あままこのブログ

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「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学は本当に駄目?

先日、ある社会学者の次のようなツイートが、Twitterの一部で話題になりました。


多くの人は、これを読んで単純に「今の学生はそんなことになっているのか、けしからん」と思っているようです。
ただ僕としては、そういう社会学を人々が求めるようになっていること、それ自体が一つの大きな社会の変化を表しているのではないかと、思うのですね。
逆に言うと、こういう「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」を、社会学を学ぼうとする人々が志向し、一方でそれをよく思わない人たちがあり、そこで社会学観を巡って軋轢が生じている。この現象が一体何を意味しているのかを、良い・悪いはひとまず置いて、考えてみたいと思うのです。
そしてその上で、その軋轢を乗り越えるためには、一体どういうような方法論がありうるか、それを考えたいと思います。

肯定派・否定派それぞれの意見

まず、上記のツイートに対する反応で、重要だと僕が思ったツイートを抜粋していきます。

「常識を疑う」社会学への批判


まずこの日本共産党市議会議員の向川まさひで氏のツイートでは、「他者の常識を疑う」ということの中に、正義や道徳といった社会の共通善を掘り崩してしまう効果があるからよくないということが言われています。
つまりここでは、「他者の常識」というものが、社会全体の共通善というものを維持しているということが前提とされているわけですね。そして現行の社会学教育を含めた大学教育の「常識を疑う」ことこそが、共通善を壊してしまっているというわけです。
一方民俗学者大月隆寛氏は、「常識を疑う」学者自身の常識は一体どうなっているのかということを挙げ、そのような「常識を疑う」社会学の背景に、エスノメソドロジーカルチュラル・スタディーズフェミニズムなどの影響を見ています。
ここで面白いのが、一方は日本共産党の議員さん、他方新しい歴史教科書をつくる会の元事務局長という、政治的には水と油のような二人が、ともに「常識を疑う」社会学を批判しているという点です。
また、「常識を疑う」ということへ批判的立場を持つツイートは、他には以下のようなものがあります。
これらツイートをまとめると、「常識を疑う」社会学は、結果として科学的知や共通善といった、社会の成員全員が「これは正しい」と思っているものにまで疑いの目を向けることにより、人々を、社会に責任を持たない無秩序な個人に仕向けているのではないか。だからいまこそ「常識を疑う」ことをやめ、因習であったり共通善といった「常識」を叩き込むような教育を行わなければならないと、いうことになるようです。

「生きづらさ」は社会学の問題ではない?

一方で「生きづらさ」については、それはそもそも社会学が問題とする分野ではないという指摘が目立ちます。


心理学・哲学・文学・宗教とさまざまな分野が出ていますが、いずれにも共通するのは、それが個人の内面を考える分野だということです。つまり、「生きづらさ」というのは、あくまで個人が自分の心の内に持つものなのだから、心理学や文学・哲学といった個人の内面について考える学問で扱うべきなのであって、人と人とが集まる「社会」について考える社会学という分野では対象にすべきものではないというわけです。

「自分の生きづらさ」と「他者の生きづらさ」の間に共通点を見つけるのが社会学

他方、「生きづらさ」は十分社会学の研究対象になるという意見もあります。そのような意見では、「生きづらさ」とは、一人ひとりが独自に持っているように見えても、そこには必ず共通できる点があるのであって、そこで「自分のいきづらさ」から「他者の生きづらさ」に共感したり理解したりすることが、社会学が「生きづらさ」を研究対象にする大きな理由であると示されています。

「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学のポジショニングマップ

以上の意見を自分なりにまとめ、またそこに自分の解釈を付け加えた上で、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学がそれぞれどんな位置にあり、一体どんな分野・要素と近い位置にあるのか、ポジショニングマップを作成してみました。
www.positioning-map.com
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「自分の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、やはり哲学や心理学でしょう。それに対し、「他者の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、自分は人類学であると考えます。そこではあくまで自分たちの社会ではなく、他者の文化や社会といったものが民族誌として研究対象となるわけです。
ところが、社会学というのはある意味哲学・心理学的な側面もあるし、一方で人類学的な側面もあるのですね。それぞれの学問分野の残余領域を扱うのが社会学だ、と言う人もいるくらいです。ですから、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野と、「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、隣接分野との関連で言うならば、どっちも一応社会学だよなと、言うしかなかったりするのです。

「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそがなぜ正統とされたのか

ではそんな中で、一体なぜ社会学は右上の「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそが正統とされてきたのでしょうか。自分が思うに、そこでは

  • 他人の生きづらさ=社会的弱者の問題に関心を寄せる
  • 自分の常識を疑う=科学的知・共通善に基づき、個人的実感・思い込みを正す

というのが、社会学を含め、人文社会科学における規範となってきたからと考えます。
つまり、科学でもって個人が持ってる偏見や思い込みを正し、貧困であったり差別を受けている社会的弱者を助けるもの、これこそが大学まで行けるような裕福な人間の、責任ある態度だというわけです。
ところが、現在はその反対、本来社会的弱者を助けるエリートであるべき学生が、その弱者ではなく裕福な自分の生きづらさなるものに関心を寄せており、更に言うと科学的知や共通善というものを軽んじて自分の実感ばっかりを重視している、これはよくないというわけです。

エリート/大衆という区分けが崩れる中で、人文社会科学の規範もまた変容を迫られている

ところが、このような規範は、あくまで「エリート/大衆」という区分けがあり、そしてその中でエリートだけが社会学を学ぶということを前提としているものですが、しかし現状はそうなっていないわけです(こんなこと、まさしく教育社会学が専門である方には、釈迦に説法でしょうが)。
実際は、社会学を学ぶ学生といったって、実際は裕福な暮らしとは程遠く、貧困ギリギリである人も多々いますし、差別を受けたマイノリティの方も多々いるわけです。さらに言えば、日本全体が低成長に苦しむ中で、例え今そんなに苦しい状況ではなくても、将来に渡って自身の生存が安泰だと思える人は殆どいないわけです。こんな状況で、「君たちはエリートなんだから、自分のことではなく他人のことこそを気にかけなさい」と言われても、「そんなことより自分の将来が不安だ!」と答えるしかないでしょう。
さらに、エリートが科学的知や共通善を決めることを独占してきたこと、それ自体が科学的知や共通善といったものを脅かしています。水俣病から福島第一原発まで、科学的知というものは往々にしてそれこそ大衆を黙らせる方便として扱われてきました。「道徳」と呼ばれる共通善もまた然りです。人々が科学的知や共通善を信じられなかったのは、大学の学問がそうしたものを価値相対主義によって批判してきたからということが言われていましたが、僕からするとそれは因果が反対で、人々が科学的知や共通善を信じられなくなったからこそ、大学の学問においてもそういう価値相対主義が主流になってきたのだと考えます(そもそも、社会を相対化する価値相対主義は、60年代のカウンターカルチャーがなければ生まれ得なかったわけですから)。
つまり、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそを正統とする規範は、その前提条件となる「エリート/大衆」という区分けがなくなってしまった時点で、維持するのがかなり難しい規範となっているのです。

