけの人間だが、実際に社会を運営し改善しているのは、市井に生きる大衆のプロフェッショナリズムである。若者たちよ、運動なんかやめて日常に帰れ!と、主張するわけ。まんま同じですね。

そして、そのようなことを主張する源流となったのが、1990年代に出版された『80年代の正体』という本に代表される、80年代のニューアカ・消費社会批判なんですね。

浅羽通明大月隆寛といった、『脱正義論』にも寄稿し、編集にも関わった人たちが論を述べているこの本は、80年代の、浅田彰中沢新一に代表されるようなニューアカや、上野千鶴子や新人類三人組(中森明夫野々村文宏田口賢司)に代表されるような消費社会擁護言説に対し、「大衆の身体感覚を無視している」と批判し、言葉や情報ではない自らの感覚こそを信用しろと主張したわけです。

そして、これら批判は一面では正しかったです。例えば、「フェニミズムは何も答えてくれなかった」という『物語の海 揺れる島』という本に掲載されているルポタージュがあるんですが、この本では、上野千鶴子のような消費社会擁護のフェミニズムに感化された高学歴の女性が、しかしそのような思想と、自らの女性としての身体に矛盾を感じるようになるという過程が記されています。

でも、じゃあそういう風に、言葉や情報と、自分の感覚に矛盾を感じるような女性がどこに向かったかといえば、オウム真理教だったわけです。

そして、それと同じように、『脱正義論』で日常に返ったはずの小林よしのりや、その信者であるコヴァ信*2は、やがて『戦争論

を経て、「新しい歴史教科書を作る会」のような新保守主義運動にのめりこんでいくわけです。

一体、自分の日常における感覚を信じる人々が、なぜそのようなカルト宗教や新保守主義運動にのめり込んでいったは、1990年代から2000年代の社会学現代思想における大問題で、下記のような様々な研究・分析が行われました。*3

それらの議論には、様々な違いがあるのですが、しかし共通して述べられているのが「『社会』というものが分断されつつあり、その中で『何が正しいか』ということも分断されつつある」という見解です。

高度経済成長期までの日本においては、会社に正規雇用されてきちんと働くことと、社会や日本という国全体を幸福にすることがイコールでした。白饅頭氏の記事や、浅羽通明大月隆寛と言った人々が「市井に生きる大衆のプロフェッショナリズム」を賞賛するのも、基本的にそういう人たちが仕事を頑張れば、それこそが社会や国家をよくすることにつながるという社会観があるからなわけです。

ところが、バブルが生まれ、そしてはじける中で、日本経済全体が均衡・縮小していくと、「新しく富を生み出す」のではなく「他人の富を奪う」ゼロサムゲームこそが、仕事の大部分を占めるようになるわけですね。

例えばハゲタカファンドで働く人。彼らは、彼らの職業倫理に従ってがむしゃらに働くわけですが、しかしそうやって一生懸命に働いて、様々な企業をディスカウントし「買い叩く」ことは、むしろ不幸を生み出していくわけです。

あるいは「地方おこし」。一見「自分たちが生きる地方に観光客や移住者を募る」ということは、立派な社会貢献に思えますが、しかし当然の帰結として、ある地方が地方おこしに成功して移住者や観光客が多くなれば、その分他の地方に向かう移住者や観光客は減るわけで、結局同じパイを奪い合って自分たちに利益誘導しているだけなわけです。

しかし、言葉や情報を無視して、自分の「感覚」だけを信じていると、こういう現実は見えてきません。その結果として、自分の半径数十メートルに閉じこもり、その外からの声を聴かない蛸壺ができあがってしまうわけです。

そして、それこそがまさに、カルト宗教や新保守主義運動に人々がのめり込む理由なのです。

オウム真理教において人々がサリンが撒いたのは、自分たちの閉じた集団の中ではそれこそが本当に、来るべき終末から世界を救うすることにつながっていたからです。新保守主義運動において「歴史戦」や「排外主義」に人々がのめり込むのも、彼ら集団の内部ではそれこそが本気で日本を守るために必要なことで、それをしなければ日本は滅ぼされてしまうという危機感があるからなんですね。

「自分の感覚だけを信じる」人だからこそ、サリンを撒けてしまう

彼らは、外から見れば確かに、現実から遊離した言葉の世界に閉じこもっているように見えるかもしれません。しかし彼らは彼らなりに、自らの「感覚」に忠実になっているからこそ、サリンを撒いたり、在日外国人に罵声を浴びせかけたりしているわけです。

ここら辺の当事者経験を、著書に記しているのが、今はすっかりリベラル知識人となった雨宮処凛氏だったりします。

もう知らない人の方が多いかもしれませんが、彼女は最初「ミニスカ右翼」として登場して、一水会というゴリゴリの新右翼団体にいたわけです。

彼女は、イジメといった、現実における苦しみを沢山味わったからこそ、全然右翼の思想の内実とか知らないまま、「感覚」に従って右翼活動に踏み出していったとこの本で述べています。その点で言えば、知識無き身体感覚の称揚がどんな結果を生むか、体現していたと言えるでしょう。

このような流れを知っていると、白饅頭氏の記事を読んでも、特に新しい気づきがあるわけではなく、「ああ、1990年代から2000年代にあったあの流れを繰り返そうとしているのね」としか思えなかったりするわけです。

白饅頭氏やplagmaticjam氏には、是非これらの研究をきちんと学んで、彼らが陥った隘路に至らない道筋、1990年代から2000年代に間違った彼らと自分たちが、何が違うのかを、見つけて欲しいですね。

人文リベラルに対してのイメージと実像

ところで、白饅頭氏は北守氏に代表されるような人文リベラルに対して「現実を知らない余裕ある象牙のある塔から口出す裕福な人々」というイメージを持っていますが、これって本当なのでしょうか?

