b.hatena.ne.jp
なんか結構燃え上がってるようで。
呼称問題というのは以前から結構ジェンダー界隈では話題になっていた問題であって、過去にはこんな記事もあったりします。
news.yahoo.co.jp
僕は、基本的には、家父長制を前提にした「ご主人」とか「嫁」みたいな言葉は、単純に「それを不快に思う人も居るんだから」という理由から使わないようにすべきで、特に人と接することが業務の一部である仕事については、それこそ↓のデパートなどのように、会社側が「そういう呼称は好ましくないです」と指導すべきだと思います。
話は盛大にズレていくんだが私のいた某百貨店だと、お客様の発言からそれとはっきり分かるまでは連れの異性を「ご主人様」「奥様」「お嬢様」等と属性で呼ぶな、と言われていた。娘のような妻、妻のような上司、旦那のような愛人、息子のような部下、何もかも有り得るから、と。
— 九曜 (@navagraha_) 2020年12月28日
ただ、一方で僕が思うのは、「そうは言っても、若い人らならともかく、もうくたびれたおっさんがそんな世間の意識の変化についていけるか?」ということなんですね。
「価値観/意識/知識のアップデート」という言葉が流行したけど……
最近、多くの―僕も基本的には好きな―知識人たちは、「価値観/意識/知識のアップデート」という言葉をよく使います。その文脈でいう「アップデート」というのは要するに、常に時代の変化を追いかけ、その中で自分の中に差別的だったり抑圧的だったりする行動・言動をしてないか、ということなわけです。
getnavi.jp
テレビってどういう基準でやってるか知らないんですけど、たとえば男性で通常のセクシュアリティと違うなって人を一律『オネエ』と呼んだりしてたわけじゃないですか。あるいは、本人が自己卑下的にネタで言うのはまだいいとしても『オカマ』って言ったりとか。ちょっと前までは普通に茶化されてたことが、今はちょっとギョッとする表現にちゃんと感じられたりする。つまり、人を差別するような言葉は面白くねえよっていう当たり前のことが基準になったというか。
心底、僕がそれを面白くないと思っていれば出てこない言葉なんですよ。そういう考え方を憎いと思っていればなおさら。だから、“気をつける”って言い方も本来は良くないと思ってて、『ちゃんとわかってるのか俺?』って思うんですよね。その急激な良い変化に対して、それはもうラジオとか関係なく、今を生きる人間として、当然誰もが心がけるべきことだと思ってます。そこで、ふと自分にがっかりする瞬間も残念ながらあって、それはもう反省と、自分なりのアップデートを繰り返すしかないなってことでもありますよね」
せやろがい 僕らが生まれた時代にジェンダーギャップが平たくなっていたとしたら、価値観のアップデートはいらなかったかもしれない。でもこうなったら、向き合わないと。
モバプリ 高校生と接することが多いが、今どきの高校生は私たちの世代と感覚が違う。完璧に平等ではないにしても、ジェンダー意識が違うと思う。私たちの若いときは男同士で仲がいいと「デキているのか」と冷やかしたりするノリがあった。今の10代、20代の子は、そんな感じのノリがないかも。性には多様性があって、誰が誰を好きになるかは自由と。アップデート済みで生まれてきている感じ。30代はアップデートしないと、近くで稼働している古いOSみたいな感じ。
ヒラギノ:知識をアップデートする習慣です。エンジニアさんやデザイナーさんがわかりやすいですが、他のあらゆる職業同様、生涯勉強を続けて、時流やトレンドを把握していないと立ち行かないと思います。
しかしその一方で、こういう言い方については「そんなほいほい価値観ってアップデートしていいものなのかよ」という批判があったりします。
誰が言い出したレトリックなのか知らないけど、「価値観のアップデート」って本当に傲慢で危険な言い草だと思う。個人の倫理や良心をまるで今年の流行色みたいにさ。確実にこの言葉の先にロクでもないシステムがある。いつから魂をマイクロソフトやアップルが束ねるようになったんだっての。
— CDB (@C4Dbeginner) 2020年7月10日
anond.hatelabo.jp
大型アップデート直後の最新版なんてどんなバグがあるかわからないんだから
バグ修正が一通り済んだ安定版が出るまで待つべき
僕自身は、「価値観のアップデート」という言葉は、それが、メディアに出て表現をしたり、そういう変化に対応してマーケティングをしたりする人の自戒として語られる分には、いいことだと思っています。また、そういう知識や思想がまだまだどんどん吸収できる20代ぐらいまでは、そういう変化をきちんと追っかけることは重要ですし、何より楽しいわけで、そこで「いや価値観のアップデートとかしんどいですし」とか言っているのを見ると、「まだまだ若いのに何言ってんの!」と言いたくなります。
ただ一方で、そういう元気があった20代を終え、30代もそろそろ半ばになってきた自分が思うのは、「でもこれを生涯に渡って続けていくのは無理じゃね……」ということなんです。
おじさんになるとは、アップデートの最低スペックについていけなくなるということ
