あままこのブログ

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若い人は知らないけど、僕がアニメからVTuberに流れていった理由

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anond.hatelabo.jp
大学卒業した頃から、若者とは殆ど付き合わなくなってしまったので、今の若い人が実際にアニメからVTuberに流れていってしまっているかは、分からない。


ただ、1987年生まれの34歳の自分は、割と最近アニメを見ることが減って、その分VTuberの配信とかを見るのが多くなっている気がする。


なぜそうなったか。そこには主に2つの理由がある。

  • もともと自分がアニメに求めていたのが、「物語」そのものというより、「物語」をメタ視点から眺めるという楽しみだったわけだけど、Vtuberはより直接的にメタ的な楽しみができる
  • アニメよりVTuberの方が、よりダイレクトに現実を反映しているように見える

それぞれの理由について、解説していく。

アニメという「重い物語」と、VTuberという「軽やかな物語」

「アニメ実況」という文化がある。古くは2ちゃんねるの実況板、今はTwitterハッシュタグなどで、リアルタイムにアニメの実況を書き込んでいく文化だ。


もちろん、もともとオタクには、仲間内で集まってアニメを一緒に見るという文化はあった。だが、それはあくまで十数人とかの少人数で行われていたことだ。また、インターネット以前のパソコン通信の頃から、放映されているアニメについて意見を交わすという文化はあった*1が、当時は回線が貧弱なため、多くの人が一斉にアニメ放映時に掲示板に書き込むと、サーバーがダウンしてしまうため、多くの掲示板では「実況禁止」というローカルルールがあった。


しかしそんな中で、2ちゃんねるで、実況をする専用の板が存在し、そこでは日夜(といっても大体は深夜と日曜日朝、それとTBS・MBS夕方だったが)アニメ番組の実況が行われていた。


さて、ではそこで行われていた実況とはどんな行為だったのか?


もちろん主となるのは、笑う場面で笑ったことを書き込み、感動する場面で感動したことを書き込むといった「感情の共有」である。しかし、一人でいるときはただそれを「感じる」だけである感情も、実況という場でそれが書き込まれることによって、「観察されるもの」となる。実況に参加する人は、アニメそのものを見て感情を発露する観客であると同時に、感情を発露する観客を観察する観察者として、否応もなくメタ的な立ち位置に立つ。


そしてそんな中で、「このアニメではこういう場面でなく人が多いな」とか、「この展開、担当する脚本家よく使うな」というように、ただアニメを見て感情を発露するのではなく、アニメを分類し、さらにそこでクリエイターと関連付けたりする。「京アニが作るkey原作アニメはやっぱ泣きアニメだなー」というように。


さらに言えば、そのようなインターネット上の実況文化と共犯的に人気を獲得していったアニメも多々あった。『ぱにぽにだっしゅ!』『らき☆すた』『さよなら絶望先生』といったアニメは、メタ的なオタクネタやネットネタを数多く取り入れ、そしてそれに対してネットが盛り上がり、その盛り上がりを作りて側が取り込んでいくという、ネットの実況文化と作り手のスパイラルによって、ネット上で人気を誇る、いわゆる「覇権アニメ」となっていった。*2


だが一方で、そうやってメタ的な盛り上がりがどんどん盛り上がってくると、やがてアニメという物語そのものを脱構築していくことになる。ブロードバンド環境が人々に行き渡り、YouTubeニコニコ動画といった動画サイトが出てくると、やがてそういったサイトにアニメ番組が無断転載されたり、アニメ番組を勝手に編集した、いわゆるMADムービーというものが作られるようになる。そして、そのような無断転載動画やMADムービーでは、クリエイターの意図とは異なった意味が付与される。『チャージマン研』というアニメが、そのあまりの低クオリティさを逆に面白がられたり、『School Days』の凄惨な殺人シーンに、サッカーゲームの実況音声を付与してシュールな笑いを生み出したり。


だが、このような動きをアニメ側が全肯定することは難しい。無断転載動画は、何より直接DVD・Blu-rayといったソフトの売上を横取りしていくし、MADムービーは、作品が本来視聴者に持ってもらいたい感情をもたせることを邪魔する。何より、このようなネットのノリというのは移ろいやすく、その匙加減を間違えるとひんしゅくを買いやすい*3。よって、流れを見誤ったときは即座に修正が必要だが、制作にある程度時間を要するアニメでは、「先週の評判悪かったから今週の展開変えて」みたいな変更は難しいのだ。


そんなふうに、アニメがネットのメタ的盛り上がりに迎合するのに限界を迎えていた中で、より、そのようなメタ的盛り上がりとうまく付き合えるコンテンツとして現れたのが、VTuberだった。少なくとも、僕はそう理解している。


なにしろネット上で直接視聴者と接し、リアルタイムでコンテンツを生み出すのだから、ネットのノリを理解し、またノリを読み間違えたときにそれを修正するのは極めて容易い。自分が発したコンテンツが、意図した受け止められ方と違う受け止められ方をしても、それが利用できるなら利用してしまうフットワークの軽さがVTuberにはある。最初に与えられたキャラ設定が、視聴者とのふれあいの中でどんどん変質していくことは、一般的なアニメキャラクターではあまりよくないとされるが、VTuberにおいてはむしろ「売り」となるのだ。


僕がVTuberに惹かれるのは、まさしくそのような「物語をどんどん脱構築していく軽やかさ」なのだと思うのだ。もともと実況するものとしてアニメを見始めたものとしては、今のアニメは壊してはいけない、「重い物語」になってしまっているように見えていて、それだったら自由に変形組み換えをして遊べる、VTuberという「軽やかな物語」に惹かれるのだと思う。

