あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」を相手にしなきゃならない現代


どーもドラえもんという作品は、こういう風に、作品の意図を無視して一コマだけ切り取られることが多くて、他にも
みたいに指摘される曲解切り取りがなされることがあったりして、藤子・F・不二雄ファンとしてはほんと忸怩たる重いがあるわけですが。

でもまあ、これら切り取りって言うのは、それこそboketeでドラえもんが数多くネタにされるように
bokete.jp
「作中では別にそんな変な意味ではないものの一部を切り取り、そこに別の面白みを見いだす」という、『VOW
www.1101.com
に代表されるようなサブカル的面白がり方なわけで、そういうサブカル的な面白がり方自体の是非はともかくとしても、「分かっていながら敢えてやっている」ことなんだろうなと、思っていたんわけです。

しかし、↓の記事に対するはてブの反応を見ていると、どうやらそれは、人々のリテラシーを過大評価していたのかなと、思ったりしました。
lastline.hatenablog.com
この記事、結論自体に賛成するか反対するかはともかく、マンガの読み解きとしては至極まっとうなことしか言ってないわけです。

ところが、はてブではこんなコメントが付く始末で

ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

何これ?あれだ、AV女優が服を着るとエロいと感じる人と同じ感性だ。恐ろしいよな、自論を述べると性癖が漏れるという。ちなみに、悪い事とは思いません。

2022/04/08 19:37
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳がえっちだからダメなら、リアルの巨乳の人は街歩くなっていいたいんですか??

2022/04/09 15:04
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳はわいせつという説

2022/04/09 15:09
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

「スカート丈や胸の大きさからえっちだと主張」←現実に胸が大きくスカート丈を短く加工してる女子高生が大勢実在するが、その女子高生達も「ちゃんと見て!えっちでしょ」「えっちだと認めないのはカマトト」て事か

2022/04/09 15:35
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

AV女優さんが女優に転身して、おっぱいが売りだけど真面目なコンテンツも批判できる論法やね。クソだなぁ。否定し、批判する。

2022/04/09 17:06
b.hatena.ne.jp
まあ、「マンガを読み解く」というリテラシーとは無縁そうな人たちのコメントがゾロゾロと出てくるわけです。

今回の騒動では「オタクv.s.ツイフェミ」というような対立構図が、多く描かれていますが、僕としてはそれよりむしろ、上記のようなコメントに代表される
「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」と「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」という分断こそが、真に深刻な問題なんじゃないかと、思う訳です。

日本のマンガは、それを読み解くのに高度なリテラシーが必要。なのに日本人の多くは子どもの頃からマンガを読む力をきちんと身につけている、スゴイ!なんてことはよく言われるわけですが
sanpogarden.hatenablog.com
実際は「日本人でさえ、日本のマンガをきちんと読み解けているのはごく一部なのかもしれない」わけです。

で、そういう人たちが、それこそ藤子・F・不二雄氏の描く漫画のような、複雑で両義的な意味を持つマンガ表現に接すると、その両義性を理解できずに、1コマでだけ見て短絡的なプロパガンダとしてマンガの意味を誤解するわけです。

多くの「マンガの表現」の是非に関する論争は、肯定派も否定派も、短絡的なプロパガンダとしてしか、当該のマンガを読めていないと言うことが多々あるわけです。そしてそうなれば当然、「プロパガンダ規制」という文脈から、マンガの表現規制のような議論も出てきてしまう。

これこそ真の意味での「表現の自由の危機」だと僕は思うんですがね。

ではこういう危機に、大衆全体に向けて表現をする表現者はどう対応するか?僕は、二重戦略しかないのかなと、考えたりしています。
つまり、「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」向けには、コマ単体で見て理解できる、単純で、かつ無味無臭なメッセージを、デコイとして用意しておく訳です。そのデコイによって、規制をかいくぐる。
そして、そういったデコイの裏に、「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」だけがきちんと分かる、複雑で、その表現者独自のものであるメッセージを込めるわけです。

日本は諸外国と比べて文化資本が享受しやすい国だから「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」なんて存在しないだろ、という幻想を持ち得た時代なら、こんな複雑なことをしなくても済んだわけで、日本における「表現の自由」に関する議論の多くは、この程度の最低限のリテラシーが国民に備わっていることを前提にしていたのですが、もはやそういう幻想は持ち得ないわけで……

(まあ僕は、ぶっちゃけそんな○○どもの相手をするのはダルくて仕方ないだから、「分からない人」は無視して、「分かる人」だけを相手にしますがね。)

問題は「広告表現」への責任を背負う覚悟が誰にも無いこと

www.huffingtonpost.jp
記事の内容について、

「『見たくない表現』というけど、広告全体が既にほとんどの人にとって見たくない表現だよな」

とか

「『広告のジェンダー平等』とかいかにも電博あたりが考えそうなお題目」

とか

「『こういう女の子はエッチだな』と『こういう女の子は痴漢して良い』の間には壁があって、その壁こそ重要なんじゃないの??」

とか色々考えながらスマートフォンで記事を読んでたんですが、記事の途中で以下の様な広告が挟まりまして
f:id:amamako:20220409102149j:plain
大爆笑して考えたこと全て吹っ飛びました。

