あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

オタクとフェミニズム、なんでこんなに仲が悪くなっちゃったの?

なんかまた最近、女の子を描いた絵が過度に性的とかそういうはなしで、Twitterの方で炎上があった模様です。
www.asahi.com
www.itmedia.co.jp
こういう話題については、このブログでも何度か取り上げてきました。
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
なので、こういう問題に対しての僕の原則的立場とかは、上記の記事を読んでいただければと思います。

ただ、こういう炎上をいっぱい見てきて、僕には一つ思うことがあるのです。

それは、「オタクとフェミニズム、なんでこんなに仲が悪くなっちゃったの?」ということです。

かつて、オタクとフェミニズムが結構仲がいい時代があった……少なくとも、僕の認識では

こういうことを言うと、多くの人はきっとこう思うでしょう。「オタクとフェミニズムってもともと仲悪かったんじゃないの?」と。

確かに、今インターネットで見るのは、オタク絵が「性的搾取」としてフェミニズムにたたかれ、それに対しオタク側が「表現規制」として反対する、そんな光景ばっかりですから、もはやオタクとフェミニズムを相容れない不倶戴天の敵なのは当然に見えるのかもしれません。

しかし、ゼロ年代に青年期を経験し、そしてその間ずっとネット上でオタク文化とかフェミニズムとかについて書いてきた身からすると、むしろ「オタクとフェミニズムって、もちろん対立するところはあれど、基本は結構仲良しだったじゃん」と思わずにいられないのです。

ゼロ年代前半ーオタク文化について書かれた本を読もうとすれば、フェミニズムを避けることは不可能だった

僕がアニメやマンガ・ゲームとかについて人並み以上に関心を持ち、ブログでそういったものへの感想を書いたりし始めたのは中学生ぐらいの時でした。僕は1987年生まれなので、中学生のころは90年代終わりからゼロ年代初頭です。で、その頃にオタク文化について何か物を書こうとしたら、それこそ東浩紀

とか大塚英志
定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

とか、あるいは斉藤環
戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 文庫
氏とか藤本由香里とかの本が先行文献として欠かせないものでした。

で、これらの論者の本を読めば分かるんですが、東浩紀は置いておくとしても、後者の三者の本とか、もう明らかにフェミニズム、というか上野千鶴子氏の影響が大きいわけです(藤本氏なんかもろ上野氏のゼミ生だしね)。また、ちょっと時代を遡ってエヴァ評論とかの本が出てた時には、小谷真理氏も『聖母エヴァンゲリオン

とかいうフェミニズム批評の視点からのエヴァ評論の本を書いていたりしていたわけです。
ですから、こういう先行文献を読んでネットでそういう本の真似事のような批評を書いていた僕のような人間にとっても、同じように、「家父長制」とかのフェミニズム教養は、とりあえず最低限押さえておかなきゃならないものだったわけです。

で、これも僕の印象論になってしまうのですが、この当時のオタク文化に対するフェミニズム批評というのは、決してオタク文化に対し、肯定的とまではいかなくても、少なくとも頭ごなしに否定してくるものではなかったと思うのです。もちろん、オタク文化の中に男性から女性への性的眼差しがあるということは何度も強調されていましたが、しかしその一方で、そういう表現に対し「対抗的コード」で読解を行うことにより、時に既存の家父長制に対し疑義を呈するような表現として読み解くこともできる、そういった、オタク文化の可能性を認める批評という物もあったわけです。
「対抗的コード」とは、スチュアート・ホールというイギリスのサブカルチャー研究者が提示した考え方です。
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/1A/e_encoding_decoding.html

 例えば、ニュースの中で、送り手は社会的出来事の「支配的」または「優先的」な読み取り、解釈を伝えようとする。送り手の「支配的」または「優先的」な解釈からどれくらい距離を置くかによって、読者・視聴者のデコーディングは3種類に分類することができる。ホールは、送り手の解釈に完全に重なる形で読解を行う立場を「支配的コード」、送り手の解釈を部分的に受け入れながらも別の見方も参照しようとする立場を「交渉的コード」、送り手の解釈に完全に反対の立場で読解を行う立場を「対抗的コード」と呼ぶ」(藤田[2002:121])
□「商品の価値が生産と消費のそれぞれの時点で等価ではないように、送り手によって「優先的に」エンコード(意味付与)されたメディア・メッセージも、オーディエンスによってその意味どおりに受け取られるとは限らず、それとは真っ向対立する「対抗的」ディコード(読解)や、また読解者の状況によって「優先的」意味と折衝し続け、意味を固定化することのない「折衝的」ディコードも想定される。

まあ、簡単に言うなら「作者が意図しない、むしろそれとは反対の解釈の仕方」というものが「対抗的コード」であるわけです。つまり、作り手がいくら家父長的・女性差別的な意図を込めて作品を作り出したとしても、受け手のオタク側がそれを「対抗的コード」で読み解くことによりそれとは反対の意味を作品に見いだすことができるというわけです。
例えば、もろマッチョイズム的な作品が作者によって描かれても、それを「BL」として読んで二次創作してしまう、ということがあり得るように。そして二次創作を頻繁に行うオタクは、まさしくそういう「対抗的コード」の担い手となり、既存の家父長制秩序の攪乱者となりうるのではないか。そんな議論が、フェミニズムオタク文化の境界線上にはあったのです。

「萌え」と「エロ」は違うものであった……建前上はね

そしてゼロ年代が進むにつれ、オタク文化が大衆化するにつれて、オタク文化に対する注目もどんどん高まります。その時代を代表する言葉として挙げられるのが、2005年に流行語大賞にもノミネートされた「萌え」です。
「萌え」という言葉、もはや懐かしさすら感じる言葉ですが、当時はまさしく「萌え」を分かるか否かがオタクであるか否かを見分けるリトマス紙のような役割でした。

そして、これは重要なことなんですが、当時の「萌え」という言葉は、主に女性キャラクターに向けられる言葉でありつつ、「性的欲望を向けるようなものではない」ものであると、少なくとも建前上はされていたということです。簡単に言ってしまえば、「『萌え』と『エロ』は違う」というのが、当時の大多数のオタクの言い分でした。むしろ「萌え」は、女性が発する「かわいい」に近いというのが、当時のオタクの「萌え」という言葉に対する(表向きの)見解だったのです。「萌え」とは今までのような男性によって女性を性的に消費する性的搾取ではない、中性的な言葉であったのです。少なくとも、当時はそう信じられていました。

そしてそういう「萌え」至上主義においては、本来は性的消費のために存在していたはずのエロゲーですら、「エロさに甘えるなんて安直。エロがなくても泣ける『泣きゲー』こそが至高!」なんて価値観すら生まれていました。葉鍵板とか鍵っ子とかエロゲー批評空間とか、そういう言葉を出せば、「うっ、頭が……」となる読者も、ある程度は居るのではないでしょうか?

そして、当時僕は大学生で、しかも社会学なんてものを専攻していたわけですが、当時はまさしく卒論の半分ぐらいは「オタク」とか「サブカルチャー」とか、あるいはそのものずばり「萌え」を題材にしていたものだったわけです。そして、そういう卒論を書くのは、僕の記憶では、男女半々ぐらいでしたし、内容も、まあまあフェミニズムを下敷きにしながら、先ほど述べたような「対抗的コード」による読みの可能性をオタクに見いだすとか、まあそんな感じのものでした。

(なお、ここで付言すると、当時の僕は、むしろそういう「『萌え』と『エロ』は違う」という言葉には嘘くささを感じていて、結局「萌えって『エロ』の言い換えであり、性的消費である後ろめたさを隠してるだけなんじゃないの?」と思っており、そういう観点から鍵っ子に突っかかる文章を書いていたりしました。まあ、これも今となっては黒歴史ですが……)

10年代……「萌え」から「ブヒる」、そして「シコれる」へ

ところが、「萌え」という言葉は10年代になるとだんだん古い言葉になってきます。その代わりに現れてきたのが、「ブヒる」という言葉でした。
「ブヒる」とは、まさしく豚の鳴き声を真似た言葉です。アニメとかで好みの女性キャラクターが出てくるとき、豚が「ブヒィィィ」と鳴くように興奮する、その様子を「ブヒる」という風に読んでいました。
なぜこういう言葉が「萌え」の代わりに流行ったか?その背景には、オタク文化がメインストリームに取り込まれる中で、きれいに脱臭された概念になっていくことに対する、男性オタクの抵抗という意味がありました。俺たちはそんな良識ある大人たちに喜ばれるような綺麗なもんじゃねーぞ、小さい女の子に性的に興奮したりするもんねと、ある種の露悪趣味的な側面がそこにはあったのです。

そして、「ブヒる」はさらに直接的に、「シコれる」へと変化していきます。「シコれる」とはそのまま単純に、自慰行為に使えるような性的興奮をそのキャラクターに覚えるという意味で、そこではむしろ「エロい」より直接的に、「自分は性的にこのキャラクターを消費してますよ」ということが示されるわけです。

(そのような言葉の変化と同じように、オタク文化で好まれる表現もより扇情的になっていったのではないかと、僕は印象を持っていますが、それは僕の印象論にすぎないですが、少なくとも、そういう表現を許容する雰囲気が、ゼロ年代より10年代のほうがある気がします)。

このようなオタクの変化の一方で、フェミニズムとか人文系学問とかの雰囲気も10年代は大きく変化しました。90年代からゼロ年代前半は、「政治に関わるなんてダサいよねー」みたいな雰囲気がまだ残っていて、その代わりに文化批評とかをやるのがナウい態度だったのが、保守派の台頭によるフェミニズムへのバックラッシュ

やら、あるいは東日本大震災やらを経て、「文化批評なんて結局お遊戯でしかない。知識人なら政治に関わらないと」みたいな雰囲気になっていったわけです。

もちろん、政治に関わること自体はいいことです。むしろ僕は、90年代からゼロ年代の「政治に関わるなんてダサいよねー」みたいな雰囲気が嫌で、同時代のオタクブロガーの中でも比較的政治的意見も多く発信していました。ただここで問題なのは、「政治について語ること」は、よほど注意しないと「政治のやり方で語ること」になってしまうということです。「政治のやり方で語ること」とはつまり、世界を味方と敵に分け、味方をエンパワーメントし、敵を弱体化するために言論を発するというものです。もし最初から真剣に政治一本で研究してきた人間なら、こういう罠を的確に見分けるのでしょうが、残念ながら、僕を含めて多くの「文化について語りながら、政治に手を出してきた人間」は、この罠に見事にはまり、まさしく「にわか政治家」と化していったのです。

現在ーすべてが「政治」に取り込まれる時代

そして、そのようにオタクが性的消費を隠そうともしなくなっていた中で、フェミニズムは再びオタクと出会いました、今度は「政治問題」として。
ここでやっかいなのが、いったん「政治問題」となってしまうと、関わるすべての人が「政治のやり方」でコミュニケーションを取るしかなくなってしまうということです。相手が自陣営の強化と敵陣営の弱体化を目的として行動するなら、敵として名指しされた側もそのやり方で対抗しなければ、一方的に蹂躙されてしまうだけ。だからいったん「政治問題」として自分の身の周りの物事が取り上げられると、「政治的コミュニケーション」は際限なく拡大していき、他のコミュニケーションのやり方は駆逐されてしまうのです。
そしてやがて、すべてが「政治的問題」となり、人々のコミュニケーションも「政治的コミュニケーション」に塗りつぶされてしまう。今、Twitterで起きているのは、まさしくそういう状況なのです。
その中でフェミニズムもオタクも「にわか政治家」となり、際限ない闘争が繰り広げられる。その中で時にどっちかが負け、そしてどっちかが勝つことはあるでしょう。しかし結局それは局地戦の一局面に過ぎず、結局戦争は続くのです。

「個人的なことは政治的なこと」と言うけれど、本当は「個人的」と「政治的」の間こそが必要なんじゃ?

フェミニズムのスローガンの一つに「個人的なことは政治的なこと」というものがあります。夫婦の間で妻が夫の所有物みたいに扱われるとか、あるいはセクハラとかいった個人的な物は、実は社会の構造によって生まれた政治的なものであるという意味です。こういう見方をすることによって、たしかにフェミニズム女性差別の解消に大きく貢献してきました。
しかし今の時代は、むしろそうやって、世界のすべてを「政治的」の取り扱ってしまうことこそが、世の中に分断を生んでいるように思えてなりません。もちろん、その分断は今まで不当に「ないものとされてきた」ことが噴出しているだけなのでしょう。しかしだとしても、分断を促すだけで世の中は良くなるのでしょうか?常にそれぞれの属するアイデンティティ同士で政治的対立をしている状況が、本当に幸せなんでしょうか?

僕は、むしろ「個人的」と「政治的」の間に、「個人の問題じゃない、だけど、政治の問題でもない」領域があるということ。そこでは、政治的コミュニケーションとは違うコミュニケーションのやりかたをすべきだということこそが、今分断を乗り越えるために必要に思えてならないのです。
これは、オタクとフェミニズムの問題に限りません。例えば最近、Vチューバーが両岸問題を巡って炎上に巻き込まれることもありましたが、ここでも「政治的コミュニケーション」しかコミュニケーションの回路が生まれなかったことが、その炎上を引き起こす大きな要因になったように思えてなりません。
政治的主張」に対し「政治的主張」でやり返すことはとても簡単です。また、それをやらなきゃ自身の存在が脅かされるようにも思うでしょう。でも、そこで「政治」に敢えて乗らない姿勢が、実は今の時代最もカッコいいんじゃないかと、最近の僕は、思ったりします。

日本の経済に関する論争を「緊縮v.s.拡大/自由市場v.s.社会福祉」の観点からまとめてみる

どうも、マクロ経済学、大学時代に授業を受けようとしたんですけど、教科書として指定された

をパラパラっとめくって、数式とかがズラズラ出てくるのにうんざりし、履修をあきらめたあままこです。

前書き―なんで経済オンチの自分がこんな記事を書くのか愚痴る

さて、そんな僕ですが、まあ一応経済には関心があって、色々記事も書いてきた
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
わけですが、そもそも今日本の経済ってどんな状況なのか、どんな前提の元、どんな政策を取ればどんな効果がでるのか、全然わからずに経済について考えるのは流石に無理があるわけです。
というわけで、色々日本の経済に関する本を読んでみたわけですが……これがほんと論者によって見解が全然異なり、しかもそれぞれの論者が「意見の対立するあいつらの言うことは間違っている!私の言うことこそが正しい」と主張するもんで、もう初心者にはわけが分からないわけです。
ただ、訳がわからないなりに、色々本を読んでみると、それぞれの論者がどんな部分で違う見解・思想を持っているのか、意見が近い論者・全く異なる論者という、それぞれの論者の「立ち位置」というのはなんとなく見えてきました。そして、そういうそれぞれの論者の見取り図を手にそれぞれの議論を見てみると、より議論の内容が理解しやすくなるわけです。
ところが、インターネットで検索してみてもそういう個々の論者や、その論者が採用している思想の立ち位置をマッピングしてくれる記事っていうのがなかなかないわけです。
じゃあ、おそらくそういう作業には最も不適任だと思うけど、自分がまとめるしかないか……この記事は、そんな記事です。いやホント、本当ならこういう記事はもっと経済学とかにきちんと詳しい人が書くべきだと思うんですけど。

日本の経済論争ポジショニングマップ―「緊縮v.s.拡大/自由市場v.s.社会福祉」の観点から

というわけで、早速最初に、ポジショニングマップを載せます。
www.positioning-map.com
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どうやら日本の経済をめぐる論争は、主に増税国債発行抑制による緊縮財政・財政再建を今必要と考えるべきか、減税や国債発行が今必要と考えるべきか」という論点と「政府が介入しない自由市場こそが重要か、政府が深く介入し社会保障を整えることが重要か」という2軸によって整理できそうなんです。
そして、このような2つの軸で整理すると、次のような6派に主に収斂されます。

構造改革

ここに属する論者としては土居丈朗氏がいます。

この派の考え方によると、日本の国家財政は破綻が近い状態にあり、もし破綻すれば国民の経済に多大な影響が出る。また国債が多いことにより、金融機関が民間に投資せず日本経済に負の影響を及ぼしている。よって、まずは増税と支出削減によって国家財政の収支を均衡にしなければならないというわけです。そして支出削減のために、政府をより小さくし、公共事業・福祉の削減も求めます
この立場からアベノミクスを見ると「消費税を増税したのは良いが、国債による支出を増やすのはよくない」と、概ね否定的評価になります。
他派に対する評価は以下のとおりです。

日本の国家財政は例え増税しても福祉を増やす余裕はない。また、過度な福祉はむしろ非効率なため経済に悪影響をもたらす

  • 対リフレ派・主流派経済学

国家財政の破綻の可能性や、国債発行の経済への悪影響を甘く見すぎ

  • 対京都学派・反緊縮左派

国家財政の破綻の可能性や、国債発行の経済への悪影響を甘く見すぎ。公共事業や社会福祉を増やすのは非効率

新しい社会福祉

ここに属する論者としては明石順平・井手英策氏が居ます。

いまこそ税と社会保障の話をしよう!