VTuberだからこそ語れる「現実」がある

更にいうと、もともと僕はアニメを見るときに、そのアニメの物語そのものを見るというより、「そのアニメが、アニメという装置を使っていかに現実を理解しているか」を見ていた。


それこそ新世紀エヴァンゲリオン機動戦艦ナデシコ少女革命ウテナという、大月P三部作に代表されるように、僕が若い頃にちょうどホットだったアニメは、当時の時代と切っても切り離せないものだった。ロボットや宇宙戦争、変身ヒロインといったガジェットを使いながら、描いていたのは、当時の若者の不安や悩みだった。


もちろん現代のアニメにそういった側面がないとは言えない。だが、やはりアニメには放送コードといったものがあるし、何よりアニメは集団作業によって生み出されるし、決定権のある作り手もなんだかんだ言っておっさん・おばさんだから、どうしても「濾過された、安心安全な範疇の悩み・不安」となってしまう。


それに対してVTuberは、個人が声を発するがゆえに、それぞれの個人が抱えている悩みや不安がダイレクトに聞くことができる。さらに言えば、「アニメアバター」という匿名性を持つが故に、実際に顔見せで配信しているYouTuberより赤裸々に色々なことを語ってくれるわけだ。


そして、そういった様々なVTuberの配信を見ると、今の社会で若者がどんなことを思い、どんな現実を生きているのかということがわかる気がするのだ。そこも、惹かれる理由なのだと思う。

サブカル的にアニメを楽しんでいたのか、オタク的にアニメを楽しんでいたのかで、VTuberを楽しめるかは変わるのでは

結局、今までアニメに「何を求めていたか」によって、VTuberを楽しめるかどうかは変わってくるのだと思う。
僕は割と、「アニメをメタ的に見る」とか「アニメから社会を考える」みたいな、いわゆるサブカル的なアニメの楽しみ方をしてきた。だから、スムーズにVTuberに移行できたわけだ。
だけど裏を返せば、「アニメをみてベタに感情を揺さぶられたい」「現実を忘れるためにアニメを見たい」という、オタク的なアニメの楽しみ方をしている人たちは、VTuberを見てもいまいち楽しめないのでは、ないのだろうか。

*1:劇エヴァでの「庵野○ね」の書き込みとかはまさにその典型例

*2:さらに言うと、そのような文化がより一般的になったのは、まとめブログの存在もあるのだが、その功罪について語ると長くなるのでここでは省く

*3:ex.らき☆すたにおける白石稔押し

バックラッシュ上等ですが何か?

note.com
御田寺氏については以前も
amamako.hateblo.jp
で批判しましたが、相変わらず「インテリが気に食わない俺たち」を慰撫して、信者を集めているみたいですね。


で、この記事の著者の倉本氏は、そんな御田寺氏について

そこに、「リベラル派の理想に擬態した単なるインテリのエゴ」を決して通さず、社会の絆を崩壊させずに、「具体的な改善」だけを選択的に通す「選別膜」のようなものを作っていくことが必要なんですね。


つまり僕が主張したいことは、


リベラル派にとって「ガチの極右勢力」は確かに不倶戴天の敵かもしれないが、「白饅頭防衛線」みたいなものとは、発展的にお互いを利用し合う形に決着する必要がある対象であるはずなんだということ


(略)


彼は「欧米由来の一方的な正しさ」を徹底的に相対化しようとする言説を一貫してすることで、この「インテリの言うことなんて絶対聞いてやらねーからな!!」というモンスタームーブメントが止められなくなってしまう悲劇をギリギリのところで止めようとしている存在なのだ


(略)


先日の対談でも御田寺氏が力説してましたが、そこを無理にインテリ側の事情だけで押し切ってしまうと、アメリカで妊娠中絶の権利が危うくなったりレベルじゃなくて、それこそタリバンレベルのバックラッシュを誘発してしまえば、もうそこでは「欧米的理想」が完全に吹き飛んでしまった社会になってしまうからですね。

とか言って賞賛しているわけです。要するに、「リベラルなインテリの主張を推し進めていたら、それに反発する大衆のバックラッシュが来てもっと事態は悪化する。だからリベラルは、御田寺氏=白饅頭のような反リベラルの気持ちに寄り添い、それを満足させる視点を持たなければならない」というわけです。


ですが、それに対して僕ははっきりこう言いましょう。


「正しいことを行ってバックラッシュが来るんだったら、そのバックラッシュとは戦う以外の選択肢はないでしょ。バックラッシュ上等!それを恐れる必要がどこにある?」と。

正しさへのバックラッシュがない状況とは、それだけ不正義が蔓延しているってだけのこと

倉本氏は、妊娠中絶を巡り、リベラルと保守の対立が激化しているアメリカや、女性の権利を擁護しようとする運動とイスラム原理主義運動が対立するイスラム圏などを例に、「ああいう国・地域で起きているような対立が日本で起きたら嫌でしょ?」と言い、バックラッシュが起きない状況こそが健全だと言います。


しかしはっきり言いますが、それらの国でバックラッシュが起きているのは、正しいことを行おうとする人たちが居て、きちんと声を挙げているからなんですよ。逆に言えば、日本でそういうバックラッシュが起きてないと、もし見えるとしたら、それは正しいことを行おうとする人たちそのものが存在しないように、思わされてるからなんです。


要するに不正義が社会全体に蔓延していながら、それに対して人々が誰も文句を言っていないという状況。「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、そんな地獄のことなのです。