トップダウンで「社会」を押し付けるのか、ボトムアップで「社会」を発見するのか

では一体どうすればいいのか。
一つの方策としてありうるのは、エリートの学問から大衆の教導へと、社会学教育のやり方を変える方法です。具体的には、とにかく「道徳」や「正義」といった「他者の常識」の正しさを叩き込み、そしてその中で自分を滅し他者を助けるという規範こそが正しいとすることです。多分、「新しい歴史教科書をつくる会」とか、あるいは政府の教育再生なんとかとかが理想とするのは、まさしくそういった方向でしょう。
しかし、そのようなトップダウン方式の教育は、まず非民主的にも程がありますし、そもそもその教育を行うエリートが正しい教育を行っているか、判断できません。少なくとも僕は、正しさを上から押し付ける教育なんか糞食らえです。
ではどうするか、僕は、まず個々人の「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことそれ自体を否定するのではなく、むしろそこを出発点として認め、そこから思考を進めていく中で、「自己」と「他者」の垣根を壊し、「自分と他者の常識を疑い、自分と他者の生きづらさについて考える」ことへつなげていくこと、そしてそこから、「自己と他者」が含まれるものとして社会というものを見つけ、「社会の常識を疑い、社会の生きづらさについて考える」ことへとつなげていくことこそが、重要だと考えています。そしてそこから、一部のエリートが独占するものではなく万人に開かれたものとして、共通善や科学的知の信頼を回復していくべきだと、考えています。
いうなれば、トップダウン方式は、上から「社会とはこういうものだ」と押し付けるものです、それに対しボトムアップ方式は、まず個々人から出発し、そこから個々人の単なる集合ではない、「社会」というものを発見する、そういった方法論といえるでしょう。
「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことは、まさしくそういったボトムアップな、まず一旦そういった状態を認め、そこから発展していくという形でしか、克服できないのではないでしょうか、

シーライオニングから考える「保守のフェミニズム」

「シーライオニング」という言葉がSNS上で話題になっています。どういう意味かというと、「自分の意見に反対する側を質問攻めにすることで、相手に嫌がらせしようとする行為」と、一般には捉えられているみたいです*1
ところが、この「シーライオニング」という言葉、あるWeb漫画が元ネタの言葉だそうなんですが、そのWeb漫画を見ると、どうも上記に挙げられたような用法には必ずしも還元されない、複雑な含意があるように思えてならないんですね。


僕は、この漫画を読んだとき、まず最初に「いきなり『アシカは嫌い』なんて言われて、そこで怒ってもいいのに、怒りもせずにその理由を聞こうとしたら邪険に扱われる。アシカさん可愛そうすぎじゃない?」と思いました。
言うなれば、僕はこの漫画を読んだ時に、そこに「マジョリティ(人間かつ貴族)がマイノリティ(言葉を発するアシカ)に対し嫌悪感を表明し、しかもそのことに一切反省すらしない」という描写を受け取ったのです。
だとすれば、むしろリベラルやラディカル的にはアシカの側に立つべきなんであって、そこで人間の立場に無邪気に同一化するのは、どうも危ういんじゃないかと、そう思ったのです。
同様の指摘は、CDB氏もしています。
note.com
ただ、そこで更に考えると、そもそも「リベラルorラディカルであること」と「フェミニストであること」が、イコールで結び付けられるというのも、一つの思い込みで、反リベラル・ラディカルなフェミニズム、いわば「保守のフェミニズム」という立場もありうるのではないか。そしてその立場に立てば、元ネタのWeb漫画での「シーライオニング」は、私的領域の不当な侵害として、非難されるべきものになるのではないかと、考えられるのではないか。そんな考えが、浮かんできたのです。
どういうことか、これから説明しましょう。

アシカがやってるのは「非暴力直接行動」としての問いかけと捉えることができる

まず、そもそもなぜアシカがやってることがリベラルやラディカルにとっては擁護されるべきことなのか。それは、アシカのやっていることが、まさしくリベラルやラディカルが理想とする「非暴力直接行動」だからです。
非暴力直接行動とは何か。方法としてはそれこそ座り込みから署名活動、糾弾会、メディアジャックと呼ばれる行動までさまざまあるのですが、それぞれの行動の目的は、だいたい以下の一つに集約されます。それは

  • 対話/交渉/取引に応じようとしないような相手を、交渉に引きずり込む

ということです。逆に言えば、ここから逸脱し、例えばぶん殴ったり、あるいは相手を意図的に成人すら困難な窮乏状態に追い込んで、自分の主張を通そうとする行為は「暴力」となります。
なお、ここで抑えておかなければならない、「暴力」も決して全否定されるべきものじゃないということです。多くの歴史上の革命は、非暴力直接行動でなく暴力によって達成されました。そして、それらの革命により、基本的人権の獲得や、社会保障の充実などは行われてきたのです。あくまで他に方法がない場合に限りますが、暴力もまた、社会改革のための一つのオプションとして、考えはされるべきなのです。
しかし、それでもできるなら暴力より非暴力のほうがいいです。それはなぜかといえば、「一旦暴力が容認される空気が醸成されると、往々にしてそれはより暴力に資源を動員できる、マジョリティや資産家・権力者に有利になることがある」ということです。実際は、他の戦略の使い方によっても変わってくるので、絶対にそうなるとはいえない(だからこそ暴力は選択可能なオプションとして考慮はし続けなくてはならない)ですが、暴力が容認されると、それは暴力を独占している国家や、警備会社や暴力団を簡単に動員できる資本家、また、それこそ「数の暴力」を行使できるマジョリティに有利になってしまうんですね。
以上の理由から、リベラルやラディカルは、マジョリティや権力に対抗する手段として、「非暴力直接行動」というものを重要視してきました。そして、Web漫画でのアシカの行動は、まさしく「非暴力直接行動」なのです。
アシカは、別に暴力を使い、相手に強制的に「アシカは嫌い」という主張を撤回させようとしているわけではありません。ただ、「アシカは嫌い」という言論を、交渉の俎上に載せようとしているのです。そしてその為に、ずっと質問攻めに合わせたり、家に押しかけたりしているわけです。これは、まさしく座り込みなどと一緒の直接行動です。
「こんなの嫌がらせじゃん」と思う人もいるかもしれません。ですが、同じように座り込みや署名活動、組合加入、糾弾会といった非暴力直接行動も、権力・マジョリティ側は「単なる嫌がらせ」と避難してきたのを忘れてはいけません。時に弱者やマイノリティ側は、嫌がらせ的であっても行動に出なければならないのです、それを否定してしまうことは、結果として権力やマジョリティを利することに他なりません。
以上のことから、リベラルやラディカル的には、アシカのやっている行動はむしろ「非暴力直接行動」として擁護されるのです。