いまこそ税と社会保障の話をしよう!

この派の考え方によると、日本経済は人口減少と総需要減少によりもはや成長は望めず、国家財政もどんどん悪化していく過程で、福祉もどんどん削減されていくとしています。そして、それに対する処方箋として、消費税を含む増税により、財政破綻の危険を避けながら、需要ではなく必要に応じた社会福祉を国民に提供できるようにするとしています。
この立場からアベノミクスを見ると「日本経済全体の縮小を金融政策でごまかすことによって、ニセの経済成長を作り出している。」と、否定的評価になります。
他派に対する評価は以下のとおりです。

増税を行うならば、それによって福祉を向上させるという大義名分がなければ国民は納得しないし、福祉を充実させることこそ経済を良くするには重要だ

  • 対リフレ派・主流派経済学

現在の低成長は人口減少によるものであり、小手先の金融政策でなんとかなるものではない

  • 対京都学派・反緊縮左派

現在の低成長は人口減少によるものであり、財政政策はそんなに効果はない。国債の大量発行はむしろ国家財政をより逼迫させるし、もし国が財政破綻すればそれこそ福祉を与える余裕なんてなくなる

リフレ派

ここに属する論者としては高橋洋一氏が居ます。

明解 経済理論入門

明解 経済理論入門

  • 作者:高橋 洋一
  • 発売日: 2020/04/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
この派の考え方によると、日本経済は増税と金融政策の失敗(金融引締)により低成長に陥っているのであり、増税をやめインフレターゲットを設けた金融政策(金融緩和・ゼロ金利政策)を行うことこそが経済を回復させ、結果として国民を豊かにすると考えます。消費税増税はやるべきではないと考えます。
この立場からアベノミクスを見ると「消費税増税はすべきではなかったが、金融政策は正解である」と肯定的評価になります。
他派に対する評価は以下のとおりです。

改革は必要だが、増税は経済に悪影響を与え、結果として税収減につながる

不正受給など現在の社会福祉は無駄が多く削減の余地はまだある

  • 対主流派経済学

大体同意するが、再配分は国の問題ではない

  • 対京都学派・反緊縮左派

公共事業や社会福祉といった国による経済の介入は費用対効果が認められるのなら行うべき

主流派経済学

ここに属する論者としては飯田泰之氏が居ます。

この派の考えは、リフレ派の政策に加え、経済成長だけでは国民は豊かになれず再配分も必要であると考え、再配分のためにある程度の公共事業や社会福祉などは必要と考えます。しかしその一方で、過度に国家が公共事業や福祉を行うことは非効率であるとし、成長と再配分のバランスが重要だとします。国債については、現状は国債はそれほど心配する必要はないが、反緊縮左派のようにいくら国債が増えても大丈夫という立場ではなく、国債が増えすぎることには対処しなくてはならない、ただしそのタイミングは、経済がインフレによって成長しているときでなくてはならないとしています。
この立場からアベノミクスを見ると「金融政策は正解であるが、消費税増税と再配分もすべきである」と、賛否両論の立場になります。
他派に対する評価は以下のとおりです。

増税は経済に悪影響を与え、結果として税収減につながる。また、過度に公共事業や社会福祉を削減しては再配分機能を果たせなくなる

増税は経済に悪影響を与え、結果として国民を困窮化させる。人口減少は必ずしも経済に悪影響を与えない

  • 対リフレ派

大体同意するが、再配分も国の役目だ

  • 対京都学派・反緊縮左派

公共事業や社会福祉といった国による経済の介入は成長戦略としての効果はない。国債も、増やしすぎることは経済に悪影響を及ぼす

京都学派

ここに属する論者としては藤井聡・中野剛志氏が居ます。

この派の考え方によると、日本経済は増税と公共事業の抑制により低成長に陥ってるとし、消費税を減らし国債を発行して得たお金で公共事業をすることこそが、日本経済を再び成長させ国民を豊かにするとなります。国債については、今はどんどん発行すべきだが、将来的には好景気下で均衡するようにしなければならないとし、そのための方策として、老人の尊厳死など、社会保障の抑制を主張しています。
この立場からアベノミクスは「公共事業による国土強靭化はいいが、消費税増税ですべてが台無しになる」と否定的に評価されます。
他派に対する評価は以下のとおりです。

増税は経済に悪影響を与え、結果として税収減につながる。また、公共事業の削減こそ経済を衰退させている

増税は経済に悪影響を与え、結果として国民を困窮化させる。人口減少は必ずしも経済に悪影響を与えない。無駄な社会福祉は減らすべきだ

  • 対リフレ派・主流派経済学

公共事業の削減こそ経済を衰退させている

  • 対反緊縮左派

社会福祉にはストック効果がなく、より経済成長のためになる公共事業を優先すべき。

反緊縮左派

ここに属する論者としては松尾匡北田暁大氏が居ます。

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

  • 作者:北田 暁大
  • 発売日: 2018/06/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
rosemark.jp
この派の考え方によると、まず経済成長には国債発行によって国が市場に貨幣を供給することが重要なため、金融緩和による金利安で安く国債を発行し社会保障でお金を使うことによって、経済を成長させることができるとしています。この考え方によると、消費税は経済成長のためにならず、また逆進性により再配分の機能もないため、少なくしたほうがいいということになりますが、一方で法人税などは再配分のために増税すべきとなります。公共事業は、利益誘導や環境破壊の原因となるとし、社会福祉より優先順位は低いです。
この立場からアベノミクスは「公共事業によって景気は回復させたのは良いが、消費税増税社会保障抑制は絶対にやっちゃ駄目」と評価されます。
他派に対する評価は以下のとおりです。

増税と財政政策の抑制は経済に悪影響を与え、結果として税収減につながる。

増税は経済に悪影響を与え、結果として国民を困窮化させる。人口減少は必ずしも経済に悪影響を与えない。社会福祉をする財源は増税ではなく国債発行によって得るべき

  • 対リフレ派・主流派経済学

金融緩和も必要だが国債発行も重要だ。社会福祉を軽視すべきではない

  • 対京都学派

公共事業は利益誘導や環境破壊に繋がりやすく、より国民の幸福に寄与する社会福祉にお金を使うべき
次の節では、日本経済に対するよくある疑問への各派の答えを比較することで、それぞれの立場をより深く見ていきます。

FAQから見る各派の立場

Q1. 「現在の低成長・マイナス成長は何が原因?」
  • 「将来への不安」―構造改革
  • 「人口減少や設備投資の減少による総需要の減少」―新しい社会福祉
  • 「金融引締と消費税増税によるデフレ」―リフレ派・主流派経済学・京都学派・反緊縮左派

現在の低成長・マイナス成長の要因についてですが、土居氏は次のように述べています。

一九九七年以降の日本経済は、民間の消費が低迷した。……景気が低迷しリストラや倒産が相次いだことから、給料が減ったり失業したりして、将来得られる所得が減ると悲観的に予想して、将来のために貯金するべく今の消費を減らした、ということである。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p65

つまり、将来への不安により人々が貯蓄を増やしたことこそが、不景気の原因となっているという立場です。
一方、井出氏は1997年以降の日本経済が不況になったのは、家計ではなく企業であるとしています。そしてさらにこの変化は、人口減やといった日本社会の構造変化によるものだとしています。

そう1990年代の後半、とりわけ97~98年にマクロの資金循環、お金の流れが変わったんです。ここで日本経済の歴史が変わったんです。
それまでは、家計、つまりみなさんが働いて銀行にお金を貯めてました。銀行はそれを元手に企業にお金を貸しつけて、企業は設備投資をしていたんです。これは、明治以来つづいてきた、日本経済の基本的なお金のまわりかたでした。
ところが、1990年代の後半から企業は借金を減らし、98年にとうとう貯蓄する側に回ってしまいました。これは歴史的な大転換でした。
もちろん、人件費が削られれば家計の貯蓄率は落ちていきます。みなさんが貯蓄をして銀行をとおして会社にお金を貸すというモデルから、みなさんが貧乏になるかわりに企業が貯蓄して、これを投資にまわすというモデルに変わったわけです。

……

僕たちは、気づかないうちに「新しい時代」を生きていたわけです。それを一言で言えば、「成長なき時代」です。
そもそもの話、経済学的に言うと、成長を決めるファクターは明確なんです。ひとつ目は労働力人口、働く人口が増えること、あるいは生産年齢人口が増えること、15歳から64歳の人口が増えること。だけど、これらは減るに決まっていますよね。

……

成長を支えるふたつめの要因は、設備投資です。でもこれも増やすのが難しい。なぜなら、1990年代後半から2000年代にかけて、企業が生産設備を海外に移してしまったわけですから。実際、アベノミクスでこれだけ頑張っても1980年代の終わり頃の設備投資水準に追いつけていません。30年以上前だというのに、です。

……

第三の要因は労働生産性、日本はもともと労働生産性が低いのですが、サービス産業化がすすんだこともあって、状況は依然として深刻です。

……

結局のところ残る希望はたったひとつ、イノベーションです。

……

もちろん可能性はあります。スティーブ・ジョブズビル・ゲイツみたいな人が明日いきなり日本に誕生するかもしれません。可能性を否定することは誰にもできません。ダイナミックなイノベーションが連鎖的に起きるかもしれません。
でも人類の歴史を見てください。戦後の高度経済成長を支えたのは第二次産業革命だったと言われていますが、この歴史的、革命的なイノベーションのダイナミズムが起きても、それが人びとのくらしをかえ、経済成長を生み出すのに50年以上かかりました。
起きるかどうかわからないものに、起きてもその結果にばく大な時間がかかるものに、僕たちの未来を託すのが正しい方法なのか、いい加減まじめに考えるべきではないでしょうか。政治としても無責任だと思います。

井手英策『いまこそ税と社会保障の話をしよう』p106

また、明石氏も日本の経済が低成長な根本原因は、人口減少による総需要の減少にあると述べています。

結局ね、「お金を借りたい」っていう需要がなかったってことなんだよ。

……

日銀の金融緩和って、食欲が全然ない人の前に、思いっきり食べ物を積み上げるようなことだよね。そんなことしたって食べるわけないのに。
モ そうだね。食べ物を増やしたからといって食欲が増すわけじゃない。日本は少子高齢化が進んで、人口が減少していく運命にある。人口は需要の源泉だ。だから、需要が減っていくのは少なくとも今の状況のままでは避けられないだろう。

明石順平『アベノミクスによろしく』p32

一方で、このように人口減を低成長の原因とする議論に対し、藤井氏は次のように反論しています。

「人口減が日本のデフレ不況の原因だ」というデマ

……

そもそも、既に何度も示したように、世界中で長期的なデフレに苛まれているのは我が国日本「一国」だけなのだが、もしも、人口減少が本当にデフレの原因であるのなら、人口が減少している国もまた、日本一国だけである筈だ。しかし、世界中に人口が減っている国など、日本以外にいくらでもあるのだ。

……

人口が最も減少している国はリトアニアだが、その減少率は実に22%。人口減少がデフレの原因であるのなら凄まじいデフレになり、GDPは大きく下落している筈だ。しかしリトアニアの名目成長率は何と606%。経済規模は実に7倍にまで拡大しているわけだ。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p66

上記のような議論に対し、リフレ派・主流派経済学・京都学派・反緊縮左派は一致して「金融引締と消費税増税によるデフレ」こそが不況の原因であるとしています。
藤井氏は消費税増税がなぜ不況をもたらしたといえるのかについて次のように述べています。

消費税が縮小させるであろう「消費」は日本経済を成長させる「成長エンジン」そのものである。そもそも、日本のGDPは、政府の支出、企業の支出、輸出、そして消費、のこの四つの合計値なのだが、この内で最大のものが「消費」なのである。日本のGDP、つまり日本のマーケットでやりとりされるオカネの実に約6割がこの消費だ。だから、これが拡大していけば経済は大いに成長する一方、これが冷え込めば瞬く間に日本経済全体が停滞していくことになる。だから、理論的に考えるなら、消費を大きく冷え込ませる消費税は、日本経済を停滞させる巨大な力を持っていると結論付けざるを得ない。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p61

そして同じように飯田氏は、現在の不況は経済の実力自体がなくなっているのではなく、「経済の実力を発揮できていないからGDPが伸びないというタイプの不況=ギャップ型不況」であるとし、次のように述べています。

本当の実力(潜在GDP)が発揮できてないことで起こるギャップ型の不況は……

もっと作る力があるのに
→何らかの理由から、みんながモノを買ってくれない。
→商品が売れないから、企業は在庫の山を築くのを避けるために商品の生産を減らしてしまう。
→企業が商品の生産を減らす結果、社会全体の生産量(実質GDP)が下がってしまう。
という状態だ。

飯田泰之『世界一わかりやすい 経済の教室』3-3

Q2.「消費税は増やすべき?減らすべき?」
  • 「増やすべき」―構造改革派・新しい社会福祉
  • 「現在は減らすべき(将来は保留)」―主流派経済学・京都学派
  • 「減らすべき」―リフレ派・反緊縮左派

消費税について、土居氏は次のように述べ、日本の消費税が他の国に比べて低いことを指摘しています。

消費税も、他の先進国よりも税率が低い。これは海外旅行をすると、私達でも体験できる。……日本と同じような消費税をかけているヨーロッパ諸国では、イギリスが十七・五%、フランスが一九・六%、ドイツが一六%といった具合で、他のEU諸国でも概ね二〇%近い税率(標準税率)になっている。アメリカでは、日本のような消費税を、国(連邦政府)は課税していないが、地方自治体が小売売上税として課税している。これで税率を比べても、ニューヨーク市ロサンジェルス市など、主要都市の税率は概ね八%前後である。……このように、先進国の中で、消費税率は日本が最も低くなっている。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p19

そして、消費税を含む増税について次のように「せざるを得ない」し、「余地が残されている」としています。

増税をするか否かについてであるが、長期的に見れば、有権者が反対しようとも、わが国の財政はやがて増税社会保障負担の増加を含む)せざるを得ない状況に追い込まれることは必至である(インフレや、国の借金棒引きがなければ)。

……

ただ、このような財政状況を容認、黙認してきた有権者は、現在のところ国民所得のたかだか三七%(国民負担率の数値)程度しか租税・社会保障負担をしていないわけで、この負担率はヨーロッパの先進国に比べればまだまだ低いわけだから、多少増税しても(目下の景気には悪影響かもしれないが)良い余地が残されていると考える。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p212

また、井出氏も次のように海外との比較で、消費税を増税することで他の先進国なみに国民負担率を増やすべきと主張しています。

話しているこの時点では、消費税は8%ですが、みなさんもし消費税をもう7%あげる提案に賛成してくだされば、幼稚園、保育園、大学、病院、介護、障がい者福祉、ほぼ無償化できます。