ここで注釈しておくと、「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、実際は虚像に他なりません。今のようにインターネットで対立が可視化される以前から、多くの人は「正しいこと」を行うために戦ってきましたし、更に言えばそれに対するバックラッシュも多々あったわけです。だからこそそのものずばり『バックラッシュ!』

という本が出版されるほどには。


そして、正しいことが実現されることを求める人々は、そういったバックラッシュと戦い、時に勝ち、時に負けながらも、この日本社会で正義を貫こうとしているわけです。

「言葉には出来ないけど僕の気持ち分かってよ」なんて甘えが許される社会こそ、不健全である

いちおう言っておくと、僕がここで批判しているのは、「正しいこと」をなそうとしている人たちに対して、ただ「正しいことを押しつけるな!」と反発するバックラッシュであって、「あなたたちの言う正しいことは間違っている。別の正しさがあるはずだ」という反論は、また別です。そういう反論に対しては、個別具体的に応じ、「ではどちらの正しさが正しいのか」ということを、討議する必要があるでしょう。


しかしここで御田寺氏は次のように言うわけですね。

現時点で言語化可能なメッセージだけが重視される社会になると、言語化能力がある人の権利だけが無制限に通る反面、自分が生まれ育った環境にいた仲間や、肉体労働者のように”言葉を持たない”存在の権利は徹底的に軽んじられる社会になってしまう。その不均衡を是正することが必要だ。

要するに「自分たちの要求を言葉には出来ない人たちもいるんだから、そんな人たちのことも分かってよ!」と言うわけです。


ですが、「言葉にせずとも分かってくれ」なんていうのは、まさしく言葉なんか使わなくても自らの特権を保持することができる立場の傲慢に他ならないわけです。つまり、言葉を使って自分の要求する権利が正当であることを証明しなくても、元々自分たちの特権が自明のものとなっているから、そんなことが言えるわけです。


一方で、今まで虐げられてきた人々は、「言葉」を使うからこそ、初めて特権を持った支配層と戦うことができるわけです。なぜなら、言葉というものは、現実の権力構造とは関係なく存在しているからです。


暴力や資本と言ったものは、現実の権力関係によって独占されます。しかし言葉は誰もが平等に持っていて、それを行使することが可能なのです。例え現実にどんなに基本的人権が無視され、不平等が放置されていても、言葉の上では「基本的人権は万人が持っている権利だ」「人はみな平等である」と言うことができるのです。


誰も「言葉」を独占なんかしていません。例え今言葉を知らなくても、それこそ図書館にでも行けば、無料で言葉を知る方法なんていっぱいあるわけです。にもかかわらず「言葉」を使って自らの権利を主張しようとしないのは、結局その主張が言葉で擁護できない不当なものであることに気づいているからなのです。そして、「言葉」を使えば、自分たちの主張が不当なものであると暴露されるからこそ、「言葉なんか使って討議するのではなく、穏便に解決しようよ」とか言って、現実にある抑圧を隠蔽しようとするのです。

「義理」「当事者意識」とは、人々を縛り付ける奴隷の重りに過ぎない

上記の記事で倉本氏は、「義理の連鎖」とか「本能レベルでの紐帯」とかいう言葉を使って、とにかく「今ここにある社会」を肯定しようとします。そういう言葉は、まさしく倉本氏や御田寺氏の議論を読んで、「やっぱりフェミとかリベラルとかの言うことはおかしいよなー」と溜飲を下げる、既に特権を持っている人間からすれば、まさしく願ったり叶ったりでしょう。


僕は、それ自体は、「うわー醜い傷のなめ合いしてんなー。見てらんないなー」という風に思いはしますが、別に気にしません。そういう不正義にあぐらをかいた特権を持った連中がどんどん愚かで醜くなっていくのは、彼らの自己責任だからです。


僕が頭に来るのは、そういう特権階級向けの現状肯定だけやってればいいものを、「今ここにある社会」の不正義によって、虐げられている人たちに対して、「いや君たちが暴れたらもっと状況はひどくなるよ」とか言って、言葉で社会を変えることなんて無意味だと、ペシミズムを植え付けてこようとすることです。


何度も言いますが、バックラッシュを経験せずに変わった社会なんて、有史以来存在しません。フェミニズム運動も、奴隷解放運動も、公民権運動も、障害者運動も、どれもどれも強烈なバックラッシュを受けてきました。そしてそういうバックラッシュを受けて、「このままじゃ自分たちの権利が更に悪くなってしまう。ご主人様の機嫌を損ねてはいけない」と、上記の記事のようにささやいてくる声も多々あったわけです。


ですが、社会を変えてきたのは、そんな声に対して「バックラッシュ上等!徹底的に戦ってやるよ!」と言い、毅然と戦いを続けた人たちなのです。

東浩紀・石戸諭・三浦瑠麗らによる福島瑞穂氏への誹謗中傷を非難する

ニコニコ動画での選挙特番における、東浩紀・石戸諭・三浦瑠麗らによる福島瑞穂氏への誹謗中傷が、ネット上で批判を集めています。


これに対し東浩紀氏は以下のような反論記事を発表し
note.com
石戸諭氏もtwitter上で以下のように反論しています。
しかし僕から見ると、ネット上での東氏や石戸氏への批判は至極真っ当なもので、東・石戸の反論は、批判の矛先をズラす言い逃れにしか思えませんでした。


以下の文章では、東・石戸の反論の何がおかしいか述べていき、さらに一体何でそんなおかしい反論をしてしまうのか、考察していきたいと思います。

「ネットでは『東浩紀ら氏が統一協会を擁護した』というデマが流れている」→ネット上では、東浩紀らが福島瑞穂氏の発言を歪曲し「統一協会について語ってはいけない」という態度を示したことが非難されている