僕は、北守氏を含めて、リベラル的だったり左翼的思想を持つ人たちと、現実で十数人程度出会ったりしているのですが、かれらのなかで、中流以上の安定した職業を持つ人って、2人ぐらいしか知らないわけです。問題の北守氏だって、そんな安定した身分ではない。

大体は、大学院で奨学金という借金を積み重ねながら研究していたり、非正規雇用で食いつないでいたりしながら、合間を縫って勉強したりデモに参加したりしているわけです。*4

「現実の厳しさを知る」ということで言えば、キツいバイトをしたり貧困生活を送る中で、むしろ彼らこそ「現実の厳しさを知っている」と言えるでしょう。

「今ここの社会」を全てと思うことが、ホロコーストを引き起こす

にもかかわらず、彼らは「今生きている社会」にただ適応するのでは無く、それぞれ社会に批判的な意見を持っていたり、「理想の社会」を追い求めていたりする。一体なぜか?

簡単に言えば、「今の社会のありようを肯定すること」が、必ずしも人を幸せにしないということや、今の社会とは違う社会のありようもあるということを、知っているからです。

白饅頭氏は「現実の社会の中で、おのおのの持ち場に割り当てられた仕事をきちんとやる」ことこそ重要と言います。

しかし実は、そのように社会システムに対し順応するために頑張ることこそが、ナチスドイツのホロコーストや、旧ソ連の大粛清のような虐殺を引き起こしたと言うことが、まさしく人文知が教えてくれることなのですね。

toyokeizai.net
アイヒマンという官僚は、まさしく白饅頭氏や、彼が仕事で付き合う経営者・管理者のように、「自らの仕事を頑張ることこそ、自分がやるべきことだ」という信条を持った人間でした。しかし、彼の場合、その仕事は、まさしくユダヤ人や様々なマイノリティを効率よく虐殺することだったわけです。

人文知なき「現場感覚」賞賛の行き着く先は、まさにこれなのです。

彼らが理想論を貫けるのは「今ここ」が全てではないということを知っているから

そのような悲劇を繰り返さないためにも。人文リベラルは、むしろ現実の社会に対し批判的となり、そうではない「新しい社会のあり方」を模索しているのです。

例えば、「人文リベラル」の代表格であり、白饅頭氏のような人が忌み嫌う社会学は、今の社会を「前近代」や「(初期)近代」と対比し「後期近代社会」と呼びます。

つまり、今ある社会というのは、たまたま今という時代状況に生まれたありようであり、決して永遠不変のものも唯一無二の者でもないわけというのが、社会学という学問の基本認識なんですね。

先日逝去した見田宗介という社会学者は、真木悠介という筆名で、『時間の比較社会学』という本を出していますが

社会学者にとっては「時間」という概念ですら、時代・場所が違えば異なるという認識なのです。

(しかし昨今は、見田宗介氏のように、社会調査の一方で、巨視的に社会を捉え、その二つを結びつけるのでは無く、コマゴマとして計量調査だけやる社会学者の方がむしろ多かったりするんですがね。そんな中で見田宗介氏のような人がなくなったのは本当に惜しい。ご冥福をお祈りします)

あるいは、「経験」「感覚」という面に着目すれば、現代の「仕事を頑張って、その日暮らしではない、きちんとまともな職業につく人こそ偉い」という感覚すら、実は特殊なものだったりすることが、下記のような社会学文化人類学の調査で明らかになるわけです。

文化人類学社会学の人文知は、まさしくフィールドワークによって人々の「現場」に直に赴き、仕事や生活を体験したりするわけですが、しかしそうやって調査をすればするほど、「今の日本社会」を相対化する視座を得ていくわけです。

そして、僕を含めた人文リベラルや、自身でこういう研究をしたり、研究書を読むことによって、「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知っているわけです。

白饅頭氏や、彼が付き合う経営者・管理者は「今ここの社会の厳しさ」を、人文リベラルが知らないと言いますが、人文リベラルの多くは、プレカリアートと呼ばれるような不安定な身分なわけで、「今ここの社会の厳しさ」は十分知っているわけです。

しかし一方で、それが世界の全てではないことを知っている。だから、それに縛られない。それだけなのです。

「今自分が生きる現実」が全てと思わないために、人文知やサブカルチャー、インターネットはある

plagmaticjam氏は、自分や白饅頭のような人が、失われた30年を生きる厳しい状況の中で、社会適応の重要性を知った「狭間の世代」だと言います。

しかし、一応僕も1987年に生まれ、失われた30年に成人した人間ですが、「社会適応」なんてクソ食らえと思っています

ロスジェネの人たちはよく「自分たちが自己責任信者になったのは、社会がそれを強いてきただからだ!」と言います。それは一面では確かに事実なのですが、しかし僕や、僕以外にも、失われた30年を生きる人たちにも、そういう「社会適応なんてクソ食らえ」と思うことができる人は数多く居ます。

例えば、先日『NEEDY GIRL OVERDOSE』という大ヒットゲームを生み出したにゃるら氏、彼は、エッセイの中で述べられているとおり、親と対立したり、大学を中退して引きこもったりと、かなり厳しい人生を経験してきました。

しかし彼は、むしろ社会に適応しないのも「あり」だと言うわけです。

その背景にあるのは、彼が人生の中で体験してきた、幾多のアニメ・マンガ・ゲームや、その他サブカルチャーです。

文化というものは、まさしく人文知と同じように「今ここの現実」が全てではないということを教えてくれます。しかも人文知と違い、楽しくそれが学べるわけです。

また、僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。

ですが、そんな彼・彼女だからこそ、その配信は無茶苦茶面白いわけです。少なくとも、どっかの動画サイトで偉そうな経営者の人生訓を聞くよりずっと。

ここでは、「インターネット」を現実社会と切り離した場として活用することにより、「現実社会でダメ人間でもインターネットで輝ければいいじゃん」と思えているわけです。

今という時代ほど、様々なサブカルチャーに触れることができる高度な情報社会はないわけで、そして多くの若者はそれを利用して、「今自分が生きる現実」が全てではないことに気づいている。

そういう彼らを見ると、「社会が悪いから自分がこうなったんだ」と愚痴る、ロスジェネや白饅頭氏・plagmaticjam氏のような存在は、どうも「現実社会の厳しさ」に甘えているようにしか見えないのですね。

白饅頭氏・plagmaticjam氏のような人こそ、本気で人文知を勉強したり、あるいは病的なまでにサブカルチャーやインターネット文化のめり込むべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