非暴力直接行動を否定する「保守」の立場からのフェミニズムも現れているのではないか

しかし、いくらリベラルやラディカルの側からそうやって「アシカは擁護されるべきだ」と主張しても、むしろ多くのSNS上のフェミニストは「そんなのどうでもいいよ。こういう嫌がらせに私は苦しんでるんだから、こういう嫌がらせは私の目の前から排除したい!」と言うでしょう。
なぜそう思うか。その理由は、端的に言えば、彼・彼女らフェミニストがもはや、対話/交渉/取引は不要、そんなの無くたって自分たちの目的は達成できると、考えているからではないでしょうか。
先日朝日新聞にこのような記事が掲載されました。
www.asahi.com
上記の記事では、SNS上であったり、セレブなどが支持するフェミニズムを「ポピュラーフェミニズム」と呼び、若い人たちにこれらのフェミニズムが「感じのいい」ものとして写ってると分析されています。
(余談ですが、ネット上にの反フェミの人たちはこのようなポピュラーフェミニズムを一部のものとして、未だにフェミニズムなんてガミガミおばばとして馬鹿にされてるんだと思いたがっているようですが、まあ、現実から目をそむけるしか精神安定の方法がないんでしょうね。彼らバックラッシュが現実から目を背けて弱くなっていくのは、むしろいいことですが。)
なぜ「感じのいい」ものであるかといえば、それらフェミニズムが、「議論」を仕掛けるものではなくなったではないでしょうか。議論なんかによって無理やりフェミニズム側の要求を飲ませなくても、普通に社会が回っていけば、女性の立場は向上するんだ、というものです。
だから、今のそういったフェミニズムは、ウーマンリブといった昔の運動を参照したりしません。代わりに彼・彼女らが参照するのは、例えば↓の本だったりします。

最初僕はタイトルだけ読んでこの本は「ああこれまでのフェミニズムのように、対話を重要視してるんだな」と思ってたんですね。ところが、読んでみるとこの本はむしろ、ひたすら「異なるものとの対話なんてしなくていい」と、対話の価値を否定しているんです。この本で言う「黙らない」「ことばが必要」というのは、男性やマジョリティに投げかける言葉ではなく、むしろ女性同士で内向きに自分たちシスターフッドを鼓舞する「内向きの言葉・会話」のことだったのです。
なぜそういう戦略をするといえば、もはや対話なんてしなくても、現行の社会秩序のまま社会が維持されれば、女性の地位は勝手に向上していくと考えてるからなんですね。そして、それは多分正しい。労働人口が有り余ってた昔ならいざしれず、労働人口がどんどん減少していく現代においては、すくなくとも「男と女で違う扱いをする」なんて非効率的なやり方はどんどん廃れていくでしょう。
だから、現代の若いフェミニストは、もはや議論や対話など求めません。むしろ「異なる立場との対話」なんていうのはできる限り避けられるようにすべきもので、私的領域とは闘争の場ではなく、シスターフッド同士のエンパワーメントの場となるのです。
そのような立場は、いままでの「個人的なことは政治的なこと」といい、社会全体で闘争を行おうとしたリベラルやラディカルのフェミニズムとは違うものです。むしろ、私的領域と公的領域を厳然と区別し、私的領域に公的領域の正義を持ち込もうとしないという点で、保守のイデオロギーに近い、「保守のフェミニズム」なのです。
そしてそのような観点からすると、今回話題に上げているWeb漫画は、私的領域においてまで踏み込んできて「対話」の名のもとに嫌がらせをしているという点で、批判されるべきものとなるのでは、ないでしょうか。

賛成するにしろ批判するにしろ、「保守のフェミニズム」というものをまず理解しなければならない

以前、SNS上で、「トランスジェンダーを排除するフェミニスト」、いわゆるTERFというものが大きな議論となりました。しかしこれも、今から考えると「保守のフェミニズム」と呼べるべきものだったんではないかと、いまでは思うんですね。保守なら、トランスジェンダーを排除することに何も問題を感じないのは、むしろ自明のことと言えるでしょう。そしてそうであるなら、いくら保守にリベラルの理念を説こうと徒労に終わる以上、TERFをリベラルやラディカルの理念から批判することも、また徒労に終わるのです。
このような「保守のフェミニズム」というものをどう理解し、対峙していくかこそ、SNS上のフェミニズムや若い人のポピュラーフェミニズムを考える上では、重要になってくるのかも、しれません。

*1:少なくとも僕の観測範囲では

30代・40代はなぜ「絶望的」か-他人を「道具」としてしか見られない世代

都知事選、終わったそうで。
まあ、基本的に僕は「地方の選挙はその地方の人が考えるべきことで、他所の人が口をだすべきではない」と考えるので、今回の都知事選には口を出しませんでした。
ただ、選挙結果を見て思うのは、「やっぱうちらの世代(30代・40代)って、本当にダメだなぁ」ということで。


一応32歳で、30代である僕としては、本当に「うちらの世代がダメですみません」としか言いようがないです。
ただね、一つ言い訳をさせていただくと、うちらの世代は、維新みたいなネオリベか、さもなくば日本第一党みたいなゼノフォビア(外国人嫌悪)しか、道がなかったというのも、あると思うんですね。
何故か、要するに僕らの世代は、リベラルや左翼がいう「公共」「市民社会」というものから何か助けてもらった経験がないんですよ。
そんな中で、立憲やれいわが言う「損得抜きでみんなで助け合う社会」というのは、夢物語としか思えないんです。

ルルーシュやライトがロールモデルだった世代―他人とは常に、利用する/されるものでしかない

さんざん言われてきたことですが、今の30代・40代というのは、不景気の中で、常に他人と何かを奪い合ってきた、そういう世代です。
学校卒業後の就職活動では正社員の地位を奪い合い、その奪い合いに敗れたものは非正規雇用の中でいつ他人に職を奪われるか不安に怯える。例え奪い合いに勝てたとしても、そこで待っているのは他社との果てしなき競争。もしその競争に敗れて自分の会社が潰れたり、解雇でもされたりしたら、せっかく就活に勝っても意味がないから、必死で他社や他人を蹴落とそうとする終わりなきサバイバル。
そんな中必死で生き残ってきた*1僕ら世代には、いつしか「他人とは利用するもの、さもなくば自分が利用される」というメンタリティが染み付いているんです。
これが一番良くわかるのが、僕らの世代の人らが、アニメや漫画で一体どんな主人公が人気で、ロールモデルとなりうる存在だったかということです。僕より上の世代なら、アムロ機動戦士ガンダム)とかシンジ(新世紀エヴァンゲリオン)とかでしょう。組織の中で頑張って助け合う主人公、あるいは、より深く自身の存在意義について内省する主人公、いいですよね。
あるいは、僕らより下の世代なら、それこそキリト(ソードアート・オンライン)とかお兄様(魔法科高校の劣等生)とかでしょうか。圧倒的能力でもって気に入らない奴らをやっつけて、自分の大切な人を守る主人公、いいねー、これもまた王道ですよ。
それに対して、僕らの世代で人気だった主人公と言ったら、それこそルルーシュコードギアス

