あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「ルックバック」についての記事への批判について

note.com
この四元壯という方は僕が書いた
amamako.hateblo.jp
という記事にたいそう腹を立てているみたいで

それにしても、もっとひどい批評を読んでしまって、小山田圭吾のいじめ内容を知った時より胸糞が悪くなりました。

ということだそうです。
そうかー、小学生の頃に障害を持った児童をいじめるような、そんなひどいことより僕の文章は胸くそ悪い物なんですねー。そこまで不快にさせてしまったなら、その点はまずお詫びしたいなと思います。
ただ、僕は僕なりにあのブログ記事を、「この思いを書いてみんなに伝えたいな」と思って書いているので、その点はまず分かって欲しいですね。
というわけで、今回は四元壯さんの記事に応答する形で、なぜあの記事を僕が書いたか、その真意*1を解説したいと思います。

*1:というとなんか大げさですね

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「ルックバック」における統合失調症描写について①:基礎知識編

藤本タツキ氏が描いた短編マンガ「ルックバック」
ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+
における犯人の描写について、インターネット上で様々な意見が出ています。
anond.hatelabo.jp
anond.hatelabo.jp
erikoshinbun.hatenablog.com
ただ、インターネット上でのこれらの議論への反応を見ていると、そもそも精神疾患、特に今回問題となっている統合失調症というものへの理解があまり得られてないのに、議論を進めてしまっているように見えます。
かく言う僕自身、統合失調症についてそんなに詳しいわけでもなかったので、上記の議論を正直良く理解は出来ていませんでした。
そこで今回は、僕なりに統合失調症について調べて、その上で、付け焼き刃の知識ではありますが

  • 統合失調症とはどういう病なのか
  • 「ルックバック」における描写の何が問題となっているか

ということを、Q&A方式でまとめてみました。
色々間違っている点はあるかと思いますが、とりあえず議論の土台となる知識として読んでいただければ幸いです。

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はてなサヨクが遺したものについて

davitrice.hatenadiary.jp
上記の記事に対し、僕は
amamako.hateblo.jp
で応答する一方で
b.hatena.ne.jp

本当は、記事で挙げられたようなIDの人たちが応答すべきだと思うのだけれど

と書いていたんですが、id:hokke-ookami氏が応答記事を書いてくれたみたいで
hokke-ookami.hatenablog.com
誘ってしまった僕が傍観しているのも思うので、記事を書きます。

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「ルックバック」を手放しで絶賛している批評家はあんまセンスない

最近いい子ちゃんな記事ばっか書いていたので、たまには煽り記事を。
anond.hatelabo.jp
先日とりあげた
amamako.hateblo.jp
「ルックバック」というマンガについて、批評家の荻上チキ(id:seijotcp)氏や杉田俊介id:sugitasyunsuke)氏が絶賛していたそうで。
で、この匿名ダイアリーの記事を書いた人はそれに失望しているということだそうです。
(ただ一応注釈をしておくと、荻上氏は知りませんが、杉田氏の方は以下のツイートにあるように


指摘を受けて評価を変えているそうです)。
それを受けた僕の意見。
今回の記事ではこれに付いて解説していきたいと思います。

一般の人々やクリエイターが素直に「感動した」と言うのは良いこと、という大前提

まず、これは絶対誤解を招くと思うので、最初に声を大にして言っておきたいのですが、僕は、批評家ではない一般の人々やクリエイターたちが「ルックバック」というマンガについて、心を揺さぶられ、感動すること、そして、その感動をSNS上などで表現することは、全く問題ないと考えているし、むしろ好ましいことだと考えています。
「ルックバック」というマンガには、それが刺さる人々を感動させる技巧・要素が詰まっているし、そういう感動させるものを目にしたときに、素直に「感動した!」と言える環境は、精神衛生上も良い環境でしょう。むしろそこで「いや自分は感動したけど、でもそれを素直に表現していいものだろうか」なんてことを思って感情の発露を抑えるほうが、不健全です。
更に言えば、クリエイターも、同じ様にそういう感動を読者に与えることで生計を立てるものとして、「とてもいいものだし、自分も参考にしたい」と思うのは当然のことです。