追記(2022年4月12日 1:57)

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

この記事の前半の内容はまんま『ゼロ年代の想像力』に書かれていることで、そのことを知らないはずのない筆者が、参考文献としてまったく触れていないのは知的誠実さを欠くのではと思った…

2022/04/11 17:59
b.hatena.ne.jp
この指摘は全くそのとおりで、呉智英浅羽通明大月隆寛あたりのサブカル保守の思想が、いかに1990年代においてメルクマールとなったか。そして、その思想が隘路に陥ったかという話は、ほぼ宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』と北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』から学んだ話になります。それを書かなかったのは本当に知的誠実さにかける。申し訳ない。

言い訳になってない言い訳をさせてもらうと、このお二方の著作は、ほんと僕の血肉になりすぎているもので、この記事に限らず、僕が書く文章は多かれ少なかれお二方の影響下にあるんですね。それぐらい当たり前にありすぎるから、出典をついつい入れ忘れちゃうわけです。いやぁ本当に申し訳ない……

お詫びとして、特に『ゼロ年代の想像力』とかについてはまた改めて、この2022年から『ゼロ年代の想像力』を読むという記事を書きたいんだけど、それはそれとして、みんなもっと宇野氏の著作には注目したほうが良いと思うんだよな。東氏の論って、美少女ゲームとかの、たしかにはてなとかとは親和性を持つけど、結局狭い範囲の文化・クラスタを対象にしたものだったけど、宇野氏の著作はそれよりずっと射程が広かったし、より「はてなに親しむような私たち」を相対化してくれるものだったわけで。読んで気づきを得られるのは、圧倒的に東氏より宇野氏の本の方なわけでさ*5

*1:plagmaticjam氏の記事は、無料で公開されているので、ちゃんと知りたい人は自分で読んでください

*2:小林よしのり信者」を少々揶揄的に呼称するネットスラング

*3:まさしく僕が社会学を専攻した大学生・院生時代の研究テーマもここら辺だったわけです

*4:僕自身、正規雇用には就いていませんし、有利子奨学金の返済が数百万程度残っています。

*5:ぶっちゃけ東氏の議論って、今も昔も「俺たち時代の最先端ですごいよな」でしかないんだよな。昔は「俺たち」が美少女ゲーマーで、今は白饅頭のような人になってるだけで

「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」を相手にしなきゃならない現代


どーもドラえもんという作品は、こういう風に、作品の意図を無視して一コマだけ切り取られることが多くて、他にも
みたいに指摘される曲解切り取りがなされることがあったりして、藤子・F・不二雄ファンとしてはほんと忸怩たる重いがあるわけですが。

でもまあ、これら切り取りって言うのは、それこそboketeでドラえもんが数多くネタにされるように
bokete.jp
「作中では別にそんな変な意味ではないものの一部を切り取り、そこに別の面白みを見いだす」という、『VOW
www.1101.com
に代表されるようなサブカル的面白がり方なわけで、そういうサブカル的な面白がり方自体の是非はともかくとしても、「分かっていながら敢えてやっている」ことなんだろうなと、思っていたんわけです。

しかし、↓の記事に対するはてブの反応を見ていると、どうやらそれは、人々のリテラシーを過大評価していたのかなと、思ったりしました。
lastline.hatenablog.com
この記事、結論自体に賛成するか反対するかはともかく、マンガの読み解きとしては至極まっとうなことしか言ってないわけです。

ところが、はてブではこんなコメントが付く始末で

ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

何これ?あれだ、AV女優が服を着るとエロいと感じる人と同じ感性だ。恐ろしいよな、自論を述べると性癖が漏れるという。ちなみに、悪い事とは思いません。

2022/04/08 19:37
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳がえっちだからダメなら、リアルの巨乳の人は街歩くなっていいたいんですか??

2022/04/09 15:04
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳はわいせつという説

2022/04/09 15:09
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

「スカート丈や胸の大きさからえっちだと主張」←現実に胸が大きくスカート丈を短く加工してる女子高生が大勢実在するが、その女子高生達も「ちゃんと見て!えっちでしょ」「えっちだと認めないのはカマトト」て事か

2022/04/09 15:35
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

AV女優さんが女優に転身して、おっぱいが売りだけど真面目なコンテンツも批判できる論法やね。クソだなぁ。否定し、批判する。

2022/04/09 17:06
b.hatena.ne.jp
まあ、「マンガを読み解く」というリテラシーとは無縁そうな人たちのコメントがゾロゾロと出てくるわけです。

今回の騒動では「オタクv.s.ツイフェミ」というような対立構図が、多く描かれていますが、僕としてはそれよりむしろ、上記のようなコメントに代表される
「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」と「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」という分断こそが、真に深刻な問題なんじゃないかと、思う訳です。

日本のマンガは、それを読み解くのに高度なリテラシーが必要。なのに日本人の多くは子どもの頃からマンガを読む力をきちんと身につけている、スゴイ!なんてことはよく言われるわけですが
sanpogarden.hatenablog.com
実際は「日本人でさえ、日本のマンガをきちんと読み解けているのはごく一部なのかもしれない」わけです。

で、そういう人たちが、それこそ藤子・F・不二雄氏の描く漫画のような、複雑で両義的な意味を持つマンガ表現に接すると、その両義性を理解できずに、1コマでだけ見て短絡的なプロパガンダとしてマンガの意味を誤解するわけです。

多くの「マンガの表現」の是非に関する論争は、肯定派も否定派も、短絡的なプロパガンダとしてしか、当該のマンガを読めていないと言うことが多々あるわけです。そしてそうなれば当然、「プロパガンダ規制」という文脈から、マンガの表現規制のような議論も出てきてしまう。

これこそ真の意味での「表現の自由の危機」だと僕は思うんですがね。

ではこういう危機に、大衆全体に向けて表現をする表現者はどう対応するか?僕は、二重戦略しかないのかなと、考えたりしています。
つまり、「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」向けには、コマ単体で見て理解できる、単純で、かつ無味無臭なメッセージを、デコイとして用意しておく訳です。そのデコイによって、規制をかいくぐる。
そして、そういったデコイの裏に、「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」だけがきちんと分かる、複雑で、その表現者独自のものであるメッセージを込めるわけです。