とかライト(デスノート)とかですよ。
なんですかこの差。
自分の望むことのために、他人を平気で利用して、それに何ら罪悪感を抱かない主人公。一体何で僕らはこんな主人公たちに憧れてるんだ。
でもこれが、僕らの世代の真実なんです。他人をボロ雑巾のように使い回すことしか考えない人たち。そんな中で、もし「他人のためになにかしたい」なんて思ったら、その結末は体よく搾取されることでしかない、世界っていうのはそんなものなんだと、僕らは信じて生きてきたし、事実そうだったわけです。

コネを使って何が悪いか、本気で分からなくなってきている

森友や加計学園、またその他にも今の安倍政権のなかで起こっている様々な汚職事件、かつての日本だったら、こんな汚職、一つあっただけで、政権が吹っ飛んでいたでしょう。
しかし今の私達、特の僕らの世代では、こんな事件がいくつあっても何も変わることはありません。なぜなら、「汚職して自分のコネ使って、何が悪いの?」というのが、世代の共通意識だからです。
例えば、僕らの世代が就活しているとき、決まって僕らはこう言います。「コネとか使ってなんとかできないかなぁ」と。
あるいは、会社の仕事で新規案件を取ってくるときも「なんかコネとか使えない?」と、平気で言うわけです。
なんなら、公的機関に相談しにいったときでさえ、こういうこと言われるんですから。
かつての日本だったら、実際にそれが行われなかったとはいいませんが、少なくとも「コネを使って何かを得る」ことは良くないことで、大っぴらに言っていいことではないと分かっていたはずです。少なくともそれは邪道であり、本当に正しいのは、コネとか一切ない環境なんだと。
ところが現代では、もはや「コネを使う」ということが大っぴらに正当な行為であるとまかり通ってしまっている。そういう社会に生きていれば、そりゃあ政治でコネを使った汚職とかが横行しても、「それの何が問題なの?」と、思うしかないでしょう。
コネでもなんでも使って他人を利用して自分の利益を分捕ろうとする、それこそが正しい人間のあり方だと、少なくとも僕らの世代は認識してしまっている。そんな中で、安倍政権とか維新とかは、「うまいことやった人たち」として尊敬を集め、日本第一党みたいな排外主義の連中は「日本人に利益をぶんどってきてくれる」頼れる奴らとして支持を集める。一方で、リベラル勢力は「綺麗事に囚われてなにも得られないダメなやつら」と思われてるんです。

でも今の10代・20代がそうならないという保証は?

まあでも、こういう魂が汚れて善悪の区別もつかなくなった連中が、うちら世代に限定されるなら、それこそ社会からパージするなりして、以降の10代・20代に期待を寄せればいいとは思います。僕は同世代の人間の大部分が大嫌いなので、例え自分が巻き添えになっても、そういう解決策でいいと本気で思ってます。
でも、10代・20代、本当にそんなに信頼がおけますかね?
記事の最初に挙げたツイートでは「10代、20代の若い世代は希望だ。」という言葉があります。ですが、30代の、心が汚れてしまった人間として思うのは「でもそれって結局、自分の力で社会をサバイブしなくてもなんとかなる身だからそう思えてるだけで、一旦この弱肉強食の社会で生き残らなきゃならなくなったら、途端に僕らみたいになってしまうんじゃない?」ということです。
「10代、20代の若い世代は希望だ。」とかいう美辞麗句で褒めそやしても、実際にそういう美しいメンタリティで生きていけなければ、途端に生き汚くなってしまうのが、人間というものではありませんかね?
と考えるのは、僕らの世代がダメだからなのでしょうか。
「他人を利用し、蹴落としてでも自分が生き残れればそれでいい」という汚らしいメンタリティが根付いてしまった僕らの世代として、10代・20代の若い世代には、そういうメンタリティではなく、みんなで助けあうということを美徳としてほしいと、僕は思います。ですが、それは少なくとも、今の社会では不可能に思えてなりません。

*1:これは比喩ではないんですよ。実際、僕らの世代で、同級生に自殺してしまった人や過労死してしまった人がいない人なんて、ほとんどいないんじゃないか?

「〇〇は嫌い」という感情自体はしょうがないものなんじゃないか

先日、なぜかまたオンライン飲み会にご招待いただきました。

で、そこではエロティシズムは虚構に根ざすものなのか現実に根ざすものなのかとか、「あえての露悪主義」があえてを外して全面化してしまったのが現代ではないかとか、そもそも現代において虚構は可能なのかとか(これについては以前noteで記事を書きました)、インターネットで議論を戦わせることの意義と限界点とか、色々な話をしました。

ただ、正直一番覚えてるのは、「ある声優とある声優が反りがあわなくて不仲らしい」という声優ゴシップで、他の人はあんま興味がなさそうにしてたにも関わらず、とても面白いのでずっと話を聞いていました。ああ、ほんと、自分って俗物だなぁ。

もちろん、噂は噂ですから、それが事実かは知りません。おそらく、なんとなく合わないということを、針小棒大に取り上げて、不仲説まで言ってるのかなぁと思うのですが、しかしそれでも、反りが合わない人って声優にも存在するんだな。なるほど、そういうバックグラウンドの違いから反りが合わなくなるんだなという話は、いわゆる文化資本階級意識の話とかにも繋がる話だなと個人的に思ったりして、面白かったです。

で、なんでそんなゴシップを聞いて面白かったという話をしているかといえば、まあ、あれです。某元im@s声優の、いわゆる「Twitter破壊」配信のことです。

なんかSNS上では蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまっているみたいで、もちろん、昔演じていたキャラをコスプレするのって権利的にはどうなのとか、あるいは明言しないまでもある人が役柄と引き換えに性行為を強要したと言うけど、それって本当なのかとか、そういうことは、たしかに議論を呼んでしょうがないと思います。

ただ、嫌だなと思うのが、そういう話まではいかない、例えば昔〇〇という声優と共演してたけど仲が悪かったとか、〇〇という声優は感じが悪かったとか、その程度の話に過剰に反応して、「中の人は夢を壊さないでください」とか言って、その配信をした声優をバッシングしてるような人が、なんかSNS上に多い、ということです。

このバッシングについての、僕の意見は、端的に言えばこうです。

「君等がどういう夢を声優に抱こうと勝手だけど、それは君等が勝手に抱いた夢なんだから、それが否定されたからと言って、声優を批判するのは、おかしくない?」と。

そりゃ仲悪い人だっているよ、声優だってにんげんだもの

もちろん、多くの声優は普通「誰とも仲良しです」という建前を貫きます。公の場で「〇〇は嫌い」なんて公言するリスクを取る声優は、そりゃほとんどいないでしょう。

でも、当たり前ですが、たくさんの、声優なんて特殊な職業を選ぶような人と付き合ってれば、その中で一人や二人、嫌いだったり反りが合わなかったりすることは当然あるはずなんです。僕だって、学校や職場で一緒にいたひとの中には、数人ぐらい「あいつだけは絶対許せない」と嫌っている人間がいますから。誰だってそうでしょう?逆に、なかったらそれはそれで気持ちが悪いです。