何が広告として出稿されるか、全く気にしない人々

でも、ある意味このスクショこそが今回の騒動の本質を捉えてると思うんですね。

つまり、大手新聞やテレビ・ラジオ、またそれらに関係する人々が運営しているメディアにおいて、「一体自分たちのメディアにどんな広告が載せられているか」気にしている人なんて誰もいないんですよ。一応社会の木鐸たる姿勢は見せなきゃいけませんから、建前として「広告のジェンダー平等化」とか言いますが、それが実際に現場で守られているかなんてしったこっちゃないし、それを批判する側ですら、実際に載っている広告を見ればそんなこと気にしてないことが明白なわけです。

そしてその結果、広告は倫理もなにもない闘争の場になる。その闘争の場で何が争われるかと言えば、まさしく前回の記事で述べた「価値観同士の文化闘争」なわけです。
amamako.hateblo.jp

広告に携わる人々が、飯の種にこういう「闘争」を見て見ぬふりしてきた結果がこれだ

そして、更にその「文化闘争」をどうしようもないものにしているのが、広告に携わる人たち自身が、それを見て見ぬふりしているということです。

前回の記事に対し、広告肯定派・否定派双方から色々なコメントがありました。まあそれ自体はいいことです。ブルデューの『ディスタンクシオン

に結びつけたコメントもあったりして、「コメント欄には聡明な人も居るんだなぁ」と膝を打ったりもしました。

しかし中には、以下の様に「こいつら一体何言ってんだ?なんでそれで前回の記事を論破できたとか思えるんだ?」と思うコメントもありました。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

「購買行動に(直接的に)繋がらない広告」は、わりとありふれていますよ。たとえば道頓堀のグリコを見て買いたくなる人が何人いるか?みたいな話。「PR」や「広報」についての書籍をいくつか読むといいと思います😊

2022/04/07 14:50
b.hatena.ne.jp
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

まずはAIDMA、AISASから勉強しようか。

2022/04/07 23:14
b.hatena.ne.jp
通常の理解力があれば言うまでも無いことですが、前回の記事は、そういう通常の広告の機能を理解した上で、しかしそれでは、今回の広告そのものや、それへのバッシングは説明できないから、通常のマーケティング理論では説明しない、「隠された機能(社会学で言う「逆機能」)」があるのではないかということを述べ、その隠された機能を「示威的広告」という概念で説明しているわけです。

しかし、なぜかid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、広告のマーケティング理論を知っているにもかかわらず、その程度の理解もできない。一体なぜなのか?

はっきりと言いましょう。それを理解し、認めてしまうと、彼らの仕事に必須不可欠な嘘が明らかになってしまうからです。

例えばAIDMAやAISAS、これらの言葉は以下の様な意味です。

AIDMA
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Desire(欲求)
  • Memory(記憶)
  • Action(行動)
AISAS
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Search(検索)
  • Action(購買)
  • Share(情報共有)

今回の広告を上の図式に当てはめようとすると、AかIぐらいでしょう。しかしこれは明らかに無理があります。実際は、広告を見た時点で、あの広告を支持する価値観を持った人は一気にD、広告用語を行動や情報共有と考えればActionやShareまで行ってますし、また逆に広告に反対する人たちは、逆の気持ちでDや、A・Sまで行っているわけです。

あるいはもっと極端に例えて、「糞尿」についての広告を考えましょう。id:Rootportid:fujibay1975みたいなことを言う、横文字大好きの広告マンが「今回の広告は、糞尿をほしがる欲求までもっていくものではなく、あくまで糞尿に対する認知を促すものです」とか行って糞尿の写真を新聞の一面広告に出稿したとします。そのときそれを見た人が認知の段階で止まりますか?スカトロ趣味以外のほとんどの人が嫌悪感を抱くところまでいくでしょう。

つまり、社会的にその存在に対する価値観が割れているものに対して認知広告をしたって、その効果が「認知」にとどまるわけがないんです。そして更に言えば、賢いマーケティング専門家が、そのことに気づかないわけもない

にもかかわらずid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、この騒動に対し全く無力なマーケティング理論を、まるで銀の弾丸のように振りかざす。なぜそうなるかといえば、そのようなAIDMAやAISASというような言葉で語れる要素以外の要素が広告にはあると認めてしまうと、彼らのおまんまの食い上げになるからです。

その要素とは何か?それはイデオロギーです。

AIDMAやAISASは、基本的にある前提の元に成り立っています。それは、その広告を求めるひとがイデオロギー的に無色透明であり、また、紹介されるものもイデオロギー的に無色透明なものであるという前提です。だから、広告を見た人は、その広告されたものに対して素朴に「認知」の段階で留まるわけです。

ところが実際は、イデオロギー的に無色透明なヒト・モノなんてどこにもありません。つまり、上記のような環境は実際にはあり得ない、虚構の状況設定なわけです。
ところが、現代の広告システムというのは、その虚構の状況設定によってなりたっているわけです。

つまり、「どんなものを紹介する広告でも、それが認知の段階で留まっているのなら、それは中立性を持つものだから、自由にメディアに載せて良い」という嘘を正当化する道具として、AIDMAやAISASのような理論が金貨百条のように扱われているのです。

そして、そういう嘘にまみれているからこそ、広告屋は戦争や人道危機でさえ「広告」の対象にできるのです。

戦争を売り込む広告代理店の連中はこう言います。

「私たちは、一方の民族が差別やジェノサイドを行ったかもしれないという情報を『認知』させただけ。それでどう思うかは人々次第」と。

これがいかに詭弁であるかは、もはや言うまでも無いでしょう。

そしてだれも「広告表現」に責任を負わない、そのことにこそ人々は失望している

そして、そのように「認知を促しただけ」という言い訳が、出稿する代理店と、出稿されるメディア双方に共有された結果、例え広告表現が、イデオロギー的な偏りによって誰かを傷つけても、誰も責任を取ろうとしない、そういう無責任の体系をつくり上げているのです。