日本は諸外国と比べて文化資本が享受しやすい国だから「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」なんて存在しないだろ、という幻想を持ち得た時代なら、こんな複雑なことをしなくても済んだわけで、日本における「表現の自由」に関する議論の多くは、この程度の最低限のリテラシーが国民に備わっていることを前提にしていたのですが、もはやそういう幻想は持ち得ないわけで……

(まあ僕は、ぶっちゃけそんな○○どもの相手をするのはダルくて仕方ないだから、「分からない人」は無視して、「分かる人」だけを相手にしますがね。)

問題は「広告表現」への責任を背負う覚悟が誰にも無いこと

www.huffingtonpost.jp
記事の内容について、

「『見たくない表現』というけど、広告全体が既にほとんどの人にとって見たくない表現だよな」

とか

「『広告のジェンダー平等』とかいかにも電博あたりが考えそうなお題目」

とか

「『こういう女の子はエッチだな』と『こういう女の子は痴漢して良い』の間には壁があって、その壁こそ重要なんじゃないの??」

とか色々考えながらスマートフォンで記事を読んでたんですが、記事の途中で以下の様な広告が挟まりまして
f:id:amamako:20220409102149j:plain
大爆笑して考えたこと全て吹っ飛びました。

何が広告として出稿されるか、全く気にしない人々

でも、ある意味このスクショこそが今回の騒動の本質を捉えてると思うんですね。

つまり、大手新聞やテレビ・ラジオ、またそれらに関係する人々が運営しているメディアにおいて、「一体自分たちのメディアにどんな広告が載せられているか」気にしている人なんて誰もいないんですよ。一応社会の木鐸たる姿勢は見せなきゃいけませんから、建前として「広告のジェンダー平等化」とか言いますが、それが実際に現場で守られているかなんてしったこっちゃないし、それを批判する側ですら、実際に載っている広告を見ればそんなこと気にしてないことが明白なわけです。

そしてその結果、広告は倫理もなにもない闘争の場になる。その闘争の場で何が争われるかと言えば、まさしく前回の記事で述べた「価値観同士の文化闘争」なわけです。
amamako.hateblo.jp

広告に携わる人々が、飯の種にこういう「闘争」を見て見ぬふりしてきた結果がこれだ

そして、更にその「文化闘争」をどうしようもないものにしているのが、広告に携わる人たち自身が、それを見て見ぬふりしているということです。

前回の記事に対し、広告肯定派・否定派双方から色々なコメントがありました。まあそれ自体はいいことです。ブルデューの『ディスタンクシオン

に結びつけたコメントもあったりして、「コメント欄には聡明な人も居るんだなぁ」と膝を打ったりもしました。

しかし中には、以下の様に「こいつら一体何言ってんだ?なんでそれで前回の記事を論破できたとか思えるんだ?」と思うコメントもありました。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

「購買行動に(直接的に)繋がらない広告」は、わりとありふれていますよ。たとえば道頓堀のグリコを見て買いたくなる人が何人いるか?みたいな話。「PR」や「広報」についての書籍をいくつか読むといいと思います😊

2022/04/07 14:50
b.hatena.ne.jp
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

まずはAIDMA、AISASから勉強しようか。

2022/04/07 23:14
b.hatena.ne.jp
通常の理解力があれば言うまでも無いことですが、前回の記事は、そういう通常の広告の機能を理解した上で、しかしそれでは、今回の広告そのものや、それへのバッシングは説明できないから、通常のマーケティング理論では説明しない、「隠された機能(社会学で言う「逆機能」)」があるのではないかということを述べ、その隠された機能を「示威的広告」という概念で説明しているわけです。

しかし、なぜかid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、広告のマーケティング理論を知っているにもかかわらず、その程度の理解もできない。一体なぜなのか?

はっきりと言いましょう。それを理解し、認めてしまうと、彼らの仕事に必須不可欠な嘘が明らかになってしまうからです。

例えばAIDMAやAISAS、これらの言葉は以下の様な意味です。

AIDMA
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Desire(欲求)
  • Memory(記憶)
  • Action(行動)
AISAS
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Search(検索)
  • Action(購買)
  • Share(情報共有)

今回の広告を上の図式に当てはめようとすると、AかIぐらいでしょう。しかしこれは明らかに無理があります。実際は、広告を見た時点で、あの広告を支持する価値観を持った人は一気にD、広告用語を行動や情報共有と考えればActionやShareまで行ってますし、また逆に広告に反対する人たちは、逆の気持ちでDや、A・Sまで行っているわけです。

あるいはもっと極端に例えて、「糞尿」についての広告を考えましょう。id:Rootportid:fujibay1975みたいなことを言う、横文字大好きの広告マンが「今回の広告は、糞尿をほしがる欲求までもっていくものではなく、あくまで糞尿に対する認知を促すものです」とか行って糞尿の写真を新聞の一面広告に出稿したとします。そのときそれを見た人が認知の段階で止まりますか?スカトロ趣味以外のほとんどの人が嫌悪感を抱くところまでいくでしょう。

つまり、社会的にその存在に対する価値観が割れているものに対して認知広告をしたって、その効果が「認知」にとどまるわけがないんです。そして更に言えば、賢いマーケティング専門家が、そのことに気づかないわけもない

にもかかわらずid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、この騒動に対し全く無力なマーケティング理論を、まるで銀の弾丸のように振りかざす。なぜそうなるかといえば、そのようなAIDMAやAISASというような言葉で語れる要素以外の要素が広告にはあると認めてしまうと、彼らのおまんまの食い上げになるからです。

その要素とは何か?それはイデオロギーです。

AIDMAやAISASは、基本的にある前提の元に成り立っています。それは、その広告を求めるひとがイデオロギー的に無色透明であり、また、紹介されるものもイデオロギー的に無色透明なものであるという前提です。だから、広告を見た人は、その広告されたものに対して素朴に「認知」の段階で留まるわけです。