そして、今回の場合は、おそらく配信をした方の様々な事情とかも重なって、その「嫌い」という感情を心のうちに秘めておくことができなくなったわけです。

ここで重要なのが、誰かが誰かを嫌いになったり、反りがあわなかったりするとき、必ずしも「どっちかが(あるいは両方が)悪い」ということではないということです。そりゃ、嫌いという感情を抱く当人にとっては、それは完璧に相手が悪いことなのかもしれませんが、第三者からみると、相手に悪意が必ずしもあったわけではなく、ただ双方のコミュニケーションプロトコルが異なるだけだったりするんですね。

例えば僕は舌打ちやため息が本当に苦手で、自分がいるときにそれをされると「あ、自分のこと嫌いなんだな」と思ってしまうのですが、どうやら世の中には何の意味もなくただ癖でため息や舌打ちをする人もいるみたいで、そこに悪意はなかったりするみたいなんです(ということを、頭ではわかっていても実際に舌打ちやため息を聞くとイラッとしてしまうというのも、また厄介なところなんですが)。

逆に僕は人の話を聞くとき、自分がもうその人が話すことを理解できたと思うと、まどろっこしくなって相手の話を遮って自分の返答を話し始めてしまうのですが、これはほとんどの人にとっては「自分の話を真剣に聞いてくれていない」という風に捉えられるみたいなんですね。僕自身は、相手の言葉を真摯に受け止め、早く返答したいと思うからこそ、話を遮ってしまうのですが、インターネットではまさにそういう態度が「マンスプレイニング」として非難されていて、なかなか難しい。

ことほど左様に、人はそれぞれのコミュニケーション・プロトコルが異なるだけで、相手に対して嫌な感じを抱くものなんです。だから、実は個々人が誰それを好き嫌いというのは、実はその人自身が望んで行う好悪によるものよりも、その人の所属している階級や文化の違いに起因するものの方がずっと多いんじゃないかと、僕なんかは思っています。

だから、ある人に嫌いな人がいること、それ自体は当然のことで、別にその人が悪いからじゃないのです。

ところが、多くの人はなぜか嫌いな人がいることを、その人自身が悪いから発生する、いけないことだと捉えていて、嫌いな感情を持つこと自体を否定しようとします。そしてそのような観点からは「嫌いな人・ものを言う」ということは、ただでさえ持ってはいけない感情を、しかも口に出したということで、叩かれて当然ということになるのです。

しかし、ある人が嫌いであるという感情は、たとえどんなに清い心を持っても抑えることができるものではないと、僕は考えます。そしてその観点から言うと、嫌いということを表明することを過剰にバッシングする人は、むしろそれによって、「嫌いな人を嫌いと言ったら叩かれた。嫌いな人が悪いのに!」と、その人の嫌いという感情と正邪の観点を結びつけ、感情をより高ぶらせてしまっているのではないかと、思うのです。

「〇〇は嫌い」という感情、それ自体は別に否定しなくていい。むしろ重要なのは、そこで「〇〇は嫌い」という感情を認める一方で、でも第三者としてはそこでどっちが悪いかとかを安易に断罪しないことです。

「なるほど、この人は〇〇が嫌いなんだな。それはまあしょうがないか。でも、第三者である僕らには、どっちが悪いとかわかんないよな」という態度こそ、今回のような騒動では重要なのではないかと、僕は考えるのです。

「何者かになるため」には、自分自身の神になればいい

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最近、友人から「何者かになりたい」ということを聞き、改めて考え込んでしまった。

 

もちろん、このことに関しては散々ネットやらサブカルチャー(『何者』?「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」?)やらで語られてきたことだから、今更僕が何か新しい知見を出せるとは思えないのだけれど、でもこの問いが、そういう散々語られてきたことに関わらず、未だ解決せず、僕らの前に立ち塞がってきてしまうということもまた、事実なわけで。

 

考えてみると、「何者かになりたい」という願望には、二つの前提条件があるだろう。一つは、「人は『何者』かになれる」という可能性がそこでは想定されていて、にも関わらず本人の意識の中ではと思っているということだ。

 

ここでいう「何者」とは、僕の考えでは、存在することで世界に対し何か影響を及ぼす存在であることだと、言い換えることができると思う。そしてそれはおそらく、宗教的には「宿命」と呼ばれるものだ。神が世界に自分を存在させるのは、意図があるんだ。だからその意図に沿った行為をすれば「何者」かになれる。しかし今の自分が世界に何か影響を及ぼしているようには思えない。だから自分は「何者」かになれてないんだと。

 

つまり、「何者かになりたい」という問題を考えるとき、人はそこで無意識に神のような存在を前提としているのだ。自らを生み出し、そして自らを評価する上位存在を仮定しているからこそ、初めて「何者かになれているか」という問題は発生するのである。

 

だから、そのような神の存在を仮定さえしなければ、「何者かになりたい」という願望も自然と消えるかもしれない。つまり、自分は単なる世界の一部で、世界に影響を与えるような存在には決してなれないし、ならなくなんていい。ただ日々の生活を慎ましく生きていればそれでいいのだと。

 

以前、僕の記事を「イキリオタクの戯れ言」と批判した人がいました

srpglove.hatenablog.com

が、それはまさしくこのような観点からの言葉ということができるでしょう。自分が世界や大衆のような存在から遊離しているなんて思い上がるなと。ネットを眺めればわかるだろ、お前は結局世界・大衆の一部でしか過ぎないのであるから、身の程を弁えろということです。

 

ただ僕は、そのような、ネットを見て自分の凡庸さを思い知るという処方箋で、自分を含め、自意識をこじらせた「何者かになりたい」というサブカルたちがなんとかなるとは思えないんですね。なぜならその処方箋は、結局「人は『何者』かになれる」という可能性を否定できないからです。

 

確かにネットを眺めれば自分みたいな存在所詮量産型のオタクでしかないということはよく分かります。しかし一方でネットはまた、そのような量産型のオタクではない、本当の意味ですごい、「何者」かになってしまっているような人たちがいることも同時に見せつけてくるわけです。容姿端麗で人気声優でありながら、一方で共産趣味やらロリータやらサブカルに造詣が深すぎる人やら、自分で自分のことを美少女化した漫画日記を書いたら、無茶苦茶バズってる人とか、ネットは「何者かになれないお前たち」の巣窟である一方で、完全に「何者」かになってしまった人たちの檜舞台でもあるわけです。

 

だから僕は、ネットはむしろ「何者かになりたい」という欲望や、その欲望を拗らせた結果生まれる「自分はこんな特別な存在なんだ」という思い込みを、それを否定することによって飢餓感を植え付け、むしろ助長しているように思えてならないのです。

 