自分の実体験から述べても、世間の最新の情報への感度は、10代~20代のころとは比べものにならないほど衰えています。単純に読書量とかも明らかに減りましたし、読む本の種類も、昔はハードカバーの学術書とかバリバリ読んでいたのが、新書や新聞記事をよむのが精一杯という感じです。せめてTwitterのTLとか見て感度を鍛えようとか思っても、もう相互フォロワー自体同じように老けてるから、昔のように最先端でばりばりレスバトルするなんてことなく、もうただ一日一回「にゃーん」と呟くような感じで、けだるい平和が続いていく。
こんな生ぬるい所に居てはいけない!と思い、今も最前線でばりばり論争をしかけるアカウントのリストとかを作ったりはしてみるものの、そういうリストは正直もう読んでるだけでぐったり来ちゃって、自分がそれに対して意見をまとめるなんて、それこそこういう長期休みぐらいにしかできないわけですよ。
で、ここからは推測になりますが、そうやって日々の最先端の議論をきちんと自分の頭で追っかけていくことがしんどくなったとき何が起こるかと言えば、「陰謀論にはまっちゃう」んですよ。陰謀論の何が良いって、それが頭を使わずに語れることなんです。何か社会問題がある時に、いちいち本とか何冊も手に取って「この問題にはこういう背景があって、それを解決するためにはこんな方法がある。しかしその方法にはこんなデメリットが……」とか考えるのは、面倒くさいし疲れます。しかし陰謀論の世界観においては、そんな面倒なことは一切必要なく、ただ「こんな問題が起きたのは○○の陰謀だ!○○を滅ぼせ!」と叫べば良いんです。どっちが、より疲れたおじさんに適合的か?言うまでも無いでしょう。
価値観をアップデートできないおじさんに無理矢理「アップデートしろ」と叫んだって、結局できあがるのはミソジニー陰謀論おじさんでは?
ガス点検に来たおじさんは、「価値観のアップデート」という文脈で言うならば、確かに価値観をアップデートできていない古いおじさんかもしれません。でも、まあその程度で、別にそれほど凝り固まった女性蔑視の考え方とかは持ってないとは思うんです。無知かもしれないけど、邪悪ではない。
ところが、じゃあそんなおじさんに対し「価値観を常にアップデートして世の中の最新の潮流に敏感になれ!」とか言ったらどうなるか?はっきり言って普通のおじさんにいきなりそんなこと言われても無理なわけで、クタクタに疲れてしまうでしょう。そしてそこにこんな陰謀論がやってくる。「今の日本では行き過ぎた男女平等が進んでいる。その原因は、シモン・デビューボに代表されるような、ソ連のコミンテルンから指令を受けたフランクフルト学派という連中が、教育現場で子どもたちを洗脳しているからだ!」みたいな。そうすればもう、女性専用車両に乗り込んで嫌がらせをするようなミソジニー陰謀論おじさんのいっちょ上がりですよ。
こういうことって、あらゆる場所で起こっているわけです。例えば、以前ラブライブ!サンシャインのポスターが批判されたとき
amamako.hateblo.jp
ラブライブ!サンシャインのファンたちの中には、ポスターの批判に抵抗するために、それまではそんな議論について全然言及していなかったのに、反フェミニズムの方向に走って行き、そのまま白饅頭とか荻野区議とかをRTする人になっちゃったり、あるいはゆずの曲が「右翼的」として批判を受けたときに
charlieinthefog.com
増田 この曲は、ゆずファンの掲示板なんかで見てると、右翼的な歌だって左派的な人から攻撃を受けてそれに憤慨しているファンがいて。
荻上 そりゃそうでしょうね。
増田 その中で「ゆずを応援している人たちがいたよ」ってこの人達がネトウヨの掲示板のリンクを張ったりするわけですよ。多義的な歌が、これは愛国的だとかパロディーだとか、既存の政治的な意味に落とし込まれちゃうと、既存の政治的なルートを象徴するものになってしまっていて、ふわふわしたファンたちが声の強い方に流し込まれていっちゃうということに関して危惧するところがあって。
という風にゆずのファンがネトウヨに動員されたり。
これを「きちんと真面目に勉強しないからだ」と批判するのは、確かに正しいです。でも、世の中の大多数の人、とくにもう若者ではないおじさんは、そんな「真面目に勉強できる」ほど暇もないし、元気もないんじゃないかなー。
おじさんになっても常に「価値観のアップデート」をし続けなきゃいけない社会って、やっぱりキツいのでは
僕は、「価値観のアップデート」という概念を、全否定はしません。むしろ、それがメディアで表現を行う人々や、これからの社会を変革する力に溢れている若者にとっては、絶対不可欠なことだと思っています。僕自身、まだ33歳はギリギリそういうのについていける年齢だと思うので、あと数年は頑張るつもりです。
でも、それが社会の成員全員に求められ、中年やシニアになってまでも迫られる社会って、本当に持続可能なんでしょうか?
少なくとも自分自身を考えてみると、それは無理です。40代まではギリいけるかもしれないですが、50代以降はもうこんないちいちはてブで記事を調べて文章を書くなんてことは無理でしょう。そして、頭の凝り固まった、多分そのとき時代の最先端である若者から「おじさんの考え方ふるーい」と言われるような老害になっていくわけです。
そのときのことを考えると、やっぱり今の、「価値観のアップデートが全員に求められる社会」って、どこかでなんとかして欲しいなと思ってしまうんです。