まず、東浩紀氏の記事について。

東浩紀氏は、反論記事において、Otowa氏のツイートを提示しながら、以下のように書いています。

当該番組を見ていただければわかりますが、ぼく、東浩紀は、統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」ですが、こちらの名称のほうが知られているのでこちらで記します)を擁護しておりません。また安倍元首相銃撃事件犯人の動機が統一教会と関係がないとも発言しておりません。

ですが、そもそもOtowa氏のツイートも、また、それに対して上記で上げたような批判も、東浩紀氏らが統一協会を擁護しているなんてことは一言も書いていません。ネット上で東氏らの発言が批判されているのは

  • 福島瑞穂氏の「あらゆる暴力に反対する」という発言を無視して、「自民党の政策にいかに統一教会が影響力を持ってきたかはきちんと解明されなければならない」という至極真っ当な発言を「自民党統一教会と関係しているからこのようなテロを起こされて当然」と歪曲した
  • 統一教会安倍氏自民党と関係があるのは公然の事実なのに、「そんな証拠はない、あくまで仮定の話」と嘘をついた

という2点からです。


そして、このように福島瑞穂氏の話を歪曲し、嘘をついていることこそが批判されているのに、東氏や石戸氏は、「自分たちが統一協会を擁護しているように書かれている!」と、批判内容を歪曲し、自分たちはデマの被害者であるというように振る舞っているのです。はっきり言って、厚顔無恥であると言わざるをえません。

統一教会がカルトであるかは判断できない」→そんな無知な人が選挙特番に出演する資格はそもそもなかったのでは?

そして、これほどまでにマスメディア上で統一教会について報道がなされているにも関わらず、東氏は次のように述べています。

ぼくはそもそも、統一教会がカルトであるかどうかを判断する立場にありません。

仮に、これが一市民の発言だったら、こういう発言をしても許されるでしょう。例えば僕の若い友人なんかは、今回の事件があって初めて「統一教会」という宗教団体の存在を知り、その内実に衝撃を受けていました。


しかし、東氏や石戸氏は、選挙特番の出演者として、直接政治家らに質問し、意見を言える立場なわけです。だとしたら、当然各々の政治家の支持基盤は一体どういう団体なのか、またそれらの団体が政治に関わることに問題はないかというような、政治を語る上での一般常識は知っていなければならないはずです。


にも関わらず、この期に及んでも「統一教会がカルトかどうかなんてぼく分かりません」などというような人間には、到底選挙特番のような番組に出る資格はなかったと、言わざるを得ないでしょう。

「意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」→東・石戸氏らが行っているのは誤解ではなく歪曲。というか君たち自身こそが誤解を生むような発言をしてるじゃん

そして、東氏は以下のように、「テロを擁護する意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」と書いています。

しかし、たとえ統一教会がカルトなのが事実で、また元首相がそれをバックアップしていたのも事実で、容疑者がそれを個人的な動機として元首相を襲ったのも事実だったとしても、そもそもの大前提として、元首相への銃撃はいかなる理由があっても許されないことであり、「彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった」と解釈できるような発言は慎むべきだと考えます。たとえ、そのような意図がなかったとしても、誤解を誘導するような発言は慎むべきです。そのような誤解は、今後のテロの正当化につながるからです。

ですが、福島瑞穂氏はまず最初に「いかなる暴力にも反対です。」ということをはっきりと言っている以上、テロを正当化する意図がないこと*1は明確なわけです。そして、その後の発言においても、自民党統一教会の関係は追求すべきということを言っているだけで、例えば「自民党統一教会の関係に注目を集めさせた今回の事件に感謝します」とか「犯人にも一定の理があります」みたいなことは一言も言ってないわけです。このような発言をもとに「福島瑞穂氏はテロを擁護している!」と主張するのは、東氏や石戸氏・三浦氏のように、最初から福島みずほ氏に悪感情を持った上で、意図的に歪曲しようとしない限り不可能でしょう。


さらに言えば、そうやって「自民党統一教会の関係」を口に出せば即「テロ擁護だ!」と批判すれば、当然自民党統一教会の関係を報じようとする人は萎縮するわけで、東氏・石戸氏にはそのような萎縮を利用して、自民党統一教会の関係を探らせないようにする意図があるように、見える人もいるでしょう。もちろん彼らは「そんなことはない」と言うでしょうが、東氏の論法を使えば「意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」なので、萎縮を生むような発言は慎むべきというようなことになってしまうわけです。


しかし東氏や石戸氏は、自分たちが使った論法で批判されると、途端にそれは違うという。そんな態度を見ていると、下記のツイートのような感想を抱かざるを得ません。

「ぼくのファンはぼくに同意してくれるけど?」→そりゃファンなんだから当然でしょ

そして東浩紀氏は以下のように、他の共演者や視聴者のコメントが自分に同調してくれたことをもって、自分の意見が正当なものであると主張します。

ぼくが当該番組で表明したのは、福島瑞穂社民党党首という公人が、多くの視聴者が見ている番組で、ほとんど文脈もなく、そのような誤解を生みかねない発言をしたことに対する驚きです。同じ驚きは、番組中、他の共演者にも、また視聴者のコメントでも共有されていました。ぜひ番組をご覧ください。