と言っても、もはや私たちはネットなしで生きていくことはできません。ネットによって囃し立てられる「何者かになりたい」という欲望を、それこそ犯罪とかアンモラルな行動によってではない方法で、いかになだめるか。

 

僕は、まず自分が自分自身に神であるということ。そう思い込んじゃうことが、むしろいいんじゃないかと思うんですね。

 

「何者かになりたい」という欲望が、時に他害や自害の衝動となってしまうのは、その「何者であるか」ということを認めてくれる、神的な存在を自分の外部に求めてるからだと思うんです。つまり、自分が自分自身のためではなく、誰かのために存在しなければならないとすることにより、その責任感に苦しみ、結果として誰かや自分を傷つけてしまうということがあるのではないかと。

 

だから、例えどんなに選民主義的と言われようが、まず自分が自分自身の神になることにより、「自分を存在させている」という一点で、自分は存在している価値がある「何者」であるんだと認めるということが、結果として穏当に社会を生きていく処方箋になるのではないかと、そう、今の僕はかんがえているのです。

 

・・・ということを、↓の曲が職場の有線で流れてるのを偶然聞いて、思ったりしている今日この頃。

ゴッドソング

ゴッドソング

  • 発売日: 2020/04/03
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「〇〇はいいぞ」で埋め尽くされる時代に、それでも批評を書く理由

 小山晃弘(わかり手)という方が、オタクコンテンツの批評についてtwitterでこんな発言をし、物議を醸しています。
オタクが軟弱化して辛めの批評を書かなくなったから、最近のオタクコンテンツはひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品ばっかりになってるんだろうが。定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化をやめろ。辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ。90年代に戻れ。— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
ガルパンはいいぞ」とかも心底キモかったですね。褒めるにしてもせめて自分の言葉で褒めろやと。これがSNS時代ということなのかもしれませんが。 https://t.co/1GERAN423j— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
 はてなブックマークでの反応b.hatena.ne.jpや、twitterで自分がフォローしている人たちの反応を見る限りでは、上記の意見に否定的な立場が割と多いようです。そしてそんな中には、こんな意見もありました。
はてなでよく見かけた若い書き手による「アニメ辛口批評」ってただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章という印象しかないな……https://t.co/Gzn16yzDc2加野瀬未友 (@kanose) 2020年5月6日
 ここで僕は「ギクッ」と思ってしまったんですね。なぜなら自分こそまさに、「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」が苦手で、かつてはてなダイアリーでさんざん、「アニメ辛口批評」を書いてきた人間だったからです。amamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpこれらの記事は、今から見ればそれこそ「ただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」です。上記の小山氏の発言に対し否定的な感想を持った人の多くは、これらの記事についても「こんな素っ頓狂なしょーもない長文書いてないで、素直に『〇〇はいいぞ』とか言ってりゃいいじゃん」と思うでしょう。その点で言えば、今小山氏になされている否定的な意見の多くは、自分にも突き刺さるものです。
 
ただ、一方で僕と小山氏には違う点もあります。それは、小山氏が「オタクコンテンツ」のためにそういう辛口批評が必要だと言ってるのに対し、僕は、まず「僕自身」のために、そういう批評を書いていたということです。それは、例えて言うなら。こういうことです。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである

マハトマ・ガンジー
 
オタクコンテンツは批評によって変わるか?……おそらく、無理
 
小山氏はオタクがきちんとコンテンツに対し辛めの批評をし、そしてそれを作り手が参考にしてより良い内容を目指すというのが本来オタクコンテンツのあるべき姿と考えています。
ですが、端的に言ってそれは無理です。なぜならオタクコンテンツはもはや現代においてはメインカルチャーであり、そしてメインカルチャーというものは単純に、審美的な観点ではなく、商業的観点から作られるものだからです。ぶっちゃけて言うなら、「批評家に褒められるもの」ではなく「より売れるもの」を目標として作られるのです。
そして、「より売れるもの」がひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品であるのなら、いくら批評によってそれを批判しようが、市場原理によってそういう作品が作られ続けるのです。なぜなら、その作品を売ることによって、その作品の制作に関わった多くの人を食わせなければならないからです。
ほとんどの場合、大衆に売れるということと、真に価値のある優れた作品であることは二律背反です。大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。ちょっとでも複雑であったり、二面性のあるメッセージを投げかけるだけですぐ「つまんねー」と投げ出します。そういうのを理解できるセンスのある人というのはごく僅かなのです。
そういうごく僅かのセンスある人達がいくら「この作品は駄目だ!」と叫んでも、大衆にはそういう作品こそが売れるわけで、批評には、コンテンツを変える力なんかまるでないのです。
 
それでも批評をするのは、そういう作品が受ける現実に、自分が変えられないようにするため
 
では、批評にコンテンツを変えることが不可能だとしたら、批評なんてせずに、それこそ「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」に浸るしかないのでしょうか?
僕は、それで満足できるのならそれでいいと思います。「〇〇いいよね」「いい……」とか、「シコれる」とか「メシウマ!」とかみたいな短文で毛づくろい的コミュニケーションをするだけで十分満足できるなら、別にわざわざそこから抜け出す必要なんかまったくないと思います。
ですが、これは僕がかつてそうだったからこそ言えるのですが、そういうコミュニケーションで満足できず、「自分の見た作品が、どういった点から優れているか/劣っているか」ということを考えて、言葉にしたい人というのも、世の中には一定数いるのです。
そういう人は大体の場合、世間の大多数に売れている、メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じています。そしてこう思っています。「なんで世の中の人はこういう作品が好きなのに、自分は好きになれないんだろう」と。そしてその事に対し何故か後ろめたさを感じ、その後ろめたさを何とかするために「いや、自分はこういう理由でこの作品が嫌いなんだ。だからこの作品を自分が嫌いなのは正しいんだ」と、理論武装をするのです。(別に誰にもそんなこと求められてないのに)
それこそが「辛口批評」の正体なのだと僕は思います*1。そして、そういう言葉を紡ぐこと自体は、ある時期には必要なことなのだと思うのです。
 
そして、かつてのオタクコミュニティは、社会から迫害され隔絶した場所であるがゆえに、そういう理論武装のやり方を教えてくれるコミュニティでした。一体どういう教養がそういった辛口批評には使えるのか教えたり、辛口批評であっても本当にシャレにならないぐらい人を怒らせることは避けるような方法論を伝授したりと、そういうオタクコミュニティが、例えば大学のサークルであったりに、存在したのです。
ところがオタクというものがサブカルチャーからメインカルチャーになる中で、そういう批評の技術も失伝してしまったのです。そしてその穴を埋め合わせるように、「〇〇はいいぞ」という定型文のみでやりとりするような、毛づくろい的コミュニケーションが、オタクのコミュニケーションの殆どを占めるようになりました。そして、そこについていけない、僕のような人は、徒手空拳で「辛口批評」を書くしかなくなってしまったのです。
加野瀬氏が言うように、僕を含めたはてなの若い書き手が書いた「アニメ辛口批評」の多くは、「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でした。ですがそれは―もちろん若い書き手の不勉強・不誠実が第一の理由なのでしょうが―このようなオタクコミュニケーションの構造変化も大きな原因なのだと、僕は考えます。
 