でも批評家は、そういう「素直な感動」から距離を置くからこそ批評家なんじゃないの

しかし、そういった感想はあくまで一般の人々やクリエイターだから許されるもので、いわば「感想を書くプロ」である批評家を自称するのなら、そういった「素直な感動」からは一定の距離を置いて、相対化するべきなんじゃないかと、思うのです。
だって、「感動できるもの」をただ「感動できるよ!」と言って紹介するだけなら、それは批評ではなく、「好きなもの紹介」でしょう。
前回の記事でも述べたように、この「ルックバック」というマンガは、「"尊敬されるべき才能あるクリエイター"が、全くいわれのないことで殺されてしまったことを嘆き悲しむ立場」から描かれ、それ以外の要素に極力目を向かせない構造になっています。だから、加害者の描写や、事件についてのマスメディアの報道などと言ったものは、ノイズであるとして極力読者が関心を抱かないような定型的な描き方をしているわけです。さらにいえば、作品自体、「クリエイターとファン」2つの役割を持つ登場人物二人が作品世界の全てとして描かれ、それ以外のものには興味も関心も抱かせない、極めて閉じた世界の物語だったりするわけです。
そのように極めて限定された見方による、閉じた世界の物語だからこそ、その世界に感情移入できるものがある人にとっては、「これは、わたしの物語だ」と思い、感動できるようになっているわけですね。
ですが、そういう構造の物語であるがゆえに、この「ルックバック」というマンガでは、「そこにあるはずなのに描かれていないもの」が数多くあるわけです。加害者の方の物語は極力描かれていませんし、それ以外にも、二人の家族や、通っている学校といったものも殆ど描かれず、さらに言えばマンガを楽しみにする読者もそこには存在しません。あくまで「互いに互いを必要とする二人」だけが描かれ、その外は全く存在しないかのように描かれている。
僕は、批評というものの役割は、そこで「存在しないもの」とされたものに対し、「いや、それは存在するんだよ」と、物語から距離をおいた場所で指摘し、ではそういった「存在しないとされたもの」とされた側からは、この「ルックバック」という作品はどう見えるかを、示すことだと思うのです。

マジョリティから嫌われても「感動の裏で見えなくなっているもの」を指摘するのが批評家でしょ

さらに言えば、そうやって「存在しないとされたもの」の側に立つということは、この「ルックバック」という作品に対し素直に感動する共同体に対し、その共同体から排除されるものがあると、指摘することでもあるわけです。
「"尊敬されるべき才能あるクリエイター"が、全くいわれのないことで殺されてしまったことを嘆き悲しむ立場」からすれば感動できる、この「ルックバック」という物語。しかし、それで感動できるのって、結局「才能あるクリエイターだからこそ、殺されたのが悲しい」と思うわけで、そこには厳然とした「クリエイター至上主義」への信奉があるわけです。
そして、そういう信奉を共有する人からは、「才能があろうがなかろうがそんなの人の命の価値とは関係ないはずだ」とか「才能あるクリエイターがそうでない人の命より価値があるなんておかしい」という考えを持つ人は排除され、「存在しないもの」とされているわけです。そして、今回の「ルックバック」という作品は、まさにそういう排除の構造を強化するものでもある。
もちろん、だからといって僕は「だから、『ルックバック』という作品はそういう排除されるものを描くべきだった」とは言いません。何度も言いますが、そういった客観性を「余分なもの」として排除し、とことん閉じた作品世界を構築しているからこそ、この作品はここまで感情を揺り動かす強度を持っているわけですから。
むしろ、作品自体にそういった余計なものを考えさせないためにこそ、作品を受け止める「批評」の側が、作品で「存在しないもの」とされたものからの言葉を紡がなきゃいけないのです。
もちろん、それは作品に対して素直に感動している人に対し、「その感動の影で排除されているものがあるんですよ」と冷水をかぶせることだから、作品に素直に感動するマジョリティからは嫌われるでしょう。
ですが、本来批評家というのは「マジョリティに嫌われてでも、作品に対して客観的に批評を行い、良い点と悪い点を指摘するもの」なはずなわけです。もしそれが、マジョリティから嫌われることを恐れるからって、「マジョリティの感情に迎合し、それにおもねるような言葉しか書かない」ということになるのなら、それはもう、批評家としては死んでいるんじゃないかと、思うわけです。
逆に言えば、そういって、マジョリティに嫌われてでも、マジョリティから排除される立場から作品を批評する、真の批評家がいなくなったからこそ、そこで排除されるものを掬うものがいなくなったことによる、「この作品は差別を助長するから規制すべきだ」とか「いや差別的な作品を発表することだって表現の自由だ」といった、低レベルな議論が起きてしまうんじゃないかと思うわけです。