ここでいう「責任を取る」とは、広告を取り下げたり修正するということだけではありません。もし、広告主やメディアが本気で広告に対し責任を持ち、しかもその広告表現のメッセージが正しいと思うなら、批判に屈せず断固として広告を表現し続けるというのも選択肢でしょう。以前LOFTの広告が炎上したとき、僕はそういう態度を望みました。
amamako.hateblo.jp
ところが実際は、何の責任感もないから、誰かを傷つけるかもしれない広告を安易に発表し、何の責任感もないから抗議を受けたら安易に取り下げる訳です。その結果、人々は広告と、更に言えば広告を載せているメディアに対し信頼を喪失するのです。彼らには「広告はあくまで認知を促すものなら政治的に中立」なんていう、id:Rootportid:fujiday1975が示すような広告ムラの内輪の論理は通用しませんから。

言いたいことは一つ、「広告」も含めてメディアは自分の表現に責任を持て

「広告のジェンダー平等化」なんて、いかにも電博が思いつきそうな戯れ言ですが、しかし実際は、どのジェンダーにも平等な表現なんてものはあり得ません。何かを表現しようとすれば、かならずそれはどれかのジェンダーに味方し、逆にどれかのジェンダーに敵対するものなのです。

そうである以上、「広告の表現に責任を取る」とは、どのジェンダーにも平等なものを目指すなんてことではなく、自分たちの表現がどのジェンダーに味方するものかをきちんと自覚し、確信犯となることなはずです。今まで虐げられてきた女性に味方するか、敢えて今過剰に叩かれる男性に味方するか、あるいはどちらにも無視されるトランスジェンダーに味方するか……どれを選ぶにせよ、それは、その選択されたものに反発する人たちの嫌悪を真正面から受け止めるということでもあるわけです。

それができないメディアは、日経のような既存メディアだろうが、あるいはハフポストのような新興のWebメディアだろうが、人々から信頼されることはないでしょう。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について

natalie.mu
arrow1953.hatenablog.com
色々と論争が繰り広げられていますが、そこからは割と離れて。

上記の広告を見たときにまず疑問に思うのが、「これでこのマンガ買おうと思う人が居るのだろうか?」ということです。

普通、広告というのは消費者に何か消費行動を起こしてもらうためにあるもので、例えばTwitterの広告なんかは、続きが気になるコマだけ敢えて見せることにより「この続きどうなるんだろう」という興味を惹き、それによって閲覧者に、マンガを買わせるなり、マンガが読めるアプリをインストールさせるなりしている。

しかし、この新聞広告を見て「『月曜日のたわわ』読んでみたくなったなー」と思う人が居るのでしょうか?というか、本を買わせるという目的のために広告を出稿するなら、もっと閲覧者のアテンションを惹く広告を制作すると思うんですね。

では、閲覧者に消費行動を促すためにあるんじゃないとしたら、この新聞広告は、一体何のために出されたのか?

答えは「一般社会に自分たちの存在を示威するため」です。このような広告のタイプを、ひとまず「示威的広告」と名付けることにします。

最近オタクコンテンツに流行る「示威的広告」について

実は、こういう「一般社会に自分たちの存在を示威するため」の広告は、昨今割と多く出されています。

なんか大型企画のアニメを放映するときは、必ずといっていいほど全国紙に一面広告が出ます
dengekionline.com
mantan-web.jp
www.oricon.co.jp
し、アニメ以外にも、ゲームやVTuberなど様々なコンテンツでも
xtrend.nikkei.com
www.inside-games.jp
一面広告はブームと言えます。

また、一面広告以外にも、最近はやっているのは、ある地方を舞台にしたアニメやマンガが、その地域のポスターに顔を出すというモノです。以前このブログで取り上げた『ラブライブ!サンシャイン!!』のポスター
amamako.hateblo.jp
も、本気でみかんの消費向上を狙ったりしているというよりは、「『ラブライブ!サンシャイン!!』は地域に認められている」ということを示威する目的があったりするわけです。

ではなんでこういう広告が最近はやっているのか?その背景には、「文化におけるヒエラルキーの崩壊」という現象があるのではないかと、僕は考えます。

文化におけるヒエラルキーが崩壊する中で、「社会に認められている」ことを示せる場所として、広告が注目されているのではないか

1980年代~90年代にオタクとして生きた人が口を揃えて言うのは、「昔は今ほどオタクっぽいアニメやマンガ・ゲームは認められていなかった」ということです。

ごくごく単純化していうならば、昔は文学が文化の最高峰で、マンガ・アニメ・ゲームといったものは、活字を理解できない子供向けのモノとされました。更に言えば、それぞれのメディアの内部にも、上下関係があり、人間の内面に迫るような私小説や純文学が最高峰、そうでなくエンターテイメントのための推理小説とか犯罪小説は2流とされ、SFやファンタジーはその更に下の、バカでも楽しめるものとして扱われていたのです。

いうまでもないですが、これらは全くの根拠無き偏見です。ただ、こういう偏見というのは、年長者の間では未だに持たれているたりするわけで、
animeanime.jp
こういう年長者が社会の大半を占めていた昔に、アニメのようなオタク文化がどう扱われていたかは、想像に難くないわけです。