ところが実際は、イデオロギー的に無色透明なヒト・モノなんてどこにもありません。つまり、上記のような環境は実際にはあり得ない、虚構の状況設定なわけです。
ところが、現代の広告システムというのは、その虚構の状況設定によってなりたっているわけです。

つまり、「どんなものを紹介する広告でも、それが認知の段階で留まっているのなら、それは中立性を持つものだから、自由にメディアに載せて良い」という嘘を正当化する道具として、AIDMAやAISASのような理論が金貨百条のように扱われているのです。

そして、そういう嘘にまみれているからこそ、広告屋は戦争や人道危機でさえ「広告」の対象にできるのです。

戦争を売り込む広告代理店の連中はこう言います。

「私たちは、一方の民族が差別やジェノサイドを行ったかもしれないという情報を『認知』させただけ。それでどう思うかは人々次第」と。

これがいかに詭弁であるかは、もはや言うまでも無いでしょう。

そしてだれも「広告表現」に責任を負わない、そのことにこそ人々は失望している

そして、そのように「認知を促しただけ」という言い訳が、出稿する代理店と、出稿されるメディア双方に共有された結果、例え広告表現が、イデオロギー的な偏りによって誰かを傷つけても、誰も責任を取ろうとしない、そういう無責任の体系をつくり上げているのです。

ここでいう「責任を取る」とは、広告を取り下げたり修正するということだけではありません。もし、広告主やメディアが本気で広告に対し責任を持ち、しかもその広告表現のメッセージが正しいと思うなら、批判に屈せず断固として広告を表現し続けるというのも選択肢でしょう。以前LOFTの広告が炎上したとき、僕はそういう態度を望みました。
amamako.hateblo.jp
ところが実際は、何の責任感もないから、誰かを傷つけるかもしれない広告を安易に発表し、何の責任感もないから抗議を受けたら安易に取り下げる訳です。その結果、人々は広告と、更に言えば広告を載せているメディアに対し信頼を喪失するのです。彼らには「広告はあくまで認知を促すものなら政治的に中立」なんていう、id:Rootportid:fujiday1975が示すような広告ムラの内輪の論理は通用しませんから。

言いたいことは一つ、「広告」も含めてメディアは自分の表現に責任を持て

「広告のジェンダー平等化」なんて、いかにも電博が思いつきそうな戯れ言ですが、しかし実際は、どのジェンダーにも平等な表現なんてものはあり得ません。何かを表現しようとすれば、かならずそれはどれかのジェンダーに味方し、逆にどれかのジェンダーに敵対するものなのです。

そうである以上、「広告の表現に責任を取る」とは、どのジェンダーにも平等なものを目指すなんてことではなく、自分たちの表現がどのジェンダーに味方するものかをきちんと自覚し、確信犯となることなはずです。今まで虐げられてきた女性に味方するか、敢えて今過剰に叩かれる男性に味方するか、あるいはどちらにも無視されるトランスジェンダーに味方するか……どれを選ぶにせよ、それは、その選択されたものに反発する人たちの嫌悪を真正面から受け止めるということでもあるわけです。

それができないメディアは、日経のような既存メディアだろうが、あるいはハフポストのような新興のWebメディアだろうが、人々から信頼されることはないでしょう。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について

natalie.mu
arrow1953.hatenablog.com
色々と論争が繰り広げられていますが、そこからは割と離れて。

上記の広告を見たときにまず疑問に思うのが、「これでこのマンガ買おうと思う人が居るのだろうか?」ということです。

普通、広告というのは消費者に何か消費行動を起こしてもらうためにあるもので、例えばTwitterの広告なんかは、続きが気になるコマだけ敢えて見せることにより「この続きどうなるんだろう」という興味を惹き、それによって閲覧者に、マンガを買わせるなり、マンガが読めるアプリをインストールさせるなりしている。

しかし、この新聞広告を見て「『月曜日のたわわ』読んでみたくなったなー」と思う人が居るのでしょうか?というか、本を買わせるという目的のために広告を出稿するなら、もっと閲覧者のアテンションを惹く広告を制作すると思うんですね。

では、閲覧者に消費行動を促すためにあるんじゃないとしたら、この新聞広告は、一体何のために出されたのか?

答えは「一般社会に自分たちの存在を示威するため」です。このような広告のタイプを、ひとまず「示威的広告」と名付けることにします。

最近オタクコンテンツに流行る「示威的広告」について

実は、こういう「一般社会に自分たちの存在を示威するため」の広告は、昨今割と多く出されています。

なんか大型企画のアニメを放映するときは、必ずといっていいほど全国紙に一面広告が出ます
dengekionline.com
mantan-web.jp
www.oricon.co.jp
し、アニメ以外にも、ゲームやVTuberなど様々なコンテンツでも
xtrend.nikkei.com
www.inside-games.jp
一面広告はブームと言えます。

また、一面広告以外にも、最近はやっているのは、ある地方を舞台にしたアニメやマンガが、その地域のポスターに顔を出すというモノです。以前このブログで取り上げた『ラブライブ!サンシャイン!!』のポスター
amamako.hateblo.jp
も、本気でみかんの消費向上を狙ったりしているというよりは、「『ラブライブ!サンシャイン!!』は地域に認められている」ということを示威する目的があったりするわけです。

ではなんでこういう広告が最近はやっているのか?その背景には、「文化におけるヒエラルキーの崩壊」という現象があるのではないかと、僕は考えます。

文化におけるヒエラルキーが崩壊する中で、「社会に認められている」ことを示せる場所として、広告が注目されているのではないか

1980年代~90年代にオタクとして生きた人が口を揃えて言うのは、「昔は今ほどオタクっぽいアニメやマンガ・ゲームは認められていなかった」ということです。

ごくごく単純化していうならば、昔は文学が文化の最高峰で、マンガ・アニメ・ゲームといったものは、活字を理解できない子供向けのモノとされました。更に言えば、それぞれのメディアの内部にも、上下関係があり、人間の内面に迫るような私小説や純文学が最高峰、そうでなくエンターテイメントのための推理小説とか犯罪小説は2流とされ、SFやファンタジーはその更に下の、バカでも楽しめるものとして扱われていたのです。