ていうか荻上チキ氏って、まさにそういうマジョリティにおもねる姿勢を「俗情との結託」として批判していた絓秀実氏の門下生のはずなんだけど、文化批評に関してはほんと批評未満の「オタクの好きなもの紹介」しかしないのは、なんなんだろうか。

「物語」から疎外されるものについて(「ルックバック」の感想のような、そうでないような)

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+
話題になっていますね、「ルックバック」
blog.hatenablog.com
www.j-cast.com
僕も無料ということで読んでみたんですが、「まあ、良いとは思うけど、そこまで絶賛されるものか?」という感じの感想でした。
ただ一方で、下記のような批判もなんか違うように感じるんですね。
anond.hatelabo.jp


いや確かにマンガ内での描き方は偏見を助長するかもしれないし、明らかに実在の事件を題材にしたものである以上、そこには特段の配慮が必要であると言えるかもしれない。
でも、そこで特段の配慮をして「この漫画に描かれている犯人は別に統合失調症とかが原因でこういう事件を起こしたんじゃありませんよ」というエクスキューズをされればじゃあいいのかっていうと、そうではないと思うんですよ。
じゃあ一体何が引っかかっているのか。
おそらくそれは、この「ルックバック」というマンガそのものの問題と言うより、それを取り巻く「語り」の問題なような、気がするのです。

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フェミニストは女性の権利のために戦う弁護士なのか裁きを下す裁判官なのか

フェミニスト原則」
swashweb.net
がインターネット上で話題になっていますが、そんな中、はてなブログで次のような記事が話題になりました。
ponjpi.hatenablog.com

歴史的にも、多くのフェミニストたちは、ジェンダーや性別、セクシュアリティの境界線を超えたすべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできました。

え?ちょっと待って?先輩たちは、「きつい」だの「こわい」だの「不満ばっかり」とか言われながら、女性の権利を人並みにしようと頑張ってきたんじゃないの?女だからものを言えない状況があって、女だから性的被害や犯罪にあって、そういう状況をなんだかんだケンカとかしながらも励まし合ってきたんじゃないの?フェミニズムはそういう運動だと思ってたんだけど、ちがうの、シスター?
【追記】「歴史的にも~すべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできた」といったら、まるで女性運動としてのフェミニズムがなかったってことになるよね?だって、もともとそんな崇高で広範な人権運動なんかじゃなかったじゃないですか。フェミニズムって。

この文章を読んで、僕の中での「フェミニスト原則」への違和感がようやく言語化できたような気がするのです。
要するに、僕や、またこの記事の著者や、また今回の「フェミニスト原則」に違和感を持つ多くの人にとって、フェミニズムや、それを主張するフェミニストというのは

  • 女性の権利を主張し、その権利のために戦う弁護士

のような存在だと思ってきました。しかし、「フェミニスト原則」においては、フェミニストとはそういう存在ではなく

  • すべての人に公平な裁きを与える裁判官

として位置づけられてるわけです。そして、フェミニスト原則に賛同する側の人は、自分たちの活動を、そういった「裁きを下す」ものとして捉えている。
この認識の違いこそが、「フェミニスト原則」に対する賛否が分かれる原因なのです。

「裁判を成り立たせるルール」が存在する中で、一体どのような主張をするかということ

ただ、ここでちょっと議論がややこしくなるのが、弁護士と裁判官は、別に完全に敵対する関係ではなく、むしろ重なる部分を多く持つということです。
裁判においては、その裁判を成り立たせるルールが存在する。例えば、いくら被告を痛めつけたいからって、実際に被告に暴力をふるったり脅迫をしたりしてはいけません。
そのことは今回の「フェミニスト原則」についての論争にも言えることで、先日の記事へのブコメ
b.hatena.ne.jp
でもなぜか「『フェミニスト原則』に反対するお前は、トランスジェンダーへの暴力や脅迫を肯定するのか!」みたいなことを言われましたが、議論のときの暴力や脅迫を肯定しないというのは、フェミニスト原則より前の問題なわけです。
逆に言えば、「『フェミニスト原則』に反対するお前は、トランスジェンダーへの暴力や脅迫を肯定するのか!」という人は、フェミニストでなければどんどん暴力や脅迫を肯定するとでも思ってるんでしょうか?だとしたら、それはちょっとフェミニスト以外の人間を馬鹿にしすぎでしょう。
暴力や脅迫を肯定せず、あくまで言葉や制度によって自らの正義を実現しようとする。それを前提とした上で、では「どのような立場にとっての正義を主張するのか?」ということが、問題となるのです。