ところが、そういった文化のヒエラルキーが、どんどん崩れていったのが、まさしく2000年代以降の日本だったわけです。

それ自体はとてもいいことであることは、言うまでもありません。

しかしここで問題となるのが、そのような文化のヒエラルキーがなくなったとき、ある文化は何を尺度に、社会から認められていると言えるのか、ということなのです。

かつてのように「多くを語らない活字が上等」「内面描写が上位」とされた時代には、そういった要素がアニメとかにもあると主張すれば良かったわけです。例えば、アニメは一見絵で全てを主張しているように見えるけど、実は描かれている以上のことを想像しなきゃ理解できない作品だってあるんだとか、アニメでも人間の複雑な心理描写ができるんだとか……『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは、まさにそういう類いのアニメでしたね。

ところが、文化のヒエラルキーが消滅した現代においては、活字っぽい省略や内面描写をしたって、喜ぶのはそれこそ、過去の文化ヒエラルキーに縛られた老害ばっかなわけです。もはや内容において「世の中から認められている」ということはできなくなったわけです。

そんな時代において、「世の中から認められている」ことを証明する数少ないツールこそが、「示威的広告」なのです。新聞や公共機関のポスターといった、世間で広く認められているものに広告として乗っかれば、「世の中から認められている」感が出る。ですから、かつて「世の中から認められなかった」というトラウマを持つオタク文化が、とかく「示威的広告」を出稿するわけです。

そして、「示威的広告」だからこそ、それはオタク文化が嫌いな人から反発を受ける

ただ、その一方で、そのような「示威的広告」として、アニメやマンガの広告が出稿されることこそが、それが嫌いな人の逆鱗により触れやすくなる理由だったりも、するわけですね。

広告の本来の機能は、「広告を見る人の中から、その広告の商品が必要な人に、商品のことを気づかせる」というものです。そしてそこでは「広告の商品が必要ではない人は、その広告を無視して良い」ことが、暗黙の前提としてあるわけです。
ところが、このような示威的広告は、そのメタメッセージとして「買わなくても良いから自分たちの文化を認めて欲しい」と、広告を見た全ての人に主張してくるわけです。そうなると、その文化を認められない人からは、「あなたたち文化なんて絶対認めてやるもんか」という反発が来る。

今回の広告について、オタクたちは表現の自由とか言い、一方でツイフェミたちは性的搾取とか言いますが、真の対立点は「僕たちの文化を認めてよ」v.s.「あんたたちの文化なんか認めない」という、まあしょーもないところなんじゃないかだと、思うのです。

もう「世の中から認められなかった」というトラウマから卒業すべきでは?

まあ、議論を戦わせること自体は自由ですから、戦いたい人はずっと戦っていればいいとおもうわけですが。

しかしここで思うのが、「そろそろ『世の中から認められなかった』というトラウマを、オタクは卒業してもいいんじゃないの?」という気持ちです。

1980年代~90年代にどんなトラウマをうけたかは、それ以降の世代である僕には想像できませんが、とてもキツかったのでしょう。しかしもう今は、オタク趣味を公言するジャニーズまで居る時代な訳で、少なくとも過去のようなオタク差別は過去のものとなったわけです。

もちろん今でも、ツイフェミのようにオタク文化が嫌いな人たちはいますが、別にそれらが社会を支配しているわけではない。とするなら、別にそういう人たちを含めた社会全体からわざわざ承認を求めなくても、別に自分たちの内輪でやってれば良いんじゃないですかね?

新聞に一面広告とか出して広告代理店に貢いだって、せいぜい国に「クールジャパン」とか言ってもらえるぐらいですよ?そうじゃなくて、お金も労力も、もっとマシな使い方があるんじゃないのと、僕は思ったりするのです。

「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうか―エイプリルフールの同性婚ネタについて

www.huffingtonpost.jp
この記事を読んだときに、最初に抱いた感想を正直に言うと

そんなことで傷つかれてたら何にも表現できなくなるわ

でした。

ただ、何度も読んでいくと、

「まあ確かに当事者には傷つく人も居るかもしれないな」とも、思うようになりました。

ですが、「誰かが傷つく」ということと、「そういう表現をしちゃいけない」ということは、また別問題なわけです。

問題は、「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうかなのです。

続きを読む

他の人のコメントを引用スターすることができなくなった?

別にどーでもいいことなんですが、ふと気づいたので。

はてなスターには、スターをつけたい文章の部分を選択しながらスターを付けると、文章にはてなスターを付けることができる「引用スター」という機能があるんですが、どうやらはてブ上だと、その本人のコメントしか選択できなくなっているようです。

↓のはてブ画面を例に説明すると*1
b.hatena.ne.jp
下記のようにスターを付けたい当人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223742p:plain
このように選択した文章が、スター上にカーソルを持ってきたときに表示されますが
f:id:amamako:20220403223850p:plain
下記のように、他人の文章を選択しながらはてなスターを付けると
f:id:amamako:20220403223954p:plain
スター上にカーソルを持ってきたときに何も表示されません。
f:id:amamako:20220403224022p:plain

別に、特にこれで何か不具合があるというわけではないですが。

まあ、強いて言えば、ある人のコメントに、その人のコメントを批判するコメントがあることを知らせるために、批判コメントを選択しながらスターを付けるみたいな、そういう「喧嘩売りスター」が付けられなくなった、ということですかね。