ぼくとしてはむしろ、その発言の一部が切り取られ、いまツイッターの一部で、ぼくへの攻撃や批判が高まっていることに戸惑いを覚えます。

ですが、そもそも数多番組がある中で、わざわざ東浩紀氏が出るようなネット放送を知っていて、それを見ようとするなんて、よほど熱心なファンしかいないでしょう。僕自身、こんな番組がやっていたことを、Otowa氏のツイートで初めて知りました。


そして、熱心なファンであれば、東氏の発言を肯定するのは当然なわけです。


ところが、Twitter上でそれが流布されれば、当然ファンではない人も見るわけで、そしてそれらの人は「この東浩紀っていう人ちょっとおかしくない」と反応しているわけです。


その2つで反応に違いがあるのは当然なわけで、それに「戸惑い」を覚えるんなら、もう一般向けメディアで活動するのは向いてないと、僕は思いますよ。

「思想や政策より人間性」と語る石戸氏は、政治について語る資格がないのでは

東氏への批判・考察は以上になるのですが、実は東氏がこのようなリベラルへの逆張りをするのには、別にそんなに驚きもなければ興味もないです。もともと東氏が南京虐殺否定論を主張していたり、あいちトリエンナーレを批判していたのを知っていれば、このような東氏の妄言も、「ああ、またか」としか思わないわけです。三浦氏についてもそれは同様だったんですね。


ただ、石戸氏がこのような、福島瑞穂氏への誹謗中傷に加担したというのは、結構意外でした。そんなにリベラルに嫌悪感を持つような人間ではないように見えていたからです。


では、一体石戸氏がこのように福島瑞穂氏の発言を歪曲し、誹謗中傷を行ったのか。石戸氏はネット上で湧き上がる批判に対し、次のように自己の発言を正当化しています。


最初、一体何でこのように応答することで自分が行った歪曲と誹謗中傷を正当化できるか、その理路が理解できなかったんですが、要するに以下のようなロジックなのではないでしょうか

しかし、僕からすると以上のような考えは大変幼稚で、およそ政治についてメディアで語る資格がないように思えてなりません。


たしかに、一般の社会道徳からすれば「死んだ人のことは悪く言ってはいけない」というのは正しいです。ですが、政治や学問の世界でそのようなことが行われれば、過去に故人がした過ちが一切正されなくなり、社会を悪い方向へ導いてしまうわけです。


だから、政治家に求められるのは、そのような情に流されることなく、淡々と、例え故人が関係したことであっても、悪いことは悪いといい、それを正していくことなはずです。そして、少なくともリベラルの立場から言えば、統一教会のようなカルト教団が政治に関与し、同性婚反対やジェンダー平等反対といった教義を、政策や憲法に反映しようとしてくることは悪いことで、正さなければならないわけです。


その点から言えば、福島瑞穂氏は人間として非情かもしれませんが、しかし政治家としては正しいことを言っているわけです。


ところが、石戸氏のように「僕はその人の思想もさることながら、人間性を見る」人からすると、福島瑞穂氏や、その他現在自民党統一教会の関係を追求している人たちは、日本のために頑張って凶弾に倒れた素晴らしい安倍氏の功績に泥を塗ろうとしている、下劣な人間性を持つ人であり、そういう人たちは叩かなければならない、となるわけです。


しかし、そのように「人間性」で政治家を見る態度はとても危ういです。例えば「家族は大切だ」と考えることは高貴な人間性と言えるかもしれませんが、それが政治の世界で推し進められれば、家制度の解体につながる同性愛者や、子どもを産まない女性、ひとり親は排除すべきということになります。極端なことを言えば、戦争や大量虐殺を始める指導者だって、人間性で言えば高貴かもしれないのです。むしろ、その高貴な人間性で持って「我が民族を救わなければならない」と思うからこそ、戦争や大量虐殺を起こすわけです。


だから、政治家を見るときは、人間性ではなく、まず思想や政策を見なければならないのです。ところが石戸氏にはそのような、政治を語る上での最低限の作法が身についていない。だから「死んだ安倍さんのことを悪く言う福島瑞穂は許せない!」なんて言って、誹謗中傷に走るわけですね。


なるほど、確かに石戸氏は人間としては「いい人」なのかもしれません。しかし僕からすると、そんな人に政治について語られても、何も聞くべきことはないのかなと、思ってしまうわけです。

*1:2022/07/14 0:12加筆修正

「表現の自由」を真に守る政策とは

参院選については前回の記事で言及を終える予定だったんですが、どうしてもモヤモヤして仕方ないので。


自民党赤松健の以下のツイートが、インターネット上で賛否両論を巻き起こしています。



b.hatena.ne.jp


まーなんていうか、昨今の保守系表現の自由」系の人は本当に見当違いの場所で見当違いの敵と戦ってるドン・キホーテなのだなぁと痛感します*1


ただ、こういう見当違いの議論を集める理由の一つに、昨今の「表現の自由」をめぐる環境の変化に、旧来の「公権力による規制からの自由」を重視してきた議論が追いついてきていないというのもあったりするわけです。追いついていないと言っても、学問の世界では20年以上前から結構論じられてきた議論なんで、
amzn.to
政治家だったらこのレベルの議論はしてほしいと思う訳ですが。


というわけで、今回の記事では簡単に、今「表現の自由」についてどんな議論がなされているのか、「表現の自由」を真に守る政策では、どのようなことが考えられるべきなのかを述べたいと思います。記事の論旨としては以下の通りです。