「女性の権利を代弁する」のか「公平な権利の配分を目指す」のか

フェミニスト原則では次のような文章が高らかに謳われています。

どのグループの人々の人権の実現も、他のグループの権利の犠牲の上に成り立つものではありません。

しかし先日の記事で述べたように、実際は「あるグループの人権の実現」が「他のグループの権利の犠牲」なしになりたたないということは、同じ社会の上で生きる以上、どうしたって起こり得るわけです。というか、まさしくこれまでのフェミニズムが戦ってきたのって、「男性グループの人権の実現」が「女性やトランスジェンダーの権利の犠牲」の上に成り立ってきた、そういう社会構造だったわけですから。
問題は、そこでいかなる立場から「権利」を主張するかということです。僕や、今回提示された「フェミニスト原則」に反対したり違和感を持つ多くの人は「女性というアイデンティティから、女性の権利を主張するもの」として、フェミニズムフェミニストを捉えています。だから、先のブログの著者が言うように、「フェミニスト原則」のなかに女性というアイデンティティへの言及が全然ないのは、おかしいんじゃないのと思うわけです。
しかし、どうやら「フェミニスト原則」を提示し、それに賛同する人たちは、そのように「自らのアイデンティティから、自らの権利を主張するもの」としてフェミニズムを捉えていない。じゃあその代わりにどのような主張をしてるかといえば、それは「公平な第三者の立場から、権利衝突を調整するもの」としての立ち位置にフェミニズムフェミニストはいるということです。そして、そういう立ち位置から見れば、女性の権利の実現がトランスジェンダーの権利の実現を抑圧するのなら、女性の側も権利の主張を我慢しなければならないと、そういう主張になるわけです。さらに言えば、昨今話題の弱者男性論、KKO(キモくて金のないおっさん)論においても、弱者男性やKKOの権利を女性の権利が抑圧しているなら、女性は自分たちの権利を我慢しなければならないと、そういうことになるわけです。

「権利衝突を調整する第三者」という立ち位置の危うさ

しかし、僕はそういう「権利衝突を調整する第三者」という立ち位置って、実は極めて危ういものじゃないかと思うわけですね。
例えば、先程弱者男性の問題を例に出しましたが、そうやってフェミニストが「権利衝突を調整する第三者」として弱者男性を擁護する立場に立っても、それって結局「フェミニスト女性から見た弱者男性の持つべき権利」の擁護にしかならないわけですよ。弱者男性が自分たちで「こういう権利がほしい!」と主張するのではなく、あくまで「こういう権利がないと生きるのがつらいよね?だから分け与えてあげる」という、パターナリスティックな権利の分け与えにしかならず、そこでは弱者男性当事者は蚊帳の外に置かれてしまう。
僕は、昔よくフェミニストの論客に「弱者男性の権利のことも考えろ!」ということを主張することがあったのですが、その時論戦の相手に居たフェミニストはよくこう言うわけです。「弱者男性の権利の主張をしたいなら、それは弱者男性自身が主張するべきであり、フェミニストが主張するべきことではない」と。
これ、一見すると確かに冷たく見えますが、しかし実際は最もな主張なんです。もし、フェミニズムが弱者男性の権利を代弁したとしても、それは結局「フェミニストが想定する弱者男性の権利」の主張にしかならないわけです。弱者男性が自らの権利を主張するなら、弱者男性自らが自らの言葉で権利を主張しなければならない。まさしく、フェミニストが自らの女性という立場から自らの権利を主張したように
そしてそれと同じ様に、トランスジェンダーセックスワーカーも、自分たちの言葉で自分たちの権利を主張すべきであって、それをフェミニズムが勝手に代弁することは、むしろ彼らの言葉の簒奪になってしまう。こういう立場こそが、僕が今まで想定してきたフェミニズムフェミニストの立場である、そしてSNSなどで「フェミニスト」を自称する人たちの立場だと思うわけです。
ところが「フェミニスト原則」を主張し、それに賛同する側は、そのような立場に立たず、自分たちが公平中立な第三者として、各々の権利衝突を仲裁し、それぞれのグループが最も幸福に生きられるよう権利を配分できると思っている。
しかしそれって、僕からするとまさに今までのフェミニズムが批判してきた「パターナリスティックな介入」に思えてならないし、ぶっちゃけて言うと、思い上がりも甚だしいと思うわけです。