あ、これを書いたら、なぜ僕がこの仕様変更に気づいたかばれてしまう。

*1:説明画面にこのページを選んだことに他意はありません

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る―『NEEDY GIRL OVERDOSE』の「精神疾患」描写について

jp.ign.com
まず最初に自分の立場表明をしておくと、僕はNEEDY GIRL OVERDOSEというゲーム
store.steampowered.com
にかなりはまっている人間です。
note.com
ですので、ゲーム自体に対しては肯定的なバイアスが入っていますし、逆にゲームを批判するこの記事については否定的なバイアスがかかっています。
そのバイアスを知った上で、今回の記事は読んでいただけると幸いです。

精神疾患」にも色々あるのに、全て一緒くたにすることへの違和感

上記の記事を読んで、僕がまず思ったことは、精神疾患の当事者」という肩書きでこの記事が書かれた事への違和感です。

例えばこの記事では著者の双極性障害という病名が告白されていますが、ゲーム内の描写を見る限り、このゲームの登場人物であるあめちゃんは、双極性障害と言うより境界性人格障害であるように思えます。

といってももちろんこれは素人からみた憶測に過ぎず、実際はあめちゃんを診断した精神科医しかそういう診断名を付けることはできないわけで、いずれにせよ著者が「同じ精神疾患の当事者」として勝手に共感したとしても、実際は全く別の悩みをあめちゃんが抱えているという可能性だった多々あるわけですね。

他にも統合失調症発達障害、あるいは薬物精神病など、一口に「精神疾患」といってもその内容は全く異なってくるでしょう。僕は一応うつ病発達障害の当事者ですが、同じ精神疾患だからといって統合失調症とか薬物精神病とかに対する見解を求められても、正直部外者の一市民としての見解しか答えられません。

そういった多種多様な病気を「精神疾患」という一カテゴリに納めようとするのは、端的に言えば社会の福祉や医療制度の都合でしか無いわけで、そこで精神疾患だからこうなんだろ」という風なことを言い切ってしまうのは、まさしく筆者が批判しているスティグマに当たるんじゃないか。この記事を読んで最初に僕が覚えた違和感は、そこでした。

「やみ度0エンド」は「ハッピーエンド」として描かれなければいけないのか?

この記事の筆者は、やみ度0になったとき、あめちゃんが配信を止めてしまうエンドに到達することについて、以下の様に批判しています。

そんな手応えのあるゲームプレイだが、痛烈な違和感を持ったのはいくつかの結末だった。私は彼女にはなるべく健康に“インターネットエンジェル ”になってほしいと思ってプレイしていた。ところが「やみ度」が0になると彼女は配信者をやめてしまい、びっくりするような結末になるのだ。「生きるためには、精神の負荷も必要だと思います」というウィンドウがあらわれ諭してきて、ゲームオーバーになってしまう。

納得がいかない。配信者をやめるのはわかる。しかし本作でいうところのやみ度とやらが0の状態で精神の負荷がないというのはいかがなものか。寛解への軌跡がない。精神疾患を帯びていない人たちにも存在する心の痛みを否定するものだし、明るく生きる人たちの生き様をも否定している。

このような観点にはゲーム作者のにゃるら氏も自覚的で、ゲーム発売当初に次のようなツイートをしているわけです。


ただ、じゃあ「やみ度0エンド」が本当にハッピーエンドなのか?一応全エンド到達した僕から言わせてもらうと、とてもそうは思えないわけです。

ゲームを進めていって分かるのは、あめちゃんというのがとても「歪んだ人間」であることなんですね。最後に到達するエンドをみればそれは一目瞭然だし、そこまで行かなくても「アンチを叩いて満足した配信の直後に別の配信者にアンチコメをしにいく」、「宣伝費を払って宣伝して欲しいと行ってきた会社の商品を侮辱する」といった振る舞いをみれば、精神疾患とか関係なく、まともに社会に適合できない人間であることは明らかなわけです。
そんな彼女がやみ度0になって配信を止めたとして、その後幸せに暮らせるか?僕はそうは思わないんですね。それこそ短期アルバイトに就いては辞めを繰り返し、最終的には中年引きこもりとなる、そんあ結末しか見えません*1

寛解への軌跡がない」描写こそがリアルな人だって居るでしょう

筆者は「寛解への軌跡がない。」という点を批判します。これは、もしあめちゃんが、うつ病双極性障害、あるいは統合失調症といった「病気・障害がわかりやすい」精神疾患として描かれているなら、確かに妥当な批判だと思います。

しかしあめちゃんの抱えている問題って、そういう「病気・障害の問題」というよりは、どっちかというと「人格の問題」なわけです。となると、もしあめちゃんが「寛解」に至るとしたら、上記で挙げたような問題行動をしない、まともな人格になって、それこそ「明るく生きる人たち」のように自分の人格を改造しなくてはならないわけです。

しかし、そうやって自分の人格や性格を改造することまで、果たして精神医療はできるのでしょうか?仮にできたとして、本当にそこまですべきなんでしょうか?