  • 今までは「公権力による規制」こそが、表現の自由を脅かす問題だった
    • 旧来のリベラル系の「表現の自由」を守ろうとしてきた人は、ここを重視してきた
  • しかし近年は「社会的圧力による取り下げ」という形で、公権力ではない力による、表現の自由の抑圧があるのではないかと言われている
    • 赤松氏などが「表現の自由」への圧力であると主張しているのはここ
  • だが、上記のような粗雑な議論では「表現規制」と「批判・反論」の違いが区別できない
    • だから、「行き過ぎたジェンダー論」こそが表現の自由を脅かすなんていう、見当違いの話になってしまう(行き過ぎたジェンダー論というものが仮にあったとしても、それが「論」であるならば、「批判・反論」のうちであり、「表現への規制」とはいえない)
  • 問題なのは、「批判・反論」を即「表現の撤回・削除」に結びつけてしまう、メディアやプラットフォーマーの存在
    • 「批判・反論」の中身には、「行き過ぎたジェンダー論」でも「宗教」でも「青少年への悪影響」でも何でも入る(だから、その論の中身は関係ない)
  • メディアやプラットフォーマーにおいて、人々の「表現の自由」が抑圧されるのをどう防ぐかこそが問われている
  • メディアやプラットフォーマーが寡占化しているということこそ、政策で解決できる問題ではないか

*1:もちろん、本当はそれが「見当違い」であることは分かっていて、その上で支持者の歓心を集めるために、やってるだけなんでしょうけど

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選挙というウンコの投げ合いについて

なんかもう、色々イヤになるよなーと。


一応自分は、これまで一度も選挙を棄権したことは無かったし、今回の選挙も鼻をつまみながら、自分の信条にあった政党・候補者に票を投じるつもりではある。


あるのだが、にしても年を経る毎に「選挙」というものへの感情がネガティブなものになり、関連の話題から目を逸らしたくなる自分に気づく。下手したら、選挙というものがなければ、みんなもっと政治というものについて理性を持って向き合えるのでは無いかとすら、思えるのだ。


多分、もっと若い頃は、「選挙」というものに幻想を持っていたと思う。選挙に際して各政党・候補者が、政治に対する自らの考え方を明らかにし、そしてそれを受けて人々が、それぞれのイデオロギーや政治思想、個々の政策に対して意見をぶつけ合う。そういう理想が実現できる機会であるように思っていたわけで。


ところが実際は、有権者の多くはそんなきちんと物を考えてなく、なんとなくの雰囲気やら、あるいは自分の属する組織のしがらみやら、普段の付き合いなどに流されて票を投じるわけだ。そして、そういう有権者のレベルに合わせるように、政治家も支持母体とか、あるいは政策を訴えるより単なる単純接触効果を稼いだりする行為に精を出すわけだ。


あるいは、そういうしょうもない汚れた現実世界とは別個にある場所として、サイバースペースで、新しい、理想的な選挙についての議論ができるのではないかと思っていた部分もある。しかしそれも実際は起きず、存在するのは対立候補への憎しみを煽る言葉であったり、あいつらが悪いことをたくらんでいるというような陰謀論であったり、理性では無く感情に訴えるような短文のプロパガンダの応酬なわけだ。


レイシズムや差別主義のような、前提から邪悪な思想・政策を除けば、どんな思想や政策も、一応人々を幸せにしようとして語られているものであるわけで、例えその思想や政策に反対する側からも、最低限の敬意を持たれるべき。ところが実際は、自分と異なる思想や政策であるというだけで、それが即憎しみを持って排除すべきとされてしまう。


例えば表現の自由ジェンダー平等なんかは、最近のネット空間では二項対立で語られる―本来はそもそもそのように語られるのが間違いであるが―が、たとえ二項対立であったとしても、双方ともに「いかに人々が幸福にいきられるか」を目指すものであるから、それらの反対する立場でも、一応の敬意を持って語られるべき。ところが実際は、双方の思想の支持者が、相手の思想をまるで悪魔のように語り、憎しみを煽ることによって、自らの勢力に動員しようとする。


結局、動員というものが選挙においては正解である以上、馬鹿のようにふるまうのが、選挙においては最適解となるのだ。


ただ、現行の政治体制というものは、結局そういうウンコの投げ合いで政治の方針の大勢が決まるものであるから、参加せざるをえないのだが、しかしそれでも、「自分はウンコの投げ合いに参加している」という自覚を持って、せめて選挙が終わった後は、きちんと手を拭きたいなと、そんなことを思ったりする。

「毒親」は本当に親だけの責任か?

どーも、最近プロセカ
pjsekai.sega.jp
にハマりっぱなしのあままこです。ちなみに推しキャラはえむちゃんです。


さて、今プロセカでは、「迷い子の手を引く、そのさきは」というイベントが行われていて、そこで「25時、ナイトコードで。」というグループの「朝比奈まふゆ」というキャラクターの物語が展開されているわけです。が……


これがまた、「アプリゲーでこんなシナリオやっていいの?」と思うぐらい、暗く重いシナリオなんです。


概略を説明しますと、朝比奈まふゆというキャラクターは、家や学校では、母親が求めるような学業優秀な優等生として振る舞っているんですが、心の奥でその親の期待に押し潰れそうになっている少女なわけです。で、そんな少女が、「25時、ナイトコードで。」という、夜にグループチャットで集まって音楽を作ることに、唯一救いを見出すわけです。


ところが、今回のイベントでは、そんなまふゆが母親から「学業のために音楽をやめなさい」と言われるわけです。少女はそんなの嫌なわけですが、しかし母親に反抗することができない。その背景にあったのは、幼少期のあるエピソードなわけです。詳細は、ぜひゲームをやったり、プレイ動画を動画サイトで見るなりして調べてもらいたいのですが、これがまあ実にリアリティのある、「ああこういう感じで子どもを支配したがる親っているよね」という、イヤーなエピソードになっているんですね。


で、そのシナリオを読んでいるプレイヤーの身としては当然こう憤るわけです。「なんて嫌な親なんだ!こんな毒親がいるからまふゆは不幸になるんだ!」と。


しかしそもそも、何で、そういうふうに子どもに期待を押し付け、子どもを支配する、いわゆる「毒親」が生まれるんでしょう?

メディアで様々に表彰・告発される「毒親

毒親」というのは、最近インターネットで流行っている言葉の一つで、意味は下記のようなものになります。
ja.wikipedia.org

毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではない。スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。

そして、上記記事でも書かれている通り、近年「私はこういう毒親に育てられた!」という告発が多くされるようになりました。それこそ直近でも、漫画家である西原理恵子の娘がそのような告発を行い、大きな話題となりました。
news.allabout.co.jp
また、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカルチャーでも、「毒親」的なものは多く取り上げられています。先に上げたプロセカのシナリオもそうでしたし、『タコピーの原罪』という話題になったWebマンガでもそういった存在に苦しめられる子どもたちが描かれたり

とらドラ!』という、ライトノベル及びそれを原作にしたアニメでも、「毒親」的な親と子の確執が描かれたりしました。今ではもはや古典となっている「新世紀エヴァンゲリオン」だって、主人公の二人であるシンジとアスカは共に、親子関係に大きな問題を抱えていたわけです。(ちなみに、「新世紀エヴァンゲリオン」の頃は、毒親という単語は使われず、むしろ子ども側の方を「アダルトチルドレン」という言葉で呼ぶのが主流だったりしました。そのように、「どのようなタームで問題を捉えるか」という変化も、大変興味深かったりしますね。)


このように、「毒親」という問題は、インターネットや若者文化においてはよく取り上げられます。


更に昨今では「親ガチャ」という言葉も流行しています。
blog.tinect.jp

最近、親ガチャ、というネットスラング(俗語)を見かけることが増えた。

親ガチャというスラングは、ソーシャルゲームなどのガチャにかこつけて、望ましくない親元に生まれたことを呪ったり嘆息したりするために使われる。

上記の記事で述べられているとおり、「親ガチャ」という言葉は、毒親という問題を内包しつつ、さらに範囲を広く「親がどういう存在であるかによって子どもの運命のすべてが決まる」ということを呪う言葉なわけです。このように、「親が子どものすべてを決める」という宿命論は、広く人々に信じられています。


そして更にそこから、上記の記事で言うように「欠陥のある人間が子どもを産んだら、子どもは不幸になるしかないから、そういう人間は子どもを生むべきではない」という、括弧付きの「反出生主義」が流行したりしているわけです*1

「子どもを不幸にしてはいけない」という強迫観念こそが、毒親を生み出すのではないか?

しかし僕はここで考えるのです。「そうやって親の存在を絶対視し、『親がどういう育て方をするかによって子どものすべてが決まる』と、人々が広く考えるからこそ、毒親が生まれるのではないか?」 と。

毒親や親ガチャという単語が普及し、「親が間違った育て方をすれば、子どもは不幸になる」という考えが広まれば広まるほど、「だから正しい子育てをしなければならない!」という親へのプレッシャーは大きくなります。より良い学校に行かせて、友人も含めた周囲の環境も最良なものにして……しかし、そうやって親が子どもに過干渉することこそ、子どもにとっては重荷になったりするわけです。


記事の最初で挙げた朝比奈まふゆの例はまさにその典型的な例といえます。確かに子ども側の視点から立てば、親は理不尽な干渉を子どもに強いてくる存在です。しかし親側がなんでそういった干渉をするかといえば、悪意ではなく、むしろ善意からなんですね。「将来不幸にならないために、きちんと環境を整えてあげなければいけない」というように。そして、その背後にあるのは、「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」という、社会的な強迫観念なのです。

社会福祉がどんどん削られていくなかで、頼るものが親しかなくなっている

ここで強調したいのは、このように「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」となるのは、決して自然に生じたものではないということです。


例えば、僕の親ぐらいの世代、1960年代生まれぐらいまでの人の話を聞くと、よく「大学生の頃、親の反対を押し切って二人暮らしを始めた」という話を聞いたりします。いわゆる「四畳半フォーク」の世界です。
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しかし、同世代の人々にそういった甘酸っぱい経験をした人はほとんどいません。なぜなら、学費・家賃が高騰し、賃貸も保証人が必須となる中で、「親の助けなく大学生活を送る」というのは、かなり難しいからです。
www.jcp.or.jp
bigissue-online.jp
僕の年上の世代は、よく尾崎豊の「十五の夜」なんかを引き合いに出しながら、「今どきの若者には反抗心がない」と言ったりします。しかし僕ら世代からすると、僕より上の世代が反抗できたのは、結局親とかに反抗しても、何とかやっていける程度に社会が豊かだったからじゃないかと、思うわけです。そういう豊かさを社会から奪っておきながら、「最近の若者は反抗心がない」と愚痴るのは、ちょっと無責任なんじゃないかと、思ったりします。


話をもとに戻すと、昔は社会が豊かだったからこそ、親の庇護から外れてもまあまあ生きることが可能だったんですね。だから、親が毒親のような存在でも、「いざとなら家を出ればいい」と思えたし、完全に家から出なくても、少なくとも「親の庇護がなくても自分は生きられるだろう」という安心があったわけです。


ところが現代においては、社会全体が貧しくなる中で、若者が親の庇護なく生きることはほぼ不可能になりつつあるわけです。そうなると、親側も「きちんと子どもを庇護しなければ、子どもは必ず不幸になる」と思ってしまうし、子ども側も「親に従って庇護を受けなければ、自分は生きていけない」と思い、親が毒親であっても、そこに依存せざるを得なくなるわけです。


「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」というのは、決して自明のことではなく、このような日本社会の状況を背景にした上での、強迫観念なのです。

毒親はひどい!」と憤るだけでなく「何で毒親みたいなものが生まれるのか」と一歩引いて考えることが大事

多くの人にとって「家族」というものは、とても大事なものです。そしてそれ故に、そういった家族の中で生じる、「毒親」のような不幸は、現実でもフィクションでも大きく心を動揺させます。「こんなひどい親許せない!」と。


もちろん、そうやって憤ることが必要な場面もあります。特に毒親によって被害を受けた当事者にとっては、「自分が不幸なのは自己責任ではなく、親がひどかったからだ!」という気づきを得ることによって、自尊心を復活させることもありますから、毒親を非難することが一概に悪いとは言えません。


しかし一方で、「毒親によって子どもが不幸になる!」ということをことさらに主張することは、先に記事で述べたように、むしろ親たちを追い詰め、彼・彼女らを毒親になるよう追い込んでいるという側面もあるわけです。


そこで一歩憤りから身を引いて、「では何で毒親が生じてしまうのか」、「毒親を生み出してしまうこの社会」とは何なのかといったことを考えることも、憤りとともに、必要なのではないかと、僕は考えるのです。

*1:ここで僕が「括弧付きの」という注釈をつけたのは、欧米で哲学タームとして生み出された原義の反出生主義とは、指し示す内容がだいぶ異なってきているからです

「オタクくんさぁ……大好き!」と叫びたくなる映画―シン・ウルトラマン感想文(ネタバレあり)


shin-ultraman.jp
というわけで、見てきました「シン・ウルトラマン」。
シン・ゴジラにもシン・エヴァにもはまれなかった自分
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
なので、正直この映画もそんなに期待値は高くなかったのですが、見てみるとこれがかなーーーり僕好みの、僕が好きなタイプの映画になっていました!
もしかしたら、自分がこれまでに見た実写映画のベストスリーに入るぐらい好きかも知れません。

ただ、その一方で「僕はこういうのほんと大好きなんだけど、一般受けはもしかしたらしないかもなぁ……」と思う点もありました。
今回の記事ではネタバレありで感想を述べていきますが、その感想が万人に当てはまるとは思わないので、気になる人は是非劇場に見に行きましょう!

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人生に“冷めて”しまったとき、どうすればいいのか

anond.hatelabo.jp
分かる部分と分からない部分がある気がする。

僕も、30代で特にこの先結婚・子育てをする予定も無く、かといって仕事で何かをなすような人間でも無いので、むなしいという気持ちはよく分かる。そしてそのむなしさが、趣味に打ち込むとかでは解消されないんだろうなーとも、思う。

ただその一方で、そこで感じるむなしさが、「自己実現できていないから」ではないかというのは、僕はよく分からない。

というのも僕は子どもの頃から、そもそも結婚したり子供を産んだり、あるいは仕事で大成することに一体何の意味があるのか、よく分からなかったから。

おそらく、もし本当に「子どもを産み育てることこそが、この世に生まれた人間のやることだ」とか「仕事で成果を出すことが、社会人としての正しいありようなのだ」とか思えるのならば、30代という年齢は、がんばればなんとかできる年齢だと思う。

でも、そこで頑張ることができないのは、結局、そういう「これが正しい人のありようだ」という理想像を、心の底から信じることができていないからだと思うのです。

趣味というものが、心の救いにならないのも、それが原因だと思う。趣味を生きがいにするには、ただ趣味を楽しめばいいだけでなく、「趣味を楽しみに生きたって、それは素晴らしい人生じゃないか」という確固たる価値観がなければいけないわけだけど、おそらくそういう価値観もまた、心の底から信じなければ、信じることはできない。

伝統とか宗教といった、上から「こうあるべきだ」という規範を押しつけているものがあまりない現代の社会においては、「何のために生きるか」というのはあくまで個々人が自由に選び取るものとされている。

ただ、多くの人はそうはいっても、周囲の人々の価値観や、マスメディアですり込まされるイメージにより、なんとなく「これ(仕事、子育て、趣味)を大事とすべきなんだな」という価値観を得ることができるんだけど、でもそれは伝統や宗教のように上から押しつけられるものではないから、それを大事に思う理由は、「自分がそれを大事にしているから」という、循環論法でしかなく、それ故極めて脆弱なものになる。

そして、そうであるが故に、「なんでそれが大事なんだっけ」と、一旦“冷めて”しまうと、もう元通りに戻ることは難しくなってしまうわけです。

昔だったら、こういう風な実存的疑問って言うのは、伝統とか宗教とかを押しつけられず、むしろそれを作り上げる立場に居る、宗教家とかの一部のエリートのもので、それ故に、出家させるとか、書生生活を送らせるとかができた。

でも現代においては、一旦人生につまずくと、ごく普通の一般人でさえ、こういう実存的疑問にぶち当たってしまう。しかし、そういう人全てを宗教とか象牙の塔とかに、丸投げは出来ないわけで、そうなるとまさに増田や僕のような「むなしさを抱えたままの人」が続出しちゃうわけです。

と、このように診断はできるわけだけど、じゃあ実際「むなしさを抱えたままの人」をどうすればいいか、結局のところは、よく分からないわけだけどね。