……

もしみなさんがいい人たちで、もう3%強あげていいよとおっしゃってくだされば、毎年の財政赤字も消えます。

……

「はっ? 2割近い消費税? 冗談じゃないよ!」と思うかもしれません。
でも、待ってください。それでもOECDの平均をやや上回る程度の負担でしかないんです。それだけこの国は税金が安かったということ、言い換えれば、自己責任の度合いが強かったということです。

井手英策『いまこそ税と社会保障の話をしよう』p203

一方、藤井氏は消費税の増税はむしろ税収を減らすと主張しています。

しばしば、増税延期に反対する消費増税派の人々は、「代替財源がないから、増税延期、凍結は不可能だ」と主張する。……しかし、それは「ウソ」だ。そもそも、増税することで、トータルの税収が「減る」ことが予期される。実際、2014年の8%増税のときには、増税後、1年目の税収が1兆円以上、2年目の税収は2兆円以上、3年目の税収は3兆円以上……も「減る」という帰結が得られている。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p105

また松尾氏も次のように消費税の増税が日本を不況に陥らせると主張しています。

やっと長かった不況時代を抜け出たかに見えた2014年春、消費税が5%から8%に引き上げられました。そのとたん、また景気拡大がストップしたことは記憶に新しいところです。消費は低迷し、正社員の賃上げは頭打ちになりました。
2017年4-6月期に、実質消費は、ようやく消費税引き上げ前の正常なレベル(つまり、駆け込み需要が見られた時期より、さらに前の時期の水準)を、ちょっとだけ超えるところまで回復しました。
消費財引き上げの傷が癒えるのに、実にまる三年もかかったことになります。しかし、平均的な実質賃金は、まだまだ消費税引き上げ前のレベルに戻ってはいません。
ところが安倍首相は、2019年10月に予定されている、8%から10%への消費税引き上げを、予定通り実施するとしています。中国はバブル崩壊しないか、トランプ政権の通商政策は大丈夫か、世界経済が不安だらけの中で、またまた大きな打撃を経済に与えて大丈夫なのでしょうか。消費税再引き上げのせいで不況になったら、またも税収は低迷し、オリンピックや高齢化で物入りのときに税収が足らなくなり、何のために税率を上げたのかわからない事態になるでしょう。

松尾匡『左派・リベラルが勝つための経済政策作戦会議』p112

一方でこのような議論に対し井手氏は次のように書いています。

景気の腰折れについては、これまでの経験から消費は1年程度でもどっていますから、まっとうな景気対策を時期を限ってやればいい。むしろ税の公平さのほうが議論が必要なのだと思います。

……

左派であれば、たとえ消費税が逆進的でも、その税収をすべてまずしい人たちに使うと言えばいいはずです。でもそうならない。消費税=悪税で議論がとまってしまう。

井手英策『いまこそ税と社会保障の話をしよう』p212

一方高橋氏は、国の役割は「政府にできることは、成長を促し、失業者を減らすところまでだ」。とし、次のようにいかなる時も増税には反対であるとしています。

私は政策論者として、いかなるときも増税には反対である。
なぜかといえば、単純な話だ。
景気が冷え込んだら緩和策、景気が熱し過ぎたら緊縮策、これで済むからである。つまり、景気対策に税を使うのは理に適っていないのである。

……

景気が落ち込んだら、財政出動と金融緩和をして、経済成長を促せばいい。
そうすれば失業者は減り、国民の所得も上がって、結果的に税収は増える。国民の懐を温めながら税収アップできたら、上出来の国家運営ではないか。

高橋洋一『明解 経済理論入門』p162

一方、松尾氏は、将来的に増税が必要になったときは、法人税でなんとかすればいいと主張します。

我々は、将来労働力がすべて雇われてしまって、総労働全体は限られた労働の中で一体どの労働配分が減ってもいいかという発想でものを考えなければいけない。そのために税金をかけるという発想をしなければいけないということです。
つまり「法人税をとったらいいじゃん」ということは、私は法人税でやっていけると思っていますが、そう思うのは、いっぱいまで雇ってしまった天井の成長というのは、もうあまりないんです。労働力人口は増えませんので。そうすると、機械や工場を増やしてもそれに張りつける労働を増やすことはできないので、仕方ない。したがって機械や工場を増やすその純増分はもう必要ないということ。だからそういうものを作るところの労働配分が減るようにする。要は法人税で企業に課税することによって、設備投資があまり起こらないようにして、設備をつくる部門は減らしていいでしょうということになります。

松尾匡『左派・リベラルが勝つための経済政策作戦会議』p79

Q3.「国債発行は減らすべき?どんどん増やすべき?」
  • 「減らすべき」―構造改革派・新しい社会福祉
  • 「現在は増やすべき(将来は減らすべき)」―リフレ派・主流派経済学・京都学派
  • 「どんどん増やすべき」―反緊縮左派

消費税減税派が、消費財増税の代替案として主張しているのが、国債発行です。
高橋氏は、国債について次のように主張しています。

政府が国債を発行して国家を運営するのは、企業が借金をして事業や設備投資を行うのと同じであり、「まったくもって正当」である。
「負債もあれば資産もある」という点においても、国は企業と同じであり、借金=国債発行額だけを取り立てて「破綻する」と騒ぐのは、物事の一面しか見ていないナンセンスな捉え方である。

高橋洋一『明解 経済理論入門』p151

つまり、日本の資産を考えれば国債は決して過多ではないという主張です。
一方、明石氏は次のように述べています。

太 え……? 戦争もしてないのに戦争していた時と同レベルの借金してるの? ……いや、こんな数字見せられたって騙されないよ。日本は資産をたくさん持っているから、それを売っちゃえば借金が軽くなるって誰かが言ってたよ。戦争してた時とそこが違うんじゃないの?
モ それについては財務省が説明しているよ。そのまま引用するから読んでごらん。これはおそらく2012年頃の説明文だ。

これらの資産は、性質上、直ちに売却して赤字国債建設国債の返済に充てられるものでなく、政府が保有する資産を売却すれば借金の返済は容易であるというのは誤りです。
……
財務省ホームページ「政府の負債と資産」)

太 要するに売れないってことね。

明石順平『アベノミクスによろしく』p188

そして、明石氏は現状のまま国債を増発すれば、最終的にデフォルト(債務不履行)になると主張します。

でもね、国債を買う方の身になってごらん。借金がこんなに膨らんでいるのに、増税もしない、社会保障費も削らない、という国の国債を果たして買う気になるかな?

太 危ないからあんまり買う気にならないね。貸すならリスクがある分、高い金利がほしい。

モ そうでしょ。でもそうやって金利が上がっていくと、余計にお金を返すのが苦しくなる。そうすると、ますます危険になるから、さらに金利が上がっていく……という負のスパイラルが生じる可能性がある。

太 日銀が国債の買い入れをやめるとそういう事態になる可能性があるってこと?

モ そのとおり。もし借金を返済できなくなったら大変だ。ここで、約束した日(償還日)に借金を返済できなくなることをデフォルト(債務不履行)という。デフォルトになると、誰もお金を貸してくれなくなるだろう。そうなると、日本は借金で借金を返すような自転車操業なんだから、資金繰りがストップしてしまう。公務員の給料が払えなくなったり、社会保障費の支払いがされないという事態になって社会が大混乱するだろう。

明石順平『アベノミクスによろしく』p193

他方で、藤井氏は、そもそも国債による政府の財政破綻は起こりようがないと主張します。

そもそも、ギリシャ、あるいは、国内の自治体では、北海道の夕張市において「政府の破綻」つまり「借金が返せなくなる」という事態が生じたが、それは彼らに「通貨発行権」がなかったからなのだ。
つまり、彼らはカネを返す時に、自分の権限でそのカネを「作る」ことが、何をどうやったってできなかったのであり、だからこそ「破綻」してしまったのだ。

……

ところが、アメリカがドルでカネを借りても、日本が円でカネを借りても、中国が元でカネを借りても、返す時に政府の力でカネを容易く「調達」することができるのだ。つまりどんな国でも、「政府」が「自分の国の通貨」でカネを借りている限り、そのカネを返済する時に、いとも容易くカネを「調達」して返すことができるのだ。何と言っても、中央政府はその国の通貨を発行する権限、つまり、通貨発行権を持っているからである。
だから、自国通貨建ての借金で破綻してしまったなぞという(お間抜けな)政府など、過去において存在しない。政府の破綻は、それは全て「外国の通貨」を借りていた場合に限られるのだ(そして、ギリシャはその典型だったわけだ)。
もちろん、増税派は「中央銀行と政府は独立しているのだから、政府のために中央銀行がカネを与えるなんてあり得ない」と反論するだろう。しかし、ここで言及しているのは政府に中央銀行がカネを「直接供与する」という話ではない。ただ単に「貸す」という話だ。だから政府に対して「カネを貸す」という程度のことを拒否する中央銀行が存在することは通常ありえないのである。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p115

つまり、日銀が直接日本国政府に対し直接お金を貸してくれるから大丈夫というのです。そしてこれを「国債の日銀直接引き受け」と言います。

Q4. 「国債の日銀直接引き受けは禁じ手?どんどんすべき?」
  • 「禁じ手」―構造改革派・新しい社会福祉
  • 「どんどんすべき」―リフレ派・主流派経済学・京都学派・反緊縮左派

松尾氏は、日銀の国債直接引き受けで得たお金を財政出動のために使うことを主張しています。

だから、デフレ不況から完全雇用経済に達するための財政出動国債でまかない、その分の国債を日銀が買って、拡大した経済に必要な貨幣を世の中に供給したならば、その国債は返さなくていいことになります。つまり、デフレ不況期には「無借金」での政府支出を行うことが可能なのです。経済の規模が名目的にしろ成長するならば、それに対応した貨幣量も成長するので、日銀の金庫の中の返さなくていい国債の量も成長していくことになります。

松尾匡『左派・リベラルが勝つための経済政策作戦会議』p142

一方で、明石氏は日銀の国債直接引き受けは悪性のインフレにより経済に壊滅的なダメージを生じさせると主張します。

太 そうなったら日銀にまた助けてもらえばいいんじゃない?今度は市場を通じて買うなんてまどろっこしいことをしないで、直接国債を買ってもらえばいいじゃん。

モ それは財政法第5条によって原則として禁止されている。それを許してしまったら政府がいくらでもお金を使えるようになる。そして、政府が使ったたくさんのお金は国民の懐に入る。そうなると世の中にお金があふれかえってすさまじいインフレを引き起こしてしまう。例えば第一次世界大戦後のドイツでは、中央銀行国債の直接引き受けをさせた結果、パン1個が1兆マルクになるほどの異常なインフレになった。日本だって、第二次世界大戦後に日銀の直接引き受けをさせたことにより、ドイツほどではないがすさまじいインフレに襲われた。
中央銀行国債の直接引き受けをさせてはいけない」というのは人類が学んだ貴重な教訓なんだ。だから、だいたいどこの国でも中央銀行は政府から独立していて、国債の直接引き受けをしないようにしている。

太 そうなんだ。でもどうしても国債の買い手がいなくなればやるんじゃない?

モ そうだね。財政法第5条によれば国会の議決があれば直接引き受けることができるからね。だが、これまでの歴史を見れば、それをやると間違いなく悪性のインフレが起きるだろう。そうなれば円の価値は暴落する。国債が暴落するということは、最終的にこういう事態につながり得る。だから、国債が暴落したとたんに、投資家は円を売りに走るだろう。そのまま円を持っていたら暴落して損をする可能性が高いからね。

太 超円安になるってこと?

モ そう。そして行き過ぎた円安がこの国に何をもたらしたかは今まで見てきたとおりだ、超円安によって極端に物価が上がり、経済に壊滅的なダメージが生じるだろう。そういう自体になると日本の企業の業績も下がるだろうから、株価が暴落する可能性がある。まあ輸出関連企業の株価は逆に上がるかもしれないけどね。超円安による為替差益で儲けることができるから。

太 国債、円、株が全部暴落するってこと?

モ そうなる可能性は否定できないだろう。

明石順平『アベノミクスによろしく』p194

ただ、このような主張に対し松尾氏は通貨の暴落は、為替市場が変動相場制である日本ではありえないと述べています。

過去通貨が暴落した国はたいてい事実上固定相場制でした。その国の外貨が尽きて通貨が買い支えられなくなることに賭ける投機家にとっては、逆に通貨が上がって損するリスクがないからです。だから通貨売り浴びせに群がり寄せることになります。これらのケースでは、当初通貨価値を維持するために、自国通貨を吸収する金融引き締め策を取らざるを得ないので、景気悪化にあおりをかけてしまいます。しかし、通貨価値の維持をあきらめて通貨が下がるに任せると、輸出が伸びたり観光客が押し寄せたりして、たちまち景気が回復するのが常でした。
日本は変動相場制の国ですので、無理に通貨価値を一定に維持するために金融引き締めをして不況をもたらす必要はありません。円が大きく下がれば、やがて必ず輸出が爆伸びすることが見込まれますので、そうなれば円価値が上がり出すということを見越して、まもなく円買いが入り、円下落は必ず適当なところで止まります。

松尾匡『左派・リベラルが勝つための経済政策作戦会議』p84

Q5. 「公共事業はどんどんすべき?減らすべき?」
  • 「減らすべき」―構造改革派・新しい社会福祉
  • 「費用対効果が認められるものはどんどん増やすべき」―リフレ派・京都学派
  • 「再配分のために限定すべき」―主流派経済学
  • 「環境破壊や利益誘導につながるものはやめ、真に必要なものだけに限定すべき」―反緊縮左派

公共事業に対し、藤井氏は次のように、公共事業は将来の税収を増加させる成長のための「投資」であるから、赤字国債を発行してでもどんどんすべきと主張しています。

これらの投資は、近未来の日本を世界最先端の技術立国に「復活」させると同時に、その技術を活用して疲弊した地方や都市、そして、様々な産業(農工業、観光・エネルギー業など)を復活させ、巨大災害やインフラの老朽化、さらには近隣諸国の脅威から国民を守ろうとするものなのである。
そしてこれらの「未来投資」は、「財政」の視点から言うならいずれも、将来の日本の財政基盤を強化し、将来の税収の増加に寄与するものばかりだ。だから、これらの投資はいずれも、「国債」を躊躇なく発行することで資金を(年間10~15兆円程度の水準で)調達し、それを原資として進めれば良いのである。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p175

また高橋氏も、国債で確保した基金はベネフィット(便益)が受けられる公共事業に使うべきと主張しています。

国債で確保した基金を、インフラ整備に使うのは「王道」と言ってもいい。国土交通省には公共投資の採択基準があり、「公共投資による社会ベネフィット(便益)がコスト(費用)を上回る」ということが条件だ。これは、無駄な公共投資を行わないという意味であり、先進国ではどこでも採択されている常識的な基準である。社会ベネフィットをB、コストをCとすれば、費用便益分析はB/Cが1より大きいと言える。
ここでは、BについてもCについても、将来受け取るベネフィットの見通しを現在価値化するために、「割引率」という考え方を使っている。一般的に割引率は四%とすることが多いが、本来は、期間に応じた市場金利に合わせた数値を使うべきものだ。
今の市場金利では、一五年ぐらいまで国債金利はマイナスである。それをそのまま使うと、よほど酷い公共事業でない限り、B/Cが1より大きいという採択基準はクリアできる。つまり、ほとんどの公共事業は正当化できることになる。
しかし、国交省は市場金利とかけ離れた四%の割引率を見直そうとしない。「国土強靭化」政策を唱えながら、実際は自らダガをはめて公共投資を限定することで、財務省の緊縮政策に協力しているのが現状だ。