ですが、そんな「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でも、僕はそういう文章こそ書いてほしいのです。
例えば、僕は記事の最初にいくつか過去に書いたアニメ批評を載せました。これらの記事は、たしかに素っ頓狂かもしれません。ですが、今読んでもそこには、自分のアイデンティティーをいかに形成しようか、その苦闘の痕跡が見えるのです*2
例えばとらドラ批評の記事のこの文。

そして、そのようなことは、この第五章においても可能です。とらドラという物語は、構造として、主人公達に「オトナになる」ことを強要します。それは、個々人の精神のよりメタレベルにある、物語の枠組みがそうさせているわけですが、しかしそれはあまりにも時代錯誤的すぎるでしょう。なるほど確かに「自己肯定感」や「親からの自立」は必要でしょう。ですが、それがとらドラという物語がしたように「本当の自分」や「結果主義」や「純愛」といった単一的なものに寄り掛かっていたのでは、結局作品内の「現実」に依存し、それが存在しなくなればまた不安感に陥る、そういう脆弱なものでしかありません。重要なのは「何が大きい者に寄り掛かる」ことではなく、「複数の支えを確保しておく」ことなのです。

 この批評が的を得ているかどうかは、人によって意見が異なるでしょう。というか、多くの人は「フィクションが都合いいからって何文句言ってんだ。当たり前じゃねぇか」と馬鹿にするでしょう。ですが、僕はこの文章を再読すると、当時の自分がいかに「オトナになる」ということを真剣に考え、考えるているからこそそこでとらドラが出した答えに納得行かなかったかが伝わってきて、「当時の自分!一生懸命考えてたんだね!」と拍手したくなるのです。

多くの人は、そんなこと一生懸命考えなくても、自然に大人になり、メインカルチャーを楽しみ、毛づくろい的コミュニケーションに適応できるのでしょう。でも世の中には、いちいち「それって一体なんなんだ」と悩み、世間の決まりごとに「そんなのおかしいじゃないか」といちいち憤ってしまう、そういう人間がいるのです。

そういう人が、自分を抑圧せずに、解放できる場、それがぼくは批評だと思うのです。そういう場は、毛づくろい的コミュニケーションが社会の全面に広がる今こそ、社会からの避難場所(アジール)として必要なのでは、ないでしょうか。

 

批評を学び、そしてそこからメインカルチャーと和解する道筋こそが、作られなければならない

 

ただそこで、そのような批評がずっと徒手空拳で、素っ頓狂なままでいいとも思わないんですね。なぜなら、これも僕が体験したからこそ言えることなのですが、きちんと技を伝授されないまま、いたずらにネットで野試合ばっかりを繰り返していると、より過激で、人を傷つけるばっかりの方向に走ってしまうからです。本来自分を解放するためにあったはずの批評が、やがて「ネットで受けるためには、たとえ叩かれて傷ついても、こういう過激なことを書かなきゃならない」というように、自分を抑圧するものとなってしまうのです。

「自分の嫌いなものをはっきり嫌いという」ことと「嫌いなものを(必要以上に)攻撃する」こと、この2つの距離は存外近いもので、見極めるには、やはりどうしても技術が必要なのです。

例えば、かつてのオタクには「大衆には褒めてるように見えるけど、実際読む人が読めば貶していることがわかる批評」というものを書く技術がありました。こういう技術は、過激さが受けるネット上では廃れていきますが、しかしこういう技術があれば避けられた炎上というのも、多々あったはずなのです。

また、さらに言えば、かつてのオタクには、「メインカルチャーなんてだせーよな」的な自意識を保持しながら、しかしうまく「でもこういう穿った見方すればメインカルチャーも楽しめるじゃん」という風にうまく軟着陸させる技術もありました。「素人は単純にしかこの作品を読み解けないんだろうけど、玄人はこういう見方するんだぜ」的に、自意識を保持しながらメインカルチャー消費に軟着陸させるのです。

しかし現在のすべてがオープンなネット環境では、そういう穿った見方をすることは、即座に「素直に作品を楽しんでいる人」との望まざる対立を招きます。それこそ鉄血のオルフェンズのオルガネタについて昨日twitterで起きた対立なんかは、まさにその類の対立でした。

そのようなオタク・サブカル的消費の作法・環境を、いかに現代のコミュニケーション環境に合わせて受け継ぐか。かつてのような、迫害されたコミュニティ内での徒弟制により、それを受け継ぐことが不可能になった中で、方策を考えることこともまた、必要であると、僕は考えるのです。

 

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*1:まあ、職業批評家の方々は大いに異論があるんでしょうが、ここではそれに至る前の話をしています

*2:びっくりするほど恥ずかしい自画自賛だけど、実際そう思うから仕方ない

2020年4月14日、憂鬱を抱きしめて

 

amamako.hateblo.jp前回の記事で、仕事を休むかどうか迷っていた僕ですが、結局収束するまで休むことにしました。家で「あつまれ どうぶつの森」をやったり、見たいけど暇がなくて見れなかったドラマやドキュメンタリーなんかを見て過ごしています。

一方世の中ではとうとう緊急事態宣言が出たそうで、でも結局休業補償がきちんとなされるわけでもなくただ通勤自粛を要請しているものだから、多くの人が出勤してしまっているみたいです。

僕は、それは明確に間違いだと思うし、一律の休業補償をすべきだと考えます。またその一方で、あの首相がなぜかリーダーである政府なんて、当てにならないことはわかってるのだから、人々もまず休んで、それからあの○○を引きずり下ろすなりしてきちんと政府にケツを吹かせるぐらいの思いを持たなきゃ駄目なんじゃないかと、考えたりもします。

ただ、そういう考えは個々人がどういう戦略を最適と考えるか、また、どういう政治信条を支持しているかによって変わることなので、あんまとやかくは言いません。

それより僕が心配なのが、こういう世の中で、不安であったり、憂鬱さをみんな持っているはずなのに、それをどうも隠してしまっている気がすることです。

不安や憂鬱は、表に出さなきゃ爆発する

例えば、今エンターテイメント業界の多くの人はとんでもない苦境にいます。ですがそういう苦境に対して、「政府は補償しろ」みたいな怒りや、「いや、国に何でも頼るのは良くない」みたいな自己責任論、あるいは「この危機をなんとか乗り越えましょう!乗り越えられます」みたいなポジティブなことを多くの人は言うけど、「もうだめだ、世界はおしまいだ」とかみたいなネガティブなことは、ほとんど聞かない気がするのです。普段はさんざんネガティブなことばっかり言っているアーティストでさえ、こんなときには―もちろんこんなときだからこそなのでしょうが―あんまりネガティブなことを口にしてない感があります。