少なくともそういった問いに対する答えは、まだ精神医学全体や、更に言えば社会全体は出せていないでしょう。とすれば、そこで安易に「人格のゆがみ?そんなの精神医学で矯正すれば楽になるんだからそうすべきだ」と断言するよりは、そこで「安易に答えは出せないよね」と踏みとどまる、にゃるら氏の態度の方が、僕には誠実に思えます。

「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージも、また一つの誠実な向き合い方では

そして、このゲームはそういった既存の精神医学の有効性に対して疑問を持つ立場から、むしろR.D.レインのような「反精神医学」に近い立場を取るわけですね。

NEEDY GIRL OVERDOSEと反精神医学の関係については
note.com
という記事が考察しているのでそちらも参照してほしいのですが。

簡単に言うと「精神病を治して社会に適合させるよう人間を改造するなんていうのは、社会による人間への弾圧だ。そうでなく、精神病を抱えた人が、それを抱えたままのびのびと生きられるとう、社会を変革していかなければならない」というのが、反精神医学の立場です。

このような思想は、特に既存の社会や体制に反対する運動が盛んだった1960年代から70年代に栄えました。そしてそれら思想の元に起きた運動によって、それまで「精神病者は治るまで病院に監禁しておけ」という考えが大勢を占めていただった精神医学に、「精神病者も社会の中で生活するようにしよう」という考えが生まれてきたわけです。

ただその一方で、反精神医学という考えにも限界があるわけです。そもそも社会を変えるなんてこと自体、そう簡単にできるものではありませんし、更に言えば「精神医学は悪!」という考えに凝り固まった故に、普通に薬物療法とかをすれば病状が改善するはずだった患者にも薬物療法を行わず、結果として病状を悪化させるみたいなこともありました。

上記のような反省を元に、現代の精神医学においては概ね「反精神医学という考えは、良い面もあったが全体としては否定されるべき」という風に考えられているわけです。*2

ただ一方でにゃるら氏は、現代っ子らしく「社会変革」というような夢は持っていないでしょう。彼がむしろ描いているのは「既存の社会とは違う場所(このゲームにおいては「インターネット」)で、社会に抑圧されずに生きる」という夢なわけです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームは、確かにぱっと見アイロニーと戯画化ばっかりで、全てを馬鹿にしてるゲームのように映るかもしれませんが、そのバックボーンには、こういう、インターネットが大衆化する前からインターネットに入り浸っていた人が、インターネットに持っていた理想があるんじゃないかと、僕はそう解釈するわけですね。

そして、その理想から、敢えてにゃるら氏は「寛解への軌跡」を描かず、むしろ「治らなくていいんじゃないのか」と言う態度を取っている訳です。

それは、確かに既存の精神医学の考え方とは違うものかもしれませんが、しかしそれもそれで、一つの誠実な「精神疾患への向き合い方」だと、僕は思うのです。

ロマンティックなメンヘラは存在するか?

ただ一方で、そのような考えに基づくが故に、「精神疾患」というものの描き方にバイアスがかかっているのではないかと問われれば、それは否定できません。

ほかにも考えられないバッドエンドがあった。精神疾患で使用される薬物について偏見を助長させる描写だ。あめちゃんに軽い処方箋ドラッグを与えているとそのうちにエスカレートしてイリーガルなドラッグが登場し、さらに与え続けると「LSDのやり過ぎで向こう側の世界にいってしまう」ものすらある。

これがただ過激さをあおるテンションで平然と描かれている。毒性の低い薬品から始まり、使い続けると毒性の高い薬品があらわれていくことなど、ゲートウェイドラッグという反論の多い不確かな理論をそのまま運用している危険性があり、精神疾患を負う者が精神安定剤を飲まざるを得ないことへの無理解を生みうる。

ゲートウェイドラッグ理論の正否は、専門家でない僕には分からないので保留しておきますが、薬物に対する描き方っていうのは確かにちょっと問題があって、なにより「薬物を使えばこの世を超越することができる」というような描き方は、確かに問題だなーと思うわけです。

ただこれは、どっちかというとにゃるら氏が意図してそういう描き方をしているというよりは、にゃるら氏が自分の筆力や演出力を過小評価していたからなのかなーと思ったりもするわけです。

例えば、LSDをあめちゃんが接種した後、その感想についてあめちゃんが書いたと思われる「たいけんき」という内容の文章が読めるんですね。これ、本来は「あーヤク中ってこういう文章書くよねー」みたいな、そんなしょーもない文章で良かったはずなんですよ。

ところが、これが実に読んでいて面白いし、引き込まれる文章なんですね。それを読んでると「こういう体験ができるんなら、自分も薬物体験してみたいな」と思ってしまう程度には。

もちろん実際は、薬物を摂取しても大半の人はしょーもない文章しか書けません。このLSD体験記が素晴らしいのは、LSDのおかげというよりは、あめちゃん≓にゃるら氏の文章力がすごいからでしかないわけです。

上記のようなことはゲーム全般に言えて、実際事実だけを取り出すとそんなに憧れる要素も無いしょうもないことなのに、にゃるら氏の文章力や演出力にかかると極めて特異でキラキラした体験であるように見え、「自分もそういう破滅的な体験をしてみたい」と思わせてしまう作用は、確かにこのゲームにはあるわけです。だから、そこの影響力には確かに注意しなきゃならないなと思ったりはするわけです。太宰や坂口に憧れ睡眠薬を乱用したりする若者が出ることに注意するのと同程度には。

「君の病気は治らない」という歌詞が絶望になる人もいれば希望になる人も居る

ただ、そういう面を差し置いたとしても、「治らなくてもいいんじゃないか」というメッセージを敢えて伝えるということは、僕はそんなに悪いとは思えないのです。

このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームをやっているとき、ずっと僕の頭の中でBGMとなっている曲がありました。それはアーバンギャルドの『ももいろクロニクル』という曲です。
open.spotify.com
amzn.to