高橋洋一『ファクトに基づき、普遍を見出す 世界の正しい捉え方』

一方で土居氏は過去の公共事業に対し、それが経済規模の小さい地方に行われたため、景気対策とならなかったと主張しています。

経済成長率が高い地域は、先の公共投資額が多かった北海道、東北、北陸信越、四国である。特にこの時期、バブル崩壊が始まって景気が悪化しつつあったから、景気対策として地方部に公共事業を積極的に行っていた。これだけとれば、国からの公共投資額が多かった地域では、経済成長率が高かった、という推論が成り立つ。つまり、公共投資が経済成長を促したとも見える。
しかし、実はこれらの地域は、全国に占める経済規模が大きくないのである。経済規模の大きい東京、近畿、東海、南関東、北関東といった都市部では、経済成長率が低くなっている。……日本全体でみて、経済規模の大きい都市部で経済成長率が低くなっていたためん、この時期の景気は(わずかに回復したとはいえ)低迷していたのである。
そもそも、景気対策とは、公共事業などの財政支出を行って、経済成長率を高めることを主眼とした政策を意味している。公共事業を多く注ぎ込めば、それだけ経済成長率が上がる可能性が高まる。だから、公共事業を積極的に行って経済成長率を高められなければ、景気対策としては失敗といわざるを得ない。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p45

また、飯田氏はそもそも政府の官僚に経済が成長するために投資をするターゲット型産業政策は間違っていると主張し、国のやるべき仕事は「民間にできないことに限定される」と主張しています。

仮に、IT産業が今後大いに儲かる産業だとしよう。でも、損より得のほうが明らかに大きい産業であるのならば、そこには民間企業が参入するインセンティブがあるってことだ。だったら、民間企業は、儲けようと、どんどん進んで参入するよね?
日本には1万以上の大企業、50万以上の中堅企業、300万以上の小企業があるんだ。何百万の企業が気づかないのに、経済産業省国土交通省の役人たちが気づくビジネスって何なんだろう?政治家個人が、何百万の企業が気づかないことに気づく可能性はどれぐらいあるんだろう?こう考えると、官僚や政治家が新しく成長する産業を発見し、それを伸ばしていくという考え方には相当の無理があるんだ。

……

というわけで、国のやるべき仕事というのは、「民間にできないことに限定される」というのが、現代の経済学的な政策論の主流な考え方になっているんだよ。

飯田泰之『世界一わかりやすい 経済の教室』1-4

なお、松尾氏は公共事業に対し、利益誘導につながるものはやめるべきだが、インフラの更新などはきちんと行うべきとしています。

たしかに、力の強い政治家が胸三寸で予算をつけて、そこに利権が群がり、どれだけ公費を垂れ流しても無駄に終わっても、責任は問われません。これで膨らんだ財政赤字のつけを庶民にまわされてはたまりません。

……

しかし私たちは、小泉政権以降、長年にわたってあらゆる公共事業を削減し続けたのは行き過ぎだったと思います。このために、業者の廃業が続き、建設業に就職する若者が少なくなっています。今後、高度成長期に作ったインフラが、耐用年数がすぎて更新が必要になってくるのに、同じものを作る技術が継承されていない問題が指摘されています。
そこで私たちは、インフラ建設公共事業は、環境や景観への配慮を要件としつつ、更新投資を中心に必要なものを厳選し、どんな地方でも常に仕事が持続するように長期計画を策定します。そして若者が安心してこうした仕事に就職して、しっかりと技術が伝承されるようにします。さらに、保育所介護施設医療機関など、ひとびとの命と暮らしに直結するインフラに政府支出を振り向けます。また、地方における防災等の公共事業を充実させます。若者が安心して住める、格安の家賃の公営住宅の建設も進めます。

Q6. 「社会福祉は増やすべき?減らすべき?」
  • 「減らすべき」―構造改革派・リフレ派・主流派経済学・京都学派
  • 「需要ではなく必要に応じた福祉にした上で、増やすべき」―新しい社会福祉
  • 「どんどん増やすべき」―反緊縮左派

藤井氏は社会保障費について、国家の潜在的な財政調達能力に見合った水準に抑える必要があるとし、医療介護における過剰サービスを排除し、「自助」を国民に求め、終末期医療を諦めることが求められるとしている。

筆者はこの点について、政府は可能な限り、医療や失業手当などの社会保障を充実していくのは当然必要だとしても、その水準は国家の(潜在的な)財政調達能力に見合った水準でなければならない、というものが大前提であると考える。

……

経済が好調な場合は、「現実の税収規模」は「潜在的な税収調達能力」と一致する。したがって、経済が好調な場合は基本的に、社会保障費の財源を得るために赤字国債を定常的に発行し続けない、という方針が必要となる。

……

今日の社会保障費の水準、すなわち「医療水準」は、一定程度、抑制して行かざるを得ない可能性は存在し得るものと考えられる。

……

実際、こうした問題がもちあがり、国民的議論を経て「医療水準の適正化」に成功した国家がある。
北欧の福祉国家スウェーデンである。

……

スウェーデンの福祉の充実は、目を見張るものがあった。その「福祉の水準」は、医療介護における「過剰サービス」を徹底的に排除することではじめて実現できているのが実態であった。

……

妊婦ですら、医療機関が養成するのは「自己管理」。病院に頻繁に通うということはあり得なかった。

……

そもそも、スウェーデンは寝たきり老人がほとんどいない、「寝たきりゼロ社会」。
それが実現できている理由は以下の二つだ。
第一に、寝たきりにならないように、徹底的に「訓練」をするよう指導している。要するに、(施設ではなく自宅での介護を基本とした)「自助」を重視するわけである。
そして第二に、寝たきりになるような手術(例えば、新しい人工的な口を胃に直接つける『胃ろう』手術)が徹底的に排除されている。そういう「単なる延命のための手術」は、「虐待」と見なされるとのこと。

……

「充実した医療」を徹底するためには、国民側が「過剰サービス」を要求しないことが必要なのである。そうでなければ、150万人から200万人の寝たきり老人を抱えた今の日本のように、需給バランスが完全にくずれ、かえって介護水準が低下してしまうこととなろう。

……

「人間の尊厳」の議論に基づいた、真の幸福に資する「終末期医療」のあり方を、徹底的に議論していくことが今、求められているのである。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p135

そして国民には社会保障において「税金を使わせていただく」という意識を持たせるのが重要だとしています。

こうした議論は、消費増税をするにせよしないにせよ、デフレが脱却出来るのせよ出来ないにせよ、いずれにしてもしっかりと進めていかなければならない種類のものだ。少なくとも患者も医者も、「医療行為に血税が使われている」「国民の皆さんのおかげで、この程度の負担でこの医療が受けられているのだ」という事実をしっかり認識すべきであることは、「税金を使わせていただく」上での最低限のマナーの問題だからだ。

藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』p147

土居氏もまた、過剰な社会保障は、モラルハザードや怠慢を生み財政を圧迫するとし、そういう社会保障に対しては刑事罰を持って厳しく対処することが必要としています。

真面目に一生懸命働いて「怠慢」のたの字もない人が失業してしまったら、その失業の危険に対して失業手当という保険金を支払い、失業中の生活費を助け、首尾よく再就職先が見つかる、というのはよい。それは、美談である。その端で、失業しても再就職する努力を怠る人が同じように失業手当をもらっていたら、それを再就職する気がなければ失業手当は出さない、そのまま路頭に迷え、と断固としていえるだろうか。「政府が運営する保険なのに、失業していても手当がもらえないなんてかわいそう」という声になびいて、手当を支給してしまう。そうなれば、何百万人もの失業者に(受給資格のある)失業中ずっと保険金を支払わなければならなくなる。しまいには、保険金の支払いがかさんで保険が破綻しかねない。

……

保険に付け込んだ怠慢は、今や財政を圧迫している。保険によって国民に安心を与えるという政府の仕事は、健全な財政なくしてはありえない。これまでの公的な保険は、勤勉実直な国民に安心を与えたが、怠慢な国民にも不必要な安心を与えてしまった。それにより、怠慢な国民は保険金を過度に受け取り、保険の財政を悪化させた。公的な保険によって与えられる過度な安心は、怠慢を生むことを忘れてはならない。

そうなれば、いかにして政府が保険を運営すればよいか。まず大原則を述べれば、怠慢な加入者には保険金を納付しないことである。

……

大多数の国民に「怠慢が(保険を破綻させ)安心を奪う」という危機感を認識させられれば、その認識を持った国民の中から自発的に怠慢をやめようとするものが出てくるのである。
しかし、経済学者の著者としては、そうした道徳論に訴えるだけでは不十分だと考える。
……

より具体的に言えば、失業保険を不正に受け取ったものは懲役一〇年、とか厳しい懲罰(経済的損失)を与えて怠慢を断固として許さないとした姿勢を、政府が示すことである。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p214

このような議論に対し、井手氏は、むしろそのような「施しとしての福祉」を受けることによる屈辱こそが問題だとして、屈辱を最小化する、「尊厳ある生活保障」こそが社会保障に求められることであるとして、そのような社会保障を実現するために、消費増税なども必要なのだと、実体験を交えて訴えます。

僕には、一生忘れられない思い出があります。
うちは母子家庭でしたが、僕が小さいとき、母はずっと家にいたんです・同居していた叔母が生活費を入れてくれていたんですよね。あと戦争中に腕を失った障がいのある叔父がいまして、ときどき支援してくれてたんです。でも、僕はそれを知らなかったから、なぜうちはお母さんが働かないのにお金があるのか、ずっと不思議に思ってました。
小学校3年生のころだと思います。なにかの拍子で生活保護という仕組みがあることを知りました。すべての謎がとけたような気分でね、うれしくて母にこう言ったんです。
「うちは生活保護ばもらっとるけん、お金があるっちゃろ?」
するとね、母がそれはもう烈火のごとく怒っちゃって。こう言われました。
「そげんか恥ずかしか金、うちは一銭ももろうとらん」
ものすごい剣幕でどなられました。怖くて泣いたのを覚えています。
いま思えば母の言葉は暴言です。生活保護は権利です。権利のある人はそれを堂々と使えばいいんです。でもね、なぜ母がそう言ったのかという問いは、ずっと僕の心のなかにありつづけました。これはとても大切な問いでした。

……

僕はね、こう思うんです。人を助けるのはいいことだ。でも救済は、ときにその人間に屈辱を刻みこむ。助けるほうはいいのだけれども、助けられるほうの気持ちはそれとはちがう。だから、助けることで満足する政治は絶対に終わらせなければいけない、と。

……

消費税があがるのはまずしい人にとってつらいことだ。そうでしょう。しかし、昔の僕がいまの僕にこう言わせるのです。「あの地獄のような毎日に、もし大学の授業料の心配をしなくてよかったとすれば、どんなに母も僕もホッとしただろう」と。まずしさのどん底にいた僕と母ですが、僕たちはよろこんで消費税の増税を受けいれたことでしょう。

僕は、所得格差ではなく、この屈辱の領域を最小化したい。……

だから提案したいのです。人間の「生存」と「生活」、この二つの生――どちらも「life」ですね――を、すべての人たちに徹底的に保障する社会をめざそう。そして、そのためのくらしの会費として税を語ろう、と。

……

高齢、障がい、ひとり親、疾病、さまざまな理由によって働けない人たちは出てきます。この人たちの命は「最低の保障」ではなく「品位ある保障」でなければならない、これも大切なポイントです。
生活扶助で手に入れたお金のなかで、その使い道を決めるというのは、その人の最後の自由だと僕は思うんです。10円安い野菜にしよう。10円安い牛乳にしよう。食べたいもの、着たいものを我慢して、お金を浮かせる。そのお金で酒を買う、たばこを買う、だから何が悪いというのでしょうか。人間の選択の自由ではないのでしょうか。
権利として保障されるもの、それが本当に必要最低の額だと定義されたら、酒やたばこはぜいたくだ、削れるものは削れになるでしょう。しかし、「品位ある保障」では、そうした選択の自由まで含めて命の保障だと考えるのです。最低限と言いながら、それを理由づけして切りさげていく政治との決別です。

井手英策『いまこそ税と社会保障の話をしよう』p218

一方松尾氏は、ベーシックインカムの導入により、お役人の恣意的な判断の余地をなくし、公平な社会保障を目指すとしています。

さらに私たちは、ベーシックインカムの導入により貧困を根絶します。ベーシックインカムとは、個人1人あたり数万円の基礎所得を、全てのひとびとに、無条件で給付するものです。

……

日本の現実では、生活保護は正しく機能していません。行政の担当者のさじ加減で、多くの貧困な人々が不当に排除され、受給者の人々は常に「不正受給」を疑われてプライバシーや人権を侵害されています。それに対して、ベーシックインカムは、お役人の恣意的な判断の余地はありません。みんなに公平かつ明瞭に与えられる社会保障の典型です。

松尾匡『左派・リベラルが勝つための経済政策作戦会議』p155

それぞれの立場への僕の評価・疑問点

構造改革派―今の人々の現状認識・価値観を代表しており、またきちんと「経済学的思考」に基づいている/将来国家破綻してでもいま豊かになりたいという声にはどう答える?

ぶっちゃけ、読んでる最中一番苦痛なのがこの派の立場でした。自己責任を礼賛し、福祉の受給者を「怠慢」と決めつけ、経済成長を生み出さない地方や弱者を切り捨てる、典型的な新自由主義者の言い分だなという感じがしたからです。
しかし、だからこそこの派は、現代の多くの国民の現状認識や、価値観にマッチし、支持されるのだろうなとも思うわけです。
そして、更に困ってしまうのが、この派は自分の主張を正当化する時にさんざん「経済学的に考えれば」と述べるのですが、たしかに経済学的に「人間は主観的な満足度を最大化しようとするもの」「政治や社会は、各人の主観的な満足度の総和が大きくなることを目的とするもの」と考えれば、現状認識はともかく、政策の方向性は同意せざるをえないのです。
例えば土居氏の本では、再分配より成長を先に行うほうが最大多数の最大幸福を生み出すと言われています。

公共経済学の文脈では、すでに効率性と公平性(厳密には事後的な効率性)がトレード・オフになっている状況では、公平性より効率性を優先する方が望ましいということが、一九九六年にノーベル経済学賞を受賞したマーリース・ケンブリッジ大学教授らによって証明されている。
それは、先に経済を効率化して経済成長を促しパイを大きくするのを先にして、後でそのパイを人々が望むように分けるという方法と、先にパイを望むように分けて、その後で経済成長を目指そうという方法とでは、前者の方が最大多数の最大幸福を生むということである。高い能力を持つ人にまずはパイを増やしてもらい、その後で増えたパイを人々が望むように分けられた方が、分け前は後者の方法に比べて大きくなるのである。

土居丈朗『財政学から見た日本経済』p218

これは、たしかに「主観的な満足」のみを重視する経済学から考えれば事実でしょう。お金持ちがさらに豊かな生活をするためにする消費と、貧しい人がなんとか生存を維持するだけの消費、どちらも同じ消費として、消費者に対する「満足」の度合いが同じなら同じと考える経済学なら、先にお金持ちが豊かになることで、「満足」の総和が大きくなるなら、そちらを選ぶべきだとなるのです。
ただ一方で、現状認識の点から言うと、やっぱり日本の財政に対して悲観的にすぎると感じたし、何よりこの本は「国家の財政破綻」によるインフレの恐怖をさんざん煽るわけですが、この本が出版された2002年、まだそれなりに中流層が残っていた頃なら、「なるほど確かにインフレで貯金とかの価値が目減りしたら困るな」と思う人が多かったかもしれないけど、もう現在は「そんなインフレで目減りするような資産がねーよ」と思う人が大多数だと思うので、正直インフレの恐怖を煽る部分は古いなと感じたりしました。

新しい社会福祉―「オールフォーオール」や「必要に応じた福祉」の理念には賛同/国家による私生活への介入につながる不安もあるし、人口減少は本当に経済に悪影響あるの?