僕はこのCOVID-19(新型コロナウイルス)が起きるはるか前、学生自体からメンタルのバランスがあんまり良くない人間でした。でも、だからこそ、「不安や憂鬱さを抱えること」に関しては、ちょっと普通の人より経験が多いのです。その経験から言うと、これは明らかに、メンタル的にはむしろ危険です。

もちろん、メンタルの問題っていうのは、通常の身体的問題より遥かに個人差が大きいものですから、一概に「これをすれば良くなる」ということは言えません。ていうか、そんな方法があるなら僕自身が知りたいわけで。

でも、「これをすると悪くする」というのははっきりしています。それは、「自分が不安や憂鬱さを抱えていることを否認すること」です。「自分はこんな状態へっちゃらだし!」とか、あるいは「こんな状況だからこそ、明るく前向きに!」なんてことをやって、内なる憂鬱さを押し殺していると、それはどんどん裏で肥大化していくんです。

もちろん、そうやってポジティブであることが、社会的に求められているのはわかります。この、常に他人や過去の自分を追い越し成長することが求められる資本主義社会においては、弱音を吐いたり「もうだめ」ということを認めたりすれば、即座に社会から淘汰され、「生きるに値しない命」とみなされるわけです。例え虚勢でも、「自分に成長の意思があり、経済成長に貢献できる人間です!」と言わなければ、信用を失ってしまう……そんな恐怖は、このパンデミックによって経済が確実に悪くなりそうな今、むしろ強くなっているのでしょう。

でも、そんな状況だからこそ、僕はあえて言いたいのです。みんなが一斉にこの「虚勢を張り合う」ゲームから降りなきゃならないのではないかと。

ひとまずみんなで、不安や憂鬱さを認めてみませんか?そして、一時的でいいから、競争と成長をやめて、立ち止まってみませんかと。

立ち止まった結果「やっぱりこういう異常な状態ならともかく、普通のときは競争や成長が必須だよね」と思うなら、それはそれでいいです。COVID-19が収束した後に、再び経済成長を目指し続ける社会を選択すればいい。

でも、今はとりあえず、立ち止まって、みんな不安や憂鬱さを認め、それを抱きしめたほうがいいんじゃないかと、僕は思うのです。

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2020年4月4日、この国で生きる私が抱える不安と迷いについて

新型コロナウイルス(COVID-19)にどう対処するか、今抱えている不安と悩みについて、記すことにする。理由の一つは、今人々が具体的にどういうことに不安を抱え悩んでいるか、人々が表明しておくことは重要だと感じるため。そしてもう一つは、この騒動を後世振り返るときに、市井の人々がどういうことを考えていたか記録があった方が良いと思うから。

この文章を書いている私について

30代の男性、親兄弟と同居している。職業は、とりあえず生活必需品ではないエンターテイメント関係の商品を販売しているアルバイト。住んでいるところは、大都市圏ではないが、大都市圏から鉄道で一時間程度の距離。学歴は一応大学まで行ったが、医学的な専門知識はないに等しい。うつ傾向あり。

不安について

東京都の感染者が百人を超え、テレビ・新聞では欧米のロックダウンの様子を伝え、そのような光景が日本で起きることを防ぐには外出を規制することが重要だと繰り返し言われている。

しかしそんな中でも、別に職場は休みになったりせず、毎日勤めに行く。そしてそこでは、普通に換気の悪い空間で、長時間働き、テレビで言われているような社会的距離も取らずに会話をしたりしているわけです。しかも、職場には年配者や子どもも多くやってくるし、その中にはマスクをしていない人も多くいる。そもそも、職場がマスクを用意しないため、同僚にもマスクをしていない人が多くいる(自分はマスクを持参している)。そんな中で、自分が感染したり、さらに感染したウイルスを周囲に広めてしまうのではないかという不安が日々強くなっているのです。

悩みについて

「不要不急の外出は控えるように」と散々言われている中で、自分は自主的に休業するべきなのか否か。

明らかに自分の仕事は「その仕事を誰かやらなければ人が死ぬ」という類の仕事ではない。「不要不急」という言葉の意味が、人の命に関わるという類のものであるのならば、今の自分の仕事は明らかに不要不急のものだ。

さらに言えば、自分の職場では当然あってしかるべき、マスクの配布や社会的距離を保つ等の対策が取られていない。こういう職場で働き続け、もし自分や他の同僚が感染し、それを地域に広めるクラスターになってしまったら、それは犯罪的行為であるとすら言えると思う。

しかしその一方で、特に職場では休業などの対策は取られないし、さらに言えば客の入りも、むしろいつもより多かったりする。職場・家族含めて、周囲の空気感は、明らかに「そんな大騒ぎするようなことではない」というものだ。そんな中で、「もしかしたら自分の方が心配しすぎなのではないか」という思いもある。

さらに言えば、自主的に休業したその後のことも悩みである。無収入となった場合、生活費はどうするのか(30万円程度の給付があるとされるが、これが自分がもらえるものなのか、そもそも本当に給付がされるかも疑っている)。さらに言えば、このコロナ渦が一段落した後は、おそらく不況がやってくるだろう(であると、少なくとも僕は予想している)。そのことを考えると、今勤め続けないと今後かなり長い間職を失ってしまう恐れがあるのではないかという恐れがあるのだ。

どうすればこの悩みが解決するか

例えば、国や地方自治体が明確に「命に関わる職業で勤めているわけではない人は、テレワークができない限り休みなさい」ということや、あるいは「大都市圏に住んでない限りは、仕事を休む必要はない」ということを言ってくれるなら、かなり決断は楽になると思う。

もちろん、それに補償があったほうがもちろん良いは良いのだが、少なくとも僕が一番悩んでしまうのが、「不要不急」、「三密を避ける」というような言葉が漠然としすぎていて、そうであるがゆえにおそらく企業のような資本が「自分のところの仕事は不要不急ではない」「我が社の労働環境は三密ではない」というように言い逃れが出来てしまう余地があることなのだ。もしこれが真っ向から「国・地方自治体v.s.企業などの資本」ということになれば、僕は反資本主義者なので明確に反資本の立場に立てるのだが、一方で「外出は控えろ」と言われ、他方で「職場にはきちんと出てこい」ということを言われるダブルバインド的状況だと、もうただ日々メンタルがすり減っていくという感じなのだ。

正直、ここ数日はかなりメンタルがまいってしまっている。例えば東日本大震災と、それに伴う福島第一原発の事故の時は、国や主流の科学者が示すメッセージはーそれが本当に正しかったかはひとまず置いておくとしてもーここまで曖昧ではなかったと思うのだが。だから僕もその時は「とりあえず国や主流の科学者の言うことに従うなら、自分が住んでいるところは避難する必要がないな」と思えた(もちろん、そう思わない自由・権利も保証されるべきではあると思う。今の話は、あくまで「僕がどう動いたか」という話だ)。

ところが今の状況では、国は言うことが曖昧だし、科学者も本当に意見が分かれていて、どの人がメインストリームなのか判断が難しい。ほんと一体、どうすればいいんだろう……

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