いうまでもないですが、これらは全くの根拠無き偏見です。ただ、こういう偏見というのは、年長者の間では未だに持たれているたりするわけで、
animeanime.jp
こういう年長者が社会の大半を占めていた昔に、アニメのようなオタク文化がどう扱われていたかは、想像に難くないわけです。

ところが、そういった文化のヒエラルキーが、どんどん崩れていったのが、まさしく2000年代以降の日本だったわけです。

それ自体はとてもいいことであることは、言うまでもありません。

しかしここで問題となるのが、そのような文化のヒエラルキーがなくなったとき、ある文化は何を尺度に、社会から認められていると言えるのか、ということなのです。

かつてのように「多くを語らない活字が上等」「内面描写が上位」とされた時代には、そういった要素がアニメとかにもあると主張すれば良かったわけです。例えば、アニメは一見絵で全てを主張しているように見えるけど、実は描かれている以上のことを想像しなきゃ理解できない作品だってあるんだとか、アニメでも人間の複雑な心理描写ができるんだとか……『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは、まさにそういう類いのアニメでしたね。

ところが、文化のヒエラルキーが消滅した現代においては、活字っぽい省略や内面描写をしたって、喜ぶのはそれこそ、過去の文化ヒエラルキーに縛られた老害ばっかなわけです。もはや内容において「世の中から認められている」ということはできなくなったわけです。

そんな時代において、「世の中から認められている」ことを証明する数少ないツールこそが、「示威的広告」なのです。新聞や公共機関のポスターといった、世間で広く認められているものに広告として乗っかれば、「世の中から認められている」感が出る。ですから、かつて「世の中から認められなかった」というトラウマを持つオタク文化が、とかく「示威的広告」を出稿するわけです。

そして、「示威的広告」だからこそ、それはオタク文化が嫌いな人から反発を受ける

ただ、その一方で、そのような「示威的広告」として、アニメやマンガの広告が出稿されることこそが、それが嫌いな人の逆鱗により触れやすくなる理由だったりも、するわけですね。

広告の本来の機能は、「広告を見る人の中から、その広告の商品が必要な人に、商品のことを気づかせる」というものです。そしてそこでは「広告の商品が必要ではない人は、その広告を無視して良い」ことが、暗黙の前提としてあるわけです。
ところが、このような示威的広告は、そのメタメッセージとして「買わなくても良いから自分たちの文化を認めて欲しい」と、広告を見た全ての人に主張してくるわけです。そうなると、その文化を認められない人からは、「あなたたち文化なんて絶対認めてやるもんか」という反発が来る。

今回の広告について、オタクたちは表現の自由とか言い、一方でツイフェミたちは性的搾取とか言いますが、真の対立点は「僕たちの文化を認めてよ」v.s.「あんたたちの文化なんか認めない」という、まあしょーもないところなんじゃないかだと、思うのです。

もう「世の中から認められなかった」というトラウマから卒業すべきでは?

まあ、議論を戦わせること自体は自由ですから、戦いたい人はずっと戦っていればいいとおもうわけですが。

しかしここで思うのが、「そろそろ『世の中から認められなかった』というトラウマを、オタクは卒業してもいいんじゃないの?」という気持ちです。

1980年代~90年代にどんなトラウマをうけたかは、それ以降の世代である僕には想像できませんが、とてもキツかったのでしょう。しかしもう今は、オタク趣味を公言するジャニーズまで居る時代な訳で、少なくとも過去のようなオタク差別は過去のものとなったわけです。

もちろん今でも、ツイフェミのようにオタク文化が嫌いな人たちはいますが、別にそれらが社会を支配しているわけではない。とするなら、別にそういう人たちを含めた社会全体からわざわざ承認を求めなくても、別に自分たちの内輪でやってれば良いんじゃないですかね?

新聞に一面広告とか出して広告代理店に貢いだって、せいぜい国に「クールジャパン」とか言ってもらえるぐらいですよ?そうじゃなくて、お金も労力も、もっとマシな使い方があるんじゃないのと、僕は思ったりするのです。

「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうか―エイプリルフールの同性婚ネタについて

www.huffingtonpost.jp
この記事を読んだときに、最初に抱いた感想を正直に言うと

そんなことで傷つかれてたら何にも表現できなくなるわ

でした。

ただ、何度も読んでいくと、

「まあ確かに当事者には傷つく人も居るかもしれないな」とも、思うようになりました。

ですが、「誰かが傷つく」ということと、「そういう表現をしちゃいけない」ということは、また別問題なわけです。

問題は、「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうかなのです。

続きを読む

他の人のコメントを引用スターすることができなくなった?

別にどーでもいいことなんですが、ふと気づいたので。

はてなスターには、スターをつけたい文章の部分を選択しながらスターを付けると、文章にはてなスターを付けることができる「引用スター」という機能があるんですが、どうやらはてブ上だと、その本人のコメントしか選択できなくなっているようです。

↓のはてブ画面を例に説明すると*1
b.hatena.ne.jp
下記のようにスターを付けたい当人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223742p:plain
このように選択した文章が、スター上にカーソルを持ってきたときに表示されますが
f:id:amamako:20220403223850p:plain
下記のように、他人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223954p:plain
スター上にカーソルを持ってきたときに何も表示されません。
f:id:amamako:20220403224022p:plain

別に、特にこれで何か不具合があるというわけではないですが。

まあ、強いて言えば、ある人のコメントに、その人のコメントを批判するコメントがあることを知らせるために、批判コメントを選択しながらスターを付けるみたいな、そういう「喧嘩売りスター」が付けられなくなった、ということですかね。

あ、これを書いたら、なぜ僕がこの仕様変更に気づいたかばれてしまう。

*1:説明画面にこのページを選んだことに他意はありません

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る―『NEEDY GIRL OVERDOSE』の「精神疾患」描写について

jp.ign.com
まず最初に自分の立場表明をしておくと、僕はNEEDY GIRL OVERDOSEというゲーム
store.steampowered.com
にかなりはまっている人間です。
note.com
ですので、ゲーム自体に対しては肯定的なバイアスが入っていますし、逆にゲームを批判するこの記事については否定的なバイアスがかかっています。
そのバイアスを知った上で、今回の記事は読んでいただけると幸いです。