君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく
君の病気は治らない だけど僕らは生きてく

アーバンギャルドというバンドも、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームと同じように、リストカットとかいうようなメンヘラのことを沢山歌っていて、まさしく上記の記事の筆者が聴いたら「けしからん!」と怒るような、そういう曲ばっかりを書いているバンドです。
でも、精神疾患を抱いている人の中には、むしろ「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージよりも、むしろこういう、ちょっと自分たちのことを茶化しながら、しかし真っ直ぐ向き合ってくれる、こういうバンドの曲に救われる人だっているわけです。そしてそれは、このNEEDY GIRL OVERDOSEというゲームにも言えます。

もちろんだからと言って、「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージが無意味とは言いません。そういうメッセージこそが必要な人もいるでしょう。僕だって、もしリアルで「私メンタル病んで悩んでるの」と問いかけられれば、その人がどういう状態かを見て、心療内科を勧めた後、その人のタイプによってどちらの言葉を投げかけるか決めますし、多くの場合「精神疾患は治るから安心して!」というようなきちんとしたメッセージを伝えるでしょう。

(ただ現実問題、そうやって心療内科を勧めても、初診は2ヶ月先だったりするわけで、こういうゲームの精神疾患の描き方を問題視するなら、まずそういう心療内科にきちんと罹ることができる体制を作れよと思ったりもするが)

精神疾患に効く万能薬というものがない以上、重要なのは、自分に合い、自分を癒やしてくれる多様な表現に接することができる環境を作ることなのだと思います。もちろん、そのメッセージそれぞれに対する批判もまた、あって然るべきだし、それを受けて表現を変えるということもありでしょう*3しかし「こういう表現は精神医学の標準的な考え方から違うから表現しては駄目」と一概に言い切ってしまうことには、僕は反対です。上記のような記事は、そのような、表面だけを見た一律な批判であるように、思えてなりません。

*1:うわー、他人事とは思えない……

*2:今回の記事の立場も、基本的にはそれと同じロジックに基づいているといえます

*3:『ルックバック』について、著者が表現のやり方を変えたように

インターネット上で「声」を発することについて

🔥もしくはマーマー神💙💛 on Twitter: "青識亜論ことパパミルク太郎君のスペースを少し聞いていたけれど、最低最悪だった。 酔っ払って奇声をあげる、他のスピーカーに黙れと大声をあげて喋らせない、何か言われたらトーンポリシングだと叫ぶ、とにかく酔っ払っていることを言い訳にする、部落民はにおいでわかる等の差別発言。 1/2"

古のrir6君がちゃんと大人の小汚さを身につけて、社会の弾力性を理解する。ということができずに、糸のキレた凧みたいになったのが、青みたいな人間にも思えるんだよなあ。黙らせる事ができない存在が憎いみたいな

2022/03/12 01:39
b.hatena.ne.jp
なんかネットサーフィンしていたら、流れ弾を受けたので。

といっても、ああいうTwitterとかのSNSにうごめいてるミソジニストについては、まあ散々語ってきたのでし、最近も↓
note.com
みたいな、特には語りません。「そういう発言をすると傷つく人がいる」というナナメの関係の知人・友人を持たないことの不幸を、ただ哀れむしか無いわけで。

僕が興味を持つのは、こういう暴言を発してしまうTwitterのスペースという場。

というか、スペースに限らず、音声配信とか動画配信って、ブログのような「文字で発表するメディア」とはまた違ったメディア特性があるんだけど、文字書きに慣れ親しんできた古のネット民ってあんまりそのメディア特性の違いに敏感でない気がする。上記のような暴言をインターネットで声に出してしまうのって、その特性の違いに対する鈍感さがあったりするのかなーと思ったり。

そういうメディア特性の違いによる、発せられるメッセージの違いを分析するのが、彼らが忌み嫌う社会学だったりすると思うんだけどね。

クールなメディアとしての「文字」、ホットなメディアとしての「声」

いわゆるクールなメディア/ホットなメディアという、社会学の古典的分類に沿って言えば、ブログとかネットニュースとかの「文字」というのはクールなメディアに分類される。それに対して、声による音声配信とか、またはYouTubeでの動画配信というのは、ホットなメディアに分類される。

で、このクールなメディアとホットなメディアには色々な違いがあるんだけど、今回の記事で重要になるのが「自分とそのメディアを切り離すことができるか」という点。

よく「発言内容への評価と、その発言者の人格への評価は切り離して考えましょう」ということが言われる。このこと自体の妥当性はさておき、この切り離しって、文字だと容易だけど、声にすると結構難しい。

例えば、「今から発する言葉は嘘ですよ」と宣言した後に

「お前は馬鹿だ!死んでしまえ!」

ということを、文字と声それぞれで伝えたとする。多分、今ブログであなたが見ている様に、文字で伝えている場合は、上記の文章はそれほどショックではないはず。

ところが、それこそ電話越しに怒鳴り声で上記のようなメッセージを伝えたとしたら、嘘だと分かっていても、結構ショックなのではないでしょううか。少なくとも僕は、その言葉を発した人に対しイヤな感じを受けてしまう。

ことほどさように、声というものは文字より、与えられる側の感情に作用し、そしてそれ故に、「声を発した当人」と「発せられたメッセージ」を近づけてしまう。だから、声を発する声優や、声や体でメッセージを伝える俳優は、「この人は役柄を演じているだけ」と知っていても、演じていた役柄がその人本人のキャラクターとして認知されがちなのです。いくら怖い小説とかを書いてもその人自身が怖い人とは思われないのと対称的に。