正直に言っちゃうと、僕が様々な立場の本を読んできて、一番支持できる立場はこの立場です。その理由は、まず何より現代の新自由主義だけでなく、過去高度経済成長期の日本も、「勤労国家」の名のもとに、そこからあぶれた人には決して幸福な社会ではなかったという認識をきっちり持った上で、勤労国家でも新自由主義でもない、「みんなでみんなを支え合う(オール・フォー・オール)社会」という、新たな社会像と価値観を維持しているからなんですね。
まず最初に目指すべき価値観があり、そしてそのために「消費税」という政策を手段として用いているように思えること、これこそ「消費税減税」が目的化しちゃってるように見える反緊縮左派よりも、こちらの派を支持できる理由です。
そして、新たな社会を作るためには、「みんなが公平に税を負担する」という点で、消費税増税こそが良いというのも、それがもたらす実際の経済への影響は置いておいて、理念だけで言うなら、正しいと思います。累進課税である法人税所得税をいくら多くしたって、それは結局「社会保障とは豊かなものが貧しいものに与える施しだ」という意識を強化するものにしかならないわけです。そのような「施しとしての福祉」でない福祉を作ろうとするなら、「公平な税負担」である消費税こそを財源にし、国民の税に対する意識を変えるべきというのは、実にまっとうな議論だと思います。
ただ、そうは言ってもやっぱりさすがに今消費税を増税すべきかと言うと、「それはちょっと……」と思わざるを得ません。消費税による景気の落ち込みは一時的なものだから、まっとうな景気対策をすればいいと言うけれど、「まっとうな景気対策」って何さというわけで、現状の経済システムで、景気対策をするなら、やっぱ減税がいちばんなんじゃないのと思ったりするわけです。
ただ、目下の不況が脱却できた暁には、まさしくこの派の提言する「新しい社会保障」を目指し、また、それを実現するために、「『需要の経済』から『必要の経済』」へと経済システムを転換していく必要があるんだろうなと、思います。
しかしその一方で、「必要の経済」につきまとう不安として、「『需要=主観的な満足』なら、国家や社会がそれに介入できないが、『必要』となると、まさに『それは本当は必要ではない』という形で国家や社会の私生活への介入につながるのではないか」という不安も、あります。

リフレ派―「経済学的思考」に基づき、効率的な政府を目指せばこうなるのだろう

高橋洋一氏と言うと、WILLとか産経新聞とかで極右に媚びた文章ばっか書く人間という印象で、まあ本読んでもそんなに印象は変わらなかったのですが、ただ結構そういう極右っぽく見える意見も、「経済学」から正当化されるんだなというのが、本を読んで分かったことです。
例えば高橋洋一氏は、あいちトリエンナーレについて、次のように「経済学の研究」から、あいちトリエンナーレへの公金支出を認めないという立場を取ります。

芸術文化への公金支出に関しては、海の向こうでも古くから議論されてきた。ある分野への公金支出が正当化されるべきか否かを考える理論的根拠としては、一九六〇年代に発表されたウィリアム・J・ボーモル(W.Baumot)とウィリアム・G・ボーエン(W.Bowen)の研究が嚆矢であり、これまでの最大公約数的な理解としては、文化的な財・サービスは「準公共財(quasi-public goods)」であるとするものがある。
この準公共財は、私的財と公共財の中間にあって両方の性質を抱えており、「市場の失敗」によって最適な資源配分が実現されにくいことがある。
たとえば、絵画は市場で取引されるので私的財とも言える。しかし、個人が所有しているだけでは、もたらされる便益は所有者と家族に限定されるから、私的便益と社会的便益との乖離がある。こうした乖離は、美術館などで一般に公開することによって解消され、絵画は社会的に正当な価値が得られる(もっとも、こうした「準公共財」は「価値財(merti goods)」とも呼ばれ、専門家による鑑定など一定の価値判断・社会的判断が求められる)。
要するに、芸術文化は純粋な意味での私的財ではないため、最適な社会的供給のためには公的支援の必要性が正当化される。しかし、その場合には社会的な判断も要求される。一部の論者は、「施政者は芸術活動に口を挟まず、公金補助を条件なしで認めるべきだ」という極論を唱えるが、それでは納税者の理解は得られない。施政者は有権者の意向を無視できないからだ。

高橋洋一『ファクトに基づき、普遍を見出す 世界の正しい捉え方』

このような、経済学的には正しいとされる見解から、下記のようなツイートがなされるのです。


つまり、あくまで国民の「主観的満足=便益の総和=気持ちがよくなる」だけを重要視する経済学では、あいちトリエンナーレのような「気持ちよくない」芸術は決して擁護されないのです。だから、もし高橋洋一氏のような主張に反論するなら、その背後にある経済学的思考こそを標的にしなければならないのです。

主流派経済学―今の経済システムを続けるなら、この考え方で行くしかない/「効率」以外のものも重要な場合があるとしながら、結局言うのは「効率」のことだけじゃん

主流派経済学、というか飯田氏の本を読んでて思うことなんですけど、「左派とかに配慮するポーズを見せはするけど、本音は結局『経済に貢献しない存在は社会に不必要。存在するなとは言わないけど社会に迷惑は掛けるな』なんでしょ」ということを思ってしまうんですよね。
なぜそうなるかといえば、結局経済学っていうのは、どんなに弱者に配慮しているように見えても、結局下記で引用しているように、「(客観的な必要ではなく)主観的な満足を追い求める個々人の満足の総和だけを価値基準とする学問」であるからだと思うのです。

日々の行動において「損(=費用)は何なのか?」、「得(=便益)は何なのか?」を明確に意識すれば、より少ないコスト(=費用)で、その効果(=便益)を最大にできるというわけだからね。

……

経済学で考える満足は、各個人の心のなかにある――つまり、その人個人が満足していれば、それが各人にとって「本当の満足」、「真のお得感」だと考えるんだよ。
「主観的な満足度だけ考える」ってどういうことだろう。贅沢な食事をするのが好きという人や、車を改造するのが好きという人がいるように、何に満足を感じるかは人それぞれで難しい、だから、経済学は「真の満足とは何か?」とか「客観的な満足とは何か?」みたいな話には一切立ち入らない。各人が満足だと思っていれば、それがすなわちその人の満足だと考えるんだ。

「何が満足か」じゃなくて、「その人が満足しているかどうか」が重要なんだね。

だから経済学では「みんなの幸せが私の幸せなのです」とか、「私が犠牲になってもあの人を守りたい」という考え方も、その人それぞれの真の満足だと分類するんだよ。

飯田泰之『世界一わかりやすい 経済の教室』1-2

ここから「若者には貧乏になる自由がある」「寝たきり老人は、自ら尊厳ある死を選ぶ権利がある」という物言いに、それほど距離があるとは思えないのである。
もちろん、飯田氏はそこで「経済学的にはそうなるが、それが正しいと言ってるわけではない」というふうにエクスキューズを入れることを忘れてはいない。

経済学に対しては「世の中、損得だけじゃない」とか「効率性ばかりを追い求めてもろくなことはない」といった批判が寄せられることが多い。
でもこれは経済学に対する批判としては的外れ、いわれもない中傷だと言ってもいいかもしれない。
経済学者は「社会全体にとって効率的なのは○○な状態です」とは言うけれど、決して「効率的なことのみが正しい」とは言ってないんだ。ましてや「人は損得だけを考えて行動すべきだ」なんていう経済学者に僕は出会ったことがないよ。
ふだんの生活でも、いいとか悪いといった判断をするときには、何がいいことで、悪いことなのかを判断するための基準がないと困るよね。そこで経済学では、「一番効率的な状態」を基準にすることで「今はどのような状態か」を考えるんだ。

つまり、目標を見つけるっていうこと?

そうだね。そして、効率以上に大切なことがあるときにこそ「一番効率的な状態」、「一番お得な状態」を知ることが大切だよ。
なぜなら、何が一番効率的な状態かがわかっていれば、「ちょっとくらいの損なら我慢しよう」、「ものすごく損ならやめとこう」という判断を下すときの基準になってくれるからね。

飯田泰之『世界一わかりやすい 経済の教室』1-1

しかし僕が思うに、ここには二つの欺瞞があるように思えてならないんですね。
1つ目の欺瞞は

  • 「これが効率的だよ」とだけ言われれば、それを拒否してわざわざ拒否するのなんか無理に決まってるじゃん

ということ。
世の中には「効率的に最大多数の最大幸福を求めるべき(功利主義)」以外にもさまざまな価値観がある*1。なので、もし選択肢を示すなら、それぞれ様々な価値観に沿って、「功利主義に基づくなら効率的な〇〇がおすすめだけれど、それ以外のXという価値観なら☓☓がおすすめだよ」というように、複数の選択肢を指し示すべきなんですよ。ところが経済学は功利主義の価値観をとることを自明の理として、「〇〇が効率的でいいよ」と勧めてくる。そうしたら人は「〇〇がいいのかー」と、〇〇を選ぶに決まっているわけで、そうやって〇〇を選ばせておきながら「〇〇以外を選んでも良かったのに〇〇を選んだのはあなたなんだから、別に経済学の責任じゃないよ」というのは、あまりに無責任すぎませんか?ということです。
そして2つ目の欺瞞は

  • 制度設計として人々が効率重視で動くことを自明とする社会制度を作れば、そりゃ人々の価値観はそのような社会制度に適合的な形に変わるよね

ということ。経済学は「一部の例外を除いて多くの人は効率的に満足を最大化することを前提として動いているんだから、その大多数の人に合った社会制度を採用するのが一番多くの人々が幸福になる」というけれど、そういうふうに人々が効率的に動かされるのは、僕からすると、経済学がその功利主義というイデオロギーに基づいた政策提言により、「効率的に動かないと不利になる」制度を作ったから、そう仕向けられてるのではないかと、思えてならないのです。
これは、以前id:rna氏と、経済成長と生産性について議論したときも問題になったことです。
rna.hatenadiary.jp
上記の記事でid:rna氏は「生産性を向上させようとするのは資本主義とか経済学とか関係ない人間の本性だ」と主張しています。

あままこさんは「人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする」のではないかと主張していますが、それは僕の実感とはかけ離れています。

僕の職業はプログラマですが、製品コード以外にもちょっとしたスクリプトを書いて作業工程を自動化したりしています。これもわずかながらに生産性を向上する営みの一つですが、別にそうしないと「ダメな人間」とは思いません。いや、「ダメなプログラマ」とは思うかな… しかし「ダメな人間」にならないためにやってるわけではないのです。

この手の生産性向上というのは「楽して同等以上の結果(=利益)を出したい」というのが動機になっている面が大きくて、それは言い換えると「楽はしたいけど今より貧しくはなりたくない」「楽して今より豊かになるならもっといい」ということです。

ここでは「今の自分が何もしないでのんびりできること」と「未来の自分が楽すること」が時空を超えて交換可能な価値として認識されることが、暗黙の了解となっているわけです。
ですが例えば僕の(実際はそのように生きられないけど、本当はそうやって生きたい)価値観からすると「今の自分が嫌な労働をせずのんびりすること」は、未来の自分がどんな状態になろうが交換しようがない至高の価値なんです。
ここで重要なのは、別にどちらが本物でどちらが偽物、という話ではないということです。id:rna氏の価値観も、僕の価値観も、それぞれ社会の別の文脈の中で作られたものなのでしょう。問題は、それがどのような文脈で作られてきたのかです。
そして、僕からすると、id:rna氏の価値観は、まさしく「効率を第一に考えるべきだ」という経済学の価値体系や、それに基づいて作られた社会制度によって形作られたものにしか見えないのです。
別に、そういう価値観やイデオロギーが存在するのは否定しません。しかし、それがあまりに社会全面を支配しすぎているからこそ、先に行ったような「若者には貧乏になる自由がある」「寝たきり老人は、自ら尊厳ある死を選ぶ権利がある」という物言いが肯定されてしまうのではないかと、僕は考えるのです。

京都学派―国家全体の富を最大化する方法を提示している/「生きるに値する命」を国が選別することは全体主義

先日、れいわ新選組の大西つねき氏が「命の選別」を容認する発言したとかで党から除名される騒動がありました。
れいわ新選組の迷走 大西つねき氏の「命の選別」発言に党内からも批判 なぜ除籍処分は遅れたのか
「生産性で人間をはからせない世の中」を目指すとしたれいわ新選組から、このような発言が出たことを意外に思う人も多くいました。
しかし、下記の記事で指摘したように、れいわ新選組の経済政策である「大量の国債発行と減税による経済成長」という政策が、やがてこのような「命の選別」に結びつくのは決して意外ではないように思えます。
amamako.hateblo.jp
そしてそれは。れいわ新選組の経済政策である「大量の国債発行と減税による経済成長」という政策を支持する藤井氏の本を見れば明らかなわけです。
前節で引用したように、藤井氏は公共事業など経済成長につながる財政出動国債を発行してでもバンバン行うべきと主張する一方、社会保障には極めて冷淡で、「寝たきり老人は尊厳ある死を選べ」とまで言うんですね。しかしこれは、経済成長を是とする立場からは自明のことなんです、なにせ寝たきり老人は何も生産しない、経済学的に言えば生産性0の存在であり、総需要が不足している今はまだ良いけど、いつか景気が好転し供給サイドが不足すれば、途端に足を引っ張るだけの存在とみなされるからです。そんな存在のために若者の「主観的満足」を損なってはならないという大西つねき氏の発言は、もちろん許しがたい発言ですが、しかし「経済成長」を党是とするれいわ新選組のもう一つの側面を突き詰めればそういうふうに言うしかなくなることは避けられない、そんな発言なのです。
国の経済成長を追い求めることを是とする限り、国民の生活はその経済成長を追い求めるための道具に過ぎなくなってしまい、結局それは全体主義の一形態にすぎなくなるのです。安易に「景気を良くしてくれると言っているから」と藤井氏の主張するような経済政策に飛びつくのは、本当にそういう全体主義を是としていいか、考えてからにしたほうがいいと、僕は考えます。

反緊縮左派―個々の政策自体はどれも賛同できる/けど、結局それでもたらされるのは昔の「勤労国家」の復活じゃないの?

そして松尾氏の提唱する「反緊縮左派」。
最低賃金の引き上げや、ベーシックインカムの導入など、個々の政策自体は支持できる、支持できるんだけども……
結局、松尾氏の言うような政策をとって好景気になったとして、そこで待っているのは、高度経済成長期の日本と同じような、「苦しんで働いて国と企業に奉仕するものこそが偉い。それ以外のものはそのおこぼれで生かしてもらっているのだから感謝しろ」という、(まさに井出氏の言う)勤労国家*2の復活であり、「施しとしての福祉」の復活でしかないかという思いが拭えないのです。
つまり、金融政策・財政政策によって経済成長を生み出し、それによって生まれた所得税法人税を中心とした税収によって福祉を行うというシステムだと、結局「豊かなものの富をほどこされて、貧しい者が生かさせていただく」という構図は変わらないわけです。もちろん「豊かなひとだっていつ貧困に転落するかわからないんだから、これは保障であって施しではない」という理屈はわかります。わかるけど、しかし「働いて稼いで富めるものになったものこそが偉い」の倫理がしみついた国民の多くはそうは受け取らないでしょう。
そして、そういう「豊かなものの富をほどこされて、貧しい者が生かさせていただく」という構図が温存されたまま、また何らかの理由で不景気が生じたら、やっぱりこの失われた20年と同じように、真っ先に削られる福祉は「経済成長に与しない人たち」の福祉となるわけです。
では、そのような「働くものが経済を成長させるから偉い」という社会に対し、どのようなオルタナティブを提示できるか。松尾氏の議論には、この点が欠けているような気がしてなりません。

終わりに―やはり重要なのは「どんな社会を目指すか」という視点ではないか

経済論争を最初まとめようと思ったとき、僕はやはりよくインターネット上でも論争になる「緊縮財政か拡大財政か」という点が重要になるのではないかと考えました。
しかし、まとめ始めると、「緊縮財政か拡大財政か」という議論は、結局その背景で「どういった国家・社会をこの国が目指すのか」という問題を考えないと、同じ緊縮派/拡大派でも全く意味が異なってきてしまう、そのように感じるようになりました。
結局、緊縮だろうが拡大だろうが、「この社会は何を目標とする社会なのか(経済成長によって主観的満足を最大化するのか、適切な分配を通じて各人の必要を満たすのか)」という、理想とする社会像の違いこそが、それぞれの議論の本質的な違いなのではないかと、そう感じるのです。
そして、その点から言うと、やはり反緊縮左派は一体どんな価値観に基づき、どういう社会を構築しようとしているかが全然見えてこなく、結果として過去の高度経済成長期の日本を取り戻そうとする、過去を美化したノスタルジーにしか見えないのです。
もちろん、反緊縮左派はスローガンとして「経済成長によって得た富を手に、新しい多様性を尊重する社会を尊重する」と言っています。しかし、それが経済成長というものによってしか支えられないとするのなら、結局尊重させる「多様性」も、経済成長の助けになる「多様性」に限定されるのであって、それ以外の「多様性」は、「経済成長の邪魔にならない限り存在することは許してやるよ(もちろんそれを邪魔したら存在すら許されなくなる)」という程度の施しを受ける対象となるわけです。ですが、そんなものが真の「尊重」と言えないのは、左派なら分かってるはずです。
反緊縮左派である北田氏は井出氏について

いやー、井手さん+前原で、懇話会が目指していた反緊縮左派の芽は潰えたとぷんすかしていたんです。

北田暁大『終わらない「失われた20年」』p238

とか言ってますが、井手氏とは違う道を、単なるポピュリズムではなく社会学者として真面目に示したいなら、ただ松尾氏のノスタルジーに浸るような政策提言に乗っかるだけでなく、高度経済成長を前提とした「勤労国家」とは違う、別の、経済成長に与しない人たちも包摂するような社会像を、提示しなきゃならないんじゃないですかと、思いますがね。

「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学は本当に駄目?