精神疾患」にも色々あるのに、全て一緒くたにすることへの違和感

上記の記事を読んで、僕がまず思ったことは、精神疾患の当事者」という肩書きでこの記事が書かれた事への違和感です。

例えばこの記事では著者の双極性障害という病名が告白されていますが、ゲーム内の描写を見る限り、このゲームの登場人物であるあめちゃんは、双極性障害と言うより境界性人格障害であるように思えます。

といってももちろんこれは素人からみた憶測に過ぎず、実際はあめちゃんを診断した精神科医しかそういう診断名を付けることはできないわけで、いずれにせよ著者が「同じ精神疾患の当事者」として勝手に共感したとしても、実際は全く別の悩みをあめちゃんが抱えているという可能性だった多々あるわけですね。

他にも統合失調症発達障害、あるいは薬物精神病など、一口に「精神疾患」といってもその内容は全く異なってくるでしょう。僕は一応うつ病発達障害の当事者ですが、同じ精神疾患だからといって統合失調症とか薬物精神病とかに対する見解を求められても、正直部外者の一市民としての見解しか答えられません。

そういった多種多様な病気を「精神疾患」という一カテゴリに納めようとするのは、端的に言えば社会の福祉や医療制度の都合でしか無いわけで、そこで精神疾患だからこうなんだろ」という風なことを言い切ってしまうのは、まさしく筆者が批判しているスティグマに当たるんじゃないか。この記事を読んで最初に僕が覚えた違和感は、そこでした。

「やみ度0エンド」は「ハッピーエンド」として描かれなければいけないのか?

この記事の筆者は、やみ度0になったとき、あめちゃんが配信を止めてしまうエンドに到達することについて、以下の様に批判しています。

そんな手応えのあるゲームプレイだが、痛烈な違和感を持ったのはいくつかの結末だった。私は彼女にはなるべく健康に“インターネットエンジェル ”になってほしいと思ってプレイしていた。ところが「やみ度」が0になると彼女は配信者をやめてしまい、びっくりするような結末になるのだ。「生きるためには、精神の負荷も必要だと思います」というウィンドウがあらわれ諭してきて、ゲームオーバーになってしまう。

納得がいかない。配信者をやめるのはわかる。しかし本作でいうところのやみ度とやらが0の状態で精神の負荷がないというのはいかがなものか。寛解への軌跡がない。精神疾患を帯びていない人たちにも存在する心の痛みを否定するものだし、明るく生きる人たちの生き様をも否定している。

このような観点にはゲーム作者のにゃるら氏も自覚的で、ゲーム発売当初に次のようなツイートをしているわけです。


ただ、じゃあ「やみ度0エンド」が本当にハッピーエンドなのか?一応全エンド到達した僕から言わせてもらうと、とてもそうは思えないわけです。

ゲームを進めていって分かるのは、あめちゃんというのがとても「歪んだ人間」であることなんですね。最後に到達するエンドをみればそれは一目瞭然だし、そこまで行かなくても「アンチを叩いて満足した配信の直後に別の配信者にアンチコメをしにいく」、「宣伝費を払って宣伝して欲しいと行ってきた会社の商品を侮辱する」といった振る舞いをみれば、精神疾患とか関係なく、まともに社会に適合できない人間であることは明らかなわけです。
そんな彼女がやみ度0になって配信を止めたとして、その後幸せに暮らせるか?僕はそうは思わないんですね。それこそ短期アルバイトに就いては辞めを繰り返し、最終的には中年引きこもりとなる、そんあ結末しか見えません*1

寛解への軌跡がない」描写こそがリアルな人だって居るでしょう

筆者は「寛解への軌跡がない。」という点を批判します。これは、もしあめちゃんが、うつ病双極性障害、あるいは統合失調症といった「病気・障害がわかりやすい」精神疾患として描かれているなら、確かに妥当な批判だと思います。

しかしあめちゃんの抱えている問題って、そういう「病気・障害の問題」というよりは、どっちかというと「人格の問題」なわけです。となると、もしあめちゃんが「寛解」に至るとしたら、上記で挙げたような問題行動をしない、まともな人格になって、それこそ「明るく生きる人たち」のように自分の人格を改造しなくてはならないわけです。

しかし、そうやって自分の人格や性格を改造することまで、果たして精神医療はできるのでしょうか?仮にできたとして、本当にそこまですべきなんでしょうか?

少なくともそういった問いに対する答えは、まだ精神医学全体や、更に言えば社会全体は出せていないでしょう。とすれば、そこで安易に「人格のゆがみ?そんなの精神医学で矯正すれば楽になるんだからそうすべきだ」と断言するよりは、そこで「安易に答えは出せないよね」と踏みとどまる、にゃるら氏の態度の方が、僕には誠実に思えます。

「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージも、また一つの誠実な向き合い方では

そして、このゲームはそういった既存の精神医学の有効性に対して疑問を持つ立場から、むしろR.D.レインのような「反精神医学」に近い立場を取るわけですね。

NEEDY GIRL OVERDOSEと反精神医学の関係については
note.com
という記事が考察しているのでそちらも参照してほしいのですが。

簡単に言うと「精神病を治して社会に適合させるよう人間を改造するなんていうのは、社会による人間への弾圧だ。そうでなく、精神病を抱えた人が、それを抱えたままのびのびと生きられるとう、社会を変革していかなければならない」というのが、反精神医学の立場です。

このような思想は、特に既存の社会や体制に反対する運動が盛んだった1960年代から70年代に栄えました。そしてそれら思想の元に起きた運動によって、それまで「精神病者は治るまで病院に監禁しておけ」という考えが大勢を占めていただった精神医学に、「精神病者も社会の中で生活するようにしよう」という考えが生まれてきたわけです。

ただその一方で、反精神医学という考えにも限界があるわけです。そもそも社会を変えるなんてこと自体、そう簡単にできるものではありませんし、更に言えば「精神医学は悪!」という考えに凝り固まった故に、普通に薬物療法とかをすれば病状が改善するはずだった患者にも薬物療法を行わず、結果として病状を悪化させるみたいなこともありました。