「声」は自己暗示を生みやすい

そしてこれは他人に与える印象だけの話ではない。声を発する自分自身にも同じ事が言えます。

自分が心から思ったことでもないことを、他人の反応を得るためにわざとインターネットに書くという行為があります。いわゆる「釣り」という行為ですが、例えば掲示板やブログ記事でそういうなことをやっていても、多くの人はそれと現実を切り離すことができるわけです。

昔のインターネットではよく「インターネット上ではあんなに過激なことを言っているのに、現実のオフ会で会ってみると全然おとなしい人だった」ということがあり、「ネット弁慶」なんて揶揄されたりもした。つまりこの場合は、良くも悪くも「ネット上での人格」と「現実での人格」というものが使い分けられているわけです。

ところがインターネット上で声を発することができるようになると、この使い分けは途端に難しくなります。なにしろネット上で声を発するときも、現実で声を発するときも、やることは一緒なのですから。そこでもし「ネット上での人格」と「現実での人格」を使い分けようとするなら、かなり理性上で意識して使い分けをする必要が出てくるわけ。ところが多くの人は、その意識的な使い分けができていない。

そうなると、例え「敢えて露悪的に言ってやる」みたいに本人が考えていたとしても、その「露悪的な演技」に引っ張られて、本人の人格までもが悪しき方向に引っ張られるのである。そして集団分極化がより促進されやすいというインターネットの特性により、その露悪はさらに過激になっていく。

上記のスペースでの暴言が、具体的にどういう流れで発せられたかは、僕は知りません。しかし一般論として、インターネット上で声でコミュニケーションするということは、極端な方向に人格を変形させていく効果が、文字より高いと言えます。

「声」で発するメッセージは、より抑制的にしよう

上記のようなことを踏まえた上で、Twitterのスペースや、YouTubeでの動画配信で注意すべきことを考えてみましょう。

最初に言えることは、声で発するメッセージは、文字で発するメッセージより抑制的な、穏やかなものであるべきということです。上記の例で挙げたように、他人を批判するメッセージも、文字で書けばそれほどダメージを与えないが、声で発するとショッキングということも多々あるのです。

インターネット上で動画配信とかを見ていると「この人面白いけど過激なこと言ってるなー、Twitterでみんなに知らせてみよ」と考え、いざ発言を文字起こししてツイートしようとすると「あれ、これそんなに過激でもないし面白くもないな……」と思う経験を、よくするんですね。実際、「過激な配信者」として知られる配信者の配信内容も、文字起こししてみるとそんなでもなかったりするわけです。でも、それでも「声」のメディアでは十分過激で面白く聞こえるから、それはそれでいいんですね。

逆に、文字起こししてもなお「過激だ」と思うような配信は、今回炎上したスペースの例にあるように、度を逸した、不快な過激さといえる訳です。

「演技する」という技法をきちんと訓練する

そして、二つ目に重要なのが、「演技で発する声と、自分の人格を分離する訓練をする」ということです。
声優とか俳優というのは、まさしくそういう訓練を積んできた人です。彼らは、好青年の役をやった数時間後に卑劣な悪漢の役をやったりすることが多々あるわけで、そこでは、それぞれの役柄を演じる人格を分離する必要があるわけです。そして、それは自然に身につくものではなく、訓練が必要なのです。

インターネット上で人気の配信者に、演劇経験者や、あるいはTRPGのような「演技するゲーム」が好きな人が多いのも、まさにそこなのですね。演劇とかTRPGといったものは、「自分と異なる存在」を意識的に演じる必要が出てくるわけです。そしてそれは、頭で理解すればなんとかなるものでなく、何回も反復練習して、身体にたたき込まなきゃならないものなのです。

ところが、インターネットの人というのは、こういう身体性というものを軽視していることが多いため、「頭で理解しているから」とかいって安易に露悪的に振る舞って、ドツボにハマっていくのです。

僕はよく知らないけど、上記のブコメで言及されたrir6くんとかいうのも、そんな感じだったんじゃないかなー?

メディアの違いを理解せよ!

しかし、こういう騒動を見る度に思うのが、かの名言、「メディアの違いを理解せよ!」です。

なんていうか、インターネットの人って、「伝えるメディアなんて関係ない、メッセージが全てだ!」という素朴なメッセージ至上主義の人が多い気がするんですね。社会学とか、あるいは人文的な高等教育をきちんと受けず、更に言えばそれらを「お気持ちw」とかいって馬鹿にする。

で、そういう人が「インターネット上でこういう技術を使ってメッセージを伝えれば余計なノイズにじゃまされない!」とか思って新技術とかを賞賛したりするんですが、いやそのノイズこそが重要なんだって。

つい最近も、「VTuberは生身の人間の人格にじゃまされず、真にバーチャルなキャラクタを生み出すことができたはずなのに、今あるVTuberはただの生主じゃないか」とか言って勝手に失望している人がいましたが、文字でやりとりするならともかく、「声」というメディアの特性を理解していれば、そこで生身の人間の介在しないバーチャルな存在が現れるはずないじゃないですか。マクルーハン読み直せと。

というか、技術者の人ってほんと「生身の人間」の匂いが嫌いですよね。

僕なんかのような人文系の人からすると、「生身の人間」の匂いこそが好きなんで、インターネットという新しい情報技術で、生身の人間がどのような表現をしていくか、その可能性とリスクこそが面白いんじゃ無いかと、思わずにはいられないのですが。