今までフェミニストに反対していた人が「フェミニスト原則」に賛同する愚かさ

そしてさらに言うと、そういう考えから、僕は、今までフェミニストに対し割と反対していた人たちが、「フェミニスト原則」に対し、下記のブコメ
b.hatena.ne.jp
SNSで賛同を示してるのが信じられないんですね。みなさん、本当にこの声明文読んでます?これって要するに、フェミニストが全ての人々の王として、どの人々にはどのような権利が分け与えられるべきかを決定するということを書いてあるんですよ?id:tyoshiki氏なんか、この声明文に賛成する立場から、↓みたいなまとめ
togetter.com
を作って、声明文への反対者を攻撃してるけど、この声明文が目指してることって、まさにid:tyoshiki氏が書いた
note.com
「どういう表現が公共の場にふさわしくないか」の基準を作っていくという極めて大事なプロセスをフェミに丸投げすることそのものじゃないですか!?

パターナリスティックな介入を肯定するのではなく、当事者たちがそれぞれの立場から自分の権利を主張する社会こそが、「リベラルな社会」では?

これは、僕が「当事者主権」

といった考えが全盛期だったころに大学生・院生だったからそう思うのかもしれませんが、今の言論空間って、あまりに「当事者以外からの代弁」に期待しすぎているかのような気がしてならないのです。
そして更に言えば、その結果として「何も言わなくても自分の権利を勝手に社会が叶えてくれるシステム」を求めるようになってしまっているような気がしてなりません。まるでアニメ『PSYCHO-PASSの「シビュラシステム」のような、全ての欲望が先回りされる社会。
ですが、実際は、たとえどんなに優れた制度やシステムでも、自分の本当に求めている権利を与えてくれるとは限らないわけで、だから、「自分という当事者」だけが、自分の権利を主張できるはずなんです。
そして、自分がそうやって自分の権利を主張するように、「フェミニスト」「トランスジェンダー」「弱者男性」といったアイデンティティの当事者が、それぞれの当事者性を持ってまず自分の権利を主張し、そして更にそこで相手の主張を理解して、妥協点を探っていく。そういった社会こそが、まさしく「上から秩序を押し付けられる社会」ではない、フェミニズムとかが追い求めてきた「リベラルな社会」だと思ってたんですね。
ところが、「フェミニスト原則」が支持される現状を見ると、多くの人が、そういった「当事者同士が自らの権利を主張し合うリベラルな社会」の摩擦を嫌がっているみたいで、誰かを「王」とし、その王にパターナリスティックに権利を配分してほしいと思っているみたいです。
それってでも、とっても気持ち悪いなぁと思うのは、僕が古い人間だからですかね。

「聖」と「俗」が融合するレヴュー―劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトネタバレ感想(2本目)

www.youtube.com
というわけで、今日も今日とて少女☆歌劇レヴュースタァライトを見に劇場に通うあままこです。
鑑賞一度目の感想はすでに書きました
amamako.hateblo.jp
が、当然こんな一つの記事だけで語り尽くせる映画なんかじゃないわけで、何回も見れば見るほど「あ、このシーンはこういう見方もできるのか!」と、新しい気付きが得られるわけです。
で、そんな中で今回は「『聖』と『俗』の融合」という側面から、少女☆歌劇レヴュースタァライトを語ってみたいなと思います。

もともと、演劇とは「聖」と「俗」が触れ合う場所だったのが、はっきりと分離されるようになった

演劇の起源が一体どんなものなのかには諸説あるみたいですが、一番有力なのは「宗教儀式」から発展したという説だそうです。
そして実際、古代ギリシャなどで劇の題材となったのはまさしく神々の話、神話なわけで、神様とか宗教とかといった、「聖なるもの」を表現していたわけです。
しかしその一方で、古代・中世の劇においては、演劇が演じられる円形舞台と観客席は距離的に近く、また観客は野次などで盛んに舞台に茶々を入れたわけで、「俗なるもの」と「聖なるもの」が極めて近しいところにあったわけです。
ところが、ルネサンス以降になってくると、徐々に舞台と観客席は離され、舞台裏も見えにくい、いわゆる額縁舞台とよばれるような形になり、また私語をしてはいけないといったマナーも生まれ、「聖なるもの」を演じる舞台と、「俗なるもの」である観客席は離されるようになったわけです。