上記のような反省を元に、現代の精神医学においては概ね「反精神医学という考えは、良い面もあったが全体としては否定されるべき」という風に考えられているわけです。*2

ただ一方でにゃるら氏は、現代っ子らしく「社会変革」というような夢は持っていないでしょう。彼がむしろ描いているのは「既存の社会とは違う場所(このゲームにおいては「インターネット」)で、社会に抑圧されずに生きる」という夢なわけです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームは、確かにぱっと見アイロニーと戯画化ばっかりで、全てを馬鹿にしてるゲームのように映るかもしれませんが、そのバックボーンには、こういう、インターネットが大衆化する前からインターネットに入り浸っていた人が、インターネットに持っていた理想があるんじゃないかと、僕はそう解釈するわけですね。

そして、その理想から、敢えてにゃるら氏は「寛解への軌跡」を描かず、むしろ「治らなくていいんじゃないのか」と言う態度を取っている訳です。

それは、確かに既存の精神医学の考え方とは違うものかもしれませんが、しかしそれもそれで、一つの誠実な「精神疾患への向き合い方」だと、僕は思うのです。

ロマンティックなメンヘラは存在するか?

ただ一方で、そのような考えに基づくが故に、「精神疾患」というものの描き方にバイアスがかかっているのではないかと問われれば、それは否定できません。

ほかにも考えられないバッドエンドがあった。精神疾患で使用される薬物について偏見を助長させる描写だ。あめちゃんに軽い処方箋ドラッグを与えているとそのうちにエスカレートしてイリーガルなドラッグが登場し、さらに与え続けると「LSDのやり過ぎで向こう側の世界にいってしまう」ものすらある。

これがただ過激さをあおるテンションで平然と描かれている。毒性の低い薬品から始まり、使い続けると毒性の高い薬品があらわれていくことなど、ゲートウェイドラッグという反論の多い不確かな理論をそのまま運用している危険性があり、精神疾患を負う者が精神安定剤を飲まざるを得ないことへの無理解を生みうる。

ゲートウェイドラッグ理論の正否は、専門家でない僕には分からないので保留しておきますが、薬物に対する描き方っていうのは確かにちょっと問題があって、なにより「薬物を使えばこの世を超越することができる」というような描き方は、確かに問題だなーと思うわけです。

ただこれは、どっちかというとにゃるら氏が意図してそういう描き方をしているというよりは、にゃるら氏が自分の筆力や演出力を過小評価していたからなのかなーと思ったりもするわけです。

例えば、LSDをあめちゃんが接種した後、その感想についてあめちゃんが書いたと思われる「たいけんき」という内容の文章が読めるんですね。これ、本来は「あーヤク中ってこういう文章書くよねー」みたいな、そんなしょーもない文章で良かったはずなんですよ。

ところが、これが実に読んでいて面白いし、引き込まれる文章なんですね。それを読んでると「こういう体験ができるんなら、自分も薬物体験してみたいな」と思ってしまう程度には。

もちろん実際は、薬物を摂取しても大半の人はしょーもない文章しか書けません。このLSD体験記が素晴らしいのは、LSDのおかげというよりは、あめちゃん≓にゃるら氏の文章力がすごいからでしかないわけです。

上記のようなことはゲーム全般に言えて、実際事実だけを取り出すとそんなに憧れる要素も無いしょうもないことなのに、にゃるら氏の文章力や演出力にかかると極めて特異でキラキラした体験であるように見え、「自分もそういう破滅的な体験をしてみたい」と思わせてしまう作用は、確かにこのゲームにはあるわけです。だから、そこの影響力には確かに注意しなきゃならないなと思ったりはするわけです。太宰や坂口に憧れ睡眠薬を乱用したりする若者が出ることに注意するのと同程度には。

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る

ただ、そういう面を差し置いたとしても、「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージを敢えて伝えるということは、僕はそんなに悪いとは思えないのです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームをやっているとき、ずっと僕の頭の中でBGMとなっている曲がありました。それはアーバンギャルドの『ももいろクロニクル』という曲です。
open.spotify.com
amzn.to

君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく

アーバンギャルドというバンドも、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームと同じように、リストカットとかいうようなメンヘラのことを沢山歌っていて、まさしく上記の記事の筆者が聴いたら「けしからん!」と怒るような、そういう曲ばっかりを書いているバンドです。
でも、精神疾患を抱いている人の中には、むしろ「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージよりも、むしろこういう、ちょっと自分たちのことを茶化しながら、しかし真っ直ぐ向き合ってくれる、こういうバンドの曲に救われる人だっているわけです。そしてそれは、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームにも言えます。

もちろんだからと言って、「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージが無意味とは言いません。そういうメッセージこそが必要な人もいるでしょう。僕だって、もしリアルで「私メンタル病んで悩んでるの」と問いかけられれば、その人がどういう状態かを見て、心療内科を勧めた後、その人のタイプによってどちらの言葉を投げかけるか決めますし、多くの場合「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージを伝えるでしょう。

(ただ現実問題、そうやって心療内科を勧めても、初診は2ヶ月先だったりするわけで、こういうゲームの精神疾患の描き方を問題視するなら、まずそういう心療内科にきちんと罹ることができる体制を作れよと思ったりもするが)

精神疾患に効く万能薬というものがない以上、重要なのは、自分に合い、自分を癒やしてくれる多様な表現に接することができる環境を作ることなのだと思います。もちろん、そのメッセージそれぞれに対する批判もまた、あって然るべきだし、それを受けて表現を変えるということもありでしょう*3しかし「こういう表現は精神医学の標準的な考え方から違うから表現しては駄目」と一概に言い切ってしまうことには、僕は反対です。上記のような記事は、そのような、表面だけを見た一律な批判であるように、思えてなりません。

*1:うわー、他人事とは思えない……

*2:今回の記事の立場も、基本的にはそれと同じロジックに基づいているといえます

*3:『ルックバック』について、著者が表現のやり方を変えたように