先日、ある社会学者の次のようなツイートが、Twitterの一部で話題になりました。


多くの人は、これを読んで単純に「今の学生はそんなことになっているのか、けしからん」と思っているようです。
ただ僕としては、そういう社会学を人々が求めるようになっていること、それ自体が一つの大きな社会の変化を表しているのではないかと、思うのですね。
逆に言うと、こういう「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」を、社会学を学ぼうとする人々が志向し、一方でそれをよく思わない人たちがあり、そこで社会学観を巡って軋轢が生じている。この現象が一体何を意味しているのかを、良い・悪いはひとまず置いて、考えてみたいと思うのです。
そしてその上で、その軋轢を乗り越えるためには、一体どういうような方法論がありうるか、それを考えたいと思います。

肯定派・否定派それぞれの意見

まず、上記のツイートに対する反応で、重要だと僕が思ったツイートを抜粋していきます。

「常識を疑う」社会学への批判


まずこの日本共産党市議会議員の向川まさひで氏のツイートでは、「他者の常識を疑う」ということの中に、正義や道徳といった社会の共通善を掘り崩してしまう効果があるからよくないということが言われています。
つまりここでは、「他者の常識」というものが、社会全体の共通善というものを維持しているということが前提とされているわけですね。そして現行の社会学教育を含めた大学教育の「常識を疑う」ことこそが、共通善を壊してしまっているというわけです。
一方民俗学者大月隆寛氏は、「常識を疑う」学者自身の常識は一体どうなっているのかということを挙げ、そのような「常識を疑う」社会学の背景に、エスノメソドロジーカルチュラル・スタディーズフェミニズムなどの影響を見ています。
ここで面白いのが、一方は日本共産党の議員さん、他方新しい歴史教科書をつくる会の元事務局長という、政治的には水と油のような二人が、ともに「常識を疑う」社会学を批判しているという点です。
また、「常識を疑う」ということへ批判的立場を持つツイートは、他には以下のようなものがあります。
これらツイートをまとめると、「常識を疑う」社会学は、結果として科学的知や共通善といった、社会の成員全員が「これは正しい」と思っているものにまで疑いの目を向けることにより、人々を、社会に責任を持たない無秩序な個人に仕向けているのではないか。だからいまこそ「常識を疑う」ことをやめ、因習であったり共通善といった「常識」を叩き込むような教育を行わなければならないと、いうことになるようです。

「生きづらさ」は社会学の問題ではない?

一方で「生きづらさ」については、それはそもそも社会学が問題とする分野ではないという指摘が目立ちます。


心理学・哲学・文学・宗教とさまざまな分野が出ていますが、いずれにも共通するのは、それが個人の内面を考える分野だということです。つまり、「生きづらさ」というのは、あくまで個人が自分の心の内に持つものなのだから、心理学や文学・哲学といった個人の内面について考える学問で扱うべきなのであって、人と人とが集まる「社会」について考える社会学という分野では対象にすべきものではないというわけです。

「自分の生きづらさ」と「他者の生きづらさ」の間に共通点を見つけるのが社会学

他方、「生きづらさ」は十分社会学の研究対象になるという意見もあります。そのような意見では、「生きづらさ」とは、一人ひとりが独自に持っているように見えても、そこには必ず共通できる点があるのであって、そこで「自分のいきづらさ」から「他者の生きづらさ」に共感したり理解したりすることが、社会学が「生きづらさ」を研究対象にする大きな理由であると示されています。

「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学のポジショニングマップ

以上の意見を自分なりにまとめ、またそこに自分の解釈を付け加えた上で、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」社会学と「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」社会学がそれぞれどんな位置にあり、一体どんな分野・要素と近い位置にあるのか、ポジショニングマップを作成してみました。
www.positioning-map.com
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「自分の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、やはり哲学や心理学でしょう。それに対し、「他者の常識について疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、自分は人類学であると考えます。そこではあくまで自分たちの社会ではなく、他者の文化や社会といったものが民族誌として研究対象となるわけです。
ところが、社会学というのはある意味哲学・心理学的な側面もあるし、一方で人類学的な側面もあるのですね。それぞれの学問分野の残余領域を扱うのが社会学だ、と言う人もいるくらいです。ですから、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野と、「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」分野は、隣接分野との関連で言うならば、どっちも一応社会学だよなと、言うしかなかったりするのです。

「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそがなぜ正統とされたのか

ではそんな中で、一体なぜ社会学は右上の「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそが正統とされてきたのでしょうか。自分が思うに、そこでは

  • 他人の生きづらさ=社会的弱者の問題に関心を寄せる
  • 自分の常識を疑う=科学的知・共通善に基づき、個人的実感・思い込みを正す

というのが、社会学を含め、人文社会科学における規範となってきたからと考えます。
つまり、科学でもって個人が持ってる偏見や思い込みを正し、貧困であったり差別を受けている社会的弱者を助けるもの、これこそが大学まで行けるような裕福な人間の、責任ある態度だというわけです。
ところが、現在はその反対、本来社会的弱者を助けるエリートであるべき学生が、その弱者ではなく裕福な自分の生きづらさなるものに関心を寄せており、更に言うと科学的知や共通善というものを軽んじて自分の実感ばっかりを重視している、これはよくないというわけです。

エリート/大衆という区分けが崩れる中で、人文社会科学の規範もまた変容を迫られている

ところが、このような規範は、あくまで「エリート/大衆」という区分けがあり、そしてその中でエリートだけが社会学を学ぶということを前提としているものですが、しかし現状はそうなっていないわけです(こんなこと、まさしく教育社会学が専門である方には、釈迦に説法でしょうが)。
実際は、社会学を学ぶ学生といったって、実際は裕福な暮らしとは程遠く、貧困ギリギリである人も多々いますし、差別を受けたマイノリティの方も多々いるわけです。さらに言えば、日本全体が低成長に苦しむ中で、例え今そんなに苦しい状況ではなくても、将来に渡って自身の生存が安泰だと思える人は殆どいないわけです。こんな状況で、「君たちはエリートなんだから、自分のことではなく他人のことこそを気にかけなさい」と言われても、「そんなことより自分の将来が不安だ!」と答えるしかないでしょう。
さらに、エリートが科学的知や共通善を決めることを独占してきたこと、それ自体が科学的知や共通善といったものを脅かしています。水俣病から福島第一原発まで、科学的知というものは往々にしてそれこそ大衆を黙らせる方便として扱われてきました。「道徳」と呼ばれる共通善もまた然りです。人々が科学的知や共通善を信じられなかったのは、大学の学問がそうしたものを価値相対主義によって批判してきたからということが言われていましたが、僕からするとそれは因果が反対で、人々が科学的知や共通善を信じられなくなったからこそ、大学の学問においてもそういう価値相対主義が主流になってきたのだと考えます(そもそも、社会を相対化する価値相対主義は、60年代のカウンターカルチャーがなければ生まれ得なかったわけですから)。
つまり、「自分の常識を疑い、他者の生きづらさについて考える」分野こそを正統とする規範は、その前提条件となる「エリート/大衆」という区分けがなくなってしまった時点で、維持するのがかなり難しい規範となっているのです。

トップダウンで「社会」を押し付けるのか、ボトムアップで「社会」を発見するのか

では一体どうすればいいのか。
一つの方策としてありうるのは、エリートの学問から大衆の教導へと、社会学教育のやり方を変える方法です。具体的には、とにかく「道徳」や「正義」といった「他者の常識」の正しさを叩き込み、そしてその中で自分を滅し他者を助けるという規範こそが正しいとすることです。多分、「新しい歴史教科書をつくる会」とか、あるいは政府の教育再生なんとかとかが理想とするのは、まさしくそういった方向でしょう。
しかし、そのようなトップダウン方式の教育は、まず非民主的にも程がありますし、そもそもその教育を行うエリートが正しい教育を行っているか、判断できません。少なくとも僕は、正しさを上から押し付ける教育なんか糞食らえです。
ではどうするか、僕は、まず個々人の「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことそれ自体を否定するのではなく、むしろそこを出発点として認め、そこから思考を進めていく中で、「自己」と「他者」の垣根を壊し、「自分と他者の常識を疑い、自分と他者の生きづらさについて考える」ことへつなげていくこと、そしてそこから、「自己と他者」が含まれるものとして社会というものを見つけ、「社会の常識を疑い、社会の生きづらさについて考える」ことへとつなげていくことこそが、重要だと考えています。そしてそこから、一部のエリートが独占するものではなく万人に開かれたものとして、共通善や科学的知の信頼を回復していくべきだと、考えています。
いうなれば、トップダウン方式は、上から「社会とはこういうものだ」と押し付けるものです、それに対しボトムアップ方式は、まず個々人から出発し、そこから個々人の単なる集合ではない、「社会」というものを発見する、そういった方法論といえるでしょう。
「他者の常識を疑い、自分の生きづらさについて考える」ことは、まさしくそういったボトムアップな、まず一旦そういった状態を認め、そこから発展していくという形でしか、克服できないのではないでしょうか、

シーライオニングから考える「保守のフェミニズム」

「シーライオニング」という言葉がSNS上で話題になっています。どういう意味かというと、「自分の意見に反対する側を質問攻めにすることで、相手に嫌がらせしようとする行為」と、一般には捉えられているみたいです*1
ところが、この「シーライオニング」という言葉、あるWeb漫画が元ネタの言葉だそうなんですが、そのWeb漫画を見ると、どうも上記に挙げられたような用法には必ずしも還元されない、複雑な含意があるように思えてならないんですね。


僕は、この漫画を読んだとき、まず最初に「いきなり『アシカは嫌い』なんて言われて、そこで怒ってもいいのに、怒りもせずにその理由を聞こうとしたら邪険に扱われる。アシカさん可愛そうすぎじゃない?」と思いました。
言うなれば、僕はこの漫画を読んだ時に、そこに「マジョリティ(人間かつ貴族)がマイノリティ(言葉を発するアシカ)に対し嫌悪感を表明し、しかもそのことに一切反省すらしない」という描写を受け取ったのです。
だとすれば、むしろリベラルやラディカル的にはアシカの側に立つべきなんであって、そこで人間の立場に無邪気に同一化するのは、どうも危ういんじゃないかと、そう思ったのです。
同様の指摘は、CDB氏もしています。
note.com
ただ、そこで更に考えると、そもそも「リベラルorラディカルであること」と「フェミニストであること」が、イコールで結び付けられるというのも、一つの思い込みで、反リベラル・ラディカルなフェミニズム、いわば「保守のフェミニズム」という立場もありうるのではないか。そしてその立場に立てば、元ネタのWeb漫画での「シーライオニング」は、私的領域の不当な侵害として、非難されるべきものになるのではないかと、考えられるのではないか。そんな考えが、浮かんできたのです。
どういうことか、これから説明しましょう。

アシカがやってるのは「非暴力直接行動」としての問いかけと捉えることができる

まず、そもそもなぜアシカがやってることがリベラルやラディカルにとっては擁護されるべきことなのか。それは、アシカのやっていることが、まさしくリベラルやラディカルが理想とする「非暴力直接行動」だからです。
非暴力直接行動とは何か。方法としてはそれこそ座り込みから署名活動、糾弾会、メディアジャックと呼ばれる行動までさまざまあるのですが、それぞれの行動の目的は、だいたい以下の一つに集約されます。それは

  • 対話/交渉/取引に応じようとしないような相手を、交渉に引きずり込む

ということです。逆に言えば、ここから逸脱し、例えばぶん殴ったり、あるいは相手を意図的に成人すら困難な窮乏状態に追い込んで、自分の主張を通そうとする行為は「暴力」となります。
なお、ここで抑えておかなければならない、「暴力」も決して全否定されるべきものじゃないということです。多くの歴史上の革命は、非暴力直接行動でなく暴力によって達成されました。そして、それらの革命により、基本的人権の獲得や、社会保障の充実などは行われてきたのです。あくまで他に方法がない場合に限りますが、暴力もまた、社会改革のための一つのオプションとして、考えはされるべきなのです。
しかし、それでもできるなら暴力より非暴力のほうがいいです。それはなぜかといえば、「一旦暴力が容認される空気が醸成されると、往々にしてそれはより暴力に資源を動員できる、マジョリティや資産家・権力者に有利になることがある」ということです。実際は、他の戦略の使い方によっても変わってくるので、絶対にそうなるとはいえない(だからこそ暴力は選択可能なオプションとして考慮はし続けなくてはならない)ですが、暴力が容認されると、それは暴力を独占している国家や、警備会社や暴力団を簡単に動員できる資本家、また、それこそ「数の暴力」を行使できるマジョリティに有利になってしまうんですね。
以上の理由から、リベラルやラディカルは、マジョリティや権力に対抗する手段として、「非暴力直接行動」というものを重要視してきました。そして、Web漫画でのアシカの行動は、まさしく「非暴力直接行動」なのです。
アシカは、別に暴力を使い、相手に強制的に「アシカは嫌い」という主張を撤回させようとしているわけではありません。ただ、「アシカは嫌い」という言論を、交渉の俎上に載せようとしているのです。そしてその為に、ずっと質問攻めに合わせたり、家に押しかけたりしているわけです。これは、まさしく座り込みなどと一緒の直接行動です。
「こんなの嫌がらせじゃん」と思う人もいるかもしれません。ですが、同じように座り込みや署名活動、組合加入、糾弾会といった非暴力直接行動も、権力・マジョリティ側は「単なる嫌がらせ」と避難してきたのを忘れてはいけません。時に弱者やマイノリティ側は、嫌がらせ的であっても行動に出なければならないのです、それを否定してしまうことは、結果として権力やマジョリティを利することに他なりません。
以上のことから、リベラルやラディカル的には、アシカのやっている行動はむしろ「非暴力直接行動」として擁護されるのです。

非暴力直接行動を否定する「保守」の立場からのフェミニズムも現れているのではないか

しかし、いくらリベラルやラディカルの側からそうやって「アシカは擁護されるべきだ」と主張しても、むしろ多くのSNS上のフェミニストは「そんなのどうでもいいよ。こういう嫌がらせに私は苦しんでるんだから、こういう嫌がらせは私の目の前から排除したい!」と言うでしょう。
なぜそう思うか。その理由は、端的に言えば、彼・彼女らフェミニストがもはや、対話/交渉/取引は不要、そんなの無くたって自分たちの目的は達成できると、考えているからではないでしょうか。
先日朝日新聞にこのような記事が掲載されました。
www.asahi.com
上記の記事では、SNS上であったり、セレブなどが支持するフェミニズムを「ポピュラーフェミニズム」と呼び、若い人たちにこれらのフェミニズムが「感じのいい」ものとして写ってると分析されています。
(余談ですが、ネット上にの反フェミの人たちはこのようなポピュラーフェミニズムを一部のものとして、未だにフェミニズムなんてガミガミおばばとして馬鹿にされてるんだと思いたがっているようですが、まあ、現実から目をそむけるしか精神安定の方法がないんでしょうね。彼らバックラッシュが現実から目を背けて弱くなっていくのは、むしろいいことですが。)
なぜ「感じのいい」ものであるかといえば、それらフェミニズムが、「議論」を仕掛けるものではなくなったではないでしょうか。議論なんかによって無理やりフェミニズム側の要求を飲ませなくても、普通に社会が回っていけば、女性の立場は向上するんだ、というものです。
だから、今のそういったフェミニズムは、ウーマンリブといった昔の運動を参照したりしません。代わりに彼・彼女らが参照するのは、例えば↓の本だったりします。

最初僕はタイトルだけ読んでこの本は「ああこれまでのフェミニズムのように、対話を重要視してるんだな」と思ってたんですね。ところが、読んでみるとこの本はむしろ、ひたすら「異なるものとの対話なんてしなくていい」と、対話の価値を否定しているんです。この本で言う「黙らない」「ことばが必要」というのは、男性やマジョリティに投げかける言葉ではなく、むしろ女性同士で内向きに自分たちシスターフッドを鼓舞する「内向きの言葉・会話」のことだったのです。
なぜそういう戦略をするといえば、もはや対話なんてしなくても、現行の社会秩序のまま社会が維持されれば、女性の地位は勝手に向上していくと考えてるからなんですね。そして、それは多分正しい。労働人口が有り余ってた昔ならいざしれず、労働人口がどんどん減少していく現代においては、すくなくとも「男と女で違う扱いをする」なんて非効率的なやり方はどんどん廃れていくでしょう。
だから、現代の若いフェミニストは、もはや議論や対話など求めません。むしろ「異なる立場との対話」なんていうのはできる限り避けられるようにすべきもので、私的領域とは闘争の場ではなく、シスターフッド同士のエンパワーメントの場となるのです。
そのような立場は、いままでの「個人的なことは政治的なこと」といい、社会全体で闘争を行おうとしたリベラルやラディカルのフェミニズムとは違うものです。むしろ、私的領域と公的領域を厳然と区別し、私的領域に公的領域の正義を持ち込もうとしないという点で、保守のイデオロギーに近い、「保守のフェミニズム」なのです。
そしてそのような観点からすると、今回話題に上げているWeb漫画は、私的領域においてまで踏み込んできて「対話」の名のもとに嫌がらせをしているという点で、批判されるべきものとなるのでは、ないでしょうか。

賛成するにしろ批判するにしろ、「保守のフェミニズム」というものをまず理解しなければならない

以前、SNS上で、「トランスジェンダーを排除するフェミニスト」、いわゆるTERFというものが大きな議論となりました。しかしこれも、今から考えると「保守のフェミニズム」と呼べるべきものだったんではないかと、いまでは思うんですね。保守なら、トランスジェンダーを排除することに何も問題を感じないのは、むしろ自明のことと言えるでしょう。そしてそうであるなら、いくら保守にリベラルの理念を説こうと徒労に終わる以上、TERFをリベラルやラディカルの理念から批判することも、また徒労に終わるのです。
このような「保守のフェミニズム」というものをどう理解し、対峙していくかこそ、SNS上のフェミニズムや若い人のポピュラーフェミニズムを考える上では、重要になってくるのかも、しれません。

*1:少なくとも僕の観測範囲では

30代・40代はなぜ「絶望的」か-他人を「道具」としてしか見られない世代

都知事選、終わったそうで。
まあ、基本的に僕は「地方の選挙はその地方の人が考えるべきことで、他所の人が口をだすべきではない」と考えるので、今回の都知事選には口を出しませんでした。
ただ、選挙結果を見て思うのは、「やっぱうちらの世代(30代・40代)って、本当にダメだなぁ」ということで。


一応32歳で、30代である僕としては、本当に「うちらの世代がダメですみません」としか言いようがないです。
ただね、一つ言い訳をさせていただくと、うちらの世代は、維新みたいなネオリベか、さもなくば日本第一党みたいなゼノフォビア(外国人嫌悪)しか、道がなかったというのも、あると思うんですね。
何故か、要するに僕らの世代は、リベラルや左翼がいう「公共」「市民社会」というものから何か助けてもらった経験がないんですよ。
そんな中で、立憲やれいわが言う「損得抜きでみんなで助け合う社会」というのは、夢物語としか思えないんです。

ルルーシュやライトがロールモデルだった世代―他人とは常に、利用する/されるものでしかない

さんざん言われてきたことですが、今の30代・40代というのは、不景気の中で、常に他人と何かを奪い合ってきた、そういう世代です。
学校卒業後の就職活動では正社員の地位を奪い合い、その奪い合いに敗れたものは非正規雇用の中でいつ他人に職を奪われるか不安に怯える。例え奪い合いに勝てたとしても、そこで待っているのは他社との果てしなき競争。もしその競争に敗れて自分の会社が潰れたり、解雇でもされたりしたら、せっかく就活に勝っても意味がないから、必死で他社や他人を蹴落とそうとする終わりなきサバイバル。
そんな中必死で生き残ってきた*1僕ら世代には、いつしか「他人とは利用するもの、さもなくば自分が利用される」というメンタリティが染み付いているんです。
これが一番良くわかるのが、僕らの世代の人らが、アニメや漫画で一体どんな主人公が人気で、ロールモデルとなりうる存在だったかということです。僕より上の世代なら、アムロ機動戦士ガンダム)とかシンジ(新世紀エヴァンゲリオン)とかでしょう。組織の中で頑張って助け合う主人公、あるいは、より深く自身の存在意義について内省する主人公、いいですよね。
あるいは、僕らより下の世代なら、それこそキリト(ソードアート・オンライン)とかお兄様(魔法科高校の劣等生)とかでしょうか。圧倒的能力でもって気に入らない奴らをやっつけて、自分の大切な人を守る主人公、いいねー、これもまた王道ですよ。
それに対して、僕らの世代で人気だった主人公と言ったら、それこそルルーシュコードギアス

とかライト(デスノート)とかですよ。
なんですかこの差。
自分の望むことのために、他人を平気で利用して、それに何ら罪悪感を抱かない主人公。一体何で僕らはこんな主人公たちに憧れてるんだ。
でもこれが、僕らの世代の真実なんです。他人をボロ雑巾のように使い回すことしか考えない人たち。そんな中で、もし「他人のためになにかしたい」なんて思ったら、その結末は体よく搾取されることでしかない、世界っていうのはそんなものなんだと、僕らは信じて生きてきたし、事実そうだったわけです。

コネを使って何が悪いか、本気で分からなくなってきている

森友や加計学園、またその他にも今の安倍政権のなかで起こっている様々な汚職事件、かつての日本だったら、こんな汚職、一つあっただけで、政権が吹っ飛んでいたでしょう。
しかし今の私達、特の僕らの世代では、こんな事件がいくつあっても何も変わることはありません。なぜなら、「汚職して自分のコネ使って、何が悪いの?」というのが、世代の共通意識だからです。
例えば、僕らの世代が就活しているとき、決まって僕らはこう言います。「コネとか使ってなんとかできないかなぁ」と。
あるいは、会社の仕事で新規案件を取ってくるときも「なんかコネとか使えない?」と、平気で言うわけです。
なんなら、公的機関に相談しにいったときでさえ、こういうこと言われるんですから。
かつての日本だったら、実際にそれが行われなかったとはいいませんが、少なくとも「コネを使って何かを得る」ことは良くないことで、大っぴらに言っていいことではないと分かっていたはずです。少なくともそれは邪道であり、本当に正しいのは、コネとか一切ない環境なんだと。
ところが現代では、もはや「コネを使う」ということが大っぴらに正当な行為であるとまかり通ってしまっている。そういう社会に生きていれば、そりゃあ政治でコネを使った汚職とかが横行しても、「それの何が問題なの?」と、思うしかないでしょう。
コネでもなんでも使って他人を利用して自分の利益を分捕ろうとする、それこそが正しい人間のあり方だと、少なくとも僕らの世代は認識してしまっている。そんな中で、安倍政権とか維新とかは、「うまいことやった人たち」として尊敬を集め、日本第一党みたいな排外主義の連中は「日本人に利益をぶんどってきてくれる」頼れる奴らとして支持を集める。一方で、リベラル勢力は「綺麗事に囚われてなにも得られないダメなやつら」と思われてるんです。

でも今の10代・20代がそうならないという保証は?

まあでも、こういう魂が汚れて善悪の区別もつかなくなった連中が、うちら世代に限定されるなら、それこそ社会からパージするなりして、以降の10代・20代に期待を寄せればいいとは思います。僕は同世代の人間の大部分が大嫌いなので、例え自分が巻き添えになっても、そういう解決策でいいと本気で思ってます。
でも、10代・20代、本当にそんなに信頼がおけますかね?
記事の最初に挙げたツイートでは「10代、20代の若い世代は希望だ。」という言葉があります。ですが、30代の、心が汚れてしまった人間として思うのは「でもそれって結局、自分の力で社会をサバイブしなくてもなんとかなる身だからそう思えてるだけで、一旦この弱肉強食の社会で生き残らなきゃならなくなったら、途端に僕らみたいになってしまうんじゃない?」ということです。
「10代、20代の若い世代は希望だ。」とかいう美辞麗句で褒めそやしても、実際にそういう美しいメンタリティで生きていけなければ、途端に生き汚くなってしまうのが、人間というものではありませんかね?
と考えるのは、僕らの世代がダメだからなのでしょうか。
「他人を利用し、蹴落としてでも自分が生き残れればそれでいい」という汚らしいメンタリティが根付いてしまった僕らの世代として、10代・20代の若い世代には、そういうメンタリティではなく、みんなで助けあうということを美徳としてほしいと、僕は思います。ですが、それは少なくとも、今の社会では不可能に思えてなりません。

*1:これは比喩ではないんですよ。実際、僕らの世代で、同級生に自殺してしまった人や過労死してしまった人がいない人なんて、ほとんどいないんじゃないか?

「〇〇は嫌い」という感情自体はしょうがないものなんじゃないか

先日、なぜかまたオンライン飲み会にご招待いただきました。

で、そこではエロティシズムは虚構に根ざすものなのか現実に根ざすものなのかとか、「あえての露悪主義」があえてを外して全面化してしまったのが現代ではないかとか、そもそも現代において虚構は可能なのかとか(これについては以前noteで記事を書きました)、インターネットで議論を戦わせることの意義と限界点とか、色々な話をしました。

ただ、正直一番覚えてるのは、「ある声優とある声優が反りがあわなくて不仲らしい」という声優ゴシップで、他の人はあんま興味がなさそうにしてたにも関わらず、とても面白いのでずっと話を聞いていました。ああ、ほんと、自分って俗物だなぁ。

もちろん、噂は噂ですから、それが事実かは知りません。おそらく、なんとなく合わないということを、針小棒大に取り上げて、不仲説まで言ってるのかなぁと思うのですが、しかしそれでも、反りが合わない人って声優にも存在するんだな。なるほど、そういうバックグラウンドの違いから反りが合わなくなるんだなという話は、いわゆる文化資本階級意識の話とかにも繋がる話だなと個人的に思ったりして、面白かったです。

で、なんでそんなゴシップを聞いて面白かったという話をしているかといえば、まあ、あれです。某元im@s声優の、いわゆる「Twitter破壊」配信のことです。

なんかSNS上では蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまっているみたいで、もちろん、昔演じていたキャラをコスプレするのって権利的にはどうなのとか、あるいは明言しないまでもある人が役柄と引き換えに性行為を強要したと言うけど、それって本当なのかとか、そういうことは、たしかに議論を呼んでしょうがないと思います。

ただ、嫌だなと思うのが、そういう話まではいかない、例えば昔〇〇という声優と共演してたけど仲が悪かったとか、〇〇という声優は感じが悪かったとか、その程度の話に過剰に反応して、「中の人は夢を壊さないでください」とか言って、その配信をした声優をバッシングしてるような人が、なんかSNS上に多い、ということです。

このバッシングについての、僕の意見は、端的に言えばこうです。

「君等がどういう夢を声優に抱こうと勝手だけど、それは君等が勝手に抱いた夢なんだから、それが否定されたからと言って、声優を批判するのは、おかしくない?」と。

そりゃ仲悪い人だっているよ、声優だってにんげんだもの

もちろん、多くの声優は普通「誰とも仲良しです」という建前を貫きます。公の場で「〇〇は嫌い」なんて公言するリスクを取る声優は、そりゃほとんどいないでしょう。

でも、当たり前ですが、たくさんの、声優なんて特殊な職業を選ぶような人と付き合ってれば、その中で一人や二人、嫌いだったり反りが合わなかったりすることは当然あるはずなんです。僕だって、学校や職場で一緒にいたひとの中には、数人ぐらい「あいつだけは絶対許せない」と嫌っている人間がいますから。誰だってそうでしょう?逆に、なかったらそれはそれで気持ちが悪いです。

そして、今回の場合は、おそらく配信をした方の様々な事情とかも重なって、その「嫌い」という感情を心のうちに秘めておくことができなくなったわけです。

ここで重要なのが、誰かが誰かを嫌いになったり、反りがあわなかったりするとき、必ずしも「どっちかが(あるいは両方が)悪い」ということではないということです。そりゃ、嫌いという感情を抱く当人にとっては、それは完璧に相手が悪いことなのかもしれませんが、第三者からみると、相手に悪意が必ずしもあったわけではなく、ただ双方のコミュニケーションプロトコルが異なるだけだったりするんですね。

例えば僕は舌打ちやため息が本当に苦手で、自分がいるときにそれをされると「あ、自分のこと嫌いなんだな」と思ってしまうのですが、どうやら世の中には何の意味もなくただ癖でため息や舌打ちをする人もいるみたいで、そこに悪意はなかったりするみたいなんです(ということを、頭ではわかっていても実際に舌打ちやため息を聞くとイラッとしてしまうというのも、また厄介なところなんですが)。

逆に僕は人の話を聞くとき、自分がもうその人が話すことを理解できたと思うと、まどろっこしくなって相手の話を遮って自分の返答を話し始めてしまうのですが、これはほとんどの人にとっては「自分の話を真剣に聞いてくれていない」という風に捉えられるみたいなんですね。僕自身は、相手の言葉を真摯に受け止め、早く返答したいと思うからこそ、話を遮ってしまうのですが、インターネットではまさにそういう態度が「マンスプレイニング」として非難されていて、なかなか難しい。

ことほど左様に、人はそれぞれのコミュニケーション・プロトコルが異なるだけで、相手に対して嫌な感じを抱くものなんです。だから、実は個々人が誰それを好き嫌いというのは、実はその人自身が望んで行う好悪によるものよりも、その人の所属している階級や文化の違いに起因するものの方がずっと多いんじゃないかと、僕なんかは思っています。

だから、ある人に嫌いな人がいること、それ自体は当然のことで、別にその人が悪いからじゃないのです。

ところが、多くの人はなぜか嫌いな人がいることを、その人自身が悪いから発生する、いけないことだと捉えていて、嫌いな感情を持つこと自体を否定しようとします。そしてそのような観点からは「嫌いな人・ものを言う」ということは、ただでさえ持ってはいけない感情を、しかも口に出したということで、叩かれて当然ということになるのです。

しかし、ある人が嫌いであるという感情は、たとえどんなに清い心を持っても抑えることができるものではないと、僕は考えます。そしてその観点から言うと、嫌いということを表明することを過剰にバッシングする人は、むしろそれによって、「嫌いな人を嫌いと言ったら叩かれた。嫌いな人が悪いのに!」と、その人の嫌いという感情と正邪の観点を結びつけ、感情をより高ぶらせてしまっているのではないかと、思うのです。

「〇〇は嫌い」という感情、それ自体は別に否定しなくていい。むしろ重要なのは、そこで「〇〇は嫌い」という感情を認める一方で、でも第三者としてはそこでどっちが悪いかとかを安易に断罪しないことです。

「なるほど、この人は〇〇が嫌いなんだな。それはまあしょうがないか。でも、第三者である僕らには、どっちが悪いとかわかんないよな」という態度こそ、今回のような騒動では重要なのではないかと、僕は考えるのです。

「何者かになるため」には、自分自身の神になればいい

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最近、友人から「何者かになりたい」ということを聞き、改めて考え込んでしまった。

 

もちろん、このことに関しては散々ネットやらサブカルチャー(『何者』?「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」?)やらで語られてきたことだから、今更僕が何か新しい知見を出せるとは思えないのだけれど、でもこの問いが、そういう散々語られてきたことに関わらず、未だ解決せず、僕らの前に立ち塞がってきてしまうということもまた、事実なわけで。

 

考えてみると、「何者かになりたい」という願望には、二つの前提条件があるだろう。一つは、「人は『何者』かになれる」という可能性がそこでは想定されていて、にも関わらず本人の意識の中ではと思っているということだ。

 

ここでいう「何者」とは、僕の考えでは、存在することで世界に対し何か影響を及ぼす存在であることだと、言い換えることができると思う。そしてそれはおそらく、宗教的には「宿命」と呼ばれるものだ。神が世界に自分を存在させるのは、意図があるんだ。だからその意図に沿った行為をすれば「何者」かになれる。しかし今の自分が世界に何か影響を及ぼしているようには思えない。だから自分は「何者」かになれてないんだと。

 

つまり、「何者かになりたい」という問題を考えるとき、人はそこで無意識に神のような存在を前提としているのだ。自らを生み出し、そして自らを評価する上位存在を仮定しているからこそ、初めて「何者かになれているか」という問題は発生するのである。

 

だから、そのような神の存在を仮定さえしなければ、「何者かになりたい」という願望も自然と消えるかもしれない。つまり、自分は単なる世界の一部で、世界に影響を与えるような存在には決してなれないし、ならなくなんていい。ただ日々の生活を慎ましく生きていればそれでいいのだと。

 

以前、僕の記事を「イキリオタクの戯れ言」と批判した人がいました

srpglove.hatenablog.com

が、それはまさしくこのような観点からの言葉ということができるでしょう。自分が世界や大衆のような存在から遊離しているなんて思い上がるなと。ネットを眺めればわかるだろ、お前は結局世界・大衆の一部でしか過ぎないのであるから、身の程を弁えろということです。

 

ただ僕は、そのような、ネットを見て自分の凡庸さを思い知るという処方箋で、自分を含め、自意識をこじらせた「何者かになりたい」というサブカルたちがなんとかなるとは思えないんですね。なぜならその処方箋は、結局「人は『何者』かになれる」という可能性を否定できないからです。

 

確かにネットを眺めれば自分みたいな存在所詮量産型のオタクでしかないということはよく分かります。しかし一方でネットはまた、そのような量産型のオタクではない、本当の意味ですごい、「何者」かになってしまっているような人たちがいることも同時に見せつけてくるわけです。容姿端麗で人気声優でありながら、一方で共産趣味やらロリータやらサブカルに造詣が深すぎる人やら、自分で自分のことを美少女化した漫画日記を書いたら、無茶苦茶バズってる人とか、ネットは「何者かになれないお前たち」の巣窟である一方で、完全に「何者」かになってしまった人たちの檜舞台でもあるわけです。

 

だから僕は、ネットはむしろ「何者かになりたい」という欲望や、その欲望を拗らせた結果生まれる「自分はこんな特別な存在なんだ」という思い込みを、それを否定することによって飢餓感を植え付け、むしろ助長しているように思えてならないのです。

 

と言っても、もはや私たちはネットなしで生きていくことはできません。ネットによって囃し立てられる「何者かになりたい」という欲望を、それこそ犯罪とかアンモラルな行動によってではない方法で、いかになだめるか。

 

僕は、まず自分が自分自身に神であるということ。そう思い込んじゃうことが、むしろいいんじゃないかと思うんですね。

 

「何者かになりたい」という欲望が、時に他害や自害の衝動となってしまうのは、その「何者であるか」ということを認めてくれる、神的な存在を自分の外部に求めてるからだと思うんです。つまり、自分が自分自身のためではなく、誰かのために存在しなければならないとすることにより、その責任感に苦しみ、結果として誰かや自分を傷つけてしまうということがあるのではないかと。

 

だから、例えどんなに選民主義的と言われようが、まず自分が自分自身の神になることにより、「自分を存在させている」という一点で、自分は存在している価値がある「何者」であるんだと認めるということが、結果として穏当に社会を生きていく処方箋になるのではないかと、そう、今の僕はかんがえているのです。

 

・・・ということを、↓の曲が職場の有線で流れてるのを偶然聞いて、思ったりしている今日この頃。

ゴッドソング

ゴッドソング

  • 発売日: 2020/04/03
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

「〇〇はいいぞ」で埋め尽くされる時代に、それでも批評を書く理由

 小山晃弘(わかり手)という方が、オタクコンテンツの批評についてtwitterでこんな発言をし、物議を醸しています。
オタクが軟弱化して辛めの批評を書かなくなったから、最近のオタクコンテンツはひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品ばっかりになってるんだろうが。定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化をやめろ。辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ。90年代に戻れ。— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
ガルパンはいいぞ」とかも心底キモかったですね。褒めるにしてもせめて自分の言葉で褒めろやと。これがSNS時代ということなのかもしれませんが。 https://t.co/1GERAN423j— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
 はてなブックマークでの反応b.hatena.ne.jpや、twitterで自分がフォローしている人たちの反応を見る限りでは、上記の意見に否定的な立場が割と多いようです。そしてそんな中には、こんな意見もありました。
はてなでよく見かけた若い書き手による「アニメ辛口批評」ってただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章という印象しかないな……https://t.co/Gzn16yzDc2加野瀬未友 (@kanose) 2020年5月6日
 ここで僕は「ギクッ」と思ってしまったんですね。なぜなら自分こそまさに、「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」が苦手で、かつてはてなダイアリーでさんざん、「アニメ辛口批評」を書いてきた人間だったからです。amamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpこれらの記事は、今から見ればそれこそ「ただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」です。上記の小山氏の発言に対し否定的な感想を持った人の多くは、これらの記事についても「こんな素っ頓狂なしょーもない長文書いてないで、素直に『〇〇はいいぞ』とか言ってりゃいいじゃん」と思うでしょう。その点で言えば、今小山氏になされている否定的な意見の多くは、自分にも突き刺さるものです。
 
ただ、一方で僕と小山氏には違う点もあります。それは、小山氏が「オタクコンテンツ」のためにそういう辛口批評が必要だと言ってるのに対し、僕は、まず「僕自身」のために、そういう批評を書いていたということです。それは、例えて言うなら。こういうことです。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである

マハトマ・ガンジー
 
オタクコンテンツは批評によって変わるか?……おそらく、無理
 
小山氏はオタクがきちんとコンテンツに対し辛めの批評をし、そしてそれを作り手が参考にしてより良い内容を目指すというのが本来オタクコンテンツのあるべき姿と考えています。
ですが、端的に言ってそれは無理です。なぜならオタクコンテンツはもはや現代においてはメインカルチャーであり、そしてメインカルチャーというものは単純に、審美的な観点ではなく、商業的観点から作られるものだからです。ぶっちゃけて言うなら、「批評家に褒められるもの」ではなく「より売れるもの」を目標として作られるのです。
そして、「より売れるもの」がひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品であるのなら、いくら批評によってそれを批判しようが、市場原理によってそういう作品が作られ続けるのです。なぜなら、その作品を売ることによって、その作品の制作に関わった多くの人を食わせなければならないからです。
ほとんどの場合、大衆に売れるということと、真に価値のある優れた作品であることは二律背反です。大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。ちょっとでも複雑であったり、二面性のあるメッセージを投げかけるだけですぐ「つまんねー」と投げ出します。そういうのを理解できるセンスのある人というのはごく僅かなのです。
そういうごく僅かのセンスある人達がいくら「この作品は駄目だ!」と叫んでも、大衆にはそういう作品こそが売れるわけで、批評には、コンテンツを変える力なんかまるでないのです。
 
それでも批評をするのは、そういう作品が受ける現実に、自分が変えられないようにするため
 
では、批評にコンテンツを変えることが不可能だとしたら、批評なんてせずに、それこそ「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」に浸るしかないのでしょうか?
僕は、それで満足できるのならそれでいいと思います。「〇〇いいよね」「いい……」とか、「シコれる」とか「メシウマ!」とかみたいな短文で毛づくろい的コミュニケーションをするだけで十分満足できるなら、別にわざわざそこから抜け出す必要なんかまったくないと思います。
ですが、これは僕がかつてそうだったからこそ言えるのですが、そういうコミュニケーションで満足できず、「自分の見た作品が、どういった点から優れているか/劣っているか」ということを考えて、言葉にしたい人というのも、世の中には一定数いるのです。
そういう人は大体の場合、世間の大多数に売れている、メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じています。そしてこう思っています。「なんで世の中の人はこういう作品が好きなのに、自分は好きになれないんだろう」と。そしてその事に対し何故か後ろめたさを感じ、その後ろめたさを何とかするために「いや、自分はこういう理由でこの作品が嫌いなんだ。だからこの作品を自分が嫌いなのは正しいんだ」と、理論武装をするのです。(別に誰にもそんなこと求められてないのに)
それこそが「辛口批評」の正体なのだと僕は思います*1。そして、そういう言葉を紡ぐこと自体は、ある時期には必要なことなのだと思うのです。
 
そして、かつてのオタクコミュニティは、社会から迫害され隔絶した場所であるがゆえに、そういう理論武装のやり方を教えてくれるコミュニティでした。一体どういう教養がそういった辛口批評には使えるのか教えたり、辛口批評であっても本当にシャレにならないぐらい人を怒らせることは避けるような方法論を伝授したりと、そういうオタクコミュニティが、例えば大学のサークルであったりに、存在したのです。
ところがオタクというものがサブカルチャーからメインカルチャーになる中で、そういう批評の技術も失伝してしまったのです。そしてその穴を埋め合わせるように、「〇〇はいいぞ」という定型文のみでやりとりするような、毛づくろい的コミュニケーションが、オタクのコミュニケーションの殆どを占めるようになりました。そして、そこについていけない、僕のような人は、徒手空拳で「辛口批評」を書くしかなくなってしまったのです。
加野瀬氏が言うように、僕を含めたはてなの若い書き手が書いた「アニメ辛口批評」の多くは、「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でした。ですがそれは―もちろん若い書き手の不勉強・不誠実が第一の理由なのでしょうが―このようなオタクコミュニケーションの構造変化も大きな原因なのだと、僕は考えます。
 
ですが、そんな「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でも、僕はそういう文章こそ書いてほしいのです。
例えば、僕は記事の最初にいくつか過去に書いたアニメ批評を載せました。これらの記事は、たしかに素っ頓狂かもしれません。ですが、今読んでもそこには、自分のアイデンティティーをいかに形成しようか、その苦闘の痕跡が見えるのです*2
例えばとらドラ批評の記事のこの文。

そして、そのようなことは、この第五章においても可能です。とらドラという物語は、構造として、主人公達に「オトナになる」ことを強要します。それは、個々人の精神のよりメタレベルにある、物語の枠組みがそうさせているわけですが、しかしそれはあまりにも時代錯誤的すぎるでしょう。なるほど確かに「自己肯定感」や「親からの自立」は必要でしょう。ですが、それがとらドラという物語がしたように「本当の自分」や「結果主義」や「純愛」といった単一的なものに寄り掛かっていたのでは、結局作品内の「現実」に依存し、それが存在しなくなればまた不安感に陥る、そういう脆弱なものでしかありません。重要なのは「何が大きい者に寄り掛かる」ことではなく、「複数の支えを確保しておく」ことなのです。

 この批評が的を得ているかどうかは、人によって意見が異なるでしょう。というか、多くの人は「フィクションが都合いいからって何文句言ってんだ。当たり前じゃねぇか」と馬鹿にするでしょう。ですが、僕はこの文章を再読すると、当時の自分がいかに「オトナになる」ということを真剣に考え、考えるているからこそそこでとらドラが出した答えに納得行かなかったかが伝わってきて、「当時の自分!一生懸命考えてたんだね!」と拍手したくなるのです。

多くの人は、そんなこと一生懸命考えなくても、自然に大人になり、メインカルチャーを楽しみ、毛づくろい的コミュニケーションに適応できるのでしょう。でも世の中には、いちいち「それって一体なんなんだ」と悩み、世間の決まりごとに「そんなのおかしいじゃないか」といちいち憤ってしまう、そういう人間がいるのです。

そういう人が、自分を抑圧せずに、解放できる場、それがぼくは批評だと思うのです。そういう場は、毛づくろい的コミュニケーションが社会の全面に広がる今こそ、社会からの避難場所(アジール)として必要なのでは、ないでしょうか。

 

批評を学び、そしてそこからメインカルチャーと和解する道筋こそが、作られなければならない

 

ただそこで、そのような批評がずっと徒手空拳で、素っ頓狂なままでいいとも思わないんですね。なぜなら、これも僕が体験したからこそ言えることなのですが、きちんと技を伝授されないまま、いたずらにネットで野試合ばっかりを繰り返していると、より過激で、人を傷つけるばっかりの方向に走ってしまうからです。本来自分を解放するためにあったはずの批評が、やがて「ネットで受けるためには、たとえ叩かれて傷ついても、こういう過激なことを書かなきゃならない」というように、自分を抑圧するものとなってしまうのです。

「自分の嫌いなものをはっきり嫌いという」ことと「嫌いなものを(必要以上に)攻撃する」こと、この2つの距離は存外近いもので、見極めるには、やはりどうしても技術が必要なのです。

例えば、かつてのオタクには「大衆には褒めてるように見えるけど、実際読む人が読めば貶していることがわかる批評」というものを書く技術がありました。こういう技術は、過激さが受けるネット上では廃れていきますが、しかしこういう技術があれば避けられた炎上というのも、多々あったはずなのです。

また、さらに言えば、かつてのオタクには、「メインカルチャーなんてだせーよな」的な自意識を保持しながら、しかしうまく「でもこういう穿った見方すればメインカルチャーも楽しめるじゃん」という風にうまく軟着陸させる技術もありました。「素人は単純にしかこの作品を読み解けないんだろうけど、玄人はこういう見方するんだぜ」的に、自意識を保持しながらメインカルチャー消費に軟着陸させるのです。

しかし現在のすべてがオープンなネット環境では、そういう穿った見方をすることは、即座に「素直に作品を楽しんでいる人」との望まざる対立を招きます。それこそ鉄血のオルフェンズのオルガネタについて昨日twitterで起きた対立なんかは、まさにその類の対立でした。

そのようなオタク・サブカル的消費の作法・環境を、いかに現代のコミュニケーション環境に合わせて受け継ぐか。かつてのような、迫害されたコミュニティ内での徒弟制により、それを受け継ぐことが不可能になった中で、方策を考えることこともまた、必要であると、僕は考えるのです。

 

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amamako.hateblo.jp

 

*1:まあ、職業批評家の方々は大いに異論があるんでしょうが、ここではそれに至る前の話をしています

*2:びっくりするほど恥ずかしい自画自賛だけど、実際そう思うから仕方ない