次々に分離し、分裂していくことが求められる現代社

そして、このように世の中を「聖なるもの/俗なるもの」という風に二分し、前者と後者を分離するやり方は、演劇に限らず、社会のあらゆる場面で行われるようになりました。「公私の区別」もその一つと言っていいでしょう。
さらに言えば、現代では、私的な空間でさえ、「このクラスタの付き合いにおいてはこういう『私』でいるけど、別のクラスタとの付き合いでは別の『私』でいる」というように、人格を分裂させることが要求されます。そこでは、うまくそれぞれ向けに「見せたい私」を分離しながら見せることが、より上手に世の中を生きるテクニックとなるわけです。

演劇だからこそ、「聖」と「俗」が融合される

ですが、この映画は、演劇をテーマとしながら、というか、演劇がテーマだからこそ、このような「聖/俗」「公/私」といった区別に反旗を翻すわけです。
この映画では、主に5つのレヴューが繰り広げられるわけですが、その全てに共通しているのは、「外面に隠された内面をさらけ出す」ということなわけです。社会生活をうまくやっていったり、うまく人間関係を保ったり、あるいは自分のプライドを守るために作り上げる「外向けの自分」、しかしそういった外向けの作った自分は舞台では通用せず、結局自分の真の姿をさらけ出さなければいけなくなる。演出は豪華絢爛で様々な意趣をこらしていても、骨格をなすのはそういったシンプルなメッセージなんですね。
「舞台の上で役柄を演じる」ことと「自分の内面をさらけ出す」ことは、普通は正反対のこととして捉えられます。しかし実はそうではないというのが一番良く分かるのが、天堂真矢と西條クロディーヌのレヴューでしょう。
このレヴューは、まず額縁舞台から始まります。天堂真矢が演じる舞台女優と西條クロディーヌが演じる悪魔は、ある契約を結びます。それは「最高の舞台を演じさせる代わりに、お前の魂をいただく」という契約です。
しかし、いくら舞台を演じても、天堂真矢の魂は見えてこない。そこで天堂真矢はこう言うわけです。「私はなにもない器であるがゆえに、あらゆる演技を演じることができる」と。
しかし、そこで一旦破れたかのように見えた西條クロディーヌがこう言うわけです。「器だって?あんたの中身は、怒りも嫉妬も傲慢もある人間だ」と。
そして、レヴューが再開し、舞台が額縁舞台から円形舞台へと変形していき、今度はクロディーヌが真矢を圧倒するわけです。聖なる崇高なものとして現れた天堂真矢と、俗なる卑近なものとして現れる西條クロディーヌ、しかし舞台の上ではそそれが反転し、最も俗なるものが聖なるものへ、卑近なるものが崇高なものへと描かれるわけです。
このように、日常や一般社会から離れた秩序のところで、聖と俗の融合を見せるというのは、まさしく演劇だからこそなしえることと、言えるでしょう。

そして「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われる

そして更に言えば、この映画では、「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われます。
一回目この映画を見たとき、僕がちょっと不満に思ったのは、「愛城華恋の過去シーンが多すぎない?」ということでした。正直言えば、そんな過去シーンをいっぱい見せられるよりは、もっとレヴューをいっぱい見たいと、そういう気持ちだったわけです。
しかし、2回目にこの映画を見ると、「そうやってレヴューと日常を分ける考え方を、この映画は否定しているのではないか」と思うようになったわけです。
レヴューシーンだけを見てれば、愛城華恋を含め舞台少女は全く自分たちと異なる「舞台の上の存在」として私たち観客には認知されます。つまりそこでは「舞台」と「観客席」に確固たる壁があり、そしてその壁は決して壊れないものとなるわけですね。まさしく、映画中で愛城華恋は、その壁によって、「舞台上に取り残されてしまう」わけです。
しかし実際は、舞台少女である彼女たちもまた、日常を生きる一人の人間なわけです。日常の中で友達と過ごしたりしながら、しかしその中で普通の学生なら味わえる楽しみを我慢して、舞台に向かっている。その点で、舞台と日常は、つながっているのです。
だから、愛城華恋が舞台少女として自らを再生産するには、日常シーンを描き、それを燃料とする必要があったのです。舞台と日常の壁を壊し、日常にも戻って、またそこから舞台を目指すために。
劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトを見る快楽の中には、日常や社会で生まれる様々なしがらみや垣根を取っ払い、人々を解放するという側面もあるのかなと、2回目の視聴では、思ったのです。
と言ったところで、僕はこれから3回目の視聴に行きますので、そろそろ失礼